02
髪も肌もたっぷりと磨き上げられたのだろう、ぴかぴかとしている。青銀の髪は水気を含んで艶っぽいし、昨晩は不健康に青白く見えた肌も湯上り特有の赤みを湛えて上気していた。
これで顔立ちが並以上とくれば色気のひとつやふたつ感じてもおかしくないと思うのだが、それをぶち壊しにする勢いで顔が変形している。
「ふっへー、うはいは、ほへ!」
「……いいから飲み込んでから喋れ、みっともない」
同じことを思っていたのだろう、呆れ果てた表情でクロウが呟く。テーブルを挟んで遊星とクロウの対面に座る青年はさながらハムスターのように膨らませた頬をしばらくもごもごと動かして、ようやく口に含んだものを飲み下す。ごくんと喉の鳴る音がここまで聞こえてきそうだった。
「すっげー、うまいわ、これ!」
「そりゃどーも」
青年をして怪しい、図々しいと評していたクロウだが、完全に毒気を抜かれた表情になっている。諦めの滲む仕草で湯呑みの茶を啜っていた。
屈託のない笑顔でクロウの料理を称賛した方はといえば、口の端に米粒をくっつけながら卵炒飯をひたすら掻き込んでいる。欠食児童もかくやといった食いっぷりで、食に興味の薄い遊星としては逆に感心するほどだ。
とはいえ、いくら裏のなさそうな挙動であってもこの青年が身元不明の人物であることに変わりはない。クロウが懐疑する姿勢を放り出してしまったのなら尚更で、ここは彼を拾ってきた遊星に追求する責任がある。
「それで、お前は」
「うん?」
青年が首を傾げる。口の端に張り付いていた米粒がぽとりと落ちる。クロウが眉間に皺を寄せたのが分かった。
実年齢は知らないが、少なくとも見たところ成人前後の男性に許される仕草ではない気がする。苛ついてもいいところだと思うのだが、この男がやると妙に愛嬌があるから不思議だ。
などと絆されそうになる自身を内心で叱咤し、遊星は口を開いた。とはいえどう追求すればいいのか分からず、結局曖昧な物言いに留まる。
「……何なんだ」
「なにそれ、難しいな」
頬にお弁当をつけた奴にばっさりと切られた。
俺バカだから分かんない、と笑う男を前に遊星は撃沈する。遊星へ幾ばくか憐憫の表情を注いだクロウが助け舟を出した。
「家出でもしてきたのか? 家出ならこんな物騒なとこじゃなくてもっと街中でやれよ」
「とは、ちょっと違うんだけど、ちょっと合ってんのかなあ」
「はあ?」
要領を得ない、マイペースな話し方をする男である。仕草や言動に愛嬌というか、外見とのギャップからくる脱力感みたいなものはあるのだが、短気な人間や論理的な会話を好む人間にはあまり好まれないのではないだろうか。例えば、遊星の隣の友人のような人間だとか。そっとそちらを窺えば案の定、クロウは苛立ったように頬杖を突いて向かいの男を睨みつけていた。
「なんでもいいけど、それ食ったら帰れよ」
「帰る……のは、駄目だな。俺、帰ったら手術するから」
「手術?」
唐突に混ざってきたキーワードに、遊星は思わず声を上げた。
確かに昨夜は尋常でない様子だった。ぴんぴんした様子で遠慮なく夕飯を平らげる青年しか見ていないクロウは胡散臭げな顔をしているが、遊星は実際に咳き込み続ける彼を見ている。意図せず気遣わしげな声で尋ねてしまう。
「何か病気なのか」
ところが青年は平然とした様子で首を横に振る。
「いや、俺じゃない」
「……? 誰が手術をするんだ?」
「俺。あ、あと帰ってくるなっていわれてる」
いまいち、いや、まったく会話にならない。手術をするのに帰ってくるなとは一体どういうことか。
どうにも進退窮まって言葉を探す遊星が散々悩んだ末に見つけた質問は、半ば相手の存在を容認するようなものだった。
「……じゃあ、名前は」
「名前? 俺の?」
「ああ」
なぜか間があった。
思いつくままにぽんぽん発言していたようななりを潜め、青年は神妙な顔をしている。結局最後に眉尻を下げて、苦笑するような表情で首を傾げながら、
「キョースケ」
とだけ答えた。
「日系か? 何キョースケ?」
「キョースケだよ」
クロウが重ねて尋ねるが、キョースケと名乗った青年はそれ以上答えようとしなかった。
サテライトに近ければ近いほど無法地帯になっており、そこまでいくと家を持たない者から戸籍を持たない者までよりどりみどりとなっている。なので姓を持たない人間などザラといえばそれまでなのだが、キョースケの外見だけ見ればそんな連中とは無縁のように思える。
本当に姓を持たないような類いの人間なのか、名乗れない事情があるのか。遊星とクロウは黙って見つめ合った。考えていることは同じである。
「ふたりはなんてーの? 名前」
そんな遊星とクロウを楽しそうに見つめながら、キョースケが逆に尋ねてきた。
こんな怪しい人間に正直に名乗ってしまっていいものか、とも思うが、家に上げて一晩ベッドを貸してやって一緒に食卓を囲んでいる時点で今更である。それに相手の名を聞いておいてこちらは明かさないというわけにもいかない。
「遊星だ。不動遊星」
「クロウ・ホーガンだ」
よろしく、と続けられない自己紹介はあまり気持ちのいいものではない。
それでもキョースケは嬉しそうに笑って、遊星、クロウ、とふたりをいちいち指差しで確認して頷いている。
「覚えたぞ、遊星にクロウ! よろしくな!」
目眩のするような明るい笑顔で、遊星たちがいえなかった言葉を重ねてくるのは確信犯なのだろうか。
遊星はいよいよ返事に窮してクロウを見やった。クロウも応えるように頷いてくれる。お互いを助け合える関係は素晴らしいと遊星はつくづく思う。思うのだが身元不明の脳天気な人物を相手にやっていると思うと、何か虚しい。
クロウも遊星の虚しさにシンクロしたように、いい加減投げやりな声で、
「……よろしくな、キョースケ」
と、返した。
キョースケをこの家に置くことを半ば認めてしまったようなものだが、クロウは気づいているのだろうか。サテライトではこんなこと日常茶飯事だった、ともいっていたのでその延長として諦めているのかもしれない。ただしサテライト生活でクロウが面倒を見ていたのは十にも満たない年齢の子どもたちばかりだったのだが、クロウはキョースケを子どもたちと同列に見ているのか自分をごまかしているのか。
とはいえ、ああ、滅多に帰ってこないもうひとりの同居人にはどう説明しよう、などと考えている時点で遊星も同罪である。とりあえずメールでも送っておこうと、充電を終えて尻ポケットに突っ込まれていた携帯電話を取り出した。
肩越しにちらりと振り返る。既に食器の下げられたダイニングテーブルに顎を乗せ、ソファに浅く腰掛けただらしのない姿勢のキョースケが見えた。口を半分開けてテレビを眺めている姿は、番組が夜のニュースである点を差し引いてもあまり賢げには見えない。
「なあ、クロウ」
「ん?」
洗い終わった食器を布巾で拭いながらキョースケを窺い、遊星は無心で洗い物を続けるクロウに語りかける。自然と落ちた声量を汲んだのか、クロウも控えめに返事を寄越した。
「俺が連れてきておいて何なんだが、その……一応身元を調べてもらったほうがいいんじゃないだろうか」
「……お前がそんなこというなんて珍しいな」
昔から信じるのが遊星で、訝るのがクロウで、ついでに怒るのがジャックの役割だった。ダイモンエリアやサテライトがどんなに善人が損をする街であろうとも、可能ならば信じて手を差し伸べたいと思うのが遊星だったのである。もちろんその性格のせいで随分と痛い目を見たこともある。けれどそうして繋いだ絆や人間関係も確かにあった。
本人に黙って身元を調べるなど褒められた行為ではないとは承知しているし、これ以上自ら話す気のないキョースケを疑っているようにしか見えないだろう。クロウが驚いたように目を丸くするのも仕方がない。しかし疑っているが故ではなく、信じたいからこそである。
「手術がどうとかいっていただろう。クロウは信じられないと思うが、俺が駅で会った時は本当に、死んでしまうんじゃないかと思うぐらい具合が悪そうだったんだ」
洗い終えた中華鍋をコンロにかけながらクロウはキョースケを振り返る。相変わらず口は半開きで、遊星の語る悲壮感からは程遠い姿だったが――クロウはわずかに肩を竦めた。
「……何か事情があるんだろうし無理強いをするつもりもないんだ。しかしもし命に関わるようなことだったら、ここに置いておくのは本人にとっても良くないだろう」
「遊星がいうんなら信じるけどよ。あんだけ遠慮なしでメシ食ってたんだし、すぐに何かあるとも思えねーけどなあ」
遊星自身、出会った時の激しく咳き込む姿を見ていなければ聞き流していただろう。もちろん階段上から落下してくる、という状況だったことを考えれば、本人のいう通り病気などではなく実はどこかを打ち付けていたため、とも考えられる。
とはいえ何かが起こってからでは遅い。どちらかというとキョースケの性格からしてこちらの可能性を疑っているのだが、手術が嫌で病院から脱走した患者かもしれないのだ。遊星は食器拭きに従事する前に洗濯物を階下のガレージに干してきたのだが、キョースケが着ていた服は病院で患者が着ているものに酷似していたように思う。
もしも想像が当たっていて、今頃は家族が探していて、捜索願でも出されていたら。自分が脱走の手助けをしたとか最悪誘拐犯だとかそういうレッテルを貼られるのは仕方ないにしても、生死に関わることであればやはり見過ごす訳にはいかない。
ひと通り食器を洗い終えたクロウが、布巾で拭いたばかりの手で遊星の眉間の皺をつついた。
「こら、考えすぎんな。俺だってアイツとよろしくしちまったんだからよ」
「……クロウ」
「身内が探してるならどっかに話が回ってきてるだろ。雑賀、は、しばらく忙しいっつってたからセキュリティが確実かな。牛尾か風馬とっ捕まえて聞くだけ聞いてみよーぜ」
牛尾と風馬はサテライトとダイモンエリアを担当するセキュリティ隊員である。シティからスラム扱いされるこの街の住人に対して何かと高圧的なセキュリティだが、牛尾と風馬は理解のある人間で真摯に話を聞いてくれる。法を犯さない範囲であれば事情もセキュリティの規則を曲げて話を聞いてくれる、今時珍しいぐらいに融通の利くセキュリティ隊員だった。セキュリティを毛嫌いしているクロウまでもが頼みにしているあたりでそれがよく分かる。
クロウの提案に遊星も頷いた。クロウも同じように頷いて、中華鍋の乗るコンロの火を切った。中華鍋は錆びるのでよく乾かさなければいけないらしい。遊星はいつもそのことを忘れてつい自然乾燥に任せてしまうので、中華鍋を使った日はクロウが食器を洗うという不文律ができあがっている。
「つっても巡回に出てるからな、あいつら。明日の仕事中できるだけ探してみるけど見つけられる保証もねーし、遊星のほうでも気ィつけといてくれよ」
「ああ。ありがとう、クロウ」
「だーからいいっての……んで、遊星は明日はどうすんだ?」
言外に「さすがにキョースケひとりに留守を任せられない」という意味を含んでいる。
幸い必須の講義はない。だからこそ友人の研究に一週間付き合えたのだが、期日の迫った研究が控えているのは遊星も同じである。とはいえ実験の類いは終わらせているので、あとは結果をまとめて統計を出してレポートにまとめるだけだ。その“だけ”が結構な重労働ではあるのだが、とにかく大学に行かずとも可能な作業である。
「家でレポートをやろうかと思う。買い物にも行きたいから、そこで牛尾か風馬を探そう」
「じゃあ、キョースケはお前に任せて大丈夫だな」
遊星も大学なら、最悪俺がピアスンのところにでも預けておこうかと思ったぜ、などクロウが笑う。遊星は頷きながら、クロウの心配の仕方は勤めに出る間我が子をどうしようか悩む母親のようだと思ったが辛うじて黙っておいた。
「しっかし、ジャックがいればなあ。アイツ風馬の連絡先知ってるらしいん、おわっ!」
「なー、ニュース終わった! 暇だから俺にも構えー!」
にゅうと背後から腕が伸びる。肉の薄いそれがクロウと遊星の首に絡みついて、クロウは悲鳴を上げ、遊星は思わず手にした皿を落としそうになった。振り向くまでもなく、二人の間にキョースケの顔が割り込んでくる。
「だぁっ、離れろ暑苦しい!」
「いいだろこんぐらい! さっきから何の話してんだよー!」
「明日のお前の面倒は誰が見ようかっつー話だよ!」
えぇえええ、などと、やたら起伏のある大きな声が耳元に響いた。クロウはうるさそうな顔をしているが、遊星は不意に笑みが溢れるのを自覚する。
今は中途半端に大人になってしまったし、大学だの仕事だのと生活が行き違いがちで自然と廃れてしまったけれど、遊星たちにもこんなふうに屈託なく笑っていた時代があったのである。自分より年上に見える男をしてこんなことを思うのもおかしい気がするが、もっと幼かった時代に帰ったようで懐かしい。
懐かしむ過去にいるもう一人の友人に、打ち切られてしまった会話が繋がる。風馬は昔に比べて随分と取っ付きにくい性格になってしまった友人――ジャックの、遊星の知る限りでは数少ない友人である。とはいえ自分たちの中でも最も異色な生活を送っているので、遊星の知らない友人もいるだろう。いるだろうが、あの性格で気安い友人ができるようにもあまり思えない。
食後すぐにメールを送ったが、今のところ遊星の携帯電話は沈黙を守っている。滅多に連絡をよこさないし返信もしない、ついでに仕事関係以外の長文メールには目を通さない相手だと知っているのでできるだけ早く帰ってきて欲しいとだけ送ったのだが、果たしてメールに気づいているだろうか。
楽しそうに、いや、楽しいのはキョースケだけかもしれないが、とにかく言い争うクロウとキョースケを横目に、遊星は小さく息を吐いた。