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彼は誰の青と泳ぐ

 海に花を投げる。真っ白い大輪の百合とか、粛々とした菊とか、そういう綺麗な花ではない。束ねられてすらいない、切り揃えられてもいない、ここに来るまでの花壇から適当に毟ってきた花だ。名前も知らない花々は大小も色も不揃いで、投げ込んだつもりが海からの風に攫われる。花弁は何処かへ吹き飛び、あるいは狙い通り、はらはらと海面に舞い落ちる。
 凛は海に浮かぶ花弁をじっと見つめる。コンクリートで固められた埠頭から見下ろす海はまだ浅く、恐れなど知らぬ気に朝陽を受けて煌めいている。
 けれどこの海は、恐ろしいものなのだ。真っ黒く波打つ塊だ。震えを押し隠した声で海は魔物だと呟いた男を思い出す。その通りだ、全くその通りだ。
 何よりも誰よりも近しく、己の生きる意味でもある海。凛は海に生きるべくして生まれた。彼らもそうだ。海は、彼らの、やがては自分の死すべき場所だ。
 この海に生きて、死ぬ。そうでなければ凛という存在に何の意味もない。
「俺はまだ、泳ぎ続けてみせる」
 知らず拳を固める。引き千切られた花の青い匂いが掌で強く香る。
 陸で死ぬなど真っ平だ。愚鈍なまでに速さを求め、只管泳ぎ続ける凛を誰かが鮫のようだと例えたことがある。もしかすると今花を捧げた内の誰かだったかもしれない。しなやかにしたたかに泳ぎ続け、立ち止まれば死んでしまう生き物に例えられたことを凛は妙に面映ゆく思った、そんな記憶がある。ならば死ぬまで前に進むことを止めはすまい。この顎で獲物に喰らいつき、屠り、貪り続けてみせる。この海で、命尽きるまで。
 秘めた苛烈な誓いなど知らぬとばかりに、海からの風は柔らかく凛の頬を撫でる。眼前の海も朝陽をきらきらと波に映し、憎らしいほど美しく、穏やかに揺蕩っていた。




「凛ちゃん、凛ちゃん!」
 しばらく海を眺め、日課のランニングを規定通りこなして、鎮守府庁舎に戻って早々。既に聞き慣れた声と落ち着きのない靴音が朝の静かなロビーに響いた。静かにしろと告げるつもりで顔を上げれば、口を開くよりも先に騒音の塊が胸に飛び込んでくる。
「どこ行ってたの、もうっ!」
「ぐっ……な、ぎさっ、お前なあ……!」
 咎める声は勢い圧迫された肺に押し潰され、いくつかの空咳となって消えた。咳き込む勢いが強すぎて涙まで浮かんでくる。ふわふわとした栗毛とは対照的に、弾丸のような鋭さで抉り込んでくる頭を、凛はぼやける視界の真ん中に捉えた。
 渚は型こそ違うものの、凛と同じ駆逐艦だ。遠い昔に建造中止となった艦と同じ葉月の名を冠している。就役は凛のほうが一年ほど早く、つまりこんな扱いを受けてはいるが客観的には凛が先輩で渚が後輩にあたる。
 咳き込む凛に気づいていないのか、渚の栗色の頭は未だぐりぐりと胸に擦り付けられている。凛の目線よりも低い位置にあるそれを掴んで引き剥がせば、可愛らしい面立ちに精一杯の怒りを湛えて迎え撃たれた。
「また海に行ってたんでしょ!」
「悪いかよ、ランニングのついでだ」
「悪くないけど、良くないよ!」
 野苺みたいな色の瞳がぐしゅりと色を滲ませる。凛がぎょっとするより先に、潰れた果肉は顔ごと下方へ逸らされた。
「凛ちゃん、昨日帰投したばっかりじゃない……ひとりで、また」
 震えて消えてしまいそうな声だった。
 凛と渚の付き合いは長い。世間的には先輩後輩という関係ではあるが、周りを寄せ付けない凛に厭うことなく懐いてくる渚は、いつの間にか凛の数少ない友人のひとり、もしくは可愛い弟のような存在となっていた。私的な付き合いのみならず、同じ作戦に投入されたことも何度かある。けれど同じ隊に配属されたことはなかった。凛はそれを幸いだと思っている。渚もその理由を知っている。
 渚が言う通り、凛の所属する駆逐隊は昨日作戦から帰投した。一人で、回避行動の隙間に何とか掻き集めた、僅かばかりの仲間の遺品とともに。
 単艦で帰投した唯一の生き残り。これをして隊と呼ぶ滑稽さを、凛は今まで幾度も経験している。
 凛は僅かに肩の力を抜いた。目の前ではまだ、渚が視線を落として震えている。
「凛ちゃんが一人で帰ってきて、海を見てると……僕は、凛ちゃんも、凛ちゃんまで」
「沈まねーよ」
 俯く頭に、凛はやわく手を乗せる。渚の震えがひたりと静まる。
 渚にはその先を言わせたくなかった。凛自身がどう考えているかだって、渚は知らなくていい。
 乗せた手のひらで栗毛を乱暴に掻き混ぜれば、うわわ、と気の抜けた声が上がる。凛の手を振り払って再度持ち上がった顔は、幼さを残した面立ちによく似合う膨れっ面だった。
「凛ちゃん!」
「俺より自分の心配してろよ、お前は。こないだの戦闘、なんだありゃ。提督の采配も良くなかったが今みたいな泳ぎのままじゃいつ沈むか分かんねえぞ」
「し、沈まないよ! 僕の泳ぎは凛ちゃんに教えてもらったんだから……ていうか凛ちゃんまた提督の悪口」
 渚はそこまで呟いて、突然あっと声を上げた。何事かと訝る間すら与えず凛のジャージに覆われた腕をがしりと掴み、ぐいと引いて歩き出す。先ほどまでの弱々しさはどこへ行ったのか、実に傍若無人な振る舞いである。
 渚の言うこと為すこと考えることが秋の空よりも変わりやすいのは凛とてとうに承知している。承知はしているが、説明もされずに大人しくされるがままの凛ではない。数歩たたらを踏んでその場に留まる。渚は焦った様子で凛を振り返る。ぐいぐいとジャージを引っ張って急かされた。
「何してんのさ、凛ちゃん! 急いで!」
「いや、お前が何なんだよ、急に!」
「本日マルキューマルマル! 岩鳶鎮守府に新しい提督が着任するの!」
 口早に告げられた言葉を受け、凛はロビーに飾られた大きな柱時計に視線を向けた。剥がれかけた金メッキに彩られた短い針は八を過ぎたあたり、精緻な細工が無駄に施された長い針は五と六の間を指している。
 言われてみれば昨晩そんな話を聞いたような気もする。提督の新規着任などというそれなりに大きな予定は、普通はもっとずっと先、少なくとも凛が今回の作戦に出る前ぐらいには立てられているものだ。末端の駆逐艦には預かり知らない上層部での決定は、相変わらず要領を得ないものだと凛は思う。
 とにかく、そんな急の予定を帰投したばかりで聞かされて覚えていられるわけがない。昨晩は押し寄せる疲労のまま眠りの世界に落ちたため尚更だった。
 提督が新たに着任する場合、鎮守府に所属する艦は可能な限りこれを出迎えるのが習わしである。しかもご丁寧に帝国海軍の正装で、整列してだ。華美過剰な歓迎は敬遠されるものの、それなりの体裁は必要だというのだからまた面倒臭い。
 できるなら昨日までの疲労を言い訳に不参加としたい。単に面倒なだけでなく、凛は提督という存在をあまり信用していなかった。加えて凛のあまり良くない来歴もある。駆逐艦松岡の名だけ聞き及んだ人間が、凛に対してどのような心象を持っているかなど想像に易い。
 つまりただ煩わしいだけではなく、公の場に出たくないのだ。隊の同胞を失ったばかりの今は、特にその思いが強い。新たな提督の着任を喜ぶ席など、きっと針の筵と変わらない。
 凛が渋面を浮かべた瞬間、渚は図ったように笑みを浮かべた。落ち着きのない渚ではあるが、凛のことをよく知って気遣う懐の深さを持っている。そして凛は考え過ぎだと、もっと己を誇示し周囲を頼るべきだと思っているらしい。渚からすれば新たな提督の着任は凛にとっての好機に見えるのだろう。今までだってそうだった。
 僅かに凛が身を引けば、渚はこれまで以上の力強さで凛の腕を引く。改めて見上げてくる弟分の笑みは、逃げられないと悟るには十分過ぎる、実に眩しい笑顔だった。


「提督が鎮守府に着任しました。これより、艦隊の指揮を執ります――」
 幾度も聞いたお決まりの台詞に、ざっと軍靴の滑る音が重なる。正門から庁舎の玄関までずらりと並ぶ他の艦に紛れながら、凛もやる気なく踵を鳴らした。
 幾度も繰り返し、少しでも乱れる度に叱責を食らいつつ身に覚えさせられた仕草だ。既に本人の意思を離れていてタイミングを誤ることも過剰に音を立てることもない。ただしやる気のなさは伝わるのか、隣に立つ渚の胡乱な気配だけは感じた。
 脇を小突くどころか視線を滑らせることすら許さない空気を、凛は今この時だけありがたく思う。内心はこんな意味のない形骸化したお出迎えなど、さっさと終わってしまえ、だ。外から見た姿勢さえ崩れていなければ、何を考えていようと個人の勝手である。快晴だろうが嵐だろうが、新規着任の度に空の下に立たされて、お行儀よくゆったり登庁する提督を出迎えさせられるこの時間のなんと無駄なことか。
 儀礼未満の習わしに無理矢理意味を見つけるなら、この時間を越えることで指揮官が変わる、ということか。前任の提督は采配に危うさのある、端的に言えば無能な男だった。扱いづらいと悪名を馳せる自分はまだしも、軍司令部の要求を存分に満たした性能を持つ渚を危険に晒したような愚図だ。あれよりも使える人間ならばいい。
 曲がりなりにも歓迎の場で、凛は不遜な思考にどっぷりと浸りながら上官となる人間が通り過ぎる瞬間を待つ。正門よりも玄関に近い位置に並んでしまったせいで待つ時間がやたらと長く感じられた。元来じっとしているのが苦手な性分もあって息が詰まる。滅多に着ない帝国海軍軍服の詰め襟が拍車をかけているし、白いリンネルはさらさらと肌に触って落ち着かない。いつものジャージに着替えて走り込みにでも行ったほうがまだ有意義だと凛はつくづく思う。
 苦痛に忍ぶ凛に応えたものか、ようやく花道をゆく軍靴の音が近づいてきた。
 茫洋と開ける凛の視界に、白い影がするりと滑り込む。肩章やら袖章やら、凛の着用しているものよりずっと装飾の施された軍装に身を包んでいるのは例に漏れず男だった。
 背丈は凛と同じぐらいだろうか。軍帽のつばから覗く前髪は艶やかな黒壇色で、まばらに散った髪の隙間に青い瞳が透けている。意志の強そうな輝きを秘めた瞳。凛は見咎められない程度に、密かに、息を呑んだ。
 海だ。
 海をつかまえて、閉じ込めている。
 凛が畏怖する生と死の塊ではない。もっとずっと幼い頃に憧れた、うつくしく凛を迎えてくれる、母の優しさで揺れる海が瞳に揺れている。
 水面に光が差す。前ばかりを向いていた名前も知らない男が、凛を見ている。鮮やかな青に閉じ込められる。

 ――りん。

 まだ、聴いたことなどないはずの声が、凛の名前を読んだ。
 提督を先頭とした列は凛の前を過ぎ、静々と庁舎の中へ消えていく。すうっと真っ直ぐに伸びる背が完全に見えなくなり、観音開きの扉が重厚な音とともに閉ざされることでようやく、直立していた艦たちに自由が許される。緩やかな脱力と新たな司令官への好奇とで、鎮守府に静かな喧騒が戻ってきた。
 あれだけ待ち侘びた自由な時間が戻っても尚、凛はその場で立ち尽くしていた。
 本当に声が聞こえたのだろうか。唇が動いただけだったのだろうか。それともまだ完全に疲労の抜けていない凛の、呆けた頭が見せた勘違いなのだろうか。凛は新たに岩鳶鎮守府の提督となったあの男のことなど知らない。見たこともないし、名前だってまだ聞いていない。声なんてもっての他だ。
 けれどあの一刹那、確かに男と凛の何かが交差した。
 あの男は艦である『松岡』ではなく、凛を『凛』として見ていた。
 知るはずのない凛の名を、確かに呼んだのだ。
「……――ちゃん、凛ちゃん!」
「お、わっ」
「どうしたの凛ちゃん、ぼーっとして。もう終わったよ?」
 小首を傾げて見上げてくる渚に、適当に頷いて返す。渚のくるくると動く目に、ようやく非現実から引き戻された気分だった。
 地に足がついていることを確かめるように、凛は上等な靴底で路面を擦る。白昼夢とか、何かに化かされていたとか、とにかくそんな気分だった。今ここにいるのが自分自身だと、何故だか確かめたくなった。
「渚」
「何? 凛ちゃん」
 凛の素行を見咎めて、足元を注視していた渚が再度顔を上げる。
 『渚』も、『凛』も、自分たちの名前だ。それは強いて例えるなら人であることを指していて、艦を運用する人間たちは基本的に呼ばない名前だ。彼らにとって凛たちは『凛』でも『渚』でもなく、公的には『駆逐艦松岡』と『駆逐艦葉月』なのだ。
 だから今の渚のように、凛を『凛』と呼ぶ者は限りなく少ない。もちろん凛たちの人格を認め、正式な場でなければ親しみを込めて名を呼んでくれる人間も大勢いる。しかしそれは公にはない、自分たちが勝手に名乗っているものだから、こちらから直接名を教えない限りありえない。所属艦の一覧を見たところで艦としての名しかそこにはないのだ。同じ艦同士だって直接の面識がなければ艦名しか知らないのだから、提督たちなら尚更のことだった。
「お前、あの新しい提督のこと知ってるか」
「さあ……初めて見る人だと思うけど。でも、なんかかっこいいよね!」
 まだ閉ざされたままの扉に熱い視線を向けながら、渚は弾んだ声で答えた。
 渚も知らないのであれば、彼の口から伝わったということも考えにくい。仮に渚から凛の名前を聞いた者がいたとして、更に他の誰かに凛の名で話を持ち出すこともそうないだろう。渚の他に『松岡』ではなく『凛』の名を持ち出す者は――一人だけ、いるにはいる。
 凛は眉間に皺を寄せたまま考えを巡らせ、結局頭を振って終わりにした。凛の勘違いの可能性の方が高いのだ。仮にあの提督が凛の名を知っていたとして、艦名でなく“凛”と呼ばれる理由もない。振った頭のついでに、詰め襟の中に押し込められた首をぐるりと回す。
「部屋戻る」
「あっ、あっ、ちょっと待ってよ凛ちゃん!」
 締め切られた正面玄関を横目に、凛は宿舎の方へと足を向けた。堅苦しい真っ白い軍服など汚してしまう前に着替えるに限る。渚の軽快な足音が後ろに続いた。


 早々に脱いでしまった軍服を、凛は半刻もしない内に再び着る羽目になった。
「駆逐艦松岡、出頭致しました」
 名を告げて挙手の礼を取れば、本日着任したばかりの提督は椅子に座したまま緩く片手を挙げる。凛は両腕を後ろに回し、軽く足を開く姿勢を取る。
 主が交代したばかりの執務室には最低限のものしか置かれていない。資料の詰まった飾り気のない棚がいくつかと、簡素な作りの洋服掛け、どっしりと構えた執務机、そして部屋の隅に大きめの段ボールがたった一つ。段ボールは持ち込まれたばかりで提督の私物が詰まっているのだろう。まだ荷解きもされていない。
 そんな質実ばかりが目立つ部屋にあって、主となった人物は一際鮮やかだった。白い軍服は汚れ一つなく、遠目に見ても糊が利いているのが分かる。正装なのだから当たり前なのだが、目の前の男はそんな当たり前を更に清冽に着こなしていた。重たげな胸章すら彼の胸では涼やかに輝いて見える。
 何よりも瞳だ。凛の心を一瞬で射抜いたあの青い瞳。
 室内のためか軍帽は机上に置かれていて、先程よりもはっきりと男の目が見えた。澄んだ海の色をしたギヤマンの瞳には凛しか映っていない。二人きりの執務室で、机を挟んで対面しているのだから当然だ。当然なのに、頭の芯がじんじんと痺れたような錯覚にとらわれて落ち着かない。
 対面の男にじっと見つめられていたと凛が気づいたのは、かなりの沈黙を置いて提督が口を開いた時だった。
「――覚えてるか」
 勘違いのように聞こえた声よりもずっと低く、ずっと澄んだ声だ。
 凛が聞いていた声とは少しちがう。
 あの時の声よりももう少し大人びている、ような。
「……――はあ?」
 自分の中に生まれた齟齬に気を取られている内に、凛の頭だけはきちんと言葉を受け取って、そして唐突な切り出しに疑問で返した。しまったと思うも遅い。凛の口は勝手に既にぽかんと開いて、不敬でしかない声を上げてしまっている。
 動揺に強張る凛の顔が男の青い目に映っている。海の色が僅かに和んだ。
「いい。今は俺とお前しかいないし、半分私用みたいなものだ」
「は……です、が」
 慣れない敬語に舌先がもつれる。正式な場ならともかく、鎮守府において司令官と艦の関係は案外と緩い。艦名ではなく個人の名前を、親しみを込めて呼ぶ提督がいることもその一つだ。提督に懐いた艦が執務室を我が物顔で出入りしたって咎められやしないし、大きめの机を持ち込んで提督と何人かの艦が食事や間食を共にしている場面だって見たことがある。元より敬語が浸透しない程度には気安い関係なのだ。凛がそんな関係を築いた人間が今までいたかどうかはともかくとして。
 とにかく、そんな緩い関係が半ば認められていたとしてもだ。渚あたりならばともかく、初対面の上官相手にいきなり普段の口調で話せるほど凛は朗らかにできていない。
 どうするべきかと口篭れば、提督は微かに嘆息した。そっと指を伸ばして机上の書類を捲る。
「お前の性能諸元と、艦歴を見させてもらった」
 意味不明な切り出しから、私用みたいなものという言葉に気を抜いていた凛は僅かに身を強ばらせた。
 凛の艦としての性能は新しい士官が着任する度にまず話題にされる、通過儀礼のようなものだ。それが凛にとっての誇りで、針の筵に似た苦痛だった。ぎゅっと眉間に力を込める。
「最大速力40.9ノット、航続距離は第一戦速で6,000浬。帝国海軍一の速力を持ちながら航続力も失ってない。加えて五連装魚雷発射管三基十門。雷撃能力も申し分ない、理想的な高速駆逐艦だな」
「……ありがとうございます」
 喉の奥で、苦い塊がつっかえている。無理やり飲み下して、凛は心にもない礼を述べる。
 恐らく凛の性能褒めたのであろう男に、こちらの内心を察した様子はない。恐らく、というのは、男の視線は書類に向けられたままだし、声の調子も水を打ったような静けさを湛えているからだ。
 書類を捲る手がひたりと止まる。男の青い視線が再び凛を捉える。思わず唾を飲んだ。来る。
「これだけの性能を有していて、この艦歴は何だ?」
 自分の力不足だ。他の言葉を凛は持っていない。他の理由など口にできない。
 いけないとは分かっていながら、凛は視線を逸らしてしまった。視界の端を過ぎった新任提督の、逃げを許さない色が鋭く刺さる。
 けれどこれは、当然だ。凛は責められるべきで、新たに凛に采配を振る人間なら疑問に思って然るべきことで、そして沈んでいった僚艦たちの痛みと冷たさはこんなものではない。
「随分前の単艦での輸送任務は間違いのない働きだが、以降ほとんどの作戦で敗走。それどころかお前以外の艦は大規模破損、もしくは全滅。昨日帰投したばかりらしいが、これもお前が唯一の生き残りで間違いないな」
「……はい」
 だから凛は朝、海に花を投げに行った。
 戦地はもっとずっと遠い南の海で、毟って投げ込んだだけの花が届かないことも、この行為に何の意味もないこともよく分かっている。それでも守れなかった仲間たちを思うと、凛は花を捧げずにはいられないのだ。いつも、いつも。
 基本的に凛たち駆逐艦は対潜と対空を担い、司令塔である旗艦や艦載機を有する空母、大火力を備え艦隊戦の主力とも呼ばれる戦艦を護衛する役目を持つ。凛の速さは誰かを守るための速さだ。高速で水上を駆け、敵艦の撹乱と確実な殲滅を遂行するのが凛の設計思想だ。
 なのに凛は、いつも、誰も、守れない。
 速さだけ凛の傍らに残って、その速さが凛を縛っていく。
 艦隊を守れず単独で帰投する凛を、影で疫病神と呼ぶ者がいることは知っている。就役時にはあんなにちやほやしてきた軍の人間たちが、今は速いばかりで扱いづらい艦だと凛を認識していることも、性能ばかり抜きん出て役に立たないと思われていることも、他の艦たちから距離を取られていることも、全部。
「弁明はないのか」
「ありません。すべて、自分が至らなかったせいです」
 言い切って、対する男を真っ直ぐに見返した。この答えが全てだと示すために。
 男は凪いでいた。今朝花を投げた海よりもずっと澄んで輝く青で凛を見返している。
 凛は海の底を覗きながら、同じだけ海に見返されているような気持ちになった。この海はやはり恐ろしいものではない、むしろ心地良く懐かしいものだ。懐かしい、とは、
「そうか」
 過ぎる言葉は疑問になる前に、静かな声に遮られる。続けてごとりと椅子が引かれる音。しなやかな仕草で提督が席を立つ。硬い軍靴の音と共に三歩で間を詰めて、凛の真正面で立ち止まった。
 海の色が近い。近すぎて胸の奥がざわざわする。
 それでも凛は視線を逸らさない。丹田に力を入れる。少し低い位置にある男の瞳を、受け入れる。
「今日からは俺がお前たちの、お前の指揮を執る」
 新しく提督になったばかりの、まだ名前の知らない男は淡々と告げる。提督としての決意を語っているのだろうか。
 けれど凛には男の言葉が、もっと違う意味を持っているように思えてならない。着任早々、まだ荷物も解いていない時分に凛一人だけを呼び出した、その理由もここにあるのだろう。
「お前は俺の指示の全てに従え、常に傍にいろ、お前の持てる限りの速さで泳げ。そうすればあの時の……いや、」
 青の中を、小さな影が泳いだ。影はぐるりと渦を巻いてもっと大きな形を取る。
 今現在向かい合う凛の姿が、そのまま瞳に映っている。
「見たことのない景色、見せてやる」
 それは俺が、お前に言った言葉じゃないのか。
 凛は瞠目し、動揺する。俺がお前に、とは何だ。
 これは凛ではない、そしてこの男でもない、別の誰かの台詞だ。確かあいつの、そうだ、俺がこいつに。
「だからお前も、もう一度見せてくれ――凛」
 どうして俺の名前を知っているんだ。
 どうして俺はお前の名前を、
「……――はる」
 知ってるんだ。
 青い、もっともっと青い色が残像を引く。凛はこの青が好きだった。海が好きだった。恐ろしいものなど何もなかった。そんな時代はなかった。凛は己の爪先を初めて波に晒した時から、あの大洋へと身を投げた時からずっと、恐ろしく油断のならないものだと思っている。思っているはずだ。
 身を翻した男が赤いものを手にしているのが見える。微かな金属音と紙の擦れる音を机に広げて、唐突に凛の右手を取る。そのままぐいと引かれれば動揺を引きずる凛が抵抗できるはずもない。あっという間に男の胸に収まっている。
「ハ、ルっ」
「ん」
 反射的に口を突いて出たのは知らない名前だった。返されるのは随分と気安い声で、凛の抗議を意に介していないことはすぐに知れる。
 鼻先を黒い髪がくすぐる。仄かな匂いに気を抜きそうになって、逆にはっとした。状況に溺れてはいけないと身を引くが、いつの間にか腰に腕を回されていた。逃げ場がない。右手は捉えられたまま、親指の先がぺとりとした冷たい何かに押し付けられている。続けて手首を引っ張られ、冷たいままの指先が今度は固い何かに押し付けられる。
「よし」
 妙に満足気な声が間近で響いて、ようやく凛は開放された。慌てて退く。
 ふと、未だに違和感の残る親指が気になった。恐る恐る目の前にかざせばべっとりと赤い。一瞬血かと思ったがそれにしては橙がかっている。正解はかざした指の向こうに掲げられた。
「今日からお前が俺の、七瀬遙中将専属の秘書艦だ、凛」
「は……」
 真っ白い紙切れだ。紙面には七瀬遙提督の名前と、駆逐艦松岡の名前がしたためられている。どちらの名前の横にも拇印が捺されていて、書類として完成されていることを物語っている。文中には専属秘書艦の任命状だとか、甲の乙を丙は了承しただとか、つまり凛が提督専属の秘書艦に決定した旨を書き連ねていた。全く覚えのない凛の捺印は、うろたえている内に朱肉に右手の親指を押し付けられた挙句の産物である。
 秘書艦は文字通り、非作戦時において提督のサポートをする役職だった。士官でなく艦から選ばれる理由はよく分からないが、とにかく艦の中から一人選ばれ、一日中提督の傍で仕事をすることになる。誰を指名するもどのように仕事をさせるも提督の自由だが、艦たちの都合を配慮して大体は日ごととか週ごととか、長くても月ごとにローテーションするのが常だった。
 しかしこの七瀬遙提督が駆逐艦松岡に命じた専属とは、艦でのローテーションがない。旗艦の区切りもない。提督がその任を務める限り交代も休みもなく、いついかなる時も艦は提督を全力でサポートしなければならない。
「はあああああ!?
「もう決まった」
 凛の頓狂な声に男は平然と返してみせた。
 決まった、ではない。署名と拇印の項があるからして、命じられる艦が記された事項をよく読むこと、そして何よりも双方の了解が必要なはずだ。それをこの男は、無理矢理凛の手を取りこちらの都合などお構いなしに、何の説明もなく了承させたのだ。
「ふっ……ざけんな!」
 涼しげな顔に詰め寄る。激昂した凛の頭には不敬不遜の文字などない。襟章の並ぶ詰め襟を引っ掴む。更に怒りの言葉を被せるよりも先に、凪いだままで男は答える。
「嫌なのか」
「嫌とかじゃなくて、その前にだなあ! お前のやり方が」
「嫌じゃないんだな」
「嫌っ……じゃなくてっ」
 要領を得ない、以前に会話にならない。憤りに凛の言葉が一瞬詰まる。
「嫌じゃないんだろう」
 七瀬遙は、その一瞬を見逃さなかった。
「これからよろしく、凛」
「~~~~ッ!!」
 首元を吊られた姿勢のまま、凛の前に手が差し出される。凪いで輝く海の瞳は有無など一切言わせない。既にとうの昔に決まっていたのだとでも言いたげに平然と、真っ直ぐ凛を見返している。
 あまりの身勝手に凛は瞬間昏倒しそうになって、そして何とか踏みとどまった。ぐわんぐわんと響いて揺れる視界の真ん中に七瀬遙という男がいる。睨みつける。表情や考えていることが分かりにくい男だとは思っていたが、ここまで傍若無人ではなかったはずだ!
 差し出されっぱなしの手のひらに凛は己の手のひらを叩きつける。到底握手と呼べない手と手の打ち合いは拒絶ではなく、どちらかといえば自棄になっての了承だった。その事実に凛が頭を抱えたのは、騙し討ちのように捺印させられた任命状を然るべき部署へ届け出て後、つまり凛が最初に専属秘書艦としての仕事をこなした後のことである。