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Be main

 温室のような施設に閉じ込められ、毎日毎日ひたすら決闘をさせられているのかといえばそうでもない。
 仮想立体触感研究所――V・S・F・Lではフィールを実用化するためのあらゆる研究がなされている。あらゆる、というからには過酷なものからちょっと理解できないものまでいろいろあるわけだが、基本的なフィールは健全な精神に宿る、健全な精神は健全な肉体に宿る、というスタンスが取られている。
 なので徹底的に栄養バランスが重視され、子どもの喜ぶような料理はほとんど出てこない食事は当然のことだし、今日のように屋外で日光を浴びながら運動をさせられる日もあるわけである。
 ここでは0番と呼ばれる鬼柳京介も被検者の一人だ。当然彼も例外でなく、本日の課題として屋外での運動に参加している――はずだった。
「何をしている、鬼柳」
 そよそよと風が流れる木陰に鬼柳と、ジャックはいた。鬼柳はまばらに手入れのなされた芝生に転がっていて、ジャックはそんな鬼柳を見下ろしている。微風の下、まぶたを縁取る鬼柳の睫毛が靡いてすら見えるが、しろがね色のそれは閉ざされたまぶたごと震えてゆっくりと開かれた。
「……ジャック?」
 掛けられた声と濃く落とされた人影に目を覚ましたのか、鬼柳は寝起きらしい甘く掠れた、少し舌足らずな声で呟く。
 ジャックは意味もなく頷いて、改めて鬼柳を見下ろした。影でも煌めく紫水晶の瞳に少したじろいた様子を見せて、それから鬼柳はゆっくりと身を起こす。落ちてくる前髪を払いのけながらジャックを見上げる仕草は妙に幼く、そして気怠げだった。
 首を傾げてみせる仕草すら倦んだ熱を含んでいる。ジャックはそれが妙に気に入らない。
「こんなとこでどうしたんだ? ちゃんと運動してないと怒られるぞ」
「……その台詞はそのままお前に返してやる」
 先程のジャックの問いかけは理解していなかったらしい。鬼柳はきょとんとした顔でジャックを見上げ、他の仲間たちが駆け回るグラウンドを見やり、それから、ああ、と呟いてみせた。
「ちょっと休んでたんだ」
「怒られるんじゃないのか」
 聞いたばかりの言葉をジャックが返せば、鬼柳は得意げに笑ってみせた。子どもたちの監督役としてグラウンドで直立する研究員を顎でしゃくり、それから研究所の建物を見上げる。
「こーやって屋外で訓練させられるときはさ、中でエライ手が集まって会議かなんかしてるんだよ。監督役で残るのはあんまりやる気がない下の方の研究員」
 鬼柳は控えめに胸を張った。だからサボっても大丈夫だと言わんばかりの態度だ。
 鬼柳の説明を踏まえてグラウンドを見てみれば、確かに研究員は立ち尽くすばかりで監督役としての任を果たしていない。いつもと違って屋外で体を動かすことが目的なのだから、特に指導の必要もないといえばないのだが、鬼柳とジャックがこうして木陰で雑談に興じている時点で仕事に抜かりがあるのは明白だ。
 会話の隙間にまた風が流れ込む。頭上の梢が撓んで葉を揺らし、鬼柳の方まで揃えられた髪がなびく。眩しそうに細められた藍色の目に、ジャックは眉を顰めた。
「鬼柳……」
「ん? ぶっ」
 骨ばった鬼柳の頬を片手で挟んで、ジャックは自分の方へ向かせる。
 ちらちらと零れ落ちる陽光に、白い肌が透ける。いや、よく見ればそんな表現には遠い。鬼柳の肌は不健康な青白さを晒していた。
 ジャックも色白だと評されるが、ジャックの白さは西洋人特有の白さだ。一方、鬼柳のそれは病人然としている。ジャックに頬を挟まれるがまま唇を尖らせている間抜け面を無視すれば、薄い肌の下に青白く血管が浮いて見えた。さらによく観察すれば髪の生え際にはうっすらと汗をかいていて、そのわりに指先に触れる肌は冷たい。
「貴様、どこか悪いんじゃないか」
「むぎゅっ……ん、だよ、いきなり」
「答えろ」
 頬をジャックに掴まれた姿勢のまま、鬼柳は器用に首を傾げる。
「えー……頭?」
「はぐらかすな」
 視線は明らかに明後日の方を向いていた。
 頬に指先がめり込む程度に力を込めて、無理矢理に目と目を合わせる。鬼柳の青い目はうろうろと彷徨った末、観念したのかそっと伏せられた。
「……ちょっと、クラっときただけ」
「医務室へは」
「あそこ好きじゃねーし。もうすぐ運動の時間も終わるだろ?」
 鬼柳の気怠げな視線を追う。デザイン性など微塵も感じられない柱時計が遠くで直立していて、あと半時間で屋外活動の時間が終わることを告げていた。
 とはいえ少しの休憩を挟めば、すぐに屋内での実験が再開される。この有様ではそこまで持たないだろう。
 ジャックは眉間に皺を寄せる。医務室に引っ張っていったところで、まず鬼柳が素直に聞くと思えない。残り時間からしても無理矢理連れて行くだけ無駄だろうし、下手に騒いであのやる気のない監督役に見咎められるのも面白くない。
「お?」
「少し待っていろ」
 冷たく湿った額を押せば、鬼柳は軽くその場に転がった。押し潰された下生えが青く匂うが、先程までその辺りに転がっていたのは鬼柳自身なので気にしないだろう。
 目を瞬く鬼柳を置き去りに、ジャックは立ち上がる。一直線に目指すのは少し離れたところにある冷水機だ。炎天下の活動でも必要に応じて水分補給ができるよう、自由に冷たい水が飲めるようになっている。備え付けられたステンレスのコップに水を注ぎ、早足で、それでも極力零さないように鬼柳のところに戻った。
「鬼柳」
 伏せられていた目が開かれる。素直に待っていたのか、ジャックが思っている以上に辛いのか。鬼柳はゆっくりと身を起こした。ジャックの手のものをあからさまに注視して、開いたばかりの目を丸くしている。
 余計な口を利かれる前に、ジャックはコップを鬼柳の鼻先に突き出した。
「飲め」
 ふた呼吸ほどの間があった。それから鬼柳は妙に恭しい手つきでコップを手に取る。
 何の変哲もない、使い回されて錆の浮きかけたコップ。浄水器ぐらいは通されているだろうが、冷やされただけの水。それらを矯めつ眇めつして、最後に鬼柳は重々しく頷いた。
「……大事に飲む」
「普通に飲め」
 ジャックからしてみれば、阿呆なことをしていないでさっさと飲めという話である。
「ジャックから何か貰うなんて、初めてだから、もったいない」
 向けられる胡乱な視線を物ともせずに、鬼柳は堂々といい放った。
 相変わらず冷や汗を浮かべた青白い顔で何をいうのか。指先に残る結露を振って払い、ジャックは呆れて溜め息をつく。ジャックにも鬼柳にも気づく様子のないグラウンドを一瞥した。
「分け与えられるほどのものを持っていないだろう。俺も、お前も」
 V・S・F・Lにいる子どもたちはすべて、着るものも食べるものも住むところも、恐らく生きるという行為すら、研究所の大人たちから与えられている。研究のために課せられた課題をこなし、決闘することでだけ生きていけるのだ。
 温く飼い慣らされすぎてそのことを忘れている者もいるがジャックは違う。この温室で貪れるだけ貪って、そうしていずれはのし上がってやると常に思っている。
 だからこんな場所で、誰かに何かを安易に与える人間は既に死んでしまっているようなものだ。
「それはそうだけどさ」
 唯一例外があるとすれば、それは恐らく鬼柳だ。
 一言呟いて、鬼柳はようやくコップに口をつけた。折れそうに細い喉が隆起する。ジャックは艶めかしさに目を細める。まだ喉仏のできていない、生白く幼い首筋。蠢いて反駁する。
「実際、ジャックはこうして水を入れてきて俺に分けてくれてるわけだし」
 敗者にも微笑んで手を差し伸べ、困っている者を見かければ迷いなく声をかける。最低限生きることしか許されないこの場所で、どんな時であっても、自分を顧みずそんなことができるのは鬼柳しかいない。
「どんなことでも、どんなものでも、そこに意味さえあればいいと思うんだ」
 そういって古びたコップを手に笑う鬼柳は、この世でもっとも清廉なものに見えた。
「だから、ありがとう。ジャック」
「……貴様が倒れたままだと、俺の相手になる奴がいなくなるからな」
 嫌味も含みもない率直な言葉には、甘いことをと笑い飛ばす気も失せる。実際、鬼柳がただ飼い慣らされてこういってるわけではないことは分かっている。でなければ屋外活動の裏で大人たちが何をしているのか、監督役の人間がどんな態度でいるかなど気づくはずがない。何より決闘において、唯一ジャックと実力を二分する相手だ。何も考えず日和っている人間でないことはカードの動きから伝わってくる。
 返した言葉はジャックの精一杯で、いってしまえば負け惜しみのようなものだった。
 もちろんそんな鬼柳がジャックの腹を読むはずもなく、微笑を浮かべたまま、あ、と声を上げた。そのままコップを比較的平らな地面に置き、無造作に生い茂る下生えを掻き分け始める。訝しむジャックの鼻先に、ずいと何かが突き出された。
「さっきお前に押し倒された時に見つけたんだ」
「なんだこれは」
「四つ葉のクローバー」
 確かに顔を引いて見てみれば、四枚の葉を持つツメクサだ。
 閉鎖された環境で育ったジャックでも、この種の草が希少であることと、見つけると幸せが訪れるというジンクスがあることは知っている。それでもジャックからするとただの雑草でしかない。
 ジャックの内心を見透かしたように、鬼柳はちょっと小首を傾げてみせた。苦笑しているように見えるのは気のせいではないだろう。
「ジャックがこういうの信じる質じゃないのは知ってるし、押しつけみたいなものだけどさ。今俺が渡せる気持ち」
 受け取ってくれると嬉しい、などと付け足される。ジャックはしばらくほっそりした草を見つめる。
 鬼柳の言い分も分からないでもない。それでもジャックからすれば、下らないものに無理矢理価値をつける言い訳めいて思える。意味などなくてもいいと思える。そもそも他人に何かを与えることすら無意味だ。
 そう思うのに受け取ってしまったのは、こうしないと鬼柳が退かないだろうと思ったからだ。自分から折れてやる寛容さもたまには必要だろう。ただし溜め息をついてみせることだけは忘れない。
「……その内捨てるぞ」
「いいんだよ、勝手に俺が満足したかっただけだから」
 鬼柳はそっとはにかんでみせた。
 いずれは萎れてしまう雑草など、持っていても仕方がない。当然幸福を運んでくるとも思えない。ただあれだけ青白かった顔にほんの少し赤みが差した、それでいいことにした。


 あの時胸に誓った通り、ジャックはのし上がってみせた。
 V・S・F・Lを出、治安維持局長官の養子という立場を得た今のジャックは、水や野草を与え合うような貧しい真似をする必要もない。そもそも与え合う相手もいないが、望むものは望むだけ与えられ、何でも揃う。
 足りないものを挙げろと言われれば、ジャックに見合うだけの決闘の相手と、施設での最後の決闘で手にしたきりのレッド・デーモンのカードぐらいだろうか。レクスに聞かされたところによれば、その二つは同時に失われたという。
 話を聞かされたジャックがまず覚えたのは、一度は手にしたレッド・デーモンを奪われた憤り。
 そして、やはり鬼柳は温々と育っただけの連中とは違うのだという、確かな昂揚だった。
 V・S・F・Lから持ち出したストレージ。使わないカードの隙間にあの四つ葉を見つけ、ジャックは燻る感情を思い出す。結局捨てることもせずに、余ったスリーブに突っ込んでカードの間に押し込めたのだが、上手い具合に押し花になったらしい。四つ葉をして押し花、と称するのが正しいのかどうかはさておき。
「あら、四つ葉ですか」
 カードの山に埋もれていた四つ葉を、目聡く見つけ狭霧が声を上げた。
「ただの枯れ草だ」
「きちんと押して置いていらっしゃるのに」
「いらん。捨てておけ」
 一度崩したデッキに向き直りながらにべもなく言い放つ。
 女はジンクスというラベルの貼られたものを好む傾向にあるが、狭霧も例に漏れなかったらしい。険を含んだジャックの物言いに従いながらも、妙に楽しげに言葉を続ける。
 ジャックは当然のように無視を決め込もうとして――聞こえた一言に手を止めた。
「狭霧」
「はい?」
「気が変わった。それは置いておけ」
 目を瞬かせる狭霧の手からスリーブを抜き取る。ハードタイプの透明なスリーブの中にあるのは、あの時の瑞々しさなど微塵も残っていない茶色いツメクサだ。
 受け取って欲しい、などと誘うようにはにかんだ鬼柳。まさかこのことを知っていたとも思えない。
 思えないが、決闘竜のカードを盗んで逃げた強かさがあの男にあるのなら。

 幸運を呼ぶ四つ葉のクローバー。その花言葉は“私のものになってください”。

 ジャックは口の端を持ち上げる。この四つ葉はいずれ来るだろう時まで、手元に残しておいてもいいだろう。押しつけられた価値に意味などないのだと、込められた願いの分だけ倍にしてやらねばなるまい。