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彼は誰の青と泳ぐ 2

 正午の鐘が鳴る。鎮守府内の食堂が昼食目当ての艦で溢れ返り、にわかに活気付く時間である。
 しかし凛が食堂に足を踏み入れたのは、鐘の音から更に長針が一周しようかという頃合いだった。よろめく足で盆を取ってカウンターへと近寄り、適当にメニューを指差して注文する。好物の肉を頼むどころか、メニューに書かれた文字を追う気力もない。
「凛ちゃーん!」
 すぐに差し出された料理を盆ごと受け取ったところで名を呼ばれる。誰何の必要もなく渚だ。
 既に人のまばらな食堂の一席、海と工廠をまとめて一望できる窓際の特等席。渚はそこに陣取っていた。こちらへ向けてぶんぶんと振りたくられる手に抗わず、凛は渚の元へと重い足を引きずる。遠目に凛の様子を察したのだろう、渚はわざわざ立ち上がって向かいの椅子を引いてくれた。
「悪い」
「これぐらい気にしなくていいよ。ついでに水取ってくるから、凛ちゃんは座ってて」
 凛が何か答える間もなく、渚は小走りで冷水器の方へと駆け出していた。食堂で走るなよ、と声をかけるべきかとも思ったが、人の少ないこの時間ならそう迷惑にもなるまい。何より渚を諭す気力もない。好意に甘えることにして、凛はぼんやりと渚の席を眺める。食べかけの羊羹が一切れ皿に乗っていた。
「はい、お待たせ」
「さんきゅ」
 再び小走りで戻ってきた渚からグラスを受け取り、よく冷えた水を一口。喉を過ぎる冷たさがぼやけた思考をきんと醒まして、けれどもすぐに生温く散逸した。凛は溜め息とともにグラスを机に置き、惰性で盆の上のスプーンを持つ。
 向かいの席に座った渚は羊羹に手を付けることも忘れ、知らず俯いていた凛をそろそろと覗き込んでくる。
「大丈夫? 凛ちゃんだけ召喚かかるし、午前の教練にも出てこなかったし、何かあったの?」
「あー……宿舎の荷物片付けてた」
「自分の部屋ってこと? なんで?」
 凛の手の中で、銀の匙がみしりと悲鳴を上げる。思い出しても腹立たしい。
 凛は眉間に深く皺を刻み、念の為に左右を見回す。誰もいないことを確認し、声を吐き出した。地を這うような、低い低い声だった。
「……提督の私室の、隣の、秘書艦室に引っ越し」
「そこって、皆が交代で使ってるところじゃない」
 摘んだ菓子楊枝を左右に振りつつ渚は首を傾げる。
 これが艦たちの認識だ。提督専用に用意された部屋のすぐ傍に秘書を任された艦のための部屋がある。これまでは長くても月ごとに秘書艦が交代していたので、既に共同のスペースとして完成されている。艦たちは皆、秘書を担当している間は宿舎の私室でなくこちらで寝起きし、使い勝手のいい私物を勝手に持ち込み、皆で使えるようにと常備しているのだ。凛は就役以来ずっと岩鳶鎮守府に籍を置いているが、少なくともあの部屋を自室と称している艦を見たことはない。
 それほど長い間、専属の秘書艦というものは存在していなかったのだ。ある意味旧態依然とした専属秘書艦なる役職に、よりによって凛を任命した七瀬遙がどれほど奇矯な人物か。よく分かるというものである。
「これからは俺だけが使うんだとよ」
「って、どういうこと? 凛ちゃんがずっと秘書ってこと?」
 尋ねながら勝手に答えを出す渚におざなりに頷き、凛はようようスプーンを持ち上げた。海軍ではお馴染みのカレーライスを注文していたらしい。ここにきて自分が何を頼んだのか気づくあたり、相当疲れている。
 ライスとルーと具を掬って口へ運ぶ。やる気なく咀嚼する。そして違和感に眉根を寄せた。味と食感が何かおかしい。
 凛の様子に気づいた渚が、菓子楊枝でカレーライスを示してみせた。
「それ、提督の新規着任にあわせた新メニューのサバカレーでしょ。新しい提督、サバが好きなんだって」
 まだ若いのに渋いよね! と付け足され、凛の表情まで渋くなる。あの七瀬遙なる男は説明してもいない事項に同意なく捺印させ、教練の時間を部屋の引っ越しに充てさせた挙句、ささやかな楽しみであるカレーライスの中の牛肉まで凛から奪うのか!
 香辛料のよく染みた魚肉を奥歯で咀嚼する。少々勢いが過ぎたのか、口元を引き攣らせて渚がそろそろと身を引いた。食事に憤りをぶつける凛が気付くはずもない。
 機嫌を窺うように行儀よく座り、渚は上目遣いに会話の軌道を修正する。
「えーと、サバカレーじゃなくて。凛ちゃん、まさか提督の専属秘書艦になったの?」
「……近いうちに告知あるだろうけど、言い触らすなよ」
 凛は釈然としないまま、遠回しに肯定した。喉の奥をサバが滑り落ちていった。
「いくら僕でもそんなことしないよ! でも専属の秘書って廃止になったのかと思ってたけど」
「時代に合わなくて廃れたっつーか、暗黙の了解でやめたっつーか……完全になくなってはないんだろ」
 不機嫌にカレールーを掻き混ぜる。誰が秘書艦などという役職を考えたのかは知らないが、専属は控えるべしなどという暗黙の了解に留めず完全に撤廃しておいてくれればよかったのだ。そうすれば凛が今、七瀬遙などという突き抜けておかしな人物に振り回されることもなかっただろうに。
 ようやく羊羹に楊枝を差し込みながら、ああ、と渚は声を上げた。
「男性提督が特定の女性艦を指名して、いろいろあって、問題になったとか、そーゆう」
「……そういうやつ」
 秘書艦の仕事は朝の始業から夜の終業まで、では終わらない。いつ起こるとも知れない非常事態に備え、提督のプライベートな時間も近くで控えている。その『近く』を己の良いように解釈し、個人的な欲望を権威に挿げ替えて不逞を働いた提督が過去に存在したのである。しかも一人二人、十人二十人ではない。いつの時代だろうとどれほどの立場にあろうと、愚か者は尽きないものだと凛は思う。
 結果、特定のたったひとりが二十四時間傍に控えるのはまずいだろうという流れになり、専属秘書艦は廃れ、交替制が主流となったのである。先ほど凛の望んだ撤廃という形を取らなかったのは、仮にも提督まで上り詰めた者たちの愚行を公に認めてしまうことになるからだろう。
「ただの悪習じゃねーか……」
「僕は嫌いじゃないけどね。普段は見れない提督の人となりとか見れるし」
 渚の台詞を右から左へ、凛の手はフォークを操って付け合せのサラダへ伸びる。
 凛とて渚の台詞には同意する。自分たちの指揮を執る提督が果たしてどのような人間なのか、艦上以外ではどのように仕事を進めているのか。知る機会があることは幸いだと思うし歓迎もする。
 実際、単艦で帰還した凛をどのように思っているのか、秘書として控えている間に心の丈を語ってくれた提督だって何人もいた。凛にとっては棘であり救いでもあったのだが、他の艦にもこのように声をかけているのだと思えば心休まる部分もあった。
 しかし、しかしだ。
「だからって、ずーっと顔合わせとく必要はねーだろ!」
 フォークがプチトマトを貫通し、皿とぶつかってがつりと鈍い音を立てる。皿が割れんばかりの異音はもちろん凛の怒声に掻き消えた。
 果たしてどちらを聞き咎めたのか。遠く注文カウンターの向こうで給養員が凛たちの方を睨めつけるも、やはり凛は気づかない。渚だけが冷や汗をかき、苛立ちっぱなしの凛へ「まあまあ」と宥める声をかける。
「じゃあやっぱり、あれだよ! 凛ちゃんの評判を知ってて、俺が駆逐艦松岡を一番うまく扱えるんだ! みたい、な……」
 徐々に尻すぼみになる声に、凛はふんと鼻を鳴らした。口にした渚自身、これでは提督が名誉欲のために駆逐艦松岡を専属秘書艦に指名したようだと気づいたのだろう。
 恐らく渚曰くの「凛ちゃんは他の艦に引け目なんか感じてないでもっと皆と信頼関係を築くべき!」という心情からの発想で他意はない。凛も分かってはいる。が、男性提督と女性艦の不祥事という前例もある。誰が何を考えているかなど分かったものではないのだ。こと七瀬遙という男に関しては、特に。
 しかしあの会話にならない会話を反芻するに、あの七瀬提督に名誉欲とか出世欲とか、およそ人の持ちうる地に足の着いた欲望などなさそうに思えて仕方がない。現に凛が尋ねた時だって、ハルはただ自由でありたいとだけ答えたのだ。
「……あ?」
「何凛ちゃん、何か思い至るフシがあったの!?
「あ、いや……ちげーけど」
 恐らく。
 違和感にブンブンと頭を振れば、渚はかくりと肩を落とした。わずかに残った羊羹を楊枝の先で弄びながら、また上目がちに凛を窺う。
「着任のお迎えの時からなんかおかしいけど……凛ちゃん、やっぱりあの新しい提督のこと知ってるんじゃない?」
「知らねえ。俺は起工から今までずっと岩鳶所属だし、あんな変な奴見たことも聞いたこともねーよ。一回会ったら絶対忘れない自信あるし」
「ふぅーん……?」
 いつまでも弄ばれる羊羹の欠片を哀れに思いながら、凛は残ったルーを掻き集める。サバの欠片を見つけては、敵艦見ゆとばかりに片っ端から口に運んで駆逐する。
「提督も凛ちゃんも男だし、一目惚れした提督が秘書艦を建前に凛ちゃんを手篭めにしようと……ってこともないよねえ」
「あるか。あってたまるか」
 思わず重ねて否定する。渚の突飛な発言は今に始まったことではないが、どうすればそんな発想ができるのか。呆れを通り越して凛はいつも感心している。
 かつての不祥事とか、暗黙の了解とか、提督と軍艦だとか、男同士であるとか。とにかくあらゆる意味で起きては困る事態だ。起きては困る事態だが、凛に同性を恋愛対象として見るような趣味はない。そもそも方や人間、方や艦だ。前提からして破綻した、大層な空想である。
「じゃあ、やっぱりあれだよ」
 遂に渚は最後の羊羹を口の中に放り込む。もごもごと不明瞭に告げられた言葉に、凛は本日幾度目かの渋面を浮かべることとなる。
「運命の出会い、ってやつなんじゃない?」
 羊羹を口に含んでいることを除けば、いかにも勿体ぶった、厳かな言い回しだった。つまり渚は本気で言っているのだ。


 僕も手伝おうか、という申し出を断り、凛は渚を午後の教練へと追い立てた。申し出そのものは嬉しいのだが、一応自室の引っ越しは凛の秘書艦としての仕事だ。午後の教練もあるだろうし、渚に手伝わせる訳にはいかない。
 私物のまとめと自室の簡単な掃除は午前の内に終わらせたので、午後からは荷物を運び入れる秘書艦室の片付けである。今まで共有スペースとして使用されてきた秘書艦室の惨状はなかなか年季が入っていた。渚もここを案じて手伝いを申し出てくれたのだろう。確かに骨の折れる作業だが、それでもあの提督の隣で書類仕事や茶汲みに興じるより遥かにましだ。できればずっと部屋の掃除をしていたいぐらいにはましだ。
 凛はジャージの袖を捲り上げ、部屋中を検分する。使えそうなものはそのまま置いておくとして、明らかに使わないものは別に選り分ける。小一時間ほど選別作業に興じれば、使わないものの山ができていた。単純に忘れられたものから物臭で捨て置かれたもの、そして持ち主のいなくなってしまったものまで数多あるのだろう。それらをひとつひとつ箱に収める。
 最後は段ボール箱四つ分にまで収まったものの、凛の荷物を入れることを考えると部屋の物入れには収納しきれない。考えた末に然るべき部署まで確認に行けば、敷地内の端にある倉庫まで持って行けと言い渡された。
「……なかなか重労働だぞ、これ」
 それなりの大きさの段ボール箱である。細かなものや嵩張るものが多いため酷く重いわけではないが、この箱を抱えて遠くの倉庫まで幾度も往復するとなると話は別だ。いくら凛が基準排水量2,500トンを超える駆逐艦といっても陸の上ではただの人である。重いものは重いし疲れるものは疲れる。
 思わず独りごちて考えることしばし、凛は二箱をまとめて運ぶことにした。これなら往復する回数も半分で済む。幸い持てない重さではなく、難点といえば前が見えづらいことか。箱の影から片目だけで前方を確認し、凛はゆっくりと歩き出した。
 昼下がりの庁舎内に人影は少ない。皆然るべき部署で仕事をしていて凛の行く手に現れないだけなのだろう。視界不良のまま大荷物を抱えて歩く凛としてはありがたいことだが、では明日の自分はどこで何をしているのだろうと考えて憂鬱になった。人気のない階段を時間をかけて下りる。
 一階まで下りて長い廊下を抜け、普段は荷物の搬入に使われている非常口から庁舎の裏へ。グラウンドの方から他の艦たちの声や、射撃練習だろう、時々微かな発砲音も響いてくる。ささやかな喧騒を聞き流し、凛は再び前方へと注意を向けた。道幅があるので他人にぶつかる可能性は少ないだろうが、屋外である分足元が心配だ。
 結果、地面に気を取られすぎていたのだろう。凛がちょうど庁舎の影を抜ける曲がり角に差し掛かったとき、スニーカーの先にすっと影が差した。あっと思って顔を上げた瞬間、どんと鈍い衝撃に打たれる。
「っう、わ……!」
「あ、ぶないっ」
 がたがたと目の前で箱が暴れ、凛の体が後ろに傾ぐ。咄嗟の悲鳴にどこかで聞いた声が被さるが確かめる余裕もなく、きたるべき衝撃と痛みに凛はぎゅっと目を閉じて身構える。
 がくんと肩が揺れて、予想していた後ろではなく前へと倒れ込んだ。顔面を段ボール箱へとしたたかに打ち付けたものの、他に痛むところもない。箱ごと誰かに受け止められたのだと気付き、凛は箱に打ち付けたばかりの顔を青くして上体を起こす。
「わ、悪い! 大丈夫か!?
「ああ、うん、何とか……重いけど」
 慌てて段ボール箱を抱え上げ、地面の上へと移す。凛と荷の詰まった箱を二つも受け止めて、重いけど、だけで済むものだろうか。
 もう一つの箱も取り上げたところで、箱の向こうの顔に凛は目を見開いた。
 緑を感じる柔らかい海松色の髪に、橄欖石の瞳。人の良さそうな垂れ気味の瞳は微かに細められていて、上に乗っかった眉はハの字を描いていた。
「ま、こ」
 呆然としたまま名前を呼びかけて、凛は即座にはっとした。今この時、この男を何と呼ぶべきなのかを知らない。そうでなくても段ボール箱ごと体当たりをかまして一方的に受け止められているのだ。
 狼狽の気配を悟ったのか、尻を擦っていた男が凛を見上げた。先ほどの凛と同じようにきょとんとしている。立派な体格に反したあどけない仕草が何故かよく似合う男だと、凛よくは知っていた。恐らく凛が渚よりも前、駆逐艦松岡として生を受けて最初に気を許した人間なのだから当然だった。
 丸く開かれていた男の瞳がじわりと細められる。
「――凛」
 春風のような笑顔で、男は凛の名前を呼んだ。
「久しぶり。元気だった?」
「あ、ああ……えっと」
 気さくな声掛けに凛は口籠る。まさか同じように返すわけにもいくまい。
 男は帝国海軍の白い軍服を着ていて、意匠は将官であることを示している。胸章など凛が知っている頃よりも増えたのではないだろうか。ぶつかった衝撃で外れてしまったのだろう、真っ白い軍帽も近くに落ちていた。
 凛の視線を追い、男はああと呟いた。
「ちゃんとしてないと入れてもらえないからこんな格好だけど、俺、今日は非番なんだ。ちょっとした私用で出てきてるだけ」
 拾い上げた軍帽を軽く叩いて埃を落としながら、凛へ向かって微笑んでみせる。
「だからそのまま呼んでくれていいよ、凛」
「……――真琴」
 囁くように、凛はそっと名前を呼ぶ。
 すると橘真琴は一層顔を綻ばせて頷くのだ。凛が初めて「提督」と呼んで指揮下に入り、初めて自分の名前を自ら教えた相手は、まるで変わっていなかった。
 白革の手袋に包まれた手が、すっと凛の前に差し出される。意図を察して手を取り、引き起こす。よっと軽い掛け声に、すらりと高い真琴の背が伸びる。もう成長期は過ぎているだろうに、昔よりも目線が高くなっている気がする。
「で、凛はこれを運んでたの?」
 空白の月日を埋めるように真琴を観察していたところ、不意に現実に引き戻された。真琴がさも当然のような顔をして箱の一つを抱え上げている。
「お、おい、いいって! 俺の仕事だし……」
「段ボール箱を運ぶのが?」
「秘、書艦の」
 一瞬、言葉に詰まる。午後の教練の時間に、艦がひとりで荷運びをしている様は奇異に見えるものなのだ。真琴の反応に不本意な現実を思い出してしまう。
 対して真琴はといえばきょとんとした顔をしていて、しかしすぐに甘ったるい笑みに切り替えた。凛の抱える不満を丸ごと受け止めるように鷹揚に頷く。合点がいった、という仕草だ。
「じゃあ、さっさと運んじゃおうか」
「だから気にすんなってば」
「りーん。俺がそう言われて言うこと聞くと思う?」
 凛が初めて艦隊に配備された当時、橘真琴提督は艦たちに優しい、まるで提督らしからぬ提督だと主に女性陣から囁かれていた。男らしい体つきに反した甘く柔和な顔立ちと、生まれ育ちで培われたのだろう行動のひとつひとつが彼をフェミニストたらしめていたのだ。
 しかし凛はもう一つ理由があったことを知っている。凛が秘書を務めていた際に、嘘か真か、これは凛にしか言わないんだけどね、と前置いて真琴は眉尻を下げた。凛がまだ新造艦で、初めて配備されたのと同じように、当時の真琴も初めて提督に就任した、言ってしまえば若造だった。真琴は、どうしていいか分からない時は、ひとまず波風の立たない選択をしているのだと苦笑していた。結果、立場らしからぬ優しい人間に見えてしまうのだと。
 その真琴が堂々と、自分が言うことを聞くと思うか、など。
 月日はかくも無常に人を変えてしまうのである。人目につかないところで困惑し右往左往していた元提督を、凛は諦めとともに見送った。目の前では擦れてしまった男が箱を抱えてさっさと歩き出している。
「これ、向こうの倉庫でいいの?」
「っそーだよ!」
 残りの箱を抱え、凛は小走りで広い背中を追いかける。随分と開けた視界の端に、薄く汚れた真琴の軍袴が映った。先ほどの転倒で汚れてしまったのだろう。夏服の白い生地ではかなり目立つ。
 申し訳なさに口を開こうとするのと同時、真琴が凛を振り返る。昔の真琴は公以外の場では穏やかに笑んでいることが多かったが、これはどことなく、腹の立つ笑みだった。
「そんなに怒らなくても、凛の提督にはお節介の押し売りされて断れなかったって言えばいいよ」
「真琴……」
 凛の提督、という言い回しに目眩がした。先程から真琴の態度といい物言いといい、含みが多すぎる。
 その含みが、今日から岩鳶鎮守府に着任した提督に関してであることぐらいすぐに察しがつく。真琴は凛の知らない何かを知っている。自分の預かり知らないことに関してしたり顔で頷かれるのは、あまり気持ちのいいものではない。
 飄々と歩く真琴の隣に並び、その横顔を見上げる。胡乱な視線になってしまうのは仕方がない。
「お前、七瀬遙……提督に、俺の名前教えたか」
「艦名じゃなくて、『凛』って名前のこと? 勝手に教えたりなんかしないよ」
 七瀬遙が凛を『凛』と呼んだのは、真琴から聞き及んでのものではないらしい。
 凛は密かに胸を撫で下ろす。真琴は知らないだろうが、凛が『凛』の名前を請われるでなく自ら教えたのは今のところ真琴だけだ。ささやかで大切な、凛だけの思い出だった。
 ならばどうやって七瀬遙は凛の名前を知ったのだろうか。
 七瀬遙だけではない、凛もだ。どうして自分は七瀬遙の名を――
「でも、凛だって知ってただろ?」
 深まる疑問は、更に謎めいた言い回しに上書きされた。
「ハルって名前。覚えてたんじゃなくて、知ってたんだよね。たぶん」
「……真琴?」
 凛が七瀬遙の名を聞くよりも先に知っていたことはまだ話していないはずだ。
 真琴にも、渚にも話さなかった。
 唯一知っているのは凛と、特に反応もしなかった七瀬遙だけのはずだ。ここに来るまでに真琴は彼に会ったのだろうか。けれど伝え聞いたというには口調が確信的過ぎて、何か、何かおかしい。
 覚えている、と、知っている、は違うのだろうか。
「俺は、」
 口の中が乾いている。
 張り付く舌を無理矢理動かして、絞り出した言葉は我ながらおかしなものだった。
「何を、知らないんだ?」
 凛も、真琴も足を止める。
 真琴の瞳がすうっと細くなって、凛の顔を静かに見つめる。透き通った海のみどりだった。水の中なのに、どこか果てまで落ちてしまいそうな、透明な奈落に見透かされている。
 どこまで落ちるのか。強烈な浮遊感は真琴の浮かべた微笑に受け止められる。
「それは俺じゃなくて、凛とハルで見つけなきゃ」
 昔のままの真琴だった。
 ちょっと眉を下げて、困ったように笑っている。
 もしかすると、もっとずっと幼い真琴が凛の前にいる。真琴は照れたように笑いながら、段ボール箱を抱え直して再び歩き始めた。凛もゆっくりと真琴を追う。
 不思議だった。擦り切れて薄くなった真琴と、凛の知っている真琴と、もっと爛漫とした真琴がいる。何だこれはと考えて、凛はようやく、真琴が七瀬遙の名を親しげに呼んでいることに気付く。
「俺とハルは幼馴染で、岩鳶が地元なんだ」
 図ったように真琴が零す。
「それでハルが岩鎮に移ったって聞いたから、ちょっと話そうと思ってさ」
「ハルと、仲良いのか」
「悪くはないと思うけど。でも、俺の知らないハルもいるかな」
 引っかかる抽象的な物言い。凛の知らない真琴は駆け足でどこかへ帰ってしまって、肩越しに凛を振り向いた男はまた、腹の立つ笑みを口の端に浮かべている。
「やきもち?」
「ハア!? 何でだよ!!
「そんなに怒ることかなあ……ああほら、荷物ここでいいんだよね、リンリン」
「うるせえリンリン言うな!!
 地団駄を踏んで憤慨するが、真琴はハイハイと適当に流して真に受けない。更に激昂を募らせる凛を捨て置いて、倉庫の前に段ボール箱をそっと下ろす。ついでに目ざとく凛のジャージのポケットを見つけ、ひょいと倉庫の鍵を抜き取ってしまった。
「荷物運びはこれで終わり?」
「……っまだ半分」
「そっちは手伝ってあげられないから、素直に台車借りておいでね」
 さっさと倉庫を解錠してシャッターを押し上げている。真琴の今の所属がどこかは不明だが、少なくとも岩鳶鎮守府ではない。そんな男に倉庫を開けさせてよかったのか。凛は今更狼狽し、結局荷物を持たせた時点で意味がないのだと諦めた。
 狼狽える凛を置いて真琴はさっさと箱を運び入れ、ついでに凛の腕のもう一箱も取り上げて片付けてしまった。おまけに倉庫の中に置かれていた台車まで引きずり出している。嫌になるほどスマートだった。
「これ、借りちゃっていいんじゃない? 階段は無理だけど、そこは素直にひとつずつ下ろしなよ」
 凛は全部自分で片付けようとするんだからと付け足されてぐっと言葉に詰まる。確かにあの部屋を片付けるのが仕事だと思うあまり、台車だの何だの、道具を使うに至らなかったのは落ち度だったと認める。台車を使ってさっさと片付けていれば、真琴と正面衝突をすることもなかっただろう。
 しかし、今、真琴にこんなふうに諭されるのは、何故だろう。苛立つものがある。
「真琴」
「うん?」
 埃を被った台車を検分する真琴を、凛はじとりと睨みつける。
「お前、岩鳶出てからどこに行ってた」
「うーん、学校とか軍令部とか、外国とか、あちこち転々としたかなあ」
 道理で態度から言い回しから身のこなしまで擦り切れてしまっているわけである。きっと末端の艦には分からない、上層部の思惑とか、現場の空気とか、上官としての立場とか、そんなものに囲まれている内に真琴は大人になってしまったのだ。
 目頭が熱くなるような錯覚に、凛は片手で眉間を押さえる。決して頭痛を覚えたわけではない、と思うのだが自信はなかった。
「今はあちこちゴタゴタしてて、俺もちょっと宙ぶらりんなんだけどね」
 苦笑の混じる声が初夏の風に流れていく。凛は眉間を押さえたまま頭痛に目を閉じていて気付かなかった。
 真琴は穏やかな顔で遠くの庁舎を見上げている。以前自分も毎日出入りしていた、執務室のある方角だった。ガラス窓の向こうでは、針で刺した穴ほどに小さな影が揺れている。
「人事も、軍備も、凛も。苦労するね」
 本日より、七瀬遙提督の執務室となった部屋。軍帽のつばをちょっと持ち上げて、真琴は礼の真似事をしてみせた。