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誰そ彼の赤と泳ぐ

 十で神童、十五で天才、二十歳過ぎれば、とはよく言ったものだ。
 七瀬遙は幼い頃から賢い少年だった。
 ゆえにこの世界は全く以て自由でないと、齢にして十と少しを数えたあたりで結論付けてしまった。
 七瀬の家は代々帝国海軍の要職に身を置く、いわゆるエリートの家系だった。七瀬家唯一の子として、しかも男児として生まれた遙が同じ道を歩むことを望まれたのは当然といえる。生まれた瞬間から周囲に篤く期待され、海軍将校以外の道など遙の他に誰も考えない。誰も彼も遙の意思を問うことすらしない。半ば定められているようなものだった。
 冗談ではない。遙はいつからか己の未来について、憤懣やるかたない思いを抱くようになった。
 しかしである。ならば海軍軍人以外に何かなりたいものがあるか、と問われたところで、遙は何の答えも持ち合わせていなかった。遙に与えられてきたものはおよそ海軍の軍人になるために必要な知識や心構えだけだったのだから致し方ない。けれど遙にはその事実すら苦痛だった。
 おまけに、
「ハルちゃんは、ハルちゃんのお父さんやお祖父さんみたいな、海軍の将校さんになるんだよね」
 遙が唯一心を許す幼馴染の真琴までそんなことを言うのだ。
 きらきらと目を輝かせて、眩しい海を見つめるみたいに曇りのない表情で言うのだからまた質が悪い。
 まだ疑うことを知らない真琴が、真琴の両親や遙の母の話を鵜呑みにしていることは遙にも分かっていた。本来子どもというものはきっと、今の真琴のように、大人がさも当然のように語る話を信じてしまう生き物であるべきなのだ。正しいか否かは別にして、世の中は子どもに、遙に、そういう生き様を強いている。
 遙はきつく眉根を寄せて、真琴と並んで腰掛けていた石段から立ち上がる。そのまま数段を下りてくるりと段上を仰げば、真琴はきょとんとした顔をしていた。遙の不機嫌は何となく悟っているけれど、どうして不機嫌なのかまでは分かっていない。そんな表情だ。
 真琴は悪くないと分かっているのに、何も理解していない様に苛立ちを抑えられない。大切な幼馴染に理不尽に苛立ってしまう自分にもまた腹が立つ。上手く憤りを吐き出すこともできない自分はまだ子どもなのだと、誰かに嘲笑われているようで。
 ぐるぐると渦巻く不快感を追い出すように、遙は息と言葉を吐いた。
「……泳いでくる」
「ええ? ハルちゃんこれから勉強の時間なんじゃ……ハルちゃん!」
 慌てて追い縋る声を置き去りにして、遙は一気に石段を駆け下りた。
 止まることなく裏路地へ入り込み、いくつかの角を曲がったところでちらりと後ろを窺う。真琴が追いかけてこないことを確かめ、ようやく走る速度を落とした。遙が毎日毎日数学やら外国語学やら、果ては航海術だの砲術だのと勉強を強いられていることも、それらの勉強を嫌っていることも真琴は知っている。大人たちに問い詰められるまでは遙の逃亡を黙っていてくれるだろう。
 遙は家々の隙間を抜け、海へ続く大きな道へ出た。
 真昼の太陽の下で海は穏やかに波打っている。吹きつける潮風に遙はそっと目を細めた。
 遙は水が、海が、泳ぐことが好きだ。
 水の中には上も下も、右も左も、行き止まりもない。どこまでも自由で、遙は水の中にこそ自分は生まれるべきだったとつくづく思う。水の中では呼吸なんてできないはずなのに、陸にいる時よりも楽に息ができるような気がするのだ。
 けれど水を求めることにすら、遙は自由でいられない。
 勉強尽くしで泳ぎに行くこともままならないから、というだけではない。この世界そのものが全く以て自由でないのだ。
 遙は浜辺へ降りる階段を下りながら、ゆるく弧を描く水平線を見つめる。今日も何の影もない。ほっと息をついて、砂の上で靴と靴下を脱いだ。
 本当は、海に入ってはいけない。近づいてはいけない。
 いつからかこの海に、深海棲艦と呼ばれる侵略者が現れるようになった。
 彼らは海から現れて、船を、街を、人を襲う。人間と同じように隊列を組み、知性的に行動する。果たしてどんな意図があって彼らが人を襲うのか、そもそもどのように生まれたのか、どこから来るのかなど、ほとんど何も分かっていない。分かっているのは彼らを退けない限り海に、街に、人に安寧はないということだけだった。
 特にこの岩鳶の町には、艦艇を有する海軍の要所――鎮守府と、工廠がある。知性を備える彼らが己の侵攻を阻む存在に気づいていないはずがない。岩鳶の町を望む水平線に、鎮守府への偵察艦と思しき影が現れ町民に避難命令が出たことは一度や二度ではなかった。
 だから海には入ってはいけない。子どもが遊ぶ程度の波打ち際まで迫られることはないとしても、海が危険な場所だということは周知の事実だった。
 それでも遙は海を、泳ぐことを諦められない。
 街中のプールは有事のための消火用水の貯水槽となっており、泳ぐために使われることはない。ならばせめて水を感じられればと、大人しく風呂の浴槽に沈んでみたりもしたのだが、すぐに女中や母に見つかって止められてしまった。おまけにいずれ立派な軍人になる人間がこんな奇行に及んではいけないと、要らない説教までついてくる始末だった。
 結果、遙の思考は一巡し、目の前に海があるのだからここで泳げばいいのだというところに落ち着いた。
 何か不審があればすぐに泳ぐのをやめて避難すればいいし、そもそも子どもである遙が少し泳ぐ程度の距離まで深海棲艦が近づいてくることなどありえない。何よりこの町には鎮守府があり、軍艦とそれを指揮する人間がいる。毎日哨戒に出ている艦だっている。ならば恐れることなどないではないか。
 考えた遙は今日もつかの間の安息を求め、波打ち際に近い岩陰で着ているものをすべて脱ぐ。水着はちゃんと着込んできていた。服をきちんと畳んで、潮風に飛ばされないよう大きな石で重しをし、ポケットに忍ばせていた水泳帽とゴーグルを着ければ完成だ。
 遙はひとつ息を吸い込んで、そっと水の中へと足を踏み入れた。足裏で波に浚われる砂を感じながら、腹まで水に浸かる深さまで進んで一度立ち止まる。もう一度水平線を眺めて、それから陸にほど近い小島へと視線を移す。
 岩だらけの小さな島だ。陸からおよそ一浬ほどのところに位置していて、遙はいつも浜と小島とを往復して泳いでいる。今日ももちろんそのつもりだった。
 遙はふっと、倒れこむように、静かに水へと潜り込んだ。
 波を切るように水面に手を滑り込ませる。生まれた隙間に体を滑り込ませて水を蹴る。そうすれば寄せて押し返すはずの波は遙の体をそうっと受け止めて、沖の方へと押し出してくれる。見えない誰かが手を引いてくれているように、遙の体はぐんぐんと前へ進むのだ。
 勢いのまにまに、程なくして遙は小島の浅瀬へと辿り着く。
 ゴーグルを剥ぎ取りながら陸へと上がる。もっと遊ぼうと遙を呼ぶ波を足の甲で寄せて、焼けた砂の上に身を投げた。海水で少し冷えた体に熱が心地良い。息を整えながら空を仰げば、真っ青な空に綿菓子みたいな雲が薄く流れている。
 空も波もゆったりとしていて、泳ぐには最高の日和だった。
 遠く深い海のどこかに、恐ろしい艦が潜んでいるとはまるで思えない、穏やかな世界に見えた。
 遙はしばらく大の字で空を眺め、やがてゆっくりと身を起こした。体に張り付いた砂を適当に払い落としながら再び海の中へと踏み込んでいく。今度は岩鳶の浜へ戻るための復路だ。遙はきちんと水平線を振り返り、何の異常もないことを確かめてから泳ぎ始めた。
 波と波の間を縫うように泳ぎながら、遙はぼんやりと考える。
 今日は何往復しようか。こんなに波が穏やかで天気のいい日もそうないだろうし、泳いで帰ればまたしばらく机に拘束される日々が続くだろうからできるだけたくさん泳いでおきたい。
 考えながら波を蹴って――遙は不意に、言葉にできない感覚に囚われた。
 遙の少し後方に、何かがいる。
 ぐんぐんと追い上げるように、何かが迫っている。
 海に入ってはいけない。近づいてはいけない。
 海からの侵略者は、いつ現れるか分からない。
 ぞわりと。遙の背中が一瞬で背中が粟立った。
 背後に迫る影が何者なのか、考える間もなく、ゆったりと気ままに泳いでいた遙の体が急激に速度を上げる。水とひとつになるためだけに動いていた手足は、水の助けを借りようとする動きに変わる。耳元で水がごうと唸る。ぐんと水に押し出される。
 遙の後方に迫る何かも倣って速度を上げたようだった。どんなに速く水を掻いても気配が一向に振り切れない。それどころか時折足先に触れそうな距離まで近づかれて、遙はがむしゃらに手足を動かして泳いだ。後ろを振り返る余裕などない。仮に余裕があったとして、背後を確かめるほどの度胸があったかどうかは甚だ疑問であるが。
 後ろから迫る何かについて、遙は初め深海棲艦ではないかと思った。海に入るなというルールを破る遙とて、彼らが脅威であることは理解しているのだ。けれど仮にも艦の名を関する彼らにしては小さすぎる気がするし、彼らにここまで肉薄されることがあれば遙などたちまち水圧で蹴散らされているだろう。
 ならば魚雷か何かだろうかと恐れもしたが、それにしては遙を追う泳ぎが生々しすぎた。背後の気配は生きたものの、意思を持った泳ぎに違いなかった。
 結局遙が後方の何かの正体を知ったのは、対岸の浜で膝を擦ってからだった。震える足で陸に上がり、ぜいぜいと喘鳴混じりの呼吸を繰り返す遙の背後で、同じく乱れた呼吸を隠しもせず何者かが声を上げた。
「っはあ……お前っ……速い、なあっ……」
 驚いて遙は振り向く。
 青い海と青い空を背に、熾火のような赤がちらちらと光っている。
 年の頃は遙と同じくらいだろうか。赤い髪をしっとりと濡らした少年が俯きがちに、肩で息をしていた。
 先ほどまで遙の後ろを泳いでいたのは彼なのだろうか。遙以外に大人たちの言うことを破って海に泳ぎに出るような子どもが、この町にいたというのか。しかもあんなに速く泳ぐなんて。
 遙の狼狽に答えるように、少年が顔を上げる。少女めいた顔立ちに白い八重歯を覗かせて、少年は綻ぶように笑ってみせた。
「まさか俺が追いつけないやつがいるなんて、思わなかった」
 陽光に雫が散って、笑顔をきらきらと彩っている。
 言葉のわりに悔しさのない、むしろ嬉しそうな、屈託のない声だった。




 仮にも栄えある帝国海軍の庁舎だというのに、案外と安普請なのか、それとも遙が過敏なのか。はたまた扉の向こうにいるのが乳飲み子からの幼馴染だからなのか。
「開いてる。入れ」
 執務室の前で佇む気配を察し、遙は窓の外を見下ろす姿勢のまま、背後の扉に向かって声をかけた。
 どっしりと大仰に構えた扉が図体に似合わない密やかな動きで開かれる気配。まるで扉を開いた人物そのもののようだ。遠慮がちな軍靴の音も相俟って尚更そう思う。
「……俺、まだノックしてなかったよね?」
「何となく分かった」
 呆れのような、もしくは苦笑のような声に、遙はようやく来訪者を振り返る。
 薄く砂に汚れた軍服に身を包んだ真琴が立っていた。小脇に軍帽を抱え、目を眇めて室内を見渡している。少し目元を和ませて、恐らくは懐かしげに、くすんだ壁紙や年季の入った床板を眺めていた。
 ちょっとした郷愁に浸る真琴を前に、遙はといえば睨むようにして真琴を、正しくは真琴の汚れた白い軍服を見つめている。どのような経緯であの白い上等な布が砂まみれになったのかを遙は知っている。
「この部屋、壁とか薄いのかなあ。俺の時もあったよ」
 遙のささやかな不機嫌を察したのか、真琴はちょっと首を傾げてみせた。
 ただし続く台詞は遙を宥めるものではない。
「凛が来た時だけは、絶対分かったんだよね」
 ちりちりと弱火で揺れる不機嫌が、中火になるぐらいの油を注ぐものだった。
 薄汚れたリンネルではなく、今度ははっきりと真琴を睨む。遙の飛ばす棘など物ともせず、真琴は先ほどまで遙が眺めていた窓の向こうへ視線を転じた。
「凛といえばさっき、外で偶然会ったけど」
「……知ってる」
「ああ、やっぱり見えてた?」
 これがまた実に白々しい。遙が真琴と凛の邂逅をこの窓際で見下ろしていることに気づいておきながらの発言である。遙はそっと嘆息した。
「ここから何がどれだけ見えるかなんて、お前のほうが知ってるだろ」
 かつてこの岩鳶鎮守府で数多の艦を率い、この執務室で策を練っていたのは真琴なのだから。
 遙が現状に憤る理由を理解できず、大人たちの話を頭から信じていたあの真琴の成長を喜べばいいのか悲しめばいいのか。ひとりの幼馴染としては悩むところである。戦友という立場で見れば悪いことではないのだろうが、真琴の発言に遙まで辟易させられるのはいただけない。
 ある一件からあれほど疎んでいた海軍を、しかも可能な限りの高みを志した遙に、幼馴染である真琴も追従した。目と目を合わせるだけで遙の思考を理解できる真琴は遙の野心を現実にするに足る存在だった。とはいえ真琴も初めは遙の危うさを案じ、フォローするようなかたちで立ち回っていたはずなのだが、ひとつの出会いが真琴の考えを大きく変えた。最近は真琴のほうが遙の思考の三歩先をゆくような形で、むしろ遙は自分が真琴の野心に付き合わされているのではないかとまで思ってしまう。今度は真琴が遙を、ではなく、遙が真琴を案じるような関係になってしまったあたりいかんともし難い。
 その関係の最たるものを持って、真琴はわざわざこの部屋を訪れたはずである。遙は緩慢に椅子に身を預け、執務机に両肘をついた。
「――で?」
 一音で促して見上げれば、真琴はほんの少し肩を竦めるような仕草を見せた。
「辞令の方はともかく、一週間もかからない内に俺もこっちに移ってこれると思う。あとは再編にあたって艦が何人か」
「内訳は」
「確定してるのは他所で遠征に回されてた艦かな。駆逐艦が何人かと、軽巡、重巡……戦艦もひとりは確実に」
 指折り数える真琴の一言に、遙の指先がぴくりと跳ねた。
 遙の無意識の仕草を目敏く見つけた真琴がそっと微笑む。遙の言わんとすることまで察し、きっちり先手を打ってくる。
「速いよ。巡洋か高速かでゴタゴタしてた艦、ハルも知ってるだろ?」
「……ああ」
 揉めるというほどのことでもないが、艦種の指定で上層部が少々もたついていた件と発端になった艦は遙も知っている。ただし現場主義の遙が記憶してるのは艦種云々の騒ぎゆえではない。
 ここでもまた真琴が遙の思考を引き継いだ。
「この戦艦と、あと一人、駆逐の子だったかな。凛と同じ隊で出撃して損害軽微で帰ってきたこともあるみたいだし、ちょうど良いかなって」
 恐らく他意はないのだろうが、心中を悟られているようで複雑である。
 遙は苦虫を噛み潰したような気分だったのだが、今度は真琴も気づかなかったらしい。それから、と続けて、執務室の窓を透かし見る。真琴の若草色の瞳には、この部屋からは見えない工廠が映り込んでいる。
「ここで建造中の戦艦も一人、進水次第編入だよね」
「……真琴、俺は空母が欲しいって言ったはずだ」
 なかなか話題に上らない艦種に遙は遂に口を挟む。
 真琴は窓の外から遙へと視線を戻す。垂れ気味の瞳はきょとんと丸く開かれていた。しばし遙と無言で見つめ合って、そっと吐き出された溜め息とともに下方へ落とされる。
「あのねぇハル……これでも無茶したほうなんだよ? この前の戦闘で帝国海軍の空母がほとんど使えなくなってるの、ハルだって知ってるだろ?」
「知ってる。で、既存艦の空母への大規模改装計画が持ち上がってるだろ。一人ぐらい回してもらえなかったのか」
「ぐらいって……高速戦艦一人回してもらうのにも結構睨まれたんだよ、かなり実績のある艦だし。赤レンガに目ぇ付けられるの、ハルだって困るだろ」
 赤レンガとは海軍の中枢機関である海軍省の俗称である。作戦立案や部隊運用を決定する軍令部と異なり、海軍行政や軍備を担っている。当然既存艦船の配属にも関与している。
 先だって南洋上で大規模な海戦があり、海軍の主力と目される航空母艦の大半が戦闘不能、端的にいってしまえば敗退まで追い込まれたことは遙も聞き及んでいる。現在の海戦の主力とされる空母が軒並み大規模修理に入ったことで、各所の軍備や建造計画、併せて人事にも大きな見直しが行われていることもだ。
 遙はようやくこの、岩鳶鎮守府に着任することが――凛のもとに戻ることができた。先の戦闘での敗退は帝国海軍にとって大きな痛手だが、この時機に軍備や人事の乱れが起きたことは遙にとって天佑だと思っている。だからこそ真琴も比較的容易に岩鳶に戻ってくることができるのだし、真琴自身も軍備に関して上層部に嘆願しているのだろう。
「俺は別に困らない」
「困るよ、普通は困るよ。少なくとも俺は困るの!」
 思うまま返答すれば、真琴は頭を抱えた。
 軍令部だとか海軍省だとか、そういう狸と狐の化かし合いみたいな場面はすべて真琴に任せようと遙は既に決めている。参謀とは恐らくそういう立場だ。ただし真琴に伝えれば力いっぱい否定されるのは目に見えているので黙っておく。
 赤レンガでの席を思い返してでもいるのか、真琴はああ、とか、うう、とか一頻り唸った後、のろのろと顔を上げた。
「まあ、紙面で辞令が回ってくるまでは油断できないけど、概ねこれで通ると思うよ。……それで」
 真琴がそっと声量を落とす。いかにもここからが本題だと言わんばかりの声色で、真摯なものを滲ませて。
 けれど真琴の橄欖石みたいな瞳には、彼が幼い弟妹に向けるに似た優しさが垣間見える。遙がひとつ瞬きをして見返せば、ほんの少し悲しそうな色が見え隠れする。
 何の話か、など考えるまでもない。
「初めて会う凛は、どうだった?」
 遙が異例の専属秘書艦として指名した駆逐艦松岡。個人の名は凛。
 幼い頃、岩鳶の浜辺で振り返った熾火の赤。海と空の青によく映える髪と瞳に、最速を自負する意思の強い瞳。過去と現在を反芻して重ね合わせる。
 遙は今日、初めて『凛』に出逢った。
 凛のことは知っているけれど、まだ何も知らない。会話だってまともにしていない。
「凛は……」
 そんな遙に分かることがあるとすれば、かつてあんなに輝いていた凛の笑顔がしんと鳴りを潜めてしまっていることと、代わりに深く影が差していることぐらいだ。
「今までの戦歴は、全部自分のせいだって言った」
 気づかず机上に落ちた遙の視線の先で、駆逐艦松岡の性能諸元や艦歴をまとめた書類が白々しく鎮座している。
 帝国海軍一と称される速力に、なお失われない航続力。駆逐艦としては申し分のない火力。
 いっそ最強の駆逐艦と呼んでも誰も異を唱えることのないだろう性能に反し、参加した作戦には失敗や敗退の文字が踊る。更に経緯を辿れば凛自身は大した被害を受けておらず、いずれも守るべき旗艦や僚艦の被害が深刻という結果が並んでいる。これを凛は自分が至らなかったためだと言う。
「変わってないね」
 いつの間に移動したのか、真琴も遙の手元の書面を覗き込んでいる。
「俺の時も言ってたよ。俺も凛も初めてのことばっかりで、いろいろ考えたりしたけど……結局俺は、凛を助けてあげられなかった」
 今よりももう少し周囲を信じていた頃の真琴の話だ。
 着任したばかりで経験の浅い橘提督が、進水したばかりの駆逐艦松岡の運用について試行錯誤していたことは紙面の上からでも分かる。最後は真琴も隊の中で凛を活かすことを諦め、単艦での護衛任務や輸送任務に従事させていたようだが、僚艦が破損していく中自分だけがほぼ無傷で帰投する苦痛を重ねるよりずっと楽だっただろう。
「それでも凛にとって一番の提督は、今のところお前だろうけどな」
 真琴が岩鳶を離れて以降の提督は、頑ななまでに凛の単艦運用を良しとしていない。凛は頭抜けた性能を活かすことなく、それどころか殺されるような形で出撃を繰り返している。結果、周囲からは扱いにくいだの疫病神だのと影で謗られ、凛一人が己を責める現状ができあがってしまった。
 責められるべきは凛ではない。凛の活かし方を知らない、歴々の提督たちの方だ。
 けれどそれも全て、今日までだ。
 これからは無意味になる紙きれを、遙は無感動に折り畳む。
「――今日からは」
 相変わらず遙と思考を共有しているかのようなタイミングだった。きっちりと折り目をつける遙の剥き出しの指に、ふっと白い革手袋に包まれた手が重なる。
 真琴がすうっと背高の体を曲げて、遙の耳元に唇を寄せる。子どもが内緒話をするような密やかさで口を開く。声の裏側には子どもの無垢とは程遠い、少しばかりぎらぎらとした感情が燻っている。
「ハルが凛にとって一番の、最高の、唯一の提督、でしょ?」
「当然だ」
 口角を上げて見上げれば、橄欖石の真ん中に遙の姿が映っていた。
 海を閉じ込めたみたいで綺麗だと、遠い日に赤毛の少年が褒めてくれた目で真琴を見上げている。あの頃に比べると丸みを削いで険の混ざった瞳。せめて今だけはと細く眇め、遙は今日初めて会ったばかりの凛を想う。
 真琴の返す微笑は児戯を見守る親の顔か、はたまた向かうところ敵なしと勇むつわものの顔か。いずれにせよ遙の言葉に頷く優しさだけは疑いようのないものだった。
「青い自由な海で一緒に泳ぐ。俺と凛の約束だ」




「お前、よくここで泳いでるだろ? 前から気になっててさ」
 ぶるりと首を振って雫を払い落とした少年は、好奇の視線を隠しもせず遙に歩み寄ってくる。もう呼吸を取り戻したのか、少し高い声は跳ねるように弾んでいる。
 対する遙は近づかれた分、数歩下がって距離を取った。
 岩鳶は広い町ではない。鎮守府があるため人の出入りは多いが、それは大人たちの話だ。ある意味前線ともいえる町だから子どもの数なんてたかが知れていて、興味があるかとか話したことがあるかとかはさておき、遙は少なくとも同年代の子どもの顔は全員把握している。
 目の前の少年は、遙の記憶にある顔のどれとも一致しない。こんなに鮮やかな、炎のような、夕陽のような、血潮のような髪色、一度見たら忘れるはずがない。
 親の都合で仕方なくこの町に来たのかもしれないが、それにしたってこんなに軽々しく海で泳ぐような子どもが普通であるはずがない。遙は己を半ばほど振り返って確信する。こいつは、変だ。
 遙に変だと判じられた少年はといえば、途中で距離を詰めることを諦めたらしい。足を止めて今しがたまで泳いでいた海を振り返っている。
「俺、久しぶりに本気で泳いだんだけどなあ。ホント速いな、お前!」
 台詞の最後に添えて、少年は懐こい笑顔で遙を仰ぐ。どうもこの見ず知らずの少年に泳ぎを褒め称えられているらしいが、素直に賛辞を受け取るほど遙はおめでたい性格をしていない。
 聞き間違いでなければ少年は「前から気になっていた」と言ったはずだ。よもやまさか、しかもこんな少年がと思うが、遙の身元を知った上での脅迫とか、誘拐とか、そんな物騒な可能性も否定できない。
 遙の不審に応えるように、少年は小首を傾げながらお決まりの質問を投げてきた。
「なあ、お前名前は?」
「知らない人に名前を訊かれても答えるなって言われてる」
 かねてから用意していた文言で即答する。
 取り付く島もない遙の態度に少年はほんの少し唇を尖らせた。そのまま答えを探すようにうろうろと宙へ視線を投げて、ああ、と声を上げる。合点がいった、といった声色だった。
「俺は松岡っていうんだ。な、これで知らない人じゃないだろ?」
 遙の顔を覗き込むように、松岡と名乗る少年は首を傾ける。まだ湿った重たげな髪が、少年の細い首筋でつるりと滑る。悪意も下心もない、どころか、逆に悪い大人に攫われてしまいそうな容姿と仕草だと遙は思った。
 少年の返答は詭弁である。名前だけを知ったところでどんな人間かまでは理解していないのだからやっぱり知らない人のままだし、その名前だって本物かどうか確かめようがない。そもそも彼は姓しか名乗っていない。
 七瀬遙は賢い少年だった。見知らぬ不審人物への警戒心は年の割にしっかりと培われていたし、言葉尻を掴まえて論破することだってできた。
「俺は……七瀬」
 なのに、これぐらいなら答えてやってもいいかと思ってしまったのは、少年が遙の警戒心すら超えてしまう屈託のなさを持っていたからかもしれない。
 せめてもの抵抗にと下の名前は告げなかったのだが、自らも名乗らなかった少年は気にしなかったらしい。七瀬、と嬉しそうに反復している。何が嬉しいのか、遙にはさっぱり分からない。
「七瀬、七瀬……もしかして七瀬提督の家族か?」
「い、や、俺は」
 七瀬提督、と呼ばれる人間は、この町には遙の父しかいない。まさか即言い当てられるとは思わず、遙は口籠る。
 咄嗟に取り繕おうとするが、遙が続けるよりも先に少年がずいと身を寄せてきた。あれだけ慎重にとっていた距離も、狼狽の前にあっさりと埋まる。三歩で遙の目の前に迫った少年は、何故か遙の顔の横を覗き込んだ。
「そうだろ、耳の形が似てる気がする」
 近い。泳いでいたせいかほんのりと湿った吐息が遙の耳をくすぐる。
 急に顔が熱くなった。血が上っていることを自覚した遙は少年を退けることも少年から退くこともできないまま、その場で硬直していた。家族や真琴以外の人間にこんなに近寄られたのは、思えば初めてだった。
 異常を察したのか、まじまじと耳の形を検分していた少年が遙の正面へと回り込む。髪と同じ鮮やかな赤い瞳が、水面の揺らぎを湛えて煌めいている。
「七瀬?」
 案じるように顰められた赤い瞳が、遙の目線を捕まえた瞬間、軽く瞠られた。
 まるく開かれた少年の瞳には、馬鹿みたいに狼狽える遙が映っている。そんな遙の様子など厭わず、赤い瞳が眩しそうに細められる。
「七瀬の目、きれいだな。海みたいだ」
「――っお、まえ! 近い!」
 今はもう、耳まで熱い。遙は辛うじて声を絞り出す。
「あ、悪い」
 あっさりと少年が身を引く。遙は内心で安堵して、そんな自分にまた密かに動揺する。遙の中では敗北感みたいなものから羞恥から、言葉にしがたいよく分からない感覚から、とにかく今までにないぐらいたくさんの感情がぐるぐると渦を巻いていた。
 落ち着かない思考と火照る顔を押し込めるように遙は口を開く。慌てて転げ落ちた声は遙にしては珍しい早口になって疑問を紡いだ。
「み、耳がどうとか、お前、父さんに会ったことあるのか」
 ついでに遙が一生懸命取り繕っていた身元をあっさりと露呈してしまったのだが、ほとんど生まれて初めて感情を持て余している七瀬少年が気づくわけもない。
「会ったことあるも何も、俺は――あ」
 わざとやっているのかと思うほど唐突なタイミングで、少年は息を呑んだ。
 慌てた仕草で自分の体をぺたぺたと触り、水着一枚しか着用していないことを存分に確かめてから真昼の太陽を仰ぐ。白い太陽は燦々と輝くばかりでもちろん何も答えない。少年は無言を貫く太陽から遙へ視線を戻し、こちらも切羽詰まった口調で問うてきた。
「七瀬っ、時計とかないか?」
「な、ない……」
「あー、くそっ! 艤装置いてきちまったし!」
 遙の理解の追いつかない単語を持ち出して、少年はぱっと踵を返した。呆然とする遙を置き去りに海に向かって走り、波打ち際で思い出したようにこちらを振り返る。
「そうだ七瀬、本当は海には入っちゃダメだぞ! とりあえず提督には黙っておくけど、危ないからな!」
「お、お前だって入ってただろ!」
 同じく禁を破っておきながら、諭すような物言いが引っかかった。遙はらしくもなく声を張り上げて言い返す。
 少年は八重歯を見せて笑った。
「俺は海にいなきゃ話にならないの!」
「は……?」
「ま、俺がちゃんと哨戒してるから危ないこともないけどさ。なあ七瀬、また勝負しような!」
 お前は何の話をしてるんだ、そもそも遙が一方的に追われていると思っていたあれは勝負のつもりだったのか。
 言いたいことはいろいろとあったが、遙がそれらを口にするよりも先に少年は海の中へ駆け出している。しばらくざぶざぶと波を割って走って、泳ぐに足る深さに辿り着いた瞬間、力強く砂を蹴って水へ飛び込んだ。遙の目に赤い残像を焼き付けて、松岡と名乗った少年は沖へ向かって泳いでいった。
 遙は遠ざかっていく波飛沫を黙って見送るしかない。その飛沫もどんどん遠ざかり、遙がいつも泳ぐ小島の手前ぐらいで見えなくなった。
 それでもしばらく、遙は少年の消えた海を眺める。ゆったりと打つ波と風に、海上には数羽のカモメが舞っている。先ほどまでの怒涛のできごとなど海から昇る陽炎だったのではないか。こんなことを思ってしまう程度には、穏やかな光景だった。
 遙が現実を疑い始めた頃合いに、ふと水平線近くに影が過ぎった。それこそ陽炎のようにゆらりと立ち上って、黒い硬質なかたちを取る。
 遙は一瞬身構えたが、すぐに杞憂だと知る。
 流れるような形状の艦影は、あの禍々しい深海棲艦とは明らかに異なる。鎮守府近海を哨戒している駆逐艦だ。遙はほっと息を吐いて、今日も海を守ってくれる艦を見送る。そうして圧倒的な違和感に気づく。
 鈍色をした艦体に白く抜かれた「カオツマ」の文字が、真昼の陽光に堂々と輝いていた。
 七瀬遙は賢い少年だった。松岡と名乗った少年の行動と言動と、海をゆく艦の姿から、早々に彼が何者であるかを悟った。
 海軍を志すなどありえないと思っていた、まだ幼い遙と凛の出会いだった。