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ハウ・ツー・イヴァポレイト

 淡い金色の睫毛は長く、閉ざされた瞼をきれいに縁取っている。自分とは違う健やかに白い肌に、睫毛よりも濃い金の髪が滑っていて、くすぐったそうなそれを指先でそっと払ってやった。むずがるように眉根が寄せられただけで、起きる気配はない。
 こうやって寝顔を覗くことができるのも髪に触れることができるのも自分だけだ。
 決闘者からは畏怖され、世の女性達からは秋波を送られる絶対王者のプライベートに踏み込むことを許されている。鬼柳はその事実に少しの優越感と、許すか否かの二択で他人を裁量する王者の傲慢に呆れを覚える。
(……そこが好きなんだが)
 自分には持っていないものを持っているところが好きだ。
 妥協しないところが好きだ。
 他人にも己にも厳しいところが好きだ。
 本当は優しいところも、うまく優しさを表に出せないところも好きだ。
 全部引っくるめて好きだ。
 思いつくまま心中で並べ立てて、急に気恥ずかしくなった。赤くなっているだろう頬を隠そうとずるずる頭を伏せるが、伏せた先には王者の寝顔があるし、寝顔というからにはつまり鬼柳の様子に気づくはずもないので無駄な行為である。
 ひとり一喜一憂している自分の姿は傍から見ると相当シュールだろう。けれどなりふり構わないぐらい好きなのだ。本当に、昔から、ずっと。
 心の中でならいくらでも言える。いくら言葉にしても足りないぐらい好きだ。
 伝える気があるのなら言葉にするべきだといわれたのは少し前。あまりに自信に満ちた態度を前に言葉にすること叶わず、結局自分からの口づけでその場は逃げた。
 確かに逃げた。認めよう。
 だがしかし、伝えたいとは思っているのだ。朝食の準備をして、それから無防備に寝顔を晒す王様を起こそうとするこの時間など特に。しかもそれは毎朝のことで、つまりここまで連敗続きである。
 鬼柳が一人で慌てようが、お構いなしに眠り続ける王者をそろそろと覗き込む。眠っている間は大らかだ。
「……ジャック」
 囁く程度の声で名前を呼ぶ。起きる気配がないことを確認して、それから無意味に左右を確認する。誰の視線もない。今なら大丈夫だ、いける。
「好きだ……俺も、愛してる」
 耳元に唇を寄せて微かな声で、けれど確かに言葉にする。
 眠っている相手にならまだ口にすることができる。けれどこのままではただの自己満足でしかないわけで、根本的な解決にはならない。傲慢な王様は伝える気があるなら言葉にしろといったのだ。一方的に言葉にしただけでは伝えられない。
 結局、まだ自信も勇気もないのだ。一人で馬鹿みたいに悶々とするだけ無駄なのだから、この場はとにかくこの男を起こしてしまおう。
 鬼柳がようやく思考を現実に戻したところで、ぐるりと視界が反転した。
「まだ合格とはいえんな、鬼柳」
 ぼふりと沈む感覚と音、覆い被さる影。目を見開く。
「ジャッ、ク」
「本気で伝える気があるなら、といったはずだが?」
 ついさっきまで眠っていたはずの王様に見下されていて、鬼柳の体はまだ温もりを孕むベッドに沈んでいる。何度か瞬きを繰り返し、ようやく完全にポジションが入れ替わっていることに気がついた。
 はっとして見上げる。ジャックは余裕に満ちた表情でいて、寝起きの気怠さなど微塵も感じられない。
「お前、いつから起きてっ……!」
「自室に他人が入り込んで、この俺が気付かず寝ているとでも?」
 つまり鬼柳が起こしにきたところから、ジャックの顔を覗き込みつつ一喜一憂していたところまですべて見ていたということに他ならない。それどころか毎朝いいかけては口を閉ざす鬼柳をも見知っていたということである。
 部屋に踏み込んだ時点で起きているなら自発的に起きろだとか、毎朝揺すり起こす鬼柳を前に狸寝入りを決め込んでいたのかだとか、いいたいことがぐるぐる頭を回る。同時に今まで見られていないと信じ込んでいたからこそやらかした所業の数々が蘇り、動揺と羞恥が一気に襲ってきた。
 両腕で顔を隠そうとするがそれすら王者の手の内らしく、腕を掴んで阻止される。
「鬼柳、今日は何の日か知っているか」
 ずいとアメジスト色の瞳が寄せられる。そこに映る引きつった顔の己を笑う余裕も、今日の日付を思い出す冷静さも、あいにくと今の鬼柳は持ち合わせていない。ジャックが低く笑う。生温く伝わる振動に顔を逸らせば、晒された耳に吐息が触れた。
「ホワイトデーだ。バレンタインの礼をする日らしいぞ」
 バレンタインの、礼。
 先月のことを思い出す。つまりそれはここ一ヵ月とまさに今、鬼柳が毎朝一人身悶えていた原因だった。
 羞恥に火照ったままの顔と血の気の引く感覚。本当に目が回りそうでいっそこのまま意識を失えたらとまで思うが、あいにくと自分の体はそこまで脆弱ではない。晒された耳に触れる唇が、服従を誘って逃げ場を塞ぐ。
「製菓会社の下らない販売戦略だと思っていたが……貴様が折れるのであれば悪くないな」
 先ほど口にしておいて今更ではあるが、ジャックの中では鬼柳が今この時、逃げ続けていた言葉を遂に口にすると決定しているようである。ジャックの腕の中に捕らわれた状態で彼の王様が決めたのであれば、悲しいかな、鬼柳に覆すすべはなかった。
 あ、だの、う、だの、言葉にならない声を上げて、鬼柳は糸口を探そうと試みる。ジャックは黙ったまま、恐らく笑ってこちらを見下ろしている。
 しばらくそのままうろうろと視線を彷徨わせて、最後に脱力した。逃げ場はないと知っていて時間を稼ぐのも無駄な行為である。
 何より自分は、これでも伝えたいと思っているのだ。
 予想外の形ではあるが、伝えるべき機会を与えられたと思えばいい。何やら納得できない点には目を瞑ることにする。
 鬼柳の観念を悟ったのか、ジャックの体が離れていく。ほんの少し開けた空間で鬼柳はそっと顔を上げた。外された腕はゆるく鬼柳の顔を囲っているが、拘束の意図はないことを知っている。ジャックは鬼柳が逃げないと分かっているのだから。
「ジャック……」
 相変わらず余裕を湛えた表情が目の前にある。捧げられることを当然として疑わない王者の余裕。
 崩すには足りないが、せめてもの抗いが伝わるように、鬼柳はまっすぐにジャックの目を見返した。強く思えばここひと月の逡巡や羞恥など、あってないようなものだ。と、思い込む。
「俺もお前のことが好きだ」
「それから?」
 間髪入れずに返すな。声を震わさず伝えられたことに安堵する間ぐらい寄越せ。
 と、いう台詞はぐっと堪えた。わずかに目を伏せて、深く息を吐く。ゆるく顎に手をかけられて持ち上げられ、鬼柳は瞼を開いた。吐いただけの息を吸って、伝える。
「それから……愛してる」
 余韻はジャックの唇に飲み込まれた。
 伏せられた睫毛はやはり長く、今はちかちかと光を孕んで見える。ジャックの方が先に目を閉じているのも珍しいと思いながら、鬼柳もまたジャックに倣う。それだけジャックも待っていたということだろうか。
 思い至れば、ちりちりと胸が苦しい。自信に満ち溢れたジャックに気圧されただとか、言葉にすれば安っぽくなってしまうような恐怖だとか、ひとりよがりの羞恥心だとか、そんなものはすべて取るに足らないものだったと心底から思う。
 長い触れ合いに反して深くはない口づけが、ゆっくりとほどかれる。
「俺は日時にこじつけるような下らない真似をする気はない。然るべき時に望むものを与えてやる」
 ほのかに残る熱とは裏腹に、ジャックの台詞は相変わらず傲慢だった。
 それでも再び顎にかかる指先が、見下ろしてくる紫瞳が、彼にしては酷くやさしく甘やかなことを鬼柳は知っている。淡くきらめく紫に映る自分の顔がうっすらと上気して微笑を湛えている。今なら日時にこじつけさせたのはジャックの方だろうと、呆れる言葉も飲み込んでやっていいと思った。
「言え、鬼柳。貴様は何が欲しい」
 結局この王様は、自分が優位に立っていないと気がすまない、不器用な王様なのだ。本当は与えたくて仕方がないのに、ねだられる形でなければ与えられない。
 そんなところも好きだ。お互いに素直になれないがための遠回りも、案外悪くない。
 鬼柳は覆い被さるジャックに腕を回す。ぎゅうと抱き締めればジャックの顔が肩口に埋まる。今度は鬼柳から耳元へ唇を寄せる。
「ジャックが、ほしい」
 返事は声ではなく、首筋にちりりと走る痛みで返される。
 見えるところに痕を残すのもジャックゆえだ。己のものだと主張するマーキングなわけで、かわいらしく愛おしい。そんなものがなくてもとうに鬼柳はジャックのもので、ジャック自身も知っているだろうに。
 けれどこの紅い痕は、与えられるのは自分だけだと思えるから嫌いではない。隠すのが少々面倒なのも、愛ゆえに、とかいう言葉でごまかしておく。
「合格だ、鬼柳。貴様だけに与えてやる、このジャック・アトラスをな」
 心なし強い力で抱き締められる。こんなに抱きついたら脱がし辛いとかせっかく用意した味噌汁が冷めるだとか、そういう諸々のことはなげうっておくことにする。
 今はジャックだけを感じていたいし、文句は後からいくらでもつけられる。
 抱き締められたのと同じだけの強さで返して、鬼柳はとろりと目を閉じた。