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 その日の覚醒は、別段、いつもと変わりのないものだった。
 ひょろりと長い彼の身長を以ってしても、背を伸ばしてギリギリ目だけが覗けるか否か、という位置にぽかりと開いた小さな窓は、濁った空の色を映している。曇り空のくせに目に刺さる、白っぽい太陽の光は嵌めこまれた格子を透かし、平々凡々とした朝を彼に告げていた。
 目を細めながらぼんやりと空を見上げることしばし、それから彼は一日を始めるべく、緩慢に動き始める。食事を運んでくるいつもの女性が来るにはきっとまだ早い。なので彼は、いつもどおりの白いシャツに白い七分丈のパンツ姿で、いつもどおりに自分の部屋を出る。
 自分の部屋も、支給される服も、抜け出した先の廊下も、彼の知る限りこの建物は目を刺す陽光よりも更に白い、目眩のするような白で塗り尽くされている。
 真っ白な天井に貼り付いた蛍光灯は、もう朝だというのに真っ白い光を無意味に発している。ぺたぺた素足で踏む床も真っ白で、適当に伸びて真っ白い扉で行き止まりとなっている。つまり彼の世界の行き止まりでもあったわけだが、彼の目当ては世界の果ての扉ではなくそのひとつ手前にあった。
 彼の自室のものと同じ扉をいくつも横目に流しながら、彼は白い世界の例外である目的地へゆっくりと歩く。整然と同じ間隔で並ぶ白い扉たちは無個性で、プレートもなければ内側に誰かを擁してもいない。少なくとも彼がここで暮らしているあいだに、彼以外の人物が存在したことは一度もない。この白い世界で恒常的に存在しているのは、彼と、もうひとり――本当はもうひとりいたのだが、そのもうひとりと入れ替わりに今のひとりが居座るようになったのでたぶんこれでいいだろう――だけだった。
 果たしてそのもうひとりの根城が、ここである。彼は行き止まりの扉の手前で足を止めた。
 今まで等間隔に並んでいた、没個性的な連中とは違う部屋である。同じような白い扉がえらそうにしているところは確かに同じだが、そいつは管理室と名乗るプレートを掲げていた。おまけにその隣には、窓ガラスで室内と廊下を隔てるカウンターがある。部屋の中にいる人間が、外の世界に通じる扉をくぐってきた人間の相手をするためにあるらしい。が、一日三度、女性が食事を運んでくる時以外は、もっぱら彼が部屋の中を覗き込むためだけに使われている。
 今この時も例外ではなく、彼は細長い身体を少しばかり曲げ、ガラス越しに部屋の中を覗き込んだ。雑然と紙束の積まれた室内側のカウンターの向こう、部屋の真ん中に設えられたデスクにも、壁際で窮屈そうに縮こまるソファベッドにも人影はない。今にも崩れんばかりに本を突っ込まれた本棚を挟んで反対側、申し訳程度に据えられた簡易キッチンの前にも誰もいない。
 彼は首を傾げた。デスクの上で真っ黒く黙りこくっているパソコンなるもの、その隣にはてろてろとした安っぽい質感の時計があるが、そいつの示す時間的にも彼の感覚的にも、この部屋のどこかに目当ての人物がいるはずなのだ。今日は何かあったのだろうか。不思議に思いながら、ためらわず彼は扉のノブを捻った。何か物々しい名前と様子でありながら、この部屋は常に施錠されていない。
 案の定素直に開いた扉を潜り抜ける。埃っぽい、恐らく世間とはだいぶ異なる、けれども彼の自室よりはずっと生活感を湛えた空気が頬を滑った。振り払うように頭を巡らせてみるものの、狭い室内には誰の影も見当たらない。
 仕方なく、彼は狭い部屋を横切ってシンクの上に備え付けられた戸棚を開ける。すぐ手に届く位置にある缶詰を手に取って、タブを引こうとして、ふとしゃがみ込んだ。目当ての人物が不在であることとはまた別の違和感に急かされて、シンク下の収納と壁の隙間に据えられたダンボール箱を覗き込む。
「……アプ?」
 丸まった薄汚いタオルをそっと捲る。タオルの下に、ちいさい黒いものがいる。四足で、ちいさい三角の耳が頭にくっついていて、その三角を一回り小さくしたような三角のコブが耳の後ろで出っぱっている。黒いちいさな体躯のところどころに緑青のような斑点が浮かんでいて、ぱさぱさした毛皮の下の浮いた肋も奇妙にへこんでいた。
 この生き物が猫であることは、この部屋のソファベッドの向こうで壁に押しやられている小さなテレビから学んだ。ただ、テレビに出てくる猫とは明らかに異なる。体のアウトラインは確かに猫であるが、模様のように毛皮を侵す青も単眼であるところも、映像の中で愛らしく動き、あるいは丸くなって眠る姿とはだいぶ異なった。
 学習との不一致に首を捻る彼に、この生き物が猫であると判を押したのは不在の部屋の主だった。ついでにいえばテレビの向こうで存在感を希薄にしている窓を以って彼が外の世界を眺め、建物の影で蹲るこの猫を発見し、助けに行け助けに行けと騒ぎ立てた挙句に観念して救いの手を差し伸べに行ったのもその人物であった。
 博学多識であるらしいその人物によると、この猫らしくない姿は子どもが学校で配られる学習キットを用いたか、はたまた学生が悪趣味な実験に興じたかの結果であるらしい。巷では遺伝子組み換えキットだとかいうもので外因的に遺伝子をいじれるだとか、なんとか。そのへんは彼には縁遠いことであるように思えたし、なにより難しげな話だったのであまり記憶してはいない。
 果たしてそのような経緯と姿で管理室に住まいするようになった猫は、今腕の中でぴくりともしないでいる。ただでさえぱさついていた毛はぱりぱりと乾いていて、水分が抜け落ちてしまったように軽い。ひとつしかない青い目はガラスのように曇って、丸く見開かれたままになっている。
 微動だにしない背中を何度も撫でる。撫でて、撫でて、指に黴のような青がこびりつく頃になってようやく、彼はこの生き物を受け取ってすぐにいわれた言葉を思い出した。
「死んだ」
 初めて猫という生き物に触れる。ちょっとした興奮と期待に胸を膨らませる彼に、水をかけるようにかの人物が口にした言葉である。じきに死ぬぞ。
「そうか……もう、死んだのか」
 それに頷いて受け取って、死んだら埋めてきれいなお墓を作ってやろうと思ったのは彼だった。
 色合いが似ているからと、テレビで見たお気に入りのキャラクターの名前を猫につけたのも彼だ。アプ、と呼んでやればまだ生きていた頃の猫は濁った声で返事をして、彼は顔を綻ばせた。背後から「名前をつけて可愛がったところで、死ぬとき悲しくなるだけだ」と声を投げられたことも覚えている。
 つまり予期されていたとおり、この猫は死んでしまったわけだが、どうだろう。彼はもう一度青の混じる黒い毛並みを撫でてから、そっと箱の中に亡骸を戻した。
 悲しくなる、というのは、この胸が空っぽになるような感覚のことをいうのだろうか。空っぽの胸にじわじわと染みてくる、寒くはなかっただろうか、痛くはなかっただろうか、よりによって部屋の主がいないときに死んだのだろうか、という疑問の数々のことだろうか。
 ダンボール箱の前でしゃがみ込んだまま、そうだ、埋めてやらなければと思い至る。
 同時に行き止まりと、世界を隔てる扉が開く。音がした。
 彼のぺたぺたという足音とはまったく違う、かつかつと硬い靴音が複数、カウンターの前を通り抜ける。カウンターのすぐそばでしゃがみ込んでいる彼には気づかなかったのだろう、声を引きずりながら靴音は行き止まりの世界の真ん中へと、彼の自室の方へと向かっていく。
「……に接触するなと言い含めてきたのです。それを兄さんまで……もう時間はないと散々言ってきたでしょう」
「向こうの受け入れの準備も既に完了しています。スタッフも。検体さえ届けばすぐに始められると」
「しかし、こんなに急に……事前の検査なども、まだ――」
「それは向こうでも可能です。貴方は彼を見殺しにするつもりですか? 彼が何のために生きているのか、貴方だって承知していたはずでしょう」
「それは……ですが、お待ちください、長――」
 幾度か聞いた声と声が冷静に突っぱねる。久しぶりに聞く声が追い縋って、靴音とともに彼の潜む管理室から遠ざかる。ガラス窓からこっそり様子を窺おうと彼は腰を浮かし、扉の開く音に動きを止めた。先ほどの声の内の誰かが戻ってきたのかと思ったが、違う。声の中には混じっていなかった、当初の目的たる人物がそこにいた。
「やはりここにいたか」
「……ルドガー?」
 浅黒い体躯を、糊の利いたシャツと白衣で覆った男である。管理室で寝泊まりしているわりにいつも整えられている金髪が、今朝は少し乱れて見えた。
「なあ、さっき通ったの、ボマーだろ?」
「ああ。彼があちらを引きつけてくれる。お前はここから出ろ」
 重ねて述べるが、彼にとって世界は行き止まりがあるもので、白いこの建物の中で完結している。目の前のルドガーも、先ほど前を通った追い縋る声の主であるボマーも、名分としては彼をこの世界から出さないために存在しているはずだ。
 どういうことだと声を上げるより先に、ルドガーは彼の白いシャツを掴んで引きずるように狭い窓へと向かう。暴れるどころか疑問すら許さない力強さに一瞬怯むが、それでも彼は声を上げる。
「できねぇよ、なあ、さっきのって、そういうことだろう」
「ここから出ろと言っている」
 片手に人ひとり捕らえたまま、もう片方の手で小さなテレビをソファに投げ落とす。閉め切りとなっていたガラス窓が開け放されて、湿った空気が管理室に雪崩れ込む。
「できないって、ルドガー!」
「素足でうろつくなと散々咎めてきたが、今日ばかりは意見を改めねばならんな」
「え……う、わわ!」
 ひょいと脇から抱え上げられて、軽々と窓枠を、世界の境界線を超えさせられる。ルドガーの言葉の意味はすぐに素足の裏からもたらされた。窓の下を走る雨樋の上に乗せられていて、少し気を抜けば滑り落ちそうになる。慌てて窓のサッシを掴んだ。
 確かに部屋に置かれたスリッパでこの上に乗ろうものなら、足を取られてそのまま落ちていたかもしれない。けれど今はそういう話ではないのだ。
「外のセキリュティは切ってある。下りたらできるだけ遠くまで行け。決して戻ってこようなどと考えるなよ」
「ルドガー!」
 一方的に立てられる脱出計画を名前を呼んで遮った。
 縋りつくような気持ちで呼んだその人は、平生から決して穏やかとは呼べない顔に苦渋と懊悩を押し込めている。
「私とボマー、それから、」
 返される台詞は、彼のものにも等しい切実さと、どうしようもなくやるせない、ひとつしかない選択肢のようなものでできていた。
「彼が、お前がここから出ていくことを望んでいる」
「……っ」
 なのでそれ以上、抗議の声を上げることは叶わなかった。
 眉根を寄せて込み上げる何かを堪える。そうしてルドガーの顔を黙って見上げた。ルドガーもそれ以上は何もいわず、彼をじっと見下ろしている。もう時間はない。それはボマーが引きつけてくれていることに対してであり、もっとどうしようもない、大きなものに対してのことでもあった。
「ルドガー」
「……何だ」
「アプが、死んだんだ」
 俯けば、薄汚れた白が目を覆う。この建物は内装のみならず、外装まで白に統一されているらしい。初めて自分の世界を外側から眺めた感想がこれであったわけだが、何の感慨もなかった。
 頭上で大きく頷く気配があった。「私が埋葬しておこう」
 彼は俯いたままちいさく頷いて、泣き笑いのような表情を浮かべた。ありがとう、と返した声は予想以上に小さく掠れていたが、ルドガーはきちんと聞き届けてくれた。
「……元気でな、“京介”」
 頭に軽く、それでもずっしりとした厚い手が乗せられる。
 それが別れの挨拶だった。じわりと伝わる熱を惜しむ間もなくルドガーは手を離し、窓を閉じて踵を返した。ガラスの向こうで大柄な背が窓から離れるのが見える。遠ざかる足音から察するに、ボマー達のところへ向かうのだろう。
 彼はもう一度、誰もいなくなった窓を窺い、曇った空を仰ぎ、湿って滑る雨樋を見下ろした。それからそろりと肩越しに、広がる景色に目を向ける。淀んだ空の下、空よりももっとどんよりとしてくすんだ色の街並みが、出っ張ったりへこんだり、雑多なラインで鎮座していた。肺に流れ込む空気は屋内に比べて生温い。思わず小さな咳を繰り返す。
 ひとしきりの咳の後、彼はサッシを掴む指に力を込める。そろりと一歩を踏み出す。湿気った空気に目を細めながら、壁を這うように配された雨樋を伝い、まずは地に足をつけることを考える。
 ルドガーは、アプにきちんとしたお墓を作ってくれるだろうか。まるで自分の代わりのように行き止まりの世界で命を終えた猫を思いながら、彼――“京介”は、行き止まりのない、無秩序に自由な世界に降り立った。