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メルト・スイート・ダウン

 施設の食事は栄養バランスを念頭に考えられており、味は悪くないが華々しさはない。とはいえ子どもたちはほとんどがサテライト出身の孤児ばかりで、シティの子どもが食べたがるような料理などそもそも知りもしないため文句が出ることもない。まず過不足なく三食ありつけるだけで十分、御の字なのだ。
 そんな食事の続くある日、ささやかな変化が訪れたのは今日の昼食だった。
「……なんだこれは」
 ジャックは小さな銀色の包みを摘み上げる。
 常に他者を見下すような雰囲気をまとうジャックの疑問に答える者など、基本的に一人しかいない。
「なんだよジャック、知らないのか? チョコレートだろ」
 その唯一の存在である鬼柳が例に漏れず答える。ジャックの対面の席に座る鬼柳は食事を終えたらしく、自分のトレイから銀の包みを取り上げた。くるりと捩じって包みを解く。ささやかなサイズのチョコレートがひとつ転がって、微かに甘い匂いがジャックの鼻先を掠めた。
 まごうことなく、どこからどう見てもチョコレートだ。ジャックは幼さに妙に似合う渋面を浮かべた。
「それぐらいは知っている」
「じゃあなんだ? あっ、分かった、ジャック知らないんだな。今日はバレンタインデーっていうんだぜ」
 調理のおばさんに聞いた! と鬼柳は胸を張るが、ジャックもそれぐらいは知っている。加えてバレンタインデーにチョコレートに限らず花やカードや菓子を贈って親愛の情を示すことも知っていた。
 どうだ物知りだろうとばかりにこちらを見つめる鬼柳を一笑に付して、ジャックは己の食事のトレイを見下ろす。まったく同じ銀の包みが小さな山を作っていた。
「なぜ他の女連中が自分のチョコレートを俺に寄越してくるのかと聞いている」
「そんなのバレンタインだからだろ? ……ていうか俺じゃなくて、最初から本人たちに聞けよ」
 鬼柳は肩をすくめて、遠くの席に座る件の女子たちに目をやった。食事を始める前にチョコレートを渡してきた彼女たちは遠巻きにしながらも、チラチラとジャックに視線を送っていた。ジャックの前に座る鬼柳としてはその熱い視線が痛い。自分に向けてのものではないので、余計に。
 摘んでいた包みを銀の山に落とし、ジャックは腕を組んだ。浮かぶ表情は明らかに不機嫌だ。
「聞けも何も、押しつけるだけ押しつけてことごとく去っていっただろう」
 ジャックにしてみれば、普段遠巻きにしてろくに言葉も交わさない相手に、これまたろくに言葉もなく、一方的に親愛の情とやらを押しつけられるのが腹立たしいらしい。
 女の子たちが報われないなあと鬼柳は思う。小さな包みのチョコレートとはいえ、滅多につかないデザートなのだ。甘いものが好きな子も多いだろうに、それを憧れのジャックのためにと贈ったのだ。カードを繰るための手足とデュエルを思考する頭以外持ち得ない自分たちに、誰かに渡せるものなんてこんなチョコレートぐらいしかない。だというのにジャックときたら。
「普段ジャックって話しかけづらいから、こうやってチョコレートで気持ちを伝えようとしたんだろ?」
「こんなちっぽけなもので伝わる気持ちなど知れている。本気で伝える気があるなら言葉にするべきだろう」
 と、言葉で伝えようとすれば何かにつけて一喝されそうな態度でジャックは答えるのだからどうしようもない。鬼柳はため息をついた。ジャックにチョコレートを渡してきた子の中には、鬼柳がちょっと可愛いと思っている女の子もいたのだ。女の子たちのどれぐらいが本気でジャックを気にかけているかは分からないが、こんなまともに取り合いもしないジャックにばかり人気とチョコレートが集まってくるなんて。不毛である。
 手の中で転がして、少し端の溶けてしまったチョコレートを鬼柳は口に放り込む。舌に染みこむじんわりとした甘さに目を細めて、それもそうかもしれないけどさ、と適当に相槌を打った。


 あの女の子たちは今どうしているだろう。幾人かは施設にいる内に『いなくなって』しまったが、他の幾人かは鬼柳がレッド・デーモンを奪ったときに施設から逃したはずだ。施設のことやほのかに想いを寄せていたジャックのことも忘れて、立派な一人の女性となっているだろうか。
 と、遠い目をして考える鬼柳を眼下の男が現実に引き戻す。さらさらと流れる鬼柳の髪の一筋を指先で弄びながら、低く通る声が鬼柳を呼んだ。
「聞いているのか、鬼柳」
「……聞いている」
 しぶしぶ、視線を眼下へ向ける。王者の余裕を漂わせる男は、確かに近寄りがたい雰囲気をまとっている。V・S・F・Lの頃とはまた異なる空気だが、当時気安くジャックに声をかけていた鬼柳は今になってようやく当時の彼女たちの気持ちが分かるような気がした。
 しかしソファに腰掛けるジャックの膝を跨いで座らされているのだからやはり根本的には分かっていないのかもしれない。近寄りがたい空気とは何だったのか、と自問したいが、鬼柳の意思ではなくジャックによって無理矢理この姿勢に持ち込まれたのでノーカウントだ。あの時口にチョコレートを放り込んだのと同じような気持ちで鬼柳はため息をついた。
 ジャックの眉間に不機嫌な皺が寄せられる。
「やはり聞いていないようだな鬼柳。もう一度言ってやろうか」
「いや、聞こえた、聞こえたからもうやめてくれ」
「好きだ鬼柳、愛している。一生お前は俺のものでいろ」
 聞こえたといったのに。再度繰り返されるジャックの言葉に、鬼柳は堪らず目を伏せた。どれだけ俯こうとジャックの膝の上から逃げられない以上、表情など隠しようもないのだと知ってはいる。ああ、二月だというのにあまりにも熱い。顔と耳が、特に。
 鬼柳の内心を読んだかのように、ジャックの手が鬼柳の頬に伸ばされた。少しひんやりとしたそれの心地よさは一瞬で、無理矢理にジャックと視線を合わせられる。視界の端はなぜか滲んでいた。ジャックはこれ以上ないほど満足気な表情をしている。
「返事は聞くまでもないようだな」
「うるさい……」
 小さく消えていく語尾は何の抵抗にもならなかった。手をついたジャックの内腿をぺしりと叩くが、それすらも笑われる。
「なんなんだ急に、お前は」
「バレンタインだからだろう」
 今日はバレンタインデーだぞ、知っているか鬼柳。鬼柳が呻くと、いつか答えた言葉をそのまま返された。
「バレンタインっていうのは、贈り物で気持ちを伝えるんじゃないのか」
「下らんな、物につけて気持ちを伝えようなど」
 頬に添えられていた手が後頭部に回される。そのままぐいと引き寄せられて、いよいよ鬼柳に逃げ場はなくなった。アメジストの瞳がじっと鬼柳を見上げる。お互いの影と影が重なって、吐息が触れる位置で見つめ合う。
「言ったはずだ、鬼柳。本気で伝える気があるなら言葉にするべきだと」
 その理論で行くとバレンタインデーの存在意義がなくなってしまう気がしたが、伝えればジャックはまずバレンタインの存在を鼻で笑うのだろう。つまり気持ちを伝えるのに特別な日など不要なのだ、伝えようと思ったその時に口にするべきものなのだと。ジャック流に考えると、だが。
 王者の視線が鬼柳に答えを迫る。これ以上理屈をこねて逃げることはできない。たくましい腕に囲われて物理的にも逃げようがなかった。
 できうる限り視線を彷徨わせることしばし、観念して、鬼柳は目を閉じた。ジャックのように直球で言葉にできるほど、鬼柳には自信がない。なのでせめてと、ジャックとの隙間をゼロにする。触れるだけで唇を重ね合わせて、ジャックの唇はひんやりしてるなあなどと現実から逃避しきれない思考で脳内を埋め尽くす。
 どちらからともなく唇を離して、また鬼柳は俯いた。触れ合っていた唇は少しつめたいが、やっぱりこの部屋は、否、ジャックの腕の中は熱すぎる。溶けそうだ。
「及第点だな。次は言葉にしてみせろ……鬼柳」
 耳元で囁かれた声は、ジャックのものにしては甘すぎた。あの時舌の上で転がしたチョコレートよりも甘い。耐えかねて鬼柳は脱力した。頭上で笑われているのが嫌というほど分かったが、もうどうにでもしてくれという心境でジャックの胸に顔を埋める。やはりそこも熱かった。