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林檎もぎれ

 次の約束を取り付けたのは初めてだった。今までは状況が変わるか新たな情報が入り次第、といった不規則なかたちで会するばかりで、ネットワークの経由が危険な以上事前連絡もなしに直接、という流れがほとんど。それも所在を明かしていない以上、必然的に現在地の把握が容易な遊作側のフードトラックを了見が訪ねてのことだ。
 故に、遊作から「次は、」と口火を切ったのは少しばかり衝撃だった。
 数時間前に浴びたばかりのシャワーから再び上がった遊作は、頭からタオルを被っている他は下着だけの格好で染みの残るソファに座っている。同じく染みのできたスラックスを含めて遊作の着ていた制服一式は洗濯乾燥機の中で鋭意回転中だった。
 衝撃をおくびにも出さず、了見は手にしていたミネラルウォーターのグラスを差し出した。タオルの裾に隠れる薄く白い胸にふっくりと薄い肉色の乳首が浮く様が目につくが、これを見ても何も思わない。せいぜい寒そうだな、ぐらいのものである。了見は男の身体に興奮するような趣味はしていないので当然である。
 了見からグラスを受け取り、一息に半分ほどを呷った遊作は再び口を開いた。濡れた唇が眩しいほどに赤い。
「一週間……いや、少なくとも三日は欲しい」
 何を、とは問わない。まだ少しだけ、正気か、とは思う。同時に当然だろうとも思う。了見は遊作に背を向け、壁のパネルを操作しエアコンを入れる。
 背を向けたまま、いいだろう、と答えた。
「ならば三日後に。ただし場所は――」
 続けて口にした場所に、遊作は小さく「え」と声を上げた。
 三歩進んで二歩下がるような、そんな錯覚がある。秘めてきた悪徳の十年に、自ら手を、次を差し出した遊作とその手を取って愛を応えた了見と。けれど二人のときを少しだけ巻き戻す、あの赤い夕暮れの差し込む墓標に。
 ゆっくりと振り向けば、遊作は少しばかり了見の意図を理解しかねている様子だった。
「問題があるのか?」
「ない。ないが――あそこは、」
「表立った名義こそ異なるが、あそこは間違いなく鴻上の邸宅だ。何をするにせよここよりもずっと環境がいい」
 この仮の塒とて遊作の住まいより余程高水準の住居だが、『寝起き』するなら了見の指定した場所の方がもっと適している。
 遊作は口を開きかけて、また閉ざす。そういうことを言いたいんじゃない、とでも言いたげだった。了見は遊作の意図を知って敢えて環境について口にしたのだと、賢い彼は理解している。遊作の真意こそが了見の本質だときちんと気づいている。
 結局、グラスを手にしたままわかったと頷く遊作に、了見は微笑んだ。
 あの子を、この子を、遊作を救うならあの家がいい。スターダストロードの見える、幼い了見が父と暮らした家。もう動かない父と過ごした家。長く伸びる赤い夕日が運命の始まりを映して、そして再会したあの場所。崩れる塔の交錯する墓標。
 また一つ、あの場所に何かを埋める。幽かな十字架の幻影を慈しむ代わりに、了見は遊作の垂れる頭を右手で撫でた。


 果たして三日の間に、了見は然るべき準備を整えた。
 準備には医師である滝への相談も含まれる。否、相談、と呼ぶほど明確なものではないが、イグニス抹殺のためのデータ構築中にする世間話としては特殊すぎる。十六歳で精通を迎えていない男子は何らかの病気なのだろうか、などと。
「それだけでは何とも言えませんね」
 滝――バイラは首を振った。この手の話題は彼女の専門分野ではないだろうが、同席していたゲノムも口を差し挟むことはしなかったからこの点についての見解は似たようなものだろう。遺伝子というソフトと身体というハードの違いは了見とて理解しているが、恐らく。
「第二次性徴の発現は個人差の大きいものです。十六歳ならば少し遅くはあるでしょうが、正常の範囲ではあります。性的であれそうでないものであれ経験も大きく影響しますし……もしも当人が特殊な環境下で育ったなら、なおさら」
 診察や検査をしてみないことには、と締め括る彼女の表情にはわずかに苦いものが滲んでいる。了見が誰の話をしているのか、確かめることはせずとも察しているだろう。そもそも現在の了見が関心を向ける対象など限られている。それが十六歳の男子とまで絞られているのなら明言しているに等しい。
 ならば。生に汚れた姿で了見に手を伸ばす遊作を思い浮かべる。現時点で了見にできることは、遊作の成長が正常であると仮定して経験を積ませることだけだ。過去の経験はもう取り消せないのだから。
 さしあたって、了見は部下たちにしばらく鴻上邸に籠もるとだけ伝え端末の電源を落とした。
 その三日後、遊作は鴻上邸に現れた。
 平日の午後、夕方と呼ぶにはまだ明るい時間だった。恐らく放課次第すぐにこちらを訪れたのだろう。初めて取り付けた二人の『次』は三日後としか指定していなかったが、了見の予感した通りの時間である。
 遊作はいつも通り学校帰りの制服姿ではあるが、常とは異なる部分があった。いつも持ち歩く薄っぺらい通学バッグの他に、小ぶりなスポーツバッグを提げている。
 これが何でもない日であれば体操着でも入れているのかと思っただろうが、今日という日には妙に存在を主張してくる。しかしながら了見は胸を騒がせるそれについてはおくびにも出さず、ゆっくりと内側から玄関ドアを開いて遊作を招き入れた。
「……どうぞ」
「ああ。……お邪魔します」
 遊作はぎこちなく頭を下げた。心なしほっそりとして見える白い面に影が落ちて、少しだけ疑問が過ぎる。
 了見が遊作をこうして自分の領域に招き入れるのはこれが初めてではない。三日前のアジトでも同様に迎え入れ、そして遊作はもう少し堂々と、あるいは俗な表現を用いるならずかずかと、特に気にした様子もなく了見の領域に踏み込んでいたはずである。今日に限ってこの不自然な間や、それとなく周囲を窺っているのは何のためか。二人の関係性を改めて認識し、初めての約束を交わしたためか。
 一瞬そう訝ってみたものの、三歩ほど後ろを歩く遊作を窺い見てすぐに察した。遊作は無機質で人気のない長い廊下を、いたむような静けさで了見に付き従っている。
 足を止め、ゆっくりと振り向く。遊作も影のようにすっと足を止める。
「遊作」
「……何だ」
「ここは、ただの家だ。他の塒よりもずっと便利がいい、ただそれだけの」
 仮に了見が何らかの思い入れを持っていたとしても、今この場所は遊作にとってはただの家だ。
 翡翠いろの瞳がちいさく光を散らし、そして静かに伏せられる。三日前に遊作が飲み込んだことばを、了見は再度やわく押し戻す。その意味を三日前に理解していただろうに、それでも何かを思わずにはいられないのだろう。了見は淡く笑んで、腹の底に疼く炎を自覚する。
 ここは遊作にとって、己の人生を奪い、ねじ曲げた、憎い男が生き長らえ、そして死んだ場所だ。そう割り切ってしまえばいいだろうに、了見の愛する人が旅立った場所であるという感傷を無視できない。
 そんな遊作を、鴻上了見という男は愛おしいと思う。
 蜜の滴るような悪辣のまにまに手を伸ばした。肉付きの薄い、けれども柔らかく熱を湛える頬に右手で触れる。指先でくすぐる仕草はいとけない恋人を宥めるように、しかして現実はもっと醜悪だった。真っ直ぐに見つめ返す遊作の瞳だけが、迷いなく美しい。
「ここに来るのはあの日以来だな。まずは客間に?」
「いや、」
 バッグを握る手に少しだけ力がこもる様を、了見は見逃さなかった。
「お前のいいように。バスルームだけ貸してもらえると嬉しい」
 前回了見の元に泊まった際には、あれだけ我が物顔でシャワーを使っていたというのに。
 迷いはない、けれど特別なことではあるのだろう。あの遊作が目に見えて意識している。何のためにかと問えば、鴻上了見という男の身勝手な欲望のために。腹の底が疼くような感覚は、頬に、肌に触れたままの指先から伝わっているだろうか。この応える舌が縺れ痺れるほどの歓喜は。
「案内しよう。他の場所も好きに使うといい」
 甘い頬の稜線から流れ、遊作の前髪をやわく掻き混ぜて名残惜しく離れる。これから深く深くまで貪るつもりなのに、随分と強欲になったものだと思う。
 背を向け先に立って案内する間も、遊作がどんな表情を浮かべているのかと気になって仕方がなかった。獲物を前に舌を舐めずるようなその衝動には蓋をして、せめて丁重に客を迎える主人の格好を取り繕う。円状にオーシャンビューという構造の鴻上邸は一般の家屋とはかなり異なるものの、リビング、ダイニング、キッチン、そのように使っていた部屋だとして遊作を引き連れ歩いた。洗面所とトイレの場所も教え、遊作がそれだけはと望んだものについて、父の介助のため浴場と呼ぶべき広さで設計された設備の前を素通りし、まずはベッドルームとする部屋へ通す。
「寝室だ」
 端的に告げて振り向けば、さすがに遊作は虚を突かれた顔をしていた。
 了見の通した部屋は、遊作にとっても見覚えのある場所のはずである。カーテンもブラインドもない、広い窓が海の青と光を取り込むただの空間。幼い頃、父と共に飽きることなく見つめ続けたスターダストロードを眺めるには格好の場所。家具らしいものはキングサイズのベッドだけで、これには遊作も見覚えがないだろう。別室から三日の間に運び入れたもので、本来この場所には生命維持のための機器を物々しく取り付けた父のベッドがあったのだから。
 少しだけ、遊作は下唇を噛んだ。けれど何を言うこともなく確かな足取りでベッドに近づき、近くに通学バッグとスポーツバッグを落とす。その様を微笑みながら見つめる了見を咎めることも問い質すこともせず、バスルームは、と重ねて問うた。
 了見は部屋の片隅を指差し、自身が使用していた至って普通のバスルームへと続くドアを示す。少しだけ学生服の肩が落ちたのは介護用の浴場を示されたらと身構えてのものだろうか。それもよかったかも知れない。
「俺は準備がある。から、お前が先にシャワーを使え」
「……少し早いが、先に食事を済ませてからでも構わないが」
 いきなり始めるつもりなのか。決意が鈍る前に手早く、というわけでもあるまい。遊作が挙動に浮かべるぎこちなさは了見が手ずから注ぎ絡めた、父の残り香に対する困惑だけだ。無論、行為を急いて望んでいるとも思えない。
 恋人同士のように、ムードとか会話とか、そんな二人の時間を大切にしようなどとは思っていない。それでもキッチンにはそれなりの食材も詰め込んであるし、そもそも了見としてはそちらが先のつもりだった。
 しかし遊作はふるふると首を横に振る。これは梃子でも動かない構えだろう。
 情事の際に相手にシャワーの先を譲る程度の心配りもあるが、遊作は猫のような目でじっと了見が動くのを待っている。彼の言う準備が果たしてどこまでの何を指すのか図りかねるところもあるが、せめて今だけは好きにさせてやろう。一度組み敷いてしまえば最期、了見は喉笛に突き立てた牙を抜いてやれないだろうから。
「なら、先に使わせてもらおう。この家に置いてあるものは好きに使っていい。キッチンの冷蔵庫には飲み物も入っている」
「わかった」
 素直にこくりと頷く遊作の、僅かに晒された首筋の白に目を細める。羞恥に赤く染まることもなく、了見の愛撫に歓喜することもしないそこ。触れて、力を込めて縊ればぽっきりと折れてしまいそうな、少しばかり不健康な薄さ。
 少しの違和感に瞬いた瞬間、遊作のひとみが眼前にあった。
「了見?」
「……いや」
 気づかず吸い寄せられていたらしい。不自然な近さに目を瞬かせる遊作にゆるりと手を伸ばしかけて、結局、力なく落とした。
 恋人ならば、大人しく待っていろとキスの一つでもするのだろう。つい先日までの、哀れな子どもを陵辱するばかりの鴻上了見であったならば、逃げるなよと頤を掬い上げたかも知れない。
 けれど今の了見は、遊作を愛しているが恋人ではない。愛し求められている以上、一方的な陵辱者でもない。
 お互いをお互いだけが救い得る二人を運命と呼ぶ。ならばこの重く、苦く、甘い感情は、何と呼ぶべきなのだろう。
 詮無い疑問を鼻で笑って、了見はバスルームへと踵を返した。遊作を振り返ることはしなかった。立ち尽くす彼の表情に、果たして答えがあっただろうか。
 後ろ髪を引く思いすら熱い湯で洗い流し、体だけ清めてバスルームを出る。バスタブに張った湯は遊作のためのものだ。遊作は思わせぶりに準備がなどと口にしていたが、了見にそんなものはない。必要なことは場や道具を調えるぐらいで、それは三日のうちに恙なく終わらせている。体の準備も心の準備もなく、あとはあるがまま欲望のまま、遊作を貪り、そして彼を救えばいい。
 用意しておいたバスローブだけを纏い戻った寝室に、遊作の姿はなかった。
 刹那、言わなかった言葉が浮かんで、しかし後悔になる間すらなく霧散した。微笑みながら、自ら、たすけて、と手を伸ばした遊作が逃げるはずがないのだ。
 準備、とやらに勤しんでいるのか。あるいは言い置いたとおり、冷蔵庫の水でも飲んでいるのだろうか。了見はさしあたってダイニングへと足を向け、辿り着いた先で遊作の代わりに意外なものを見つけた。思わず鼻白む。
 まっさらなダイニングテーブルの上に、嫌というほど見慣れた端末が置かれている。遊作のデュエルディスクだった。今まで通りの情報交換ならともかく、わざわざ三日の約束を取り付けた今日には不要だろう。制服の袖口に姿がなかったので自宅かフードトラックにでも置いてきたのだろうと思っていたが、どちらかのバッグに入っていたらしい。
 近寄ってみたが、果たしてディスクの主とも呼べるイグニスの姿は見えなかった。プログラムとしてロックされているあのAIは確実にここに存在するはずである。了見の姿を認めて引っ込んだのか、はたまた端からスリープモードになっているのか。
 もしかすると声をかければ返答があったのかも知れない。しかし了見自らイグニスに声をかけるなどという選択肢はなく、持て余す広さのダイニングを見渡す。時を同じくして、微かに扉の開く音がした。
「もう出たのか」
 遊作は廊下から続くドアからそっと顔を覗かせていた。了見の姿を認めると共にほんのわずか目を瞠る表情、その頬が青白く見えるのは気のせいだろうか。
 その疑念もどこに行っていたのかという疑問も口に出さず、了見は気づかなかったふりで声をかけた。
「ああ。準備とやらが済んだのならお前も入ってこい」
「わかった」
 やはり素直に頷いて、遊作はバスルームの方向へ踵を返す。卓上のデュエルディスクに構うこともなく、またイグニスの方からアクションを起こすこともない。
 代わりに部屋を出る間際に足を止めて、ちいさく了見を振り返った。
「遅くなるかも知れない」
「構わん。思う存分、念入りに清めてこい」
 これを最後に、了見は遊作を頭から腹の底まで、余すことなく汚すのだから。
 遊作は翡翠いろにちりりと燻る光を揺らめかせた。薄い腹に腕を回すようにして、その手にはあのスポーツバッグが握られている。しかし了見に問い質す間は与えず、先ほどよりも神妙に頷いて部屋を出る。
 遊作の背が消えた扉をしばらく見つめ、また卓上のデュエルディスクを見る。物言わぬ端末と了見の上に、普段ならば気にならない冷蔵庫の唸る静かな低音が降り積もる。
 遊作はどこで何をしていたのか。何を考えていたのか。一つには、このデュエルディスク――引いてはイグニスをここに置きに、あるいは寝室から遠ざけに来たのだろう。わざわざイグニスを連れてきて、そして遠ざける意図も気になるがその後はどうしていたのか。遊作に案内した場所は限られているし、それ以外の場所には何もないに等しい。あの存在感を主張するバッグの中身を改めればわかるのだろうが。
 結局、考えても仕方がないし、やることは変わらない。物言わぬディスクに背を向け、了見は冷蔵庫へと足を向けた。ミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、小ぶりなそれの一本を開封する。ひと口だけ流し込めば、風呂上りで熱の籠もる体に冷えた水が心地良く過ぎてゆく。
 もう一本は遊作にやろうと、了見は寝室に向かって踵を返した。遊作が消えた扉を同じように抜け――ようとして足を止める。
『生産性がない行為だ。俺にはさっぱりわかんないね』
 横目で振り返る。午後のまろい日差しが注ぐ卓上のディスクには、ぼんやりと紫の光が宿っていた。
「AIである貴様には理解できんだろうな」
『AIじゃなくてもわかんないだろ。何も残らないし、お前が遊作を選ぶ理由も遊作がお前を選ぶ理由もない』
「ある。私は遊作を愛している」
 薄らと笑う。相変わらず道化めいた姿は見せず、ちかちかと紫色が瞬いた。警告を発しているようだと思う。
『理解不能。俺が知ってる愛の定義とお前の言う愛はだいぶズレてる』
「だろうな。人間は未だ正しく愛を定義できてはいない。人類の後継種として生まれたお前たちもな」
 愛の定義とは、恐らく不変のものではない。憎悪すら愛であると人は言う。人類の辿り着けない答えを父はイグニスたちに託そうとしたが、果たして意思を持つAI、この滅ぶべき存在が愛を定義しうる日も来るのだろうか。
 かぶりを振るに似て紫が明滅する。溜め息のような細く低く長い音が流れた。
『お前とは話すだけ無意味そうだ』
「その点だけは同意する」
 可愛げのないやつゥ。そう呻いて闇色がぬるりと浮かび上がる。全身ではなく黄色く丸い目までを覗かせて、闇のイグニスはじいと了見を見つめていた。常には喜怒哀楽を大げさなど程反映するそれは、じわりじわりと眇められていく。
『けどこれだけは言っておくぞ。遊作は、お前が思うよりずっと――余裕ないんだからな』
 それきり、とぷりと闇色の頭はディスクに沈んだ。
 後は日差しの中で静かに機械が佇むのみである。恐らく問いかけても姿を現すことはないだろう。やはり了見から問いかけるつもりはないので些末なことだ。
 だがしかし、およそ四六時中を遊作と共にするイグニスが最後に口にした言葉は多少気にかかる。了見と話すことを良しとはしないだろうイグニスが、わざわざ姿を見せてまで伝えてきたのだ。
 警告めいた残響を頭の片隅に残して、今度こそ了見は寝室へ戻った。思う存分、と告げた通りか、まだ遊作の姿はない。ベッドサイドのテーブルに手にしていたボトルを置き、何となく視線を走らせる。学生バッグは残っていたが、スポーツバッグの方は見当たらなかった。バスルームまで持ち込んでいるのだろう。
 今までのように脱衣場に立ち入ろうとは思わなかった。放っておいても掌中に転がり込んでくる獲物に、最後の猶予を与えるような心地だ。
 了見はベッドの端に腰かける。全面の硝子窓からはぼやけた午後の光が差し込んで、遠く青い海もどこか白々しく輝いていた。
 この窓から、いつも海を見ていた。朝も、昼も、夜も。
 一番記憶に残るのは夜の海で、それは一日の仕事を終えた父がいつも傍らにいてくれたからだ。了見の肩を抱いて、スターダスト・ロードのことや海に生きるものたちのこと、空に浮かぶ星のこと、この世界のことを教えてくれた。了見は父が指さすうつくしいものを追いかけながら、その実硝子に反射する父をそっと仰いでいた。強かで賢くて偉大な、敬愛する父の姿を。
 あの人が亡くなった今でも、その感情に変わりはない。
 けれど傍らが酷く寒々しいと、そう思い始めたのはいつからだろう。父がSOLに監禁されていなくなってからか。いいや、もう少し前からだ。了見がこの家に招いたあの子がいなくなって、父が夜も不在がちになって、そして父に連れられ訪れた研究所に子どもたちの悲鳴が響きだしてから。見上げる父はこの窓辺に立っていたときと同じように穏やかな声で、どうした、と問うてくれたけれど、子どもたちの痛ましい絶叫に表情を動かすことはなかった。その微笑みに目が眩んだのを覚えている。
 幻を見ている。了見は窓辺に頼りなく立つ幼い自分から目を背ける。転じた視線の先では汗を掻いたペットボトルが静かに了見を苛んでいて、水の珠に歪んだ自分の顔が映っている。これが現実だ。ここが、現実だ。
「――了見」
 だから、彼こそが了見の運命だ。
 今は失われた低く威厳のある声ではなく、どこかあどけなさを残す低い声。了見を現実へと追い込む存在。バスルームへと続く扉は前触れも感慨もなく開かれて、遊作が立ち尽くしている。
 了見の用意していたバスローブをぞんざいに羽織ってはいるが、同じく用意していたスリッパは履いていない。ぺたぺたと無造作に響く足音に、きちんと拭われていない髪から雫を存分にまき散らしている。肩に掛けたバスタオルを何だと思っているのだろう。少しだけ顔を顰めた。
 ベッドサイドに腰かける了見の目の前で、遊作は足を止めた。頭上からぱたぱたと、雨のように雫が降ってくる。さやかなそれを頬に受けながら顔を上げて、少しだけいつかのデュエルを思い出した。
 目端に落ちた雫に、遊作の指が触れた。それは拭い取る仕草で、まるで自分が泣いているようだと錯覚する。
 ちいさく舌を打って遊作の肩から下がるタオルを奪い取る。
「う、あ」
「遅くなっても構わんと言っただろう。もう少し丁寧に拭いてこい」
 タオル越しに頭を押さえ込み、ぐしゃぐしゃと遊作の髪を掻き混ぜる。体勢を崩した遊作が膝の間に落ちてきたので腰を引き、そのままベッドへと引っ張り上げた。了見の腹に倒れ込むかたちで、反抗もしないのでこれ幸いと髪を拭き続ける。
 癖の強い遊作の髪は、濡れているくせに拭いた傍からぴんぴんと跳ね返ってくる。その強情さが持ち主によく似ていて、しかしながら今は大人しくしている張本人とのギャップが少しだけおかしい。思わず笑えば、察したものかタオルの隙間から翡翠いろがじとりと見上げてきた。
「何だ」
「笑っていただろう、今」
「ああ。少しばかり面白かっただけだ」
 了見はペットを飼ったことがないが、あるいは飼い犬を洗ってやったらこんな感覚かも知れない。そう思いつくとますますおかしくなって、機嫌の良さを隠しきれなくなる。
 むくりと、タオルの影で薄い遊作の頬が膨らんだように見えた。不機嫌そうに目を眇めて、そのくせ了見と視線が絡めば居心地悪そうに逸らす。膨れた頬がほんのりと色づいているのは、風呂上がりの血色の良さだけが理由ではないだろう。
「俺も」
「ん?」
「少し、楽しい。……誰かにこうしてもらうのは気持ちいいんだな」
 ちいさく付け足して、遊作の目がまた細められた。不機嫌に、ではなく、微かな喜びに。
 ――急速に、了見の理性が冷えていく。
 同時に、腹の底の獣が熱を抱えて歓喜する。十年前の事件以前の記憶を失い、他人との乖離を感じていた遊作はこんな些細な触れ合いも初めての経験なのだろう。了見とてこのように誰かと接した記憶は薄いが、それでも確かな父の記憶がある。兄弟のように親のように接してくれた滝や麻生がいる。奈落の果ての闇の世界にひとりきりだった訳ではない。
 嬉しそうに微笑む遊作の姿は了見に罪を突きつけ、やわらかいところを深く抉る。同時に、こんな接触に喜ぶ遊作の哀れを悦んで、そしてこれからこの子の身を深くまで暴く落差に喉が鳴る。
 おかしいのも気持ちいいのも嬉しいのも、すべてまやかしだ。この胸に刹那抱いたやわらかさなど本来あろうべくもない。
 了見と遊作は恋人同士ではなく、戯れに睦み合うような関係とはほど遠い。もっと苛烈で、冷たくて、重い鎖に縛られている。
 いつの間にか止まっていた手に、遊作がそっと顔を上げた。少しだけ乾いた頭に、白いバスタオルが花嫁のヴェールのように引っかかっている。
「了見」
 するりと、白が落ちてゆく。それが始まりの合図だった。
 ちうと微かな音が鳴る。同時に心臓の上にむずがゆい感覚が宿った。少しだけはだけたバスローブのあわいから遊作が口づけている。引き剥がす間も引き寄せる間もなく、遊作の頭はするりと下に落ちていく。
 三日前と同じだ。遊作は躊躇いなく腰帯を解いて、しかしそこでぴたりと手を止めた。
「……穿いてるのか」
 了見の下着に手をかけながら、ぼそりと落ちた囁きを聞き逃す了見ではない。
 この状態でのこの呟きは、一つの事実を示唆しているに他ならない。遊作の上腕を掴み、そのまま体勢を入れ替えながら引っ張り上げる。ぼすりと遊作の身体がシーツに沈み、了見は彼に覆い被さる格好になる。
 突然の事態に目を瞬かせる遊作を尻目に、先ほどされたのと同じように腰帯を引き抜いてやる。そのままローブの前を開けば、薄い肉付きの身体が全て晒された。
「……ほう」
「……こんなもの初めて着たから、勝手がわからなかった」
 居心地が悪いのか、寒いのか。袖まで引き抜いてバスローブを全て脱がせれば、少しだけ遊作は身を捩った。
 遊作は何も身につけていない。了見は遊作を待つ時間もあったため着用しているが、バスローブの本来の目的を考えるに下着はない方が正解だろう。が、わざわざ今それを教えてやる必要もない。
 組み敷いた身体を観察する。肋が浮いているわけでもないがネットワーク世界のアバター程鍛えられているわけでもない。どこもかしこも薄っぺらくできている。直截に言ってしまえば貧相で、特に腹部は凹んですら見えた。そこから視線を辿っていけば薄い下生えと、その奥に隠れる陰茎が覗いている。
 手を伸ばし、風呂上がりでほんのりと湿った茂みを指先で絡め取る。
 遊作の声は夕暮れの曲がり角でカードを大事に抱え、大好きだと笑ったあの頃よりもずっと低い。細い首を見つめてもきちんと喉仏が浮いているし、こうして薄いながら陰毛も生えている。となれば第二次性徴自体は迎えている。
「ん」
 茂みの奥をまさぐれば、遊作はちいさく声を上げた。決して快感を拾ってのものではなく、不意の接触に漏れただけの声だ。厭わず陰茎を取り出せば、くたりと萎えた肉は大人しく了見の手のひらに収まった。
 精通を迎えない者の中には過度に小さく、子どものまま成長していないようなかたちの者もいるらしい。しかし遊作の陰茎は了見のものよりは小さいが、少なくとも見た目は幼弱ではなかった。一度も屹立したことがないというそれは子どものような淡い色で、包皮を纏ってはいるが日本人の非勃起時の陰茎としては十分平均の範囲内に思える。陰嚢も取り立てて特異な形状をしているようには見えない。
 無論、了見は医師ではなく、一般男性の性器について論じられるほどの知識や経験などさらさらない。あっても困る。身体的所見に関しては素人の判断であり、ならできることはといえばやはり経験を重ねる他になかった。
 手にした肉を少しだけ握り込む。途端、大人しくしていた遊作の足が微かな抵抗を示した。
「了見、俺のそこはいい」
 もぞもぞと緩慢な仕草には危機感も羞恥心も感じられない。ただ事実として不要だからと断じている。
 眉を寄せる。それは遊作の自己判断に対してであり、不埒にも独断専行を始める手に対してであった。自分のものはどうでもいいから早く奉仕させろとばかりに、先ほど下着を下ろし損ねた遊作の指が了見の雄芯の輪郭を辿っている。布越しの擽るような感覚に、兆す気配はまだない。
 了見は低く息を吐いた。
「遊作」
 しっかりと了見を見返しながら、遊作は「ん」と鳴いてシーツの上で首を傾けた。同時に臀部に引っかかる程度に下着をずり下ろされる。
「確かに私はお前に劣情を催している」
「知っている」
 ほんの少し隙間ができた程度、そんな下着の穿き口から遊作は無理矢理手を入れる。下生えを浅く掻き回され陰茎にまで指先が伸ばされるが、口にした言葉とは裏腹に未だ了見のそこは静かだった。
「お前を組み敷くことは本意ではある。しかしお前も『たすけて』と言っただろう」
「でも俺のは勃たないし、気持ちよくもない」
 ふいと遊作の視線が落ちた。ふにふにと陰茎の付け根を揉まれたが、隙間の狭さに突っかかってそれ以上奥には進めていない。代わりとばかりに陰毛を指先に絡めて、恥骨を辿るように触れてくる。遊作はちいさく眉間に皺をつくった。
「俺のことはお前が必ず救ってくれる。でもそれは今すぐじゃなくていいし、精通することが救いになるわけじゃない」
 たぶん、と付け足して、了見の下肢を諦めた遊作がまた見上げてくる。今度は了見が眉間に縦皺を刻む番だった。
 あるべきだった経験を失い、あるはずもなかった経験に迫害された遊作に対し了見が責任を負うこと。未だ得られない身体機能の速やかな獲得。遊作の求める救いとは、そういうものだと思っていた。
 けれど遊作はそうじゃないと言う。たすけてと手を伸ばしたくせに、その手を了見への救いのために下ろしてしまう。
 ……遊作の求める救いが、理解できない。
 遊作にはそれ以上議論するつもりはないようだった。静止した了見を尻目に、何とか半端な位置でつっかえてしまった下着を下ろそうと悪戦苦闘している。
 結局、了見は身体を起こして腰を引いた。挑んだ挙句何もできないまま離れていく布地にあっと声を上げた遊作だが、ベッドの上で起き上がる了見を認めて目を瞬く。
 あれほど遊作の拘っていた下着とバスローブを自ら脱ぎ捨てながら見下ろせば、赤の滲み始めた海から差す光に晒されて翡翠いろが光を散らした。
「了見? まさか、止める、」
「止めはしない。しかし私は私のやり方でさせてもらう」
 言い放つと同時に遊作の足を掴んだ。自らの顔の前まで引っ張り上げながら、了見はぐるりと回る視界に目を白黒させる遊作の下に潜り込む。二人で互い違いになるよう、今度は遊作が了見を跨ぐ格好で。細い腿を掴んで無理矢理引き寄せれば遊作は了見を押し潰すまいと四肢を突っ張り、最終的に遊作の膝は了見の肩の辺りを跨ぐかたちで落ち着いた。
 腹を浮かせて遊作は了見を覗き込む。了見はひたりと笑ってやった。目の前の無垢な雄の象徴に顔を寄せ、肉付きが薄いながらもまろい線を描く尻を軽く叩いてみせる。
「な、に」
「知らないか、こういう体勢は」
 いわゆるシックスナインと呼ぶ体位だが、ぱちぱちと目を瞬かせる遊作にここで教えてやる必要もないだろう。
 代わりに垂れ落ちる遊作の陰茎に口づけた。存外と嫌悪感はない。そのままれろりと舐め上げれば、ひゃっと鳴いて遊作の腰が跳ねる。
「これなら互いにできるだろう」
「あ、でも、俺のはいいと」
「私のやり方でさせてもらう、そう言ったばかりだが?」
 後は聞く耳を持たない、そのつもりでまた遊作の雄に舌を這わせる。
 そもそも了見には、同性である男に性的興奮を覚えるような趣味はない。遊作の全裸や性器を見ても何も思わないし、当の本人が恥じらったり嫌がったりすればまだ感じるものもあったのかも知れないが実に淡々としている。警告を発する闇色の、余裕ない、という声が思考の端を掠めて落ちた。
 余裕がない、というほどに遊作が溺れているようにも、必死なようにも見えない。先ほど声を上げたのも突然の感覚に驚いただけで、今は居心地悪そうにもぞもぞと揺れるばかりだ。
 諫めるつもりで遊作の内腿を軽く叩いてやれば、逡巡を含みながらも大人しく脱力した。これでやりやすくなったと、改めて目の前のものに向き直る。
 間近で見つめても、やはり一見して機能の不全があるとは思えない。手を添えて支えながら皮に守られた先端を口に含む。兆す気配のないそこは風呂上がりの湿り気こそ残しているもののさらりとしていた。カウパー氏腺液が分泌される様子もなく、舌を這わせても味らしい味はない。了見も使ったボディソープの匂いだけがほんのりと纏わり付いている。
 唾液を絡め、ゆっくりと先端から舌を滑らせる。添えた手を上下させ、時に裏筋をくすぐりながら刺激を与えていく。遊作は感じないから要らないなどと言ったが、自慰行為から精通を迎える者も多いという。ならば性器への直接的刺激は真っ先に試みて然るべきだろう。
 少しだけ首を持ち上げて、了見は己の下肢を見た。了見の雄を前に、三日前のように舐めるどころか触れることもできないままじっと固まっている遊作の姿がそこにはある。表情は見えにくいがもちろん感じている様子はなく、然りとて不快そうにも見えない。じゅくりと唾液をまぶしてまろく舐め回し、吸って、最後に甘く歯を立てた。
「はっ……どうだ?」
「ん、あ……くすぐったい、ような気がする。お前の舌が、やわらかくて、熱い」
 辿々しく探る言葉は、触覚、温覚について言及した。ならば恐らく感覚にも異常はないのだろう。いや、少しばかりは鈍いのか、あるいは皮を剥いていないうちはこんなものか。
 遊作の状態を確かめながら、了見はわざとらしく腰を突き上げた。愛撫を続ける手は遊作のためのもので、まだ勃起前の肉棒を遊作の眼前に突き出すのは了見自身の欲望のためのものである。
「それで? お前はするんじゃなかったのか?」
「……する」
 了見の揶揄めいた笑いを感じ取ったらしい。遊作は少しだけむっとしたようだった。
 ちいさく感情を波打たせた遊作は、先ほど触れ損ねた了見の陰茎に三日前と同じく躊躇わず食らいつく。先ほど了見の舌をやわらかく熱いと表していたが、遊作の口の中の方がよほどやわらかく熱いだろうと思う。了見の肉棒を一気に中ほどまで飲み込み、舌の上、頬の内側、口蓋の硬いところと軟らかいところ、全てを余さず使って愛撫する。細く笑んで緩く腰を揺すってやれば、ふぐと苦しげな声が遊作の鼻から抜けた。思わず笑みが深くなる。
 遊作の口内で、己の欲望が頭をもたげるのが自分でもわかる。悪戯に喉のやわらかさを突き上げれば濁った呻きを漏らすものの、それでも遊作は決して了見を離そうとしない。ふうふうと余裕のない息遣いを心地良く思いながら、了見も遊作と同じように萎えたままの肉を中ほどまで飲み込んだ。
「んっ……ん、ふぅ」
「……ん」
 遊作の舌の動きを、内頬の圧をなぞる。未だ萌しを見せない肉は奥まで咥えても口内を圧迫することはなく、まるでつるりとした果実のようだった。
 熟す気配のない青いそれを機械的に舐めながら、どうしたものかと思案する。
 遊作は了見の施す口淫に、くすぐったい、と答えた。その感覚は快感にほど近いものではないかと思う。これを追求してやれば快楽を得られるのではないか、そのためにはどうするべきか。感覚はあるが鈍い、その原因を限りなく取り除いてやればいい。
 三日の間に考えていた段階へと移るべきだろう。了見は一度遊作の陰茎を吐き出した。自ら先走りを生産できていないそこは、了見の唾液だけを薄く纏って垂れ下がっている。
 少しだけ身を捩る。体勢が崩れてもなお追い縋る遊作をかわいらしく思いながら、了見はサイドテーブルへと手を伸ばした。手探りで抽斗から目的のものを取り出し、うち一つを開封する。ぱちんと微かなプラスチックが弾ける音にも気づかないのか、遊作は変わらず口と手で甲斐甲斐しく了見の雄を育て続けている。手にしたボトルが黄金に輝く陽光を透かす、そのぼやけた世界から了見は遊作を見つめ、そしてとろりとした液体を手のひらへと零した。
 不純を滲ませるきらめきを手のひらに閉じ込める。ぬちゃりという音と共に、粘性の高い液体が了見の手のひらに広がり、溶け、流れていく。落ちる前にまた手の中に掬い上げ、体温へと慣らしていった。そんなことを繰り返し、頃合いを見計らって再度遊作の蕾んだ芯を手に取った。
「ンひっ!? な、ぁ、なに」
 さすがに驚いたのか、遊作の背が弾かれるようにしなった。唇から了見の陰茎を離し、また薄い腹を浮かせてこちらを覗き込む。未知の感覚だろう、戸惑いを多分に含む翡翠いろが影の中で瞠られる様を了見はひっそりと笑った。
 ぬめりを塗り込めるように、包んだ両手を上下させる。特に先端には念入りに。
「ローションだ」
「ろ……これ、ここ、なんで」
「潤滑のためだ。どうだ?」
 本来の目的は曖昧に隠し、問う。遊作は眉間を寄せて、生真面目にも施される感覚を表す言葉を探している。念を押すべくぐちゃぐちゃと音を立てて扱いてやれば、内腿が不規則に跳ねた。
 了見は隙なく遊作の雄を弄びながらも、己の身体の向こうの少年から目を離すことはしなかった。不鮮明な角度ではあるが、遊作が薄く唇を開いては閉じ、悩ましく眉間を寄せる様は見て取れた。やがて短くも長い逡巡の末、先ほどよりもずっと辿々しく曖昧な言葉を選んでいく。
「くすぐ、ったい……? だけじゃ、なくて、っ何か、落ち着かない、感じだ」
「どう落ち着かない」
「どう……ん、ぞわぞわ、するっ……」
 震える内腿を擦り合わせようとするも、了見を跨いでいるため叶わない。せめてなのか目を瞑り、深く胸を上下させ呼吸を整えている。
 そんな遊作に了見は薄く笑みを浮かべた。自分の手によって戸惑う遊作を見ると胸がすくような思いがするのだと、了見はにわかに実感する。もっと確かな、激しい感情の発露を見たいとも思う。
 同時に冷静に義務を遂行する自分が、全く理に適っていると手の中のぬかるみを意図を持って愛撫する。遊作の口にする感覚は少しずつ、男であれば当然のものへと近づいているように思えた。ならばこのまま踏み込んでゆくべきだと。それは薄ら笑う悪辣な自分も同意するところだった
 にちにちと細やかに扱き上げ、やがてぬちゃりと高く音を響かせながら右手の親指と人差し指を先端に添えた。己の手に刻まれた赤が不純の透明にまみれて、長く差し込む黄金色に妖しく濡れ光っている。白く汚される幻想を見ながら、声ばかりは常通り低く、内心は嗜虐に似た感傷に満ちて短く告げた。
「剥くぞ」
「え? あ、――っ、ア!」
 ぴっと、ちいさく裂ける音は幻聴だ。その幻聴をこそ了見は心地良く思った。
 潤滑剤のぬめりがあるとはいえ、デリケートな箇所だ。不意の強烈な刺激にはさすがに堪えきれなかったのか、遊作の腰が大きく跳ねた。了見の掌中では意図せず晒された亀頭が、震えるほどの瑞々しさを晒している。
 赤く染まる様はそれこそ熟し始めた果実のようだ。やわく歯を立てればぷちんと弾けて、溢れるほどの蜜を零すのではないか。その甘さを夢想して了見は己の唇を舌でなぞる。啜り飲み干す甘美に、果たして遊作はどうするだろう。拒むのか、泣くのか、あるいはもっと、などと。
 現実では縋るように、ぎゅうと遊作の手が了見の陰茎を包んだかたちのまま強張っている。鈍い痛みに了見も眉を顰めるが、今はこの刹那の不快すら愛おしい。半ば悪意で以て施した了見を、遊作はそれでも押し潰すまいと膝を笑わせ庇っている。その健気にぞくぞくと背筋を快感が抜けていく。硬度を増した雄の猛りは遊作の手の中でびくりと震えた。
 形ばかりで労って、理不尽にも虐げられた遊作の未熟な陰茎を根元から掬い上げて支えた。眼前に寄せた亀頭に不快感はなく、むしろ無垢の淡さに関心すらする。勃起はしないが自分で気をつけているのだろう、恥垢も溜まっておらず綺麗なものだ。自分のものですらまじまじとは見たことがないので感覚的な所見だが、包皮も正常に翻転しているように思えた。
 いきなりは辛いだろう、了見は露出した雁首の少し下に労りを込めて唇を押しつけ、宥める。
「痛いか」
「い、まは、大丈夫だ」
 上擦る遊作の吐息が、了見の下生えを擽った。ほとんど突っ伏すかたちで耐えながら、握り締めてしまった手のひらを了見の猛りから解き、指先だけで触れている。
 今は、という前置き。さっきまでは大丈夫ではなかったという意味か、あるいはこれから先の保証はないという意味か。いずれにせよ、遊作の口にする『大丈夫』では困るのだ。身も世もなく泣き喘いで快楽に溺れ、眠ったままの本能をさらけ出してもらわなければ。
 触れるだけだった唇を先端に向かって這わせる。指先で茎を緩く扱きながら、実ったばかりの瑞々しい赤をれろりと舌で舐め上げた。潤滑剤そのものに味はなく、ただ人工的なぬめりが舌先で蟠る。
「ひ、ぁ、あ」
「……ん」
 腰が浮いて逃げるのは無意識だろう。なだらかな尻のラインを片手でなぞって押さえ込みながら、絡まる粘りを返すように剥き出しの先端ばかりを舌で撫でる。つるりとした感触が心地良い。
 やがて潤滑剤と唾液が絡まって、じゅるじゅると水っぽい音が響き始める。了見の下肢にばさばさと何かが触れる。視線だけで確かめれば、遊作がもどかしげに頭を振っている。
「りょう、けん、きつい」
「ふっ……感じているのか?」
「わからない、けど、ぅ」
 未だ芯も持たない陰茎から唇を離し、問う。頑是ない子どものようにかぶりを振っていた遊作は、髪や頬が触れぶつかることも厭わず了見の身体に縋りついた。
 次に口にした感覚は、今までよりは余程明確で、また少し本質に近づいたものだった。
「自分で触るのと、ぜんぜん、ちがう、お前がさわる、と」
 ――堪らない。
 吐息だけで紡がれた一言は、了見の雄を存分に煽った。
 あう、と遊作が鳴いた。ぐっと角度を増した了見の陰茎が崩れ落ちる遊作の頬を打つ。催促だと取ったのか、遊作は過ぎた感覚に震えながらも頭をもたげ、舌先を伸ばして口淫を再開する。ちゅるりと微かに響く水音を了見の耳は確かに捉えた。遊作の唾液と、己の先走りが混ざる音。
 今のは、違うだろう。
 不明の困惑に手が止まる。了見には同性である男に性的興奮を覚える趣味はない。了見の性欲の対象となり得るのは遊作だけだが、それも厳密には異なる。了見は遊作の痴態を歓んでいるのではなく、遊作が痴態を晒すほどに苛まれ哀れであることに悦ぶのだ。悪辣で醜悪で唾棄すべき愛情だった。
 けれど今、硬度と角度を増し、先走りが溢れるほどに興奮を覚えたのは何だ。今の遊作は哀れだったか。己が触るのとは異なる、了見が触れると堪らないのだと縋る遊作は。
「了見?」
 了見の静止を訝って、遊作がこちらを振り向いている。四つん這いで、この体勢を敷いた張本人である了見を押し潰さないよう薄い腹に力を込めて、他人に見せるべきではない恥部を隠さず晒しその全てを了見に預け、嫌悪して然るべき同性の性器に触れあまつさえ口の中に迎え入れながら。
 深く息を吐いた。溜め息にも似たそれに遊作の身体が跳ねるのは、吐息が繊細な部分を撫でたためか。冷静を取り戻した頭で考えながら、無垢な果実に甘く歯を立てた。大丈夫だ、自分は遊作を、歪み捻れた愛で縛り付けている。他には、何も。
 突然の過ぎた刺激に逃げる尻を今度は両手で押さえ込み、そして――奥に、指を伸ばした。
「ひ、ア!」
「……これは」
 耳に残響が甘く掠れる。了見は目を眇める。
 舌に亀頭を乗せたままの呟きはまた刺激になったらしく、遊作の腰が嫌がるように浮く。すると了見の指が触れるだけの蕾に押しつけられるかたちになって、自滅して遊作は短い悲鳴を漏らす。
「あ、あ」
 ぬめりの残る指で触れた遊作のそこは、まだ誰も、遊作本人すら開いたことのない場所のはずだ。了見の欲さえなければただの排泄器官過ぎないのだから。
 しかし遊作は触れたことに驚かなかった。ここを使うのだと知っていたからか。了見の猛りを前に、これは俺にか、と問うた三日前を思えば、予感して知識を身につけ心構えを済ませていてもおかしくはない。だが、それでもだ。
 確かめるべく、少しだけ指先に力を込める。衛生上、潤滑剤を纏っただけの指をそのまま中に入れるつもりはない。だから硬く蕾んだまま了見の指を拒んで、せいぜいぬめって滑るだけのはずだった。
「ひっ」
 なのにそこは、ちゅくりと水音を零して少しだけ開いた。まるで了見の指に吸いつくように。
 遊作、と呼びかける。問い、あるいは責める声だと気づいたのだろう。遊作の頭が緩慢に持ち上がり、しかし視線は沈んだままだった。応える意思を見て取り、緩む肉のふちをなぞりながら続ける。
「これは、どうした」
 端的な言葉だ。それでも遊作は正しく酌み取り、喘ぐようにして上擦る声を上げた。
「……じぶん、で」
 一度、呼吸を置く。今度は遊作が深く息を吐く番だった。
「準備した。お前がしたければ、いつでも、入れられる」
 そうして続けられた言葉は明瞭で、この上なく単純だった。
 思えば遊作は、最初からそのつもりだった。了見から施されるものは今は必要ないと、与えられるよりも自ら了見に奉仕する方が先だ、当然だという態度だった。
 もっと溯れば、遊作は始めから口にしていたではないか。シャワーの前には遅くなるかも知れないと。準備があると告げて、了見がシャワーを浴びている間には何処かへと姿を消していた。この家に迎え入れたときとて、シャワーだけ貸してもらえると嬉しいなどと言いながら見慣れないスポーツバッグを握り締めていた。
 そういえば、あのバッグがどこにもない。何処からか戻ってきた遊作はダイニングであのバッグを握っていた。中身を改めれば何をしていたかわかるだろう、そう思っていたあれは寝室にはない。バスルームに持ち込んだのだろうと踏んでそれきりだ。恐らく脱衣場に置き去りになっている。
 あれの中身は。準備がある、準備した、お前がしたければ。
 その全てが繋がって、了見は覆い被さる遊作の身体を転がした。ベッドの真ん中に仰向けに倒れ込む遊作は不意を突かれて声を上げる。柔らかくしなるスプリングとマットレスに受け止められたのだから痛みはなかっただろう。それでも目を白黒させる遊作に、了見は膝でにじり寄る。
 差し込む陽光は黄金から赤へと色を変えている。白いシーツに投げ出された遊作の白い肢体も、長く伸びる赤に晒され色づいていた。
 遠く潮騒が聞こえた気がした。その刹那に幻視する。
 本来ここに横たわっているのは、父だった。無機質な電子音が平坦に一直線で響いて、その命の終わったことを明瞭に告げていた。
 七年間、一度も現実世界で目を覚ますことのなかった父は常に死に迫られていた。了見をスターダスト・ロードに導いて、そうして最期を迎えた父。赤い夕暮れに静かに横たわる死。叶うことはないと知っていたけれど、ネットワーク世界という虚構ではなく現実で、もう一度触れて欲しかった。二人で並んで、この窓から海の輝きをもう一度眺めて。もう見上げるほどちいさくはないけれど――この七年間、父がSOLに監禁されていた期間を含めれば十年間でどれほど背が追いついたのか、起き上がることのない父とは比べるべくもなかった――父を見つめ、そして了見を見つめて欲しかった。そうして名前を、呼んで欲しかった。
 了見、という囁きが、潮騒を掻き消していく。
 今、赤の中で横たわるのは、もっと遠い日に繋がれた運命だった。無垢な声で、無邪気に大好きだと告げた子ども。了見の罪の象徴たるあの子は相変わらず無垢なまま、了見の前に全てを晒している。
 勃起しない陰茎は先端を夕陽よりも濃い赤に染めて、纏わせた粘りが細かく光を映している。下品で淫猥な行為のはずなのに、とてもそうは見えない。汚し暴こうとしているのは了見なのに、横たわる遊作には触れ難い神聖すら感じる。
 薄い胸と腹は呼吸する度に深く上下していた。生に満ちた、何事をも決して諦めない瑞々しい命。伸びやかな成長途中の肉体。父とは違う。父ではない。現実の象徴。
 赤に染まりもしない翡翠いろが、じっと見上げている。また、りょうけん、と名を呼ばれた。細い両腕が何かを求めて浮き上がる。
 何を欲しがっているのだろう、この子は。茫洋とした頭で、了見はその細腕の行く末を見ていた。
 遊作は了見の名前を何度も呼んでいる。意図のわからないまま近寄れば、躊躇いがちに指先が伸びる。了見の雄を愛撫し、包み込んでいたその指。欲の証に濡れたそれで了見の頬に、肩に、背中に触れる。辿々しく引き寄せられる。
「了見」
 抱き締められて、ああ、違うのかと気づいた。
 遊作が欲しがっている、のではない。了見が欲しがっている。了見が欲しいものを、遊作が与えてくれる。
 お前を救えるのは、俺だけだ。遊作が言った。その通りに。
 ベッドに潜り込む遊作を、了見は抱き締めて眠っているという。
 ――満たされていないとか、不安とか、人肌恋しいとか、恐らくはそんな心理からの行為だろう。……恐らく俺も。
 遊作はそう評した。了見が本当は何を欲しがっているのか、遊作は始めから知っていたのだ。その上で向けられる了見の歪んだ愛を認めて、了見が大切にする感傷を慮って、了見を受け入れるためにひとりで身体を開いて。
 今のは、違うだろう。
 少し前に去来したものと同じ困惑が、今度は了見の胸を締めつけた。身勝手な子ども、悪辣な男。そんな鴻上了見という人間に貪られながら欲するものを与え抱き締める遊作は、本当に、心底哀れだ。哀れだと思うのに、了見の表情に浮かぶのは嗜虐の笑みではない。たぶん今の自分は、泣きそうな顔をしている。締めつけられる胸の奥で、酷く鼓動が高鳴っている。
「いいんだ」
 笑っている。遊作の声は淡く了見の背に降り積もって、その重みに身体が崩れていく。その錯覚すらも赦し、遊作は微笑んで囁いた。
「いいから、了見。……俺も」
 赦されるまま、完全に崩れ落ちて重なった。遊作の体温が心地良い。脈打つ鼓動がふたえに響いて、同じ律動で交わっている。
 心音の隙間に名前を呼ばれる。今度は本当に、遊作が欲しがっている。
 察して動かす腕は酷く鈍い。先ほどの遊作よりもずっとぎこちなく辿々しく、呆れるほどの時間をかけて遊作の背中に腕を回した。
 ほうと息を吐いて、遊作は脱力したようだった。それでも腕に感じる重みは薄く、軽い。
 遊作はお前が思うよりずっと余裕ないんだからな。そんなAIの声が不意に思考を掠めた。平然とした顔で寝室に現れて、当然のように了見に奉仕して、陵辱を許して。余裕がないようにも溺れているようにも見えなかったが、本当はずっと強張っていたのだろうか。この薄くて細い身体は。
 右腕を遊作の背から抜く。おもむろに上体を起こせば、とけたような顔をした遊作がいる。赤に染まらない瞳が瞬いて光を散らし、了見の離れていく感覚に、ぁ、と切なげな声を上げた。そうではないと宥めるように右手で遊作の身体のラインを辿っていく。西日に染まる白い肌に、胸の頂がふくりと浮いて赤い陰影をつくっている。指先で悪戯に掠めれば遊作は少しだけ身を竦めた。そのまま薄い胸を撫で、凹んだ腹から恥骨の上にまで、ぺたりと手のひらを添える。
「……ここは」
「……そこも」
 曖昧な言葉に、応える曖昧は然して明確だった。
 この皮膚の下は、空っぽなのだ。了見を受け入れるためだけの空洞。
 蕾だけでなくもっと奥まで、あのバッグの中の某かを使いともすれば人の尊厳に触れる行為を自ら施した。了見を受け入れるためだけに。
 行為の間、遊作は何を考えて、思っていただろう。きっと己の姿を惨めだとは思わなかったに違いないと、傲慢にも予感する。触れるだけの手のひらが熱を増したような気がした。
 だが少しだけ疑問があった。遊作の腹はきっと本当に何も入っていないのだろう、薄くて頼りなくて凹んでいる。それは間違いない。しかしここまで空にするには、幾度か洗浄を繰り返す必要があるだろう。了見がバスルームに消えた時間はほんの短いものだったし、遊作の方はそこそこ長時間を要していたと思うが、果たしてそれだけでここまで空にできるものだろうか。
「ここに来る前に、準備していたのか」
 遊作の姿は明らかに学校帰りのそれだった。もしかすると制服を着て家から来たのかも知れないが時間が合わない。鴻上邸は遊作の学校のある都市部からはそこそこに距離がある。何より家から来たのであれば学生バッグを持ってくる必要はないだろう。
 まさか学校で。あり得ないと知りながら問うたのだが、遊作は居心地悪そうに視線を逸らした。返される言葉は想像していないところから投げられる。
「三日、貰っただろう」
「? ……ああ」
「固形物は、極力食べないようにして」
 ゼリー飲料と、水分の多い果物だけ。本当は水だけがいいらしいが、さすがにそれは無理だった。
 その言葉をすぐには理解しかねた。問いと答えを幾度か反芻し、了見の中にじわじわと遊作の意図が染みていく。
 つまり遊作は処理を楽にするため、三日間ろくな食事を摂っていなかったのだ。
 品のない話だが、出すものがなければ確かに準備に要する時間は少なくて済むだろう。ついでに了見の提案した食事も断って早々に行為に及んだ理由も理解した。
 凹んだ腹を再度撫でる。極論から肉体の主に苛まれたそこを労るような心地だった。
「遊作、お前は」
「あ、ああ?」
「健全な発達、健全な思考は健全な肉体あってこそだ。成長期の身で食事を怠るな。ハッカーの端くれなら尚更、体が資本だと自覚しろ」
 腹の中が空であることを差し引いても、遊作の身体はどこもかしこも薄っぺらく、ほっそりとしたつくりをしている。スーツ越しにも薄らと筋肉の隆起が見て取れる、そのように設計されているPlaymakerはコンプレックスの裏返しなのではないかと訝ってしまう程度に。
 十年前の半年間、時にはまともな食事も得られず本来身に起こるはずのない暴力を浴びせられ、死なない程度の環境で生きてきた遊作の成長は健全に育った同世代の子どもたちよりも遅れていただろう。現在の遊作の食生活も、知りうる限りと想像の範囲を掛け合わせたとて実に貧しいものである。加えてハッカーという虚構世界へ座して身を投じる人種は現実の肉体をないがしろにしがちだ。本来は意図的に、計画性を以て運動を生活に取り入れなければならない。
 運動という点については遊作はまだ学生なのでそちらで補える。しかし食事に関してはそうはいかない。自己管理が必要だ。
 それを、三日間も。成長期の貴重な三日間、一日三食、計九食もを主食たり得ぬゼリー飲料と果物だけで。
 思わず脱力する頭上に、密やかな息遣いが降ってくる。遊作がちいさく笑っている。
「何がおかしい」
「いや。急にお前が説教を始めるから」
 確かに、互いの格好を考えれば笑えるのかも知れない。男二人がベッドの上に全裸で、下肢を粘性で汚し、あるいは猛らせながら向かい合ってする会話ではないだろう。遊作の微笑とて場違いに思えたが、もしかすると睦み合うようにも見えるのかも知れない。また知らない感覚が、了見の胸の奥を微かに焦がす。
 とはいえ、反論はなかった。乾き始めた手のひらを遊作の腹から引きながら、了見はせめてと唸った。
「……次からは、こんなことはしなくていい」
 元より、遊作が自ら一人で準備したものは了見が手ずから施すつもりでもあった。恐らく遊作のスポーツバッグの中身とそう変わらないものも必要だと思い、三日の間に用意していたのだから。
 その程度の意味だったが、遊作は猫のような目をちいさく見開いた。赤の中で強く光が瞬いて、ただ了見だけに注がれる。ひゅっと息を吸う音すら聞こえるような、切り取られた刹那。
「つぎ、」
 光に呑み込まれる。目を細める。
「次が、あるのか」
 今日が、初めての『次』だった。遊作から口にしたそれににわかに衝撃を受けたのはほんの三日前のことである。
 なのに今、無意識に口にしていた。了見から、遊作に向けて。
 独り言のような微かな遊作の声に、じわりと感情が滲んでいる。了見が背にした硝子の向こう、やわらかくうねる波のようにさざめいて広がる。了見の胸の奥にまで押し寄せて、知らないそれが震える。困惑が、名前を知らないかたちを得ようとしている。
 そのかたちを見つめてしまう前に、了見はシーツで雑に手を拭った。それから転がしていた潤滑剤のボトルと、まだ封の切られていないものをもう一つ。この家に取り残されたままだった医療用グローブを右手に嵌めながらボトルの蓋を再度開けた。
「続けるぞ」
「……ああ」
 問いに答えないままでも遊作は追及しなかった。ただシーツに深く身を沈め、ぎこちなく身体の力を抜いている。
 思うところは多々あるが、遊作が自分で処理をしているのなら話は早い。その覚悟も含めて、だ。遊作は了見の欲望を受け入れるために施したようだが、了見の意図は自身のためでなく遊作への義務を果すためにこそある。
 グローブを纏う指先に、手のひらに潤滑剤を垂らす。とろり、ぼたりと、粘性は重く滴り落ちて、夕暮れの赤の中に奇妙な陰影を描きながら白いシーツをまだら模様で染め上げた。
 泥の中を掻き混ぜたように潤う右手を掲げながら、左手を遊作の膝裏に差し入れる。目的を履き違えたまま、それでも遊作は行為の先を予感して自ら両の膝を立て、おずおずと開いてゆく。
「もう少し、腰を浮かせろ」
「ん……」
 伏し目がちになる翡翠いろは、抵抗がないわけではないのだろう。
 少しだけ、腹の底が疼いた。自らを差し出す遊作の姿に、了見の飼う悪徳の獣が悦んでいる。そのことに安堵する。まだ胸の奥ではかたちのない何かが微睡んでいるが、締めつけるほどの苦しさは密やかになっていた。
 遊作自身によって緩慢に晒された場所では、目覚める寸前さながらに蕾が震えている。周りの皮膚より色が濃く、薄いふちの肉は赤らんでいた。
 了見は手のひらに溜めたぬめりを、ゆっくりと傾けて蕾へと注ぐ。蜜のように滴るそれが触れた瞬間、遊作の身体はちいさく跳ねた。
「んっ」
「冷たいか」
 浮き上がる太腿を左手で擦り、宥める。了見の問いに遊作は首を横に振るのみで答えを示した。逃げを打つ姿勢で顔を背け、それでも薄く開かれた瞳が了見を捕らえている。その視線はこの先の行為を決して咎めず、拒まない。
 注いだローションが臀部の曲線に流れてしまう前に指先で掬い上げる。あわいをなぞるようにゆっくりと往復させて、後孔にさしかかる瞬間には悪戯に力を込めた。ぷちゅ、と微かな水音と共に、蕾のうちがわへ微かに引き込まれていく。
 目を眇めながら何度か繰り返し、掌中に遊んでいたぬめりが尽きる頃に一度動きを止めた。遊作のまろい尻を濡らす潤滑剤を人差し指の先にたっぷりと掬い上げて、纏わせる。
 もう一度、真っ直ぐに見つめれば、遊作も長く息を吐きながら視線を合わせる。逃げることはせず、真正面から。ゆっくりと長く息を吸い、空の腹が艶かしくうねった。
「大丈夫、だ」
「……挿れるぞ」
 まずは人差し指、一本。
 遊作が息を吐いた瞬間にぐっと力を込めれば、存外と易く呑み込まれた。
「う、く」
「そのまま、ゆっくり息をしていろ」
 肉の輪がきゅうと、了見の指先を締めつけてくる。まだほんの爪先だ。遊作が自分でしたという準備は洗浄だけで、さすがに拡張までには至っていないのだろう。
 それでも進めないほどに硬いわけではない。息を吐くタイミングに合わせて指を進めれば、第二関節ほどまで埋まっていった。
 指に纏う薄い皮膜越しにも、生々しい温みが伝わってくる。遊作のうちがわ、その肉体の深いところ。誰にも蹂躙されたことはなく、蹂躙されるはずのなかった場所。目が眩むほどの生を感じながらちいさく抜き差しを繰り返し、少しずつ奥へ奥へと進めていく。捻る動きを交え、そのままに引き、また突き入れる。はくはくと肉のふちが蠢いて緩んでいく。
 ちらと窺えば、遊作は目を細めて天井を見上げながら、やはりはくはくと唇を戦慄かせていた。西日の赤に溺れているようだと思う。
 揶揄することもなく労ることもなく。中に潜り込ませた指を進める動きから探る動きへと変えてゆく。一度ゆっくりと指を回せば、肉の襞が侵襲に驚いて震えていた。構わず手のひらを空へ返して、腹側の肉、恥骨の下あたりを狙って指を動かせば、ある一点で声が上がった。
「う、あ!?
 漫然とした未知の感覚に揺蕩っていた遊作の翡翠いろが、見開かれて瞬いている。
 了見は自身の口元が、歪み、あるいは緩む様を自覚する。
 指先に触れる、少しだけ膨らんだ箇所。宥めるように撫でながら奥へ指を滑らせ、爪先できつい肉の隘路を割った。ぐ、と鳴る喉奥からの声を耳にしながら奥深くまで拓くことはせず、少しずつゆっくりと指を引き抜いていく。指の関節を引っ掛けるように、少しだけ折り曲げながらのそれには苦鳴ではなく、あ、とか細い声が上がった。
 爪先は遊作の中に残したまま、ゆるく開いた手のひらに再度ローションを溜めつつ形ばかり問う。
「痛くはないな」
「い、たくはない。俺は、このままでも」
 相変わらず、遊作は了見の意図を履き違えている。
 自己犠牲めいた言葉には聞く耳を持たず、掌中の粘性を握りつぶした。ぐちゃりと上がる音に遊作は黙り込んで、けれど身体が耐えきれず子犬めいた声を漏らした。手のひらの動きが指先から肉壁へと伝わって刺激になったらしい。
 右手を傾ける。まだ温もりきらなかった潤滑剤が垂れ流れて、遊作の内腿が痙攣する。人差し指に中指を添えたことには気づいただろうか。しばらく放置したまま、最初に注いだローションが乾き始めた陰茎を左手で支え持ったことに気取られて気づかなかったのかも知れない。
「いくぞ」
「はっ、ぁ? あ、ア、ああ――!?
 にゅる、と二本の指を呑み込ませる。同時に左手に包んだ陰茎を擦り上げれば、白い肢体が波打つように跳ねた。
 僅かずつ忍び込ませていた指は奥へと突き入れ、中の襞を引っ掛けて掻き回す。左手は亀頭を指先で揉み込むようにしながら強く扱いた。
 ばさばさと、遊作の髪がシーツを叩く。激しく首を振りながらも翡翠の視線は了見から離せないでいる。その哀れを微かに笑った。
「き、ついっ、これ、ッ」
「その感覚を追っていろ。外も、中もだ」
 敏感すぎる先端からは少し手を緩める。代わりに裏筋や雁首を重点的に、何よりも中の指を強く意識して刺激していく。遊作が声を上げた腹側の一点。撫で、擽り、時に揉み込んで。
「は、ぁ……あっ、あ」
 了見が指の動きを少し変えるだけで、遊作の身体は素直に反応する。啼いて、跳ねて、薄っぺらい腹を震わせて。
 けれど了見が求める反応だけは、まだ得られない。
 生まれ育った環境ゆえか、了見は研究者気質である。冷静につぶさに観察し、理想の結果が得られるまで何度でも試行する忍耐を持っている。同時に身勝手で悪辣であろうとも、義務に対する責任だけは確かに果すべきだと思っている。
 手法は間違っていないはずだ。十年前の事件を機に遊作の身体と精神に何が起こったか、あるいは取り返しがつかないとしても。
 外側への刺激は極論排出を促すためのもので、本態は中だ。腹側の膨らみを刺激し、あるいはこれでは足りないのかと奥へ、浅いところへ。その度に遊作は声を上げ、徐々にほどける内側の肉が了見の指に絡みついてくる。もう一本、薬指で肉のふちを引っ掻けばゆるく口を開き、ぐっと押し入れば受け入れられた。
「んっ、あ……う、ぅ」
 三本の指で遊作の中を暴いていくが、さすがに少々きつい。僅かばかりの腸液は分泌されるが、本来ここは外からの責めを受け入れる場所ではないのだ。人の手で注いだ潤滑剤など滓のように固まって乾いてしまう。
 潤いを足すため、性器を刺激する手を休めローションを再び手に取れば、了見の手を離れた陰茎はくたりと垂れ下がる。まだだめかと深く息を吐いた瞬間、びくんと遊作の身体が跳ねた。
「……遊作?」
 刺激に対しての反応とは異なる。まるで雷にでも打たれたような激しい震え。
 はっとして顔を見れば、遊作の様子はこれまでと明らかに異なっていた。
 薄く開いた唇が浅く速い呼吸を零し、目が大きく見開かれている。その眦から零れるひと筋は夕陽を含んで、まるで血のように赤い――
「っ遊作!」
 ぱしりと頬を叩けば、翡翠を閉じ込めた瞳孔がきゅうと絞られた。
「あッ――っは、ハ、ひゅ、ぁ、うっ……け、」
「……今は喋るな」
 栓が抜けたように呼吸を取り戻す、薄い胸が大きく上下する様に了見の肩の力が抜ける。
 遊作は、きちんと生きている。
 死とはもっと静かな、あるいは無機質で平坦で一直線なものだ。震え、上下して、乱れるものはまだ生きているものだ。だから、大丈夫だ。
 医療用グローブを外し、遊作の裡を暴いていた右手を伸ばす。なだらかな頬のラインを濡らす赤を拭い取れば、ほうと息を吐いて少しだけ擦り寄ってくる。安堵したのか僅かに身体を弛緩させて、遊作の呼吸は徐々に、なだらかで穏やかなものに変わっていった。
 零れた涙で濡れた指先、触れ合う肌にはきちんと熱が宿っている。
 了見の右手に刻まれた赤が微かに、胸の奥を苛んだ。
「す、まない。……もう大丈夫だ」
「…………」
 光を宿す翡翠が、確かに了見を見上げている。いかなる時にも揺るがない意思の光。眩しく美しい虚像。
 了見はそこに映る苦い顔をした男に責められている。その男を責めている。遊作もそうであるべきだろうに、彼は大丈夫だとなかったことにして受け入れてしまう。
 十年前の半年間、遊作の世界は狭くて小さくて目が灼けるほどに白い、機械音だけの世界だった。理由も目的も知らされないまま監禁され、デュエルを強要され、最低限の食事が投じられる。
 幼い遊作はそれでも黙したままの誰かに観察されている、という意識はあっただろう。火葬場の煙突のような白く細い壁の向こうで、誰かが見ている。だからデュエルの結果により食事の増減があるのだ、と。人間の気配のない行き止まりで、見えない存在に怯えていたに違いない。
 そこで三つを思考させ、一人ではないと人の意思を持って語りかけた――語りかけてしまった、唯一の例外が了見だった。
 けれど今の了見は救う側ではなかった。黙して観察し実験する、遊作の心的外傷そのものだった。
 あの時と違い隔てる壁こそなかったが、実験対象として見られている、という誤認を与えるには十分な行為だった。意図も伝えないまま、言葉少なに侵略し視線だけで探る、この行為は。実際、遊作の正常な身体機能の発露に固執していた先ほどの自分は試行の対象としてしか遊作を見ていなかったと思う。
 言葉もない。触れる皮膚に宿る熱だけがかすがいで、停滞した水底に澱んでいる。
「了見」
 停滞した海に、ふわり、浮き上がる声。マリンスノーのようにやわく淡く了見に触れる。遊作の右手が了見の頬に触れていた。
「少し取り乱しただけだ。大丈夫だから……俺のことはいいから、もう、ここに」
 伏し目がちに囁いて、するりと膝を立て、開く。了見の右手が暴いた場所を遊作自ら曝け出している。
 初めよりも赤が濃く、ふちの肉が盛り上がっている。男の指を三本受け入れていたそこはくぱりと開いて、遊作の呼吸に合わせて僅かに開閉していた。中に含まされたローションがぷくりと浮かび上がって零れ落ちる。
 蹂躙される遊作の哀れに、けれど今の了見の悪徳は嗤わない。
 代わりに胸の奥に居座っている名前も知らない何かが、心臓の内側から突き刺すように痛んでいる。
 遊作はこの期に及んでまだ、勘違いをしている。右手をぎこちなく滑らせて、ぺたりと左頬全体を包み込んでやった。
「……私は、お前に挿入するためだけにそこを暴いていたわけではない」
 遊作の猫のような目が瞬く。まるで予想していなかった、という反応。同時に、本当に気づいていなかったのか、という虚脱感が了見の中に宿る。
 三日かけて了見の予想を上回る行動を見せた遊作の知識ならば、気づいてもよさそうなものを。あるいはそれほどまでに了見の欲望を受け入れる一心だったのか。了見にとっては衝撃だった、自身の未発達は一顧だにせず。
「自分で準備したからには、私がどこを触っていたのかぐらいわかっているだろう」
 指の第二関節を含む程度の距離にある、腹側、恥骨の下の器官。遊作は否定せず、けれど強く肯定もしない曖昧な角度に首を傾けた。
「前立腺、というやつだろう」
「そうだ」
 外性器である陰茎への刺激で勃起できないのであればあるいは、という心づもりだった。性行為の一つとして単純な快感を得るには時間をかけて慣らしていく必要があるらしいが、精液の生産や射精時の尿道の収縮に関与した器官への刺激はきっかけ足りうるかも知れない。
 右手の指先、触れる熱を確かめながら、翡翠いろの瞳を覗き込む。端に藍を滲ませ始めた夕暮れの赤、了見にすべてを捧げる姿勢の子どもを愛する指先。あるいは突き放す指先。
「……私は、お前が失った時間を取り戻すつもりだった」
 突飛な言い方だと自嘲しても、結局それが全てだった。
 本来獲得しているはずの身体機能の不足。恐らくは十年前の赤い曲がり角が全ての始まりだ。他者と断絶し心が乖離し、その奈落を超えた了見しかいないのだと言う遊作。埋められるのは罪を犯した了見だけ。その哀れを悦ぶ歪んだ自分だけなのだ。
 身体が正常に機能することで、贖えるとは毛頭思わない。それでも遊作が空虚を抱えながら了見だけを見て、受け入れて、自分はいいからと献身を捧げ――了見と、名前を呼んで抱き締められた、欲しいものを与えられた。
 あの瞬間に了見の悪辣は歪み、揺らいだ。了見の空虚は満たされてしまった。
 代わりに、この胸を締めつける名前のないもの。そのかたち。愚かだと理解していても、今更の偽善に奔らせるそれ。独善的な義務感が背負えもしない十字架を担いで、結局押し潰されている。
「俺は、」
 応えたのは、やはり凛とした声だった。
 ぺたりと、声に反したいとけなさで肌に触れる。遊作は両手で了見の頬を挟み込み、決して逃がさないやわらかさで真っ直ぐに見つめてくる。ふたりで横たわるには広すぎるシーツの海、藍の潜む世界の中心で告げる。
「確かに俺の時間を失った。でもその空白を慰めてくれるものがたったひとつだけあった」
 赤い夕暮れが、あいぶかい夜に沈んでいく。夜の始まりの声。
「了見。俺は不幸かも知れないが、失うばかりじゃなかった。お前だけを想い続けていた時間は、俺にとって間違いなく幸せな十年だ」
 その眼差しも瞳も、どうしようもなく優しい。他の何者でもなく、この世界で了見だけに向けられる感情だった。
 了見の影の中で、遊作が淡く微笑んでいる。十年前、夕暮れの曲がり角で美しいと思った無垢。十年分の煌めきを湛えて一層まばゆく、了見の魂を捕らえ、癒す、疵と呼ぶにはあまりに尊い相手。互いに結ばれた運命の囚人。
 胸の奥で痛いほどに膨らんでいた何かが、明確なかたちを得てしまう。その名前に、気づいてしまう。
 ぱた、ぱたと、遊作の笑みに雨が注いだ。しょうがないなとでも言いたげに笑みのかたちを変えて、遊作の指は天を慰める。すくわれるままの涙を止める術もなく、どうしようもない子どもの声で了見は泣いた。
「遊作。お前は、何が欲しいんだ」
「ずっと言っているだろう。まだわからないか?」
 お前らしくないな、リボルバー。
 頑是ない子どもを甘やかす声で、賢らしいアバターを揶揄う。浮かべる表情こそ異なれど、先ほどの了見と同じ心境かも知れない。本当に気づいていなかったのか、という虚脱感を、遊作は笑んで昇華している。
 あの日、夕暮れの曲がり角で手を差し伸べてしまったのは了見だった。しかし今日、宵の海で手を伸ばすのは遊作からだった。
「失った記憶も、断ち切られた人生も欲しい。けど、今の俺が欲しいのは、」
 ――了見。
 胸の奥深くへ響く、いっとう優しい声だった。
 お前のそばだとよく眠れる。初めから遊作はそう言っていた。了見の隣に潜り込んで丸くなって、幼気に、あどけなく眠っていた。了見に抱き締められるがまま深く、眠りの底、了見の人肌が恋しいと。安心するのだと。
 沈んでいく。藍深い夜へ向かって、今度は明確な了見の意思で。
 皮膚と皮膚が触れ合って熱が宿る。遊作の輪郭を確かめるようにあちこちへ触れて、隙間もないほどに抱き締める。再度重なった鼓動はふたえ、ひとえ、重なっては離れて、また重なる。時に不協和音を奏でる鼓動こそが、互いが互いとして生きて存在している証だ。あえかな音を聞き逃さないよう、あるいは聞こえぬほどに、痛いぐらいに遊作を抱き締めて、抱き締められた。
 不揃いで、どこかが欠けたピース。別個なのに、お互い同士でしか噛み合わない奇跡。
 胸の奥を締めつけていた何かが満ちていく。痛くて、辛くて、なのに嬉しい。このかたちの名前を、了見は遊作の耳元で囁いた。
「愛している」
 錯覚ではない。すり替えてもいない。悪辣でも醜悪でも捻じれてもいない、少しのことで傷ついて迷子になってしまうこの感情。間違いのない、本当の名前と真実の姿。
「俺も、愛してる」
 応える声はやはり無垢で、けれど毒のように滴るのではない、瑞々しくいとけない歓喜に満ちている。
 浮かべる表情は十年前から続く、あの日の遊作と同一にして別個の、けれど了見の求めてやまない笑みだった。
 重なる熱に、絡め取られてまた熱が上がる。ふたりでどこまでも昂っていくような、けれど静かに宿っていく熱さ。身動ぎ、すると遊作が強く縋りつく。離すな、と囁く声は掠れていて、そっと顔を覗き込めば細められた翡翠いろが潤んでいる。
 深く、ゆっくりとした呼吸を二人で刻む。自分の腕の中で遊作の薄い胸が、凹んだ腹が上下する艶めかしさに目が眩んだ。ひたひたと、雪の夜を歩くような静かな熱をお互いに抱いている。目に見えて昂るのは依然了見だけだったが、触れる遊作の皮膚の熱さも同じだと訴えていた。
「なあ、了見」
「……ああ、っ」
 息を呑んだ。了見の背から滑り落ちた遊作の手が、放置されて久しい了見の雄の部分に触れている。
「お前が欲しい、から」
 ゆるゆると撫で摩りながら、潤む翡翠いろでじいと訴えてくる。
 そこに浮かぶ婀娜っぽい熱は、間違いなく欲情と呼べるものだ。遊作は勃起したことがない、性的興奮を覚えたこともないと言っていたが、肉体由来の性嗜好とは異なるかたちで性的欲求を訴えている。
 了見ももう、遊作の訴えを履き違えた自己犠牲と切り捨てることはしなかった。代わりにベッドの端に放置されていたローションのボトルと、今までずっと放置されていた小さな箱を手繰り寄せる。三桁の数字が自己主張するパッケージの生々しさに気付いたのか、遊作の喉がちいさく上下した。
「も、う一回、口でするか?」
「いや。……このまま、手を」
「あっ、あ、あ」
 触れたままだった遊作の手の上に、自分の手のひらを重ねる。そのまま上下に動かせば、じんわりと温かい快感が生まれていく。
 遊作は戸惑いがちに、それでも拒むことはしなかった。ちらりと了見を上目遣いに見上げ、応えて笑ってやれば触れる熱が上がったような気がする。了見にされるがままだった手を自らぎこちなく動かし始めた。
 重ねた手のひらが気持ちいい。口の中の生々しい熱とも、無論、一人で遊作の不幸を食いものにしていた劣情とも異なる。性行為とは思えないほどに凪いだ快感。
「……はっ、ぁ」
「きもち、いいか?」
「ああ……っ」
 問われ、答える。上がる息の合間の言葉に遊作は少しだけ相好を崩し、より甘い手つきで触れてくる。
 遊作が了見を欲しがっていて、その遊作の手が了見の雄を、自らの裡に取り込むために動いている。拙い指が裏筋や浮き上がる血管、くぱりと開く尿道口を宥め、雁首を擽り、たぷりと重く精液を溜める精嚢をあやしている。その事実だけで十二分に、了見の陰茎は硬く反り返った。
 手のひらを離し、手繰り寄せた箱を開封する。小さな丸いブリスターパックを取り出して蓋を外し、薄いポリウレタンをつまみ上げる。薄い藍色の空気の中、人工の皮膜が纏う潤滑剤がてらりと西日の残照を反射した。それに反応したのか、遊作の手が了見の雄から跳ねるようにして離れた。猫みたいな目をきゅっと開いて、初めて目にするのであろうコンドームをじっと見つめている。
 視線を意識しないように、了見はポリウレタンの先端を摘まむ。空気が入らないよう亀頭に密着させ、そのままくるくると根元まで被せた。依然感じる視線の方へと目をやれば、遊作は少しだけ眉間に縦皺を刻んでいた。
「慣れてるんだな」
 どうしてだかむくれたように聞こえる声。
 滲む感情を察して、名前を知ったばかりの感情が胸の奥で膨れ上がる。思わず笑んでしまってちいさく睨まれた。いや、と答える声は決して弁明ではない。随分昔の、事故みたいな初めの一回を除けば了見の性交経験などないに等しい。
「……この三日で練習した、と言ったらどうする」
「は? ぇ、あ、ひゃっ」
 間の抜けた声が二の句を継ぐ前に、もしくは遊作の呆けた顔を笑ってしまい一層不興を買う前に、膝裏を掴んで持ち上げた。抵抗などするはずもない膝は簡単に開き、赤い蕾を了見へと差し出してくれる。微かに乾き始めているそこに温めもせず潤滑剤を垂らせば、遊作の声が裏返った。
 誤魔化すな、と辛うじて吐息で紡がれた声もすぐに遊作の喉奥へ消える。スキンを被せた陰茎にもローションを垂らし、二度三度扱けばすぐににちゃにちゃと音が鳴った。粘着質なそれは今まで散々耳にしたはずだが、今に至っては明確に意味が異なる。了見の些細な告白は遊作の思考の片隅へと追いやられただろう。
 了見の指を三本、受け入れていた蕾は蜜を注がれて綻んでいる。もう一度指で慣らしてやりたかったがグローブはもう外してしまった。何より、もう持ちそうにない。空白を埋めて繋がった感情が、早くひとつになりたいと脈打っている。
 遊作の手首を取って引く。察した遊作は自ら了見の背中に腕を回した。肩と肩、胸をくっつけて、了見の首筋に鼻先を埋めてくる。
「耐えきれなければ爪を立てろ。噛んでもいい。たぶん、途中で止めてやれない」
「ん……わかった」
 額を擦りつける動きは頷いたのだろう。甘えるような小動物めいた仕草と、是の隙間に紛れる吐息が笑みを含んでいて引っかかった。警告に対する反応にしてはあまりに穏やかだろう。
 刹那の沈黙に了見の困惑を察したのか、今度こそ明確に吐息が首筋を擽る。
「お前でも、たぶん、なんて言い方をするんだな」
「……それだけ余裕がない」
 ふふ、と甘やかな声。ぴったりと触れ合う身体が泣きたいぐらいに温かい。
「お前が俺に与えるものなら何でも、痛くても、痛くない」
 ぎゅうぎゅうに抱き締められながらの台詞は、拙く矛盾している。
 それでも間違いなく、遊作にとっては真理だった。了見にとっても信じるに足る言葉だった。痛いけれど痛くない。二人を確かに繋ぐ十年を解いて、縒り合わせて、癒していく感覚。溶け合う感情。本来は結ばれることのない二重螺旋を夢見て、了見は藍の中に目を閉じた。この精神に、肉体も連れていく。
「少しだけ、腹に力を込めろ。その方が辛くない」
「ああ……」
 ちゅ、とリップ音にも似た粘性の響き。遊作の後孔に亀頭を触れ合わせる。首筋に触れる息が深くなる。吸って、吐いて、吸って。
 了見のためだけに空になった腹が呼吸と同時に波打って、最後に息を吸うタイミングでくっと硬くなった。
「いく、ぞ……ッ!」
「ぐ、っあ……あ、あ゛ぁっ!」
 腹に力を入れた瞬間、僅かに緩む。同時に腰を押し進めれば、肉と肉が触れ合って軋んだ。
 遊作の身体が強張る。硬直ごと抱き締めて、背中の痛みに眉を顰めながら、内心で歓喜する。心臓に、こめかみに、腹の底に、遊作を貫く場所にどくどくと血が巡る。
 やっと一つになった。失った空白が埋まった。あの子を、この腕に抱き締めた。
 藍に沈み始めた部屋の隅に、もう二度とあの幻は現れない。了見はもう二度と、身勝手にこの子の哀れを貪りはしない。
 虚構ではなく、リアルな熱を、生を湛えた遊作がこんなに近くにいて、受け入れられている。
 歓喜が獣のかたちをとる前に、歯を食いしばって理性で縛りつける。抑えきれない衝動がちいさく腰を揺すらせて、きゅうきゅうと狭まる遊作の中を解いていく。
「あ、くっ、ぅ」
「遊作……ゆうさく、」
「アっ! っふ、う、ぁ」
 耳元で名前を呼べば、びくんとちいさく身体が跳ねた。ひとつ、中が緩んで、了見がひとつ進む。強張る背中を、肩を撫でて宥める。
 少しずつ少しずつ進むうちに、やがて先端が膨らみに掠めた。ひっと息を呑んで遊作が目を見開く。恐怖や痛みではない感覚がちいさな悲鳴の後を引いていて、了見はそこを重点的に責め抜いた。ずちゅずちゅと品のない音が上がり、遊作の声が重なって溶ける。
「ぁあ、ヒ、んんっ! りょ、うけっ、りょうけん、そこっ」
「痛くは、はッ、ない、だろうっ!」
「ああァ、ぁぐ、ン、あぁ!?
 一度腰を引いて、勢いよく突き入れた。前立腺を押し上げながら更に奥へ、その衝撃に遊作の背が反り返り、了見の陰茎に肉襞が絡みついて蹂躙を咎めてくる。背筋が粟立つような快感をもたらすそれは逆効果だ。
 遊作の意思とは関係のない反応を笑い、引き抜いては突き入れるを繰り返す。ちゅこちゅこと音が上がり、了見は奥へ、奥へと拓いていく。指では触れなかったところまで侵入を果たしたところで、背中に回る手のひらがざわめいた。
「ぁ、ま、って、りょうけ、んンッ! とまっ、て、くれ!」
「んっ……ハ、やめ、られない、と言ったが、」
「く、ぁ! ぃ、っかい、まて……は、ふ」
 滑り落ちた手のひらに胸を押され、了見は腰の動きを緩めた。その間にも了見の雄を包む粘膜は舐るようにざわめいている。誘われるまま暴こうとする衝動を呼吸を整えることで宥めすかし、制止の声を上げた遊作を見下ろした。
 藍色に浮かぶ白い肌に、浮いた汗が艶めいている。了見と同じように呼吸を繰り返す胸は浅く上下して、その頂でつんと尖る果実には赤みが差して見えた。行為の前には何も感じなかったはずのそこに、舐めたい、という欲求が過り、それでも踏みとどまった。
 薄く開いた唇が唾液で濡れている。そこから吐息が落ちるたびにつやつやと光る。ああ、と悦に入った声がまろび落ちて、了見の胸から離れた手は腹にぺたりと触れた。目を細めて、遊作は己の腹を撫でている。
 了見を受け入れ、呑み込むために、三日かけて空にした肉のうろ。今この瞬間は、了見のためだけの場所。凹んですらいたそこが今はふくりと膨らんで見えた。遊作の唇が緩んで、うれしそうに囁く。
「ここ、に、お前が、いるんだな。了見」
 そんなふうに、微笑まれたら。
 悪辣とは異なる獣が、腹の底で目を覚ます。
 とろけていた遊作の表情が覚めていく。あ、と声が上がり、膨らむ腹を見下ろした。
「え、ぁ? おおきく、なっ――アアアア!?
 なに、まって、という声が聞こえた気もするが、がつがつと腰骨がぶつかる音に掻き消えていく。性急な突き上げに遊作は悲鳴を上げるが、遊作のなかはきゅうきゅうと締めつけながら了見の雄を奥へ奥へと呑み込んでいく。
 入り口と化した肉の輪は根元をきつく締めつけて、ざわめく肉襞の一枚一枚が幹を愛撫する。亀頭は甘く、もっと奥へとでもいうように肉筒に吸いつかれる。遊作の裡のすべてが了見のかたちに変わっていく。
「は、は、ハ――あ、はっ、きもちいい、な、ゆうさくっ」
「あ、ああっ、ん、あ! あー~~ッ!」
 誘われるままに暴いて、こつんと行き止まりに辿り着いた。奥へと進んできた了見を労わるように、ちゅうと先端が絞られる。応えるようにちいさく腰を揺すって突つき返す。
 同時に、了見の腹にも当たるものがあった。やわらかく硬い感触を不思議に思い、腹を浮かせて見下ろす。
 そこには、了見の望んで固執していたものがあった。
 汗に濡れ、恥骨周辺にぺとりと張りつく遊作の薄い下生え。その中でちいさく萌す遊作自身。陰茎が微かに屹立して、震えている。
「……遊作」
「はっ、ぁ……ひあ!?
 萌したばかりのそこに右手で触れる。遊作の腰が浮いて、中の締めつけがきつくなった。奥歯を噛んで耐えながら掌中の肉をゆっくりと擦り上げ、その度にびくびくと跳ねる腰を左手で押さえつけた。
 了見の手が往復するごとに、未熟な雄は芯を持っていく。未知の感覚に目を瞬かせる遊作が見つめる中、ゆっくりと手のひらを開いてやった。
「……勃った、な」
「ぁ……ぁ、あ? こ、れ?」
 首を傾ける仕草が酷く幼い。己の陰茎が初めて勃起していることをまるで理解できていないように、茫洋とした表情を浮かべている。
 未だ腹に添えられたままだった遊作の手を取る。不思議そうに首を傾けたまま、緩慢に己の下肢と了見を見比べる。ふっと笑って、了見は先ほど自身にしていたように、遊作の手に自分の手を被せ、初めて屹立するそこを握らせた。すり、すりと上下させればローションを垂らさなかったそこは潤いも少なく、肉の感触だけが時に引っかかりながら伝わってくる。
「ん、ぁ……は、はっ」
「遊作、感じる、か?」
「んっ……」
 遊作はとろりと目を閉じる。了見の声が届いているのかもわからない。肉体が反応しているのだから快感を得ていない、ということはないのだろうが、夢うつつのように曖昧だった。
 答えを得ることは諦め、了見はゆっくりと律動を再開する。遊作のものを扱き上げながらの行為は自然と同期して、中を突き上げるタイミングと陰茎を絞るリズムは重なっていく。ぬく、ぬくと了見の陰茎が抜き挿しするごとに遊作の肉は甘く綻んで、きゅ、きゅと健気に締めつけてくる。
 こちゅりと、遊作の奥の奥を突き上げる。同時にくぱくぱと息づく遊作の鈴口に爪先を突き立てた。その瞬間に、微睡むように喘いでいた遊作がひゅっと息を吸う。
「ぁ」
「遊作?」
 翡翠いろが、藍深い世界で見開かれている。重なる手のひらがかっと熱を持って、遊作は両手で陰茎を握り締めた。
 明らかに変わった様子に、律動を止める――止めようとした。
 瞬間に、了見の陰茎を呑み込む遊作のうちがわが、ざわめいた。
「ゆうさ――くっ、ア!」
「あ、ゃ、」
 これまでとは違う、了見の精液を欲しがり呑み込もうとする動き。根元を締めつける肉のふちは咀嚼するように蠕動し、うちがわ全体が痙攣する。襞の一枚ずつが了見の陰茎を愛撫し扱き上げ、奥へ奥へと運ぼうとする。一番奥、行き止まりだと思っていたところが緩んで、ちゅうと亀頭を絞り、吸い上げ、更なる奥へ呑み込んでいく。
 止まってやらなければ、と思うのに、衝動に抗えない。了見のかたちに、まるでひとつの性器のようになってしまった遊作の肉の隘路は絶頂と射精へと続いている。傲慢なまでのそこを蹂躙すべく、了見の雄の本能が肉体を支配していく。薄く細い腰を両手で押さえ込んで呑み込もうとする動きを振り払い、泣きついてなお一層締めつけるそこを貫く。ごちゅ、ばちゅんと、酷い音が上がることすら心地良い。腰に熱が溜まって、陰嚢がずんと重くなる。
「ゃ、いやだ、だめ、だ!」
 遊作はぐずるようにかぶりを振るだけで、制止するのは声だけだった。それも甘く泣き濡れ掠れていて、とても本気で嫌がっているようには思えない。快感に支配される脳みそのわずかな理性を注げば、遊作が了見ではなく、初めて屹立した己の陰茎を押さえているのだと知れた。
 待て、とは口にしたものの、拒絶する言葉は一度も吐かなかった。そんな遊作が辿々しく、いや、だめ、と泣いている。泊まってはやれない。獣のように腰を振ればずんと抜けるような感覚があって、肉壁の全部がぎゅうううと締めつけてきた。
 悲鳴が上がる。遊作が零れそうなほどに目を見開く。
「く、る、なに、……だめ、これ、きもちぃっ……きもちいいの、だめ、やだ、くる、ァ! あ! アアああ――……!!
「ゆう、さくっ……く、ァ……!」
 びゅる、とスキンの中に射精した。
 びく、びくん、と、遊作の中は未だ痙攣している。蠢く度に中に残った精液を搾り取られ、最後には凄まじい脱力感に崩れ落ちた。このまま眠ってしまいたい程に気持ちよかった。とろりと落ちそうになる瞼を、しかし叱咤して見開く。
 重なった遊作の身体がちいさく震えていることに、同時に触れ合う腹に扱いていたときにはなかった濡れた感覚があることに気づき、身体を起こす。
 未だに陰茎を覆う遊作の指の隙間から、とろりと粘ったものが滴っている。暗くなってきた部屋の中では判別しづらいが、白濁と呼ぶには薄いそれ。粘度も低い。けれど間違いなく、遊作の精液だろう。初めての射精では精液も薄いのだとどこかで見た記憶がある。
 スキンの根元を押さえ、ゆっくりと腰を引く。ずる、と抜ける瞬間に中がやわく食む動きを見せ、ひ、と引き攣った声が遊作の喉から漏れた。
 遊作は汚れた手を鈍い仕草で持ち上げ、のろのろと手の甲で目元を覆っている。引き抜いた陰茎から中身が零れないよう、それでも手早くスキンを外して口を縛り、そのあたりへと投げ捨てる。慌てて遊作の顔を覗き込めば、薄い胸を震わせて声を漏らしていた。
「ぅ……ひっ、う」
「遊作、痛いのか?」
 目元を覆う腕は、そっと触れれば存外とたやすく外れた。代わりに、とけた翡翠いろが藍の夜に流れ出す。ぽろぽろと零れるそれをすくい上げて、頬をそっと撫でてやる。
「いたく、なぃ……けど、ひ、おれ、でた、から」
「ああ……精通したな」
 了見がそれを迎えたとき滝がしてくれたように、祝ってやるべきなのだろう。
 けれど遊作はしゃくり上げて泣いている。痛くないのであれば、これは何のために零れる涙なのだろう。絶頂の直前、恐らくは前後不覚の中で、遊作は気持ちいいのがだめだと叫んでいた。まるで達することを拒むように。
 しばらくは頬を、そっと背中を撫で、胸の中に抱いてやる。確かな熱の残る身体が徐々に弛緩して、ほろりと声を漏らした。
「つぎ、」
「……ん?」
 明瞭に、この場には似つかわしくないほどに、寂しさを湛えた声だった。
「これで、なくなったから、次」
 次。
 今、この逢瀬は、了見と遊作が初めて明確にした『次』だった。これがなくなったと、遊作は俯き泣いている。それが寂しいと。
 次からは。次があるのか。明確に答えることはしなかった、『次』。遊作の極端な準備が詳らかになった、あの会話が浮かび上がる。それから今の発言。出たから、これで次がなくなったと。
 合点がいった。遊作はこの期に及んでまだ思い込みに嵌まっているらしい。遊作を精通させるために了見と次を約束したから、それが果されてしまえばおしまいだと?
 さすがに呆れて溜め息をつき――そうになったところで、藍の世界の片隅に濃い闇が浮かんで消えた。遊作は、了見が思っているよりもずっと、余裕がないのだと。同時に重なる、まだわからないのか、今欲しいものは、という遊作自身の言葉。
「……愛し合う者同士なら、」
 イグニスとの会話が思考を掠めた。
 生産性がない。同性同士では何も残せない。恐らく世間一般でもそう言われる行為。
 けれどイグニスの言を借りて、否定するならば。遊作には了見を選ぶ理由があり了見には遊作を選ぶ理由があり、そして他の選択肢はあり得ない。了見が愛しているのは遊作だけで、セックスとは子を成す以外の意味を持っている。誰も定義し得ない、少なくとも自分たちにとっては愛の証明である。
「こうして、身体を重ねるのに理由はいらないだろう。……いつでも、お互いが望むときに触れ合えばいい」
「あ……」
 遊作がそっと顔を上げた。
 了見が十年前から愛して止まない翡翠の瞳に、ちいさな星が生まれている。煌めきの合間に映る了見は自分でも見たことがないほど穏やかな表情で、星の道の始まりに立っている。
 スターダストロード、と遊作が呟いた。窓を背にする了見からは見えないが遊作からは見えるだろう。あの希少な自然現象が起きているのだろうか、あるいは了見が遊作の光に星を見るように、異なる何かをそう呼んだのだろうか。振り返るまではわからず、けれど今の了見はただ遊作だけを見つめていたかった。
 凪いだ藍の波の中、静かに遊作の声が響く。シーツの波を寄せて、おず、と手を伸ばしてきた。
「いつでも、触れ合っていいなら、」
「ああ」
「次が、今でもいいのか」
「構わない」
 なら、という声に、そっと星の道が閉ざされる。遊作が目を伏せて待っていた。
 そういえばこれだけぐちゃぐちゃになって、お互いの深いところをさらけ出して、言葉を重ねて――まだそれだけはしていなかったのだと気づく。順番も、最初に抱いた感情と衝動も間違っていた自分らしいと自嘲はせず、今から改めればいいのだと胸の奥のやわらかな感情が囁いた。
 伸ばされる腕の中に沈んでいく。了見も目を閉じて、差し出される唇に己のそれをそっと重ねた。次に目を開いたときは二人、同じ目線の高さで、肩を並べて、輝く海を見ようと心に決めながら。