01
ぼんやりと不透明に沈む世界で、遊星は静かに目を覚ました。
しとしと、しとしとと、心地のいい音が鼓膜を叩く。あまりの心地よさにまんじりと身を沈めてしばし、少し姿勢を変えようと寝返りを打ったところで鈍い違和感に気づく。窓ガラスで爆ぜるぱちりという音が存外と響いたあたりが決定打で、遊星はやっと現実を取り戻した。
(……なんじ、だ)
うっすらと目を開けば、ぼんやりとした世界が沈んでいる。
まだ寝ぼけていて意識がはっきりしないのかと思ったが、それだけではない。部屋の中は灰色で薄暗く、しとしとという音は絶えず安眠を煽っている。勾配天井に取り付けられた天窓からは白く霞む雨空が見え、時折落ちる大きな雨粒を弾き返しては小気味のいい音を奏でていた。
時間の感覚も麻痺するような、梅雨に相応しい天気である。風情があって悪くはないと思うのだが、遊星はじわじわと戻りつつある現実に眉根を寄せた。今は何時、どころか、今日は何日だっただろう。梅雨らしいと自分で思ったからにはそのぐらいで、そもそも昨日まで、眠りに落ちるまで自分はどうしていたのだったか――虫食いのように不透明な記憶を探るが、今ひとつ思い出せない。
とにかく日時を確認しようと、遊星は床の上に無造作に放り出した鞄に手を伸ばす。ベルトに指先を引っ掛けて手繰り寄せながら、やはり何かがおかしいと違和感に首を捻る。手に取ったカバンはじっとりと湿っていて瞬間辟易したが、覚悟を決めて中を開けばテキストの類いは無事だった。奥底に埋もれていた携帯電話を引っ張り出せば真っ黒い画面に迎えられ、電源ボタンを長押ししても予想通り無駄である。
ソファから落ちるように滑り下り、遊星は傍らのローテーブルの下でとぐろを巻く充電コードを引っ張り寄せた。端子を繋げばカチリと微かな音がして、充電開始を告げるランプが灯る。真っ黒い画面に映る自分の顔は我ながらどこかやつれていて、確かにソファから起き上がるのも煩わしく思う程度には疲れている。
珍しく自身の疲労を自覚しながら、遊星は再度電源ボタンを押し込んだ。ソファで寝るとコンセントに繋ぎっぱなしの充電コードが近くていいな、などとうっすら考える間に画面にはぼんやりと光が灯り、辛気くさい顔を掻き消してくれる。表示された時間は夕方が近く、月日の方は遊星が考えていたものより三日ばかり先を進んでいることを告げていた。加えて散々放置していた違和感をも遊星に突きつけてくれる。
(どうして俺は、ソファで寝ていたんだ?)
気付いた瞬間、窮屈な姿勢での睡眠を強いられていた体がぎしりと軋んだ。
途端、手中の携帯が震え、初期設定のままの着信音がやかましく流れ始めた。画面には昔からの友人の名前が表示されていて、同時に画面の向こうの形相がすぐさま思い浮かぶ。遊星が慌てて着信ボタンを押せば、耳に当てるよりも先に大音量が飛び出してくる。
『遊星! てめーどこにいやがる!』
「クロウ……」
遊星はそろそろとイヤホン部分に耳を当てる。いつもよりほんの少し距離を取りながら、ついでに通話相手の機嫌を窺うように声を潜めて呟いた。
「……もしかして俺は、音信不通になっていたのか」
『ああ! 一週間はな!』
一週間。意図せず反復すれば、イヤホンの向こうからフンと鼻の鳴る音が聞こえた。
いわれてみればおおよそそのぐらいの期間、大学に泊まり込んでいた、ような気がする。気がする、ではなく実際にそうだ。研究室は違うが仲のいい友人がいて、彼の実験をずっと手伝っていたのである。自分の成績になるわけではないのだからと友人は申し訳なさそうにしていたが、遊星にとって彼は大学でも一番の友人であったし、研究内容も可能であれば自分が共同研究という形に持ち込みたいぐらい興味深いものだった。加えてお互いに、熱中すると寝食も忘れ周りが一切見えなくなるまで打ち込む性質である。結果としてちょっとした失踪状態になっていたのだろう。
ありがたいことに遊星の性格を深く理解している通話相手はこれ以上咎めるでもなく、とはいえ語気の荒さを潜めることもせずに重ねて水を向けてきた。
『んで、どこにいるんだよ? まだ大学か?』
「ああ、いや、家だ。確か昨晩帰ってきて……」
あれは昨晩のはずだ。終電で最寄り駅に降りればちょうど雨が降っていた。そして雨の中、疲労で重い体を引きずりながら――いや待て、何かおかしい。
誰か、一緒にいたのではなかっただろうか。二人して缶詰になっていた友人でも、住居をシェアする友人でもなく、見知らぬ誰かが。
遊星はソファの前に座り込んだまま、ゆっくりと部屋の中へ視線を巡らせる。耳元では同居人たる友人のひとりが、住居の食料事情を語っている。
『どうせお前何も食ってないだろ? いつ帰ってくるかわかんなかったから、夕飯の残りは全部俺が片づけちまったぞ。冷蔵庫にろくな食いもん残ってねーし、牛乳でも温めて飲んでな』
グレーに沈む室内で、もぞりと動くものがあった。本来ならば遊星が寝ているはずの安いパイプベッドの上で、シーツがこんもりと丸い山を作っている。その丸い山が、もぞもぞ、もぞもぞと、芋虫のごとく動いている。
『なんかピアスンが肉じゃが?持って帰れっつってるからよ、帰ったら俺もなんか作るし、後一件配達行って食材買って帰るわ。ジャックは帰ってきてないだろ? 二人分でいいよな?』
「いや……」
もぞりと山が聳え立つ。そのままばさりと掛け布団が滑り落ちて、芋虫の中身が現れた。
薄暗い室内でも、やけに綺麗に輝く銀髪だった。銀髪自体は今時珍しくもない髪色だが、青空を溶かして流し込んだようなうつくしい青銀は見たことがない。きっとオーダメイドのカスタムカラーなのだろう。少し長めの前髪から覗く瞳もまた見たことのない、陽光を閉じ込めたような金色だった。
その金色は、ぱちくりと瞬いて遊星を見ている。鼻筋の通った間違いなく美形に分類されるだろう顔立ちも、恐らく遊星よりも年上だろう体躯も、妙に幼い瞬きがすべてを台無しにしていた。
一方的に話をつけて通話を切ろうとしていた友人に、遊星は辛うじて声をかける。
「クロウ、もう一人分頼む」
『は? ジャックが帰ってきたのか?』
「そうじゃない、んだが……」
綺麗な銀の髪をした男は、今度は呑気に欠伸など交えつつベッドの上で姿勢を変えている。この男が誰であるのか、それは遊星も知らない。だが深夜の駅で拾ってきたのだといえば、それこそ携帯電話が壊れんばかりの声量で説教を畳み掛けられるのは目に見えている。
遊星の逡巡を正しく汲みとったのか、イヤホンから響く声は苦虫を噛み潰したような色を混ぜて低かった。
『……一時間で終わらせて帰るから。余計なことはせずに大人しく待ってろよ』
まるで怨嗟のような声を最後に、ぷつりと小さく音がして通話は終了した。
後は充電のランプを光らせ熱を持った携帯と、携帯を片手に、辟易を友にベッドの上を見つめる遊星、そして遊星のベッドをマイペースに占領する男だけが残される。
しとしとと雨音が支配する部屋で、現状を打ち崩したのはその男だった。金の瞳を妙に輝かせながら小首を傾げ、遊星の頭部に熱い視線を注ぎつつ口を開く。これまた妙に興奮した様子で、今度は遊星が苦虫を噛み潰したような声を上げる番だった。
「すげーな、その髪型! それも遺伝子改造ってやつ?」
「……これは生まれつきだし、出生前操作でもないし、遺伝子変異でもない」
雨の中の出会いとは随分と印象の違う男である。それでも昨晩遊星の上に落ちてきた、雨の中の連れ合いは、この男に間違いがなかった。
振動に抗うことなく左右に揺れていたせいか、それとも寝食を疎かにしていたせいか、いつも以上にフラフラする。終点駅で盛大な悲鳴を上げながら制動をかけた電車を恨みがましく後にして、遊星はホームに降り立った。肩に下げたカバンを左手で抱え直し、右手でポールにぶつけた額をさすりながらとぼとぼと歩く。
構内に人の姿はあまりない。日付もたっぷり超えた時間帯のせいか、それともサテライトに程近いダイモンエリアの端の駅だからか。恐らく両方だろう。こんな物騒な時間帯に治安の悪い駅をうろつく物好きは滅多にいない。ホームレスが不法に寝泊まりしていてもおかしくはない風情だが、構内にはセキュリティの人間が常駐していて見つかれば問答無用でしょっぴかれるらしく、そのような人影は見当たらなかった。
その滅多にいない物好きの一人である遊星は改札を抜け、静かに鼓膜を叩くノイズに顔を上げた。階段のたもとから見上げれば四角く開いた出口に真っ黒な空と、街灯に照らされて白く光る雨模様が視界に飛び込んでくる。大学を出た頃にはまだ降り始めてはいなかったが、遊星が地下鉄で移動している間に結構な本降りになっていたらしい。
大学で別れた友人の、置き傘を持って帰ったら、という言葉を思い出して遊星は溜め息をついた。置き傘という名の持ち主不明のまま放置された傘を借りる気にはなれなかったのだ。とはいえ家に帰り着くまでに濡れ鼠になるのは避けられそうになく、己のポリシーを曲げてでも傘を借りるべきだったかと今更後悔している。
俯き加減で覚悟して、一歩階段に足をかける。ふらつく体を支えようと手すりをつかめば、流れ落ちてきた雨でびっしょりと濡れそぼっていた。これは多少体に無理を強いてでも、走って帰ったほうがましかもしれない。全身を押し上げる要領で手すりを掴む手に力を込め、決意して更に一段を踏み出す。
次の瞬間、ずるりと靴底が滑った。
「なっ……お、おい!」
遊星が足を滑らせたわけではない。上段から洒落にならない勢いで灰色の塊が落ちてきて遊星にぶつかったのである。俯いていたため反応が遅れたものの、気合を入れて駆け上がろうとしていたおかげで一段を踏み外す程度で済んだのは幸いだった。これが階段の中ほどまで駆け上がったところであればもつれ合って一息に転落、捻挫骨折は避けられなかっただろう。
冷や汗を流しながら腕の中を見下ろす。そこには思わず受け止めてしまった件の灰色の塊が収まっている。遊星の片手でも受け止められるような軽い体をくの字に折って、それは激しく咳き込んでいた。受け止めた遊星が踏み留まっているのだから、余程の転がり落ち方でもしていない限り怪我はないはずだ。そう思うのだが、死んでしまうのではないかと危惧する勢いで灰色の塊は咳き込んでいる。元から具合がよくなかったのだろうか。
「おい、大丈夫か」
そろそろと姿勢を変えながら、遊星は声をかけた。咳の合間に、う、という微かな、けれども意思を持った声が聞こえる。無理に喋らなくていいと伝え、灰色の体を横抱きにするようにしてその場にしゃがみ込む。
雨の中を長時間移動してきたのだろう、ぐしょぐしょに濡れた青年だった。灰色の塊、と遊星が認識したのはその服装からで、本来は白かったのであろう病衣のような服は水を吸って酷く濁った色をしていた。冷え切った肌は夜の街灯の下青白く浮かび上がっていて、そろりと顔を覗き込めば濡れて顔にへばりついた前髪の隙間で苦しそうに目を細めている。
ひたすら咳き込む人間にどう対処すればいいのかなど遊星が知る由もない。いっそ救急車を呼ぶべきなのだろうかとも考えたが、うろたえている間に少しは治まってきたのか、咳き込む勢いが弱くなっていく。遊星は相手の顔色を窺いながら再度声をかけた。
「大丈夫か?」
今度はゆっくりと、青年の頭が縦に揺れた。銀色のまるい頭を伝って、雫がぽたりと遊星の腕に落ちる。
さて、困るのはここからである。容態は治まってきたようだが、このまま放置してさようならというのも忍びない。
とはいえこの街は一応シティに区分されるとはいえ、極めてサテライトに近いグレーな場所、ダイモンエリアだ。人情に流されて泣きをみる話など掃いて捨てるほど転がっている。可哀想ではあるがこのまま別れるのが間違いのない選択だろう。少なくとも遊星の同居人たちなら見捨てて立ち去っているだろうし、遊星が正体不明の人間に下手に関わったと知れば烈火のごとく怒るに違いない。非情なのではなくそういう街なのだ。善人が必ず損をする。君子危うきに近寄らず。そういうふうにできている。
決意して、遊星は抱きかかえていた青年をそうっと段差に座らせる。そのまま静かに灰色の体躯から手を離し――服の袖を掴まれた。ぎょっとして見下ろせば、ちりちりと街灯を照り返す瞳が遊星を見上げている。
「いえ、」
「は……」
家に連絡してくれ、とでもいうのだろうか。それぐらいの世話なら焼いてやってもいいだろうか、思考する遊星の善意は続く台詞で打ち砕かれた。
「家、近いのか?」
「は?」
「泊めて」
青年はもう一度ちいさく咳をして、自分が転がり落ちてきた階段を見上げた。そのまま駆け上がって立ち去ってくれればいいのだが、遊星の希望を鼻で笑うように銀色の頭がまたこちらへと向けられる。
「行くところねーんだ、俺」
「いや、待ってくれ、あんたは――」
「頼む。泊めてくれ」
雨に濡れているだけだろう青年の瞳に、まるで泣いているようだとか、ゆらゆら揺れて狼狽する自分だとか、そういうものを見つけてしまって――結局最後に遊星は頷いていた。
事の顛末をひとしきり聞き終えた同居人、クロウは大きく頷いた。
「そりゃお前、最初の印象のまんまだろ。怪しくて図々しい」
「……もう少し病的で、弱々しい感じがしたんだ」
果たしてその“もう少し病的で、弱々しい感じ”が第一印象だった青年は、一体どんな入り方をしているのか、ユニットバスで盛大な水音を立てている。それどころか時折やたらテンションの高い歓声まで上げているのだから堪らない。
もくもくと白く煙るバスルームの磨りガラスを見つめてから、遊星は諦めをふんだんに盛り込んだ溜め息をこぼす。ヒャーハハハハ、などという過剰に元気な笑い声になんだか虚しくなって、気を紛らわせるように大きな音を立てて電子レンジの扉を閉めた。スイッチを押せばクロウが勤め先からもらってきた肉じゃがの詰まったタッパーがくるくると回り始める。
「つってもなあ。あんな髪と目の色、初めて見たぜ。ありゃぜってーオーダーメイド、カスタムカラー、お値段は要相談ってやつだろ。いいとこのお坊ちゃんが家出でもしたんじゃねーの?」
中華鍋に米を投げ込みながら、クロウは器用に肩を竦めた。先に炒めておいた卵と絡めるように左手で小気味良く鍋を揺すり、淀みない動きで菜箸を動かす。じゅうじゅうという音が食欲をそそり、遊星は一瞬話題も忘れてクロウの手さばきに見とれた。
神の技術だとか人類の禁忌だとか叫ばれていた遺伝子関連技術が商売として合法化したのは、遊星が生まれる何年か前のことである。顔立ちや髪や目の色が自由に“設定”できるようになって、世の親たちはこぞって生まれてくる子どもたちの外見を自分好みに注文するようになった。とはいえ商売として般化するにはある程度のマニュアルが必要で、基本的には用意されたパターンのパーツやカラーを選択して決定するものらしい。遊星は人の親になったことがないので詳しくは知らないが、今バスルームで暴れている青年と同じ髪の色も目の色も見たことがなかったという点ではクロウに同意する。パターンにないカラーは莫大な資金を投じなければ作ることができないし、般化されていないものなので注文と色味が違うとか、胎児の出生に悪影響を及ぼすとか、あらゆる失敗を覚悟しなければならないと聞いている。
決まりきったパターンでは顧客を飽きさせてしまうと考えているのか、遺伝子関係を取り扱う企業では毎年「今年の新色」などとコスメ広告のような謳い文句と共にこぞって新たなマニュアルを売り出しているらしい。が、現時点では最初に遺伝子関連事業を始めたKCの独壇場という現状である。全くの余談だが。
「ま、拾ってきちまったもんはしょーがねえけどさ」
「……本当にすまない」
「別にいいって。サテライトじゃこんなん日常茶飯事だったしよ……そろそろアイツ上がるだろ。こっちは俺がやっとくから、替えの服出してやれよ」
米と卵を宙で返しながら、クロウはバスルームの方を顎で示した。確かにやたらと響いていた水音が収まって、今度は調子の外れた鼻歌が垂れ流されている。ちなみにびしょ濡れだった青年の白い服もその格好のまま潜り込まれてじっとりと湿った布団も、今はまとめて洗濯機の中である。
これ以上キッチンにいても遊星にできることはない。決して不器用ではないのだが、遊星は料理ができないのだ。食に対する興味の薄さがそうさせるのだろう。ちなみにこのガレージには遊星とクロウ、一応もう一人、ジャックという男が住んでいるのだが、まともに料理ができるのはクロウだけである。
なので遊星は黙って頷いて、寝室のある屋根裏へと足を向けた。見た目に反して軽いとはいえ、青年はクロウや遊星よりは上背がある。なので自分たちの服を貸してやることはできない。となれば、後々怒られるかもしれないが現在留守にしているジャックの服を拝借するしかないだろう。以前クロウが三着千円の特価で買ってきたTシャツは趣味が悪いと憤っていたはずなので、あれならば勝手に貸しても怒られないかもしれない。
考えを巡らせる遊星の鼓膜を、濡れた体のまま青年が居間まで出て来でもしたのか、階下から響くクロウの大声が叩いた。