03

 階下の部屋で寝ていたはずの男が目を覚ますと隣で寝ていた。
 そんな時どうリアクションすればいいのか、遊星は知らない。
「…………」
 とりあえず言葉を失ってみたが、もちろんそんなことで事態が好転するわけもない。
 遊星の動揺など知る由もなく、キョースケは気持ちよさそうに寝こけている。寝乱れた銀の前髪の下、男にしては長い睫毛が伏せられていて、なんとなく色を含んだ寝姿に瞬間動揺する。が、そこから下に視線を転じれば半分開いた口から一筋流れる涎が目に入って、すべてを台無しにしていた。
 二階のリビングに置いてあるソファが一番広くて寝心地も良さそうだからと、ひとまずキョースケの寝床として貸し出したのが昨夜のこと。キョースケも妙にわくわくした様子で毛布を受け取っていたはずなのだが、三階に位置する遊星のベッドに潜り込んでいるのは一体どういうことなのか。
 答えはノックの音の後、返事も待たずに開かれたドアからもたらされた。
「遊星、入るぜー…なんだ、起きてたのか」
「あ、ああ、クロウ」
 案の定、遊星と違い、しゃっきりと目が覚めた様子のクロウである。仕事用のカナリアイエローのジャケットも眩しく、肩にはショルダーバッグが引っかかっていた。
 布団から覗く鬼柳の頭を見つけたのか、いかにもやれやれといった様子でため息を零す。
「そいつ、俺が起きたらリビングのソファで膝抱えて暇そうにしててよ」
「……随分早起きなんだな」
 この家の家事全般を担うクロウの朝は早い。この季節であれば日が昇る少し前から起き出し、朝食の支度から洗濯まですべてを済ませ、交通量の多いハイウェイが渋滞するよりも先に出勤する。洗濯ぐらいは任せてくれてもいいのではないかと思うのだが、自分でやったほうが早いと判じているのかよほど仕事が立て込んでいて出勤が早い時以外、遊星に任せることはまずしない。
 そのクロウよりも先に起きているとは。昨日の寝起きの様子もあり、キョースケは寝穢いイメージを勝手に抱いていたのだが。
「つっても俺がメシの支度してる間も眠そうにしてるしさあ。だったら遊星のとこででも寝てこいっつったんだけど、本気で寝てんなこりゃ」
 ソファでは眠りが浅かったのかもしれないが、寝穢いと呼ばわるには微妙なところである。
 不在のジャックのベッドが空いているには空いているのだが、さすがにいつ帰ってくるか分からない彼のベッドをキョースケに貸すわけにもいかないだろう。何より不意にジャックが帰ってきたらと考えると、あまり怒られたくはないなどと思ってしまうわけである。
「ま、適当に起こして朝飯食わせといてくれよ。俺もう仕事行くからさ」
「今朝は早いんだな」
 キョースケの頭に隠れかけている目覚まし時計を見れば、クロウの普段の出勤時間より三十分は早い。
「昼からまた雨らしいからさ。いつもより渋滞するだろうし、あんま降ると交通規制かかるし。とっとと行って終わらせてくるわ」
 クロウは個人で配達の仕事をしているが、荷物の集荷は知人の工場で行なっている。都合上“勤め先”、“職場”と呼ぶそれはサテライトにあり、ダイモンエリアからサテライトまではハイウェイを通りネオダイダロスブリッジを越えて行かなければならない。大きな道路で交通量も多いのだがこのネオダイダロスブリッジが曲者で、少し天候が悪化するとやれ風速がやれ降雨量がとすぐに規制がかかり、身動きが取れなくなってしまうのだ。
 ネオ童実野シティはシティ内の区画整備や清掃よりも、まずは融通の利かないネオダイダロスブリッジの運用と整備に予算と時間を割くべきだ。遊星やクロウを含め、サテライトとシティを行き来する人間全ての考えなのだが、生憎と行政が耳を貸す気配はない。
 交通事情に不満を垂れるよりも賢く生きるクロウは鞄を引っかけ直し、バンダナをぐいと押し上げた。
「んじゃ、行ってくるわ」
「ああ、気をつけてな」
 背中でひらひらと手を振って、勤勉な配達員は出勤した。軽快な足音が遠ざかり、ガレージでD・ホイールが唸りを上げるまで、遊星はたっぷりと聞き届ける。それからちらりと傍らに視線を落とした。
 むにゃむにゃと口元を動かして、キョースケは実に気持ちよさそうに眠り続けている。
 起こすのも忍びなく、考えた末遊星は一人ベッドを抜け出した。足音を立てないように階下に下り、洗面台で顔を洗ってからキッチンに向かう。蓋のされた鍋の中に朝食用の味噌汁を確認して、遊星はとりあえず冷蔵庫を開けた。冷えた牛乳をグラスに注いで、それだけを持って部屋に戻る。
 涎も半開きの口元もそのままに、キョースケが起きる気配はやはりない。ローテーブルにグラスを置いて、極力音を立てないように気をつけながら遊星はパソコンの電源キーを押した。
 起き抜けとはいえ空腹感はないし、先に一人で朝食を摂ることもないだろう。キョースケが起きるのを待って、それまではレポートを進めていればいい。





 結局キョースケが目を覚ましたのは、そろそろ正午になろうかという時間だった。
「なんっで起こしてくれなかったんだよー!」
 キョースケは言い放ち、手にした汁椀の中身を一気に啜るった。
 涎のあとは洗顔できれいに消えたが、代わりに膨れっ面なのか昼食と化した元朝食が詰まっているのか、頬は丸く膨らんでいる。昨日も見たような光景で、とりあえずいろいろと台無しなことだけは間違いがない。
「すまない……気持ちよさそうに寝ていたから、つい」
 遊星が素直に謝れば、む、とキョースケは黙り込む。そのまま黙って口を動かし、頬の中身を片付けてから、バツが悪そうに顔を背けた。
「別に、起こしてくれなかったから怒ってるとかじゃないからな。二度寝した俺が悪いんだし、その、」
 顔は明後日の方に向いたまま、金色の目だけがちらりと遊星を窺った。
「俺が寝てたせいで遊星が朝飯食い損ねたんじゃないかっていう……」
「いや、元から朝食はあまり摂らないほうだし、そんなことはない」
 むしろレポートに没頭しすぎていてキョースケが寝ていたことなどすっかり抜け落ちていた遊星である。一から十まで面倒を見る必要はないのだが、遊星が起こすのを忘れてしまったためにキョースケが一食飛ばすことになってしまった、と内心焦っていたぐらいだ。
 しかしキョースケはまた違うところに引っかかったらしい。顔を遊星へ向けて戻し、じろりと半眼で見つめてくる。
「遊星、ごはんは三食きちんと食わなきゃいけねーんだぞ」
 まるで母親のような物言いである。これがクロウならまだ分かる。本人に伝えると間違いなく怒るので黙っているが、あちこちで母親のように世話を焼いて回っているクロウなら。
 しかし出された食事を一方的に食するだけだったり、二度寝をして昼前に起きてみたり、食後の片付けをしているところに構えとダイレクトアタックを食らわせる人間の台詞として適切だろうか。
「あ、ああ……?」
 とはいえキョースケのいうことは一般論と照らし合わせてみればやはり正しいものだ。遊星は納得のいかないまま、とりあえず曖昧に頷いた。
 キョースケはその反応でも満足したらしい。鷹揚に頷いた後、茶碗に残った米を掻き込み、咀嚼し、こちらまで音が聞こえそうな様子で飲み下す。箸を茶碗の上に揃えて置いて、ぱちりと両手を合わせた。
「ごちそーさまでした!」
「……ごちそうさまでした」
 随分先に食べ終わっていた遊星も、キョースケに倣って手を合わせる。
 空になった食器をキョースケの分も重ねてシンクに運び、やたらとわくわくした視線に耐え切れず振り返る。案の定、妙に期待を込めた表情で遊星を見ているキョースケがいた。こんな表情を遊星は見たことがある、実験を始める前の友人や、もっと近いところを探せばクロウが面倒を見ている子どもが家事に勤しむ自分たちに向けていた表情だ。
 根負けして、遊星は布巾を指さした。
「……俺が食器を洗うから、キョースケは洗い終わった食器をこの布巾で拭いてくれないか」
「おう、任せとけ!」
 待ってましたとばかりの返事である。駆け寄る姿から見ても手伝いたくて堪らなかったのだろう。一体お前はいくつなんだといいたくなるような姿だが、愛嬌があるといえばあるのだろうか。遊星はそっと苦笑する。
 それからしばらく、キョースケと食器を片付けていく。どうにも危なかっしい手つきや目立つ拭き残しへの指導もあっていつもより時間がかかったが、こうやって賑やかに食器を洗うのもいつぶりだろうか。遊星はキョースケの背中を眺める。食器を拭くだけじゃ満足できねえ!などと叫ぶのでテーブルの台拭きも頼んだのだが、意外にも几帳面に作業をこなしている様子だった。少々まだるっこしいぐらいの拭き方はなかなか帰ってこない友人を思い出させる。
 そこでようやく遊星は思い至った。
「キョースケ、それが終わったら、一緒に買い物に行かないか?」
「買い物ぉ?」
 クロウに昨日告げた通り、遊星の今日の予定はレポートともう一つ、買い物だったのだ。昼から雨と聞いていたのだから本当は午前の内に行くべきだったのだが、遊星もキョースケもあの有様だったのでそこは仕方がない。
 窓をちらりと窺えば、相変わらずの曇天ではあるもののまだ降り出してはないない。
 振り向いてぱしぱしと目を瞬かせるキョースケへ視線を戻す。正確には、昨日から彼の着ているシャツを。
「お前の身の回りのものを買いに行こうかと」
「えっ」
 その一音を発した形のまま、キョースケは口を開いて立ち尽くした。
 あからさまに呆気にとられた様子に、今度は遊星が面食らう。いつまでも不在の友人の服を無断で貸すわけにもいかないし、貸せる服にだって限りがある。ならばいっそキョースケのものを一式買って揃えたほうが手っ取り早いし、キョースケもそのほうがいいだろう。そう思っての提案だった。
 視線をあちらこちらへと彷徨わせ、うんうん唸るキョースケを見てようやく過剰に世話を焼いたのではと思い至るが、遊星がフォローを入れるよりもキョースケが戻ってくるほうが早かった。
「……遊星は良い奴だなあ」
 眩しそうに目を眇めて、ちょっと首を傾げてみせる。
「俺がお前を騙そうとしてたり、貰うもんだけ貰って今晩の内に出て行ったりしたらどうするんだ?」
 そんなキョースケの仕草に、遊星は妙な胸騒ぎを覚える。
 最初から騙すつもりなら、こんなまだるっこしいことはしないだろう。キョースケがそんなことをするような人間には見えない。騙されたとしてもそれは騙された自分が悪いのであって、恨んだり憤ったりするつもりもない。
 など、思うところはいろいろとある。それでも遊星が結局口にしたのは、
「どこか、行くあてがあるのか」
 というものだった。
 遊星の答えに、キョースケは一瞬目を丸くする。それからまた首を傾げて視線を遠くにやって、最後にへらりと笑った。緩んだ表情だがどこか苦笑にも見える、不思議な笑い方だった。
「いわれてみりゃ、ねーな」
「……キョースケ、」
「いいよ、行こうぜ。買ってくれるってんなら買ってもらわなきゃソンだしな!」
 手にしたままだった布巾をパンと叩く。キョースケはそのままシンクに滑り込んで、鼻歌を口ずさみながら布巾を洗い始めた。遊星が途切れた言葉の先を探す間に、布巾を固く絞りながら、あ、と声を上げる。
「じゃあ遊星、最初はあれ買ってくれよ」
 ここまでの流れではぐらかされた気分だったが、さりとて追求のしようもない。
 完全にクロウ曰くの“図々しい”調子を取り戻したキョースケは、遊星に向かって笑いかける。ガン、と鈍い音が鳴る。音の方を見れば、シンク下の戸棚に膝を寄せて、キョースケが足先をぶらつかせていた。ちらちらと裏返る白い足底に、細かな裂傷が覗いている。
「くつ」
 昨夜は気づかなかったが、キョースケはずっと裸足だったらしい。





 雨が降り始めたのは、ちょうど遊星とキョースケが店を出た瞬間だった。
 それなりに安くそれなりにカジュアルでそれなりに質がいい、と周知されている有名衣料品店の軒先で、遊星は服の詰まった袋を片手に持ってきていたビニール傘を開く。
「遊星、これどうやって開くんだ?」
 こちらも全国展開のドラッグストアのロゴ入りビニール袋を片手に引っ掛け、遊星のものと同じビニール傘を手にキョースケが四苦八苦している。
 ここまで二人で歩いてきて分かったことだが、キョースケには一般常識というものがかなり欠落しているらしい。並んで歩きながらあちらこちら視線を転じるのはまだ、見知らぬ町並みに興味を持っているんだな、で片付けていたが、赤信号の横断歩道を突っ切ろうとした時はさすがに肝が冷えた。他にも理髪店前のサインポールや薬局前に置かれたカエルの人形をいちいち指さしてあれはなんだと尋ねてきたり、店に入ればレジを通さずに商品を持ち出そうとしたり、とにかく遊星にとってもキョースケにとっても驚きの連続だった。もちろん驚きの種類が違うことはいうまでもない。
 なのでキョースケが傘の開き方を知らないことに何を思うでもなく、遊星は自分が開いた傘をキョースケに持たせる。無言でキョースケの傘を一度開き、すぐに閉じて柄をキョースケに向けた。おお、などと感嘆の声を上げていたキョースケは開いた傘と閉じた傘を交換し、すぐに遊星の動作をなぞって開いてみせる。また、おお、という声が聞こえる。
 楽しそうに傘の開閉を繰り返すキョースケの横で、遊星は抱えた袋を見下ろした。
「これで必要なものは大体揃ったな」
 靴屋、薬局、百円ショップ、服屋と回ってきた。靴も服も細かな日用品も、思いつく限りは揃えたはずである。客観的に見ればいついなくなるかも分からない正体不明の居候に世話を焼き過ぎではないかと遊星自身も思うのだが、どの店でも一番安いものを選んだし、最悪歯ブラシや下着以外のものはキョースケがいなくなっても誰かが使えるだろう、と自分を納得させておく。
「おー。やっぱ靴があるだけでだいぶ違うな」
 キョースケが傘の外へ足を突き出し、細かな雨粒を弾く靴に目を細める。買ってその場でタグを切ってもらった、紛うことなき新品のスニーカーだ。家を出る時にはガレージの隅で埃を被っていたサンダルを履いてもらったのだが、それなりの距離を歩くには不便だったらしい。
 買い物は終わったし、雨も降ってきた。そろそろ帰る頃合いだろうかと遊星は思案し、
「ゆーうせいっ」
 不意打ちでぶつけられた笑顔に思わず固まった。
「いろいろ買ってくれてありがとな!」
「……………………ああ」
 キョースケのほうが背が高いので、上目遣い、というわけではない。これなら大きめのサイズだからキョースケが着ても大丈夫だろう、と貸したロング丈のパーカーを羽織って、家を出てからずっと被りっぱなしのフードのせいだ。長めの前髪も相俟って目元が見えにくいから、なんだかキョースケに覗き込まれているように思うだけなのだ。
 誰にともなく内心で謎の言い訳を繰り返し、遊星は軒先から一歩踏み出す。ビニールが雨を弾く音が焦躁を叩いた。
「そろそろ、帰ろうか」
「おうっ」
 遊星の心境に気づく訳もなく、弾んだ返事でキョースケが後に続く。
 それなりの買い物ができる商店街が近くにあるというのは非常に便利だ。公共交通機関を使う必要がないので交通費がかからないし、食料も衣類も日用雑貨も、ここに来れば大体揃うのであちこちへ出向く必要もない。ところによっては道路の上に屋根が渡してあるのもこんな天気には嬉しいところだ。
 行きは寄らなければならない店があったが、帰りは一直線で構わない。遊星は比較的大きな道を帰路に選びつつ、時々後ろを振り返る。いい加減目新しいものも尽きてきたのか視線を転じる頻度は落ちたようだが、それでも危なっかしいのがキョースケである。
 案の定、数度目の振り向きで、遙か後方で立ち尽くすキョースケを見つけた。
 現場は大通りに面したゲームセンターである。遊星が引き返して近づけば、咎めるより先にキョースケに迎え撃たれた。
「遊星、なんだこれ?」
 広い間口の店先には、太鼓を叩くゲームの筐体やら、女子高生に人気のプリントシール機などが並んでいる。その中でもキョースケが指さしたのは、ゲームセンターでも古参の、安定した人気を誇るクレーンゲーム機だった。
「クレーンゲームだ。ここのボタンを操作して、中のアームを動かす。プライズを掴んでこのホールに落とす」
「で、落っこちたやつが貰えんのか。へーえ」
 筐体にごつりと額をぶつけて、キョースケは中を覗き込む。中のプライズはぬいぐるみで、遊星も見覚えがあるキャラクターだった。確かデュエルでお馴染みのモンスターたちをデフォルメしてアニメ化したものだ。カードに描かれるよりも丸っこい姿をしたモンスターたちは、筐体の中で肩を並べてこちらを見上げている。
 しばらく遊星はモンスターたちと見つめ合った末、隣のキョースケに動く気配がないと気づいた。今までもあれはなんだこれはなんだと散々繰り返したキョースケだが、遊星が説明すればすぐに納得して興味を失っていたというのに。
 フードで見えにくいキョースケの顔を、遊星は覗き込んで窺う。あからさまな動作だと自分でも思うのだが、キョースケは気づきもせず筐体を見つめ続けている。視線を辿れば真っ黒く丸っこいボディに、ラインだけで描かれた青い一つ目のぬいぐるみが一体。
「……欲しいのか?」
「えっ!?」
 キョースケの体が跳ね上がる。差したままの傘が筐体にぶつかって、あまりよろしくない音を立てた。
 潰れかけた傘にか遊星の指摘にか、恐らくどちらもだろう、とにかく動揺したらしいキョースケが手に下げた袋をがさがさ鳴らして慌てふためいている。いや、欲しいんじゃなくて、という妙にか細い声を右から左に流しつつ、遊星はアームとキョースケの目当てらしいぬいぐるみの位置を確認する。
 この手のゲームには絶対に取れない配置、数回で取れる配置、取れなくはないが店員を呼んでの位置調整が必須な配置、というものがあると遊星は踏んでいる。幸いにしてキョースケの見つめていたぬいぐるみはサービス配置とでもいおうか、少し努力すればスムーズに取れそうだった。
 欲しい景品がないので滅多にプレイすることはないが、遊星は案外とこの手のゲームが好きだ。迷わず必要な枚数の硬貨を投じる。
 軽快な音楽とともに操作可能となったアームを4つのボタンで動かして、少し遠い位置にあるサルを模したモンスターへアームを落とす。キョースケが隣で残念そうな声を上げるが、彼が欲しいのがこのぬいぐるみではないことは分かっている。他のぬいぐるみと違ってこのぬいぐるみは腕が輪のようになっていて、アームに引っかけやすいのだ。狙い通り、容易に引っかかったサルをホールの方へと移動させる。
 遊星は慎重にタイミングを見計らい、ここだというポイントでボタンから指を離した。ホールには少し遠いが、落下地点にはキョースケの欲しがっているぬいぐるみがある。ぼとりとアームから落ちたサルが一つ目のモンスターにぶつかる。押し出されるような格好で、一つ目はホールへと落ち込んだ。
 取り出し口の蓋がばこんと鈍く鳴り、キョースケが慌てて覗き込む。恐る恐るといった体で手を伸ばし、落ちてきたぬいぐるみを掴み取った。
「それが欲しかったんだろう?」
「お……おお……!」
 ビーズ素材が詰まっているのだろう、両手で掴んで少し余る程度の大きさをしたそれはキョースケが握ったところでむにゅりと形を変えた。くびれのない丸っこいフォルムはアームで掴むには難があったので他のぬいぐるみをぶつけて落とす手段を使ったが、狙いの景品に相違ないようで幸いである。ひたすらぬいぐるみをむにゅむにゅさせて目を輝かせるキョースケに、遊星はそっと苦笑した。
 キョースケがそんな状態なので、
「遊星!」
 遠くから聞こえた声は当然、キョースケのものではない。
 バタバタと傘が触れ合う音に、パタパタと歩道のタイルを踏む音が重なる。遊星がそちらを振り向けば、少し低い位置に水玉模様の傘と真っ黒いこうもり傘がふたつ並んで走り寄ってきた。持ち上げられた傘の下の顔は、どちらもよく知っている。
「遊星、ひさしぶり!」
「こんなところでアニキに会えるなんて、ラッキーだぜ!」
「ラリー、セクト」
 名前を呼べば水玉模様の下でラリーがはにかむように笑い、セクトの方はこうもり傘を放り出さんばかりの威勢で遊星を見上げる。
 ラリーもセクトも遊星たちがダイモンエリアに移る前、まだサテライトで暮らしていた頃からの付き合いだ。歳はいくつか開いているがどちらも遊星のことを慕ってくれていて、遊星も二人のことを友人だと思っている。仕事で毎日サテライトに赴くクロウと違い、大学生活にかまけて足の遠のきがちな遊星にとっては本当に久々の再会でだった。
「お前たちこそ、シティの方に来るなんて珍しいな」
 このダイモンエリアはまだグレーゾーンだが、シティとサテライトにはネオダイダロスブリッジを境に見えない壁がある。貧困や暴力、違法遺伝子改造者が横行しているとはいえ、サテライトから来たというだけで嫌な顔をされることが少なくない。遊星自身が昔嫌というほど味わった事実だ。
「マーサのお使いだよ。ハウスの雨漏りが酷くてさ」
「今晩辺り大雨らしいからってさ。直前になって買いに行かせるとか、アリえないぜ……」
 セクトが呆れたように顎をしゃくってみせる。ラリーとセクトの二人がかりで、ロール状の大きなビニールシートを抱えていた。雨漏り部分の応急処置に使うつもりなのだろう。
「マーサも相変わらずか。大変だな」
「そりゃあもう。ついでの買い物も押し付けられそうになってさ」
「……二人で大丈夫か? 何なら俺も手伝うが」
「心配ないぜアニキ、シートだけで手一杯だって、残りのものはムシしてやったから」
 サテライトからここまで来たのなら、恐らくモノレールを使ってきたのだろう。公共交通機関でこれだけの大荷物を抱えて、更に買い物袋をぶら下げるとなると確かに無理な話だ。
 片手に傘、もう片方の手に大きなシートという不自由な格好で、唯一自由に動かせる頭をラリーがぶんぶん振り回す。ふわふわとしたオレンジの髪が派手に揺れ、隣でセクトが身を引いた。
「あー! でもあそこで他の買い物も頼まれとけば、遊星に手伝ってもらえたってことだよね?」
「無茶いうなよラリー、アニキだって忙しいんだぜ……ところでアニキ、そっちのヤツは?」
 こうもり傘を揺らして、セクトは遊星の背後を示した。セクトの視線の先には当然、ようやくぬいぐるみを揉む作業から脱したのか、キョースケがきょとんとした顔で立ち尽くしている。
 改めて説明を求められると返事に窮するものがある。遊星はほんの少しの言葉を探し、そのほんの少しの間を縫って、キョースケが先に口を開いた。
「俺、遊星たちのところで厄介になってんだ」
「え!?」
 若干苦味の混じるラリーの声。遊星はすぐに理由を察した。
「ジャックにはまだ会わせてないんだ。なかなか帰ってこないから」
「あ、そうなの……あんな偏屈がよく追い出さずにいるもんだと……」
 呟いてすぐラリーは口を閉じる。どこかで聞かれてやしないかと思ったのだろう、左右に首を巡らせるが、もちろん杞憂である。渦中の人物と唯一面識のないキョースケだけが、何の話かと首を傾げた。拍子に黒いフードから銀の髪が零れ落ちる。
「遊星、誰のことだ?」
「……帰ったら説明する。ひょっとするとあいつも帰ってくるかもしれないし」
「? おう!」
 よくわからないままに、といった体でキョースケが笑って頷くが、遊星としては気が重いばかりである。ラリーの案じる通り、残る一人の同居人・ジャックがキョースケを追い出さないとも限らないのだ。彼が帰ってくるタイミングでクロウも在宅だといいのだが。
 意図せず溜息がこぼれる。俯き加減の遊星の目の前で、こうもり傘がバサリと振れた。
「セクト?」
 遊星の声も聞こえていないのか、セクトは微動だにしない。大きな瞳を更にまん丸く見開いて、キョースケを凝視している。
 セクトの様子に気づいたキョースケがまた小首を傾げれば、セクトの翡翠色の瞳の中で濁った銀が揺れた。
 そのまま潤むように滲んで、ぶわりと翻る。
「……!」
「え、ちょっとセクト!?」
 遊星たちの視線をこうもり傘が遮って、傘の持ち主は元来た方向へと走り出した。ラリーと二人で抱えていたビニールシートを一人引きずり、雨中の町並みへと滲んでいく。
 残された人間全員がわずか呆気に取られる。それでも真っ先に我を取り戻したのはラリーだった。はっとしたように水玉模様を跳ね上げ遊星を振り仰ぐ。
「な、なんか分かんないけど……ごめんね遊星、俺追いかけなきゃ!」
「あ……ああ、そうだな。ラリー、何か気に障ったならすまないとセクトに伝えてもらえるか」
「遊星が謝ることないような気もするけど……分かった! ごめんね、それじゃあ!」
 そっちの人も!とキョースケに視線をやりながら、ラリーもセクトの後を追って走り出す。少し進んだところで振り向いて、遊星もたまには遊びに来てね!と付け足した。遊星は大きく手を振って応える。
 やがて雨模様に水玉の傘も見えなくなって、ゲームセンターの前には遊星とキョースケだけが残された。そこらの筐体から流れてくる軽快な電子音が妙に白々しい。
「……俺のせいかな」
 電子音にキョースケの呟きが紛れる。口元をモンスターのぬいぐるみで覆いながら、眉尻をわずかに下げていた。
「セクトは話もしないまま人を判断するような人間じゃない。キョースケが気に病むことはないさ」
「だといいんだけどよ……」
 むしろ自分がセクトを傷つけるような言動をしたのではないか。
 そう思ってしまうのは、遊星がセクトに対して後ろめたさのようなものを感じているせいだろうか。アニキと呼ぶほどまでに慕ってくれていて、サテライトにいた頃は毎日のようにデュエルをして過ごしていた。それが進学を機に離れてからは、忙しさや研究の楽しさに霞んで疎遠になってしまっている。
 とはいえ遊星を見つけてすぐのセクトは再会を喜んでいたように見えた。実際何が理由でどうしたのかは本人に訊いてみなければ分からない。
 遊星は二人が去っていった方角を改めて見つめる。大荷物を引き摺っているのはセクトの方だから、身軽になったラリーがすぐに追いついただろう。ラリーがセクトをフォローしてくれることを願う他ない。
 ……今回のレポートが終わったら、時間を取って自分からセクトたちに会いに行こう。
 遊星は心にそう決めて、ビニール傘越しに空を仰いだ。流れてくる雲はどんよりと黒く重い。また一雨きそうだった。