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小夜烏

 鬼柳はルドガーなる男に連れてこられた建物の一室で、じっと膝を抱えて蹲っている。
 昼も夜もないような真っ暗な部屋だった。明かりは蝋燭で取るしかなく、しかもこの部屋の燭台に突き刺されたそれに火はない。本当に、本当に真っ暗で、冷たい。何も見えない――ただひとつを除いて。
 たったひとつのそれは、鬼柳の爪先の少し先にあった。冷たい床の上に直に置かれている、一枚のカード。そこにはまっくろな姿形に青いラインで彩られた巨人が描かれている。
 足先を少し丸める。逃げるような挙動も怯える青白い足も、この部屋の中では見えやしない。なのにしらじらと黒いカードだけは、はっきりと輪郭を晒して鬼柳の視界にあった。
 鬼柳は死んだのだという。ルドガーは生者にはありえない真っ黒な眼球で鬼柳を見下ろしながら、そう言った。虚ろな黒い目に怯える鬼柳を彼はヒビの入った大きな鏡の前に連れて行った。もしも死んだ身であれば物語の中のモンスターや怪談の幽霊のように鏡には映らないのではないか、など、的外れな考えに突き動かされる程度には鬼柳も混乱していたのだが、前髪を掴んで無理矢理上げさせられた視線の先では背後の男と同じ色の眼球を嵌め込んだ鬼柳自身がこちらを見ていた。ひっと息を飲めば一瞬白い眼球になって、鬼柳の怯えに呼応するように白と黒を行き来した。気持ちが悪かった。
 思わず嘔吐する鬼柳を見下ろして、ルドガーは鬼柳が何者になったのかを告げた。五千年、一万年、それ以上の時をシグナーとかいう存在と争うダークシグナーだとか、何とか。鬼柳は地縛神なる神に選ばれ、死後の生を受けたのだとか。使命を果たさねばならないとか、地縛神を受け入れていないから不安定でだから眼球もうろうろと色を変えるのだとか。
 鬼柳はひたすら嘔吐した。一度死んだせいか、それともまともな食事など許されない身だったからか、吐くものもなく酸っぱい胃液だけが逆流して余計に吐き気が増した。結局口を開く気力もなく、ルドガーの話を笑い飛ばすこともできなかった。
 けれど死んだはずの自分は、今生きている。両腕できつく身体を抱えて、鬼柳は更に身を縮めた。酷く寒かった。触れた自分の腕はぞっとするほど冷たく、どれだけ長い間丸まっていようと擦り合わせようと熱を持つことはない。生きているのではない、動く死体、ゾンビなのだ。鬼柳の無駄な努力と存在を、右腕の痣が嗤っていた。
 ルドガーに現実を突きつけられ、地縛神を受け入れろと言われてからずっと、鬼柳は与えられたこの部屋に引きこもっている。もう三日ほどになるだろうか、それともまだ一時間程度だろうか、本当は一週間ほども経っているのだろうか。とにかくその間をずっと、一枚のカードと見つめ合いながら過ごしている。
 本当は見たくもない。けれどこれが神の絶対意思とかいうものなのか、巨人を模した神はカードの中からずっと鬼柳を呼んでいる。目を逸らすことなど許さないと、我を受け入れよと――復讐を、果たせと。
 クロウとジャックは自分を見捨てた。遊星は、最後の最後に、裏切った。だから自分は死んだ。
 鬼柳は大きくかぶりを振る。
 違う、ちがうちがう、違う。きっと遊星には何か理由があったのだ。あの時鬼柳が見落とした何かがきっとあるのだ。
 捕縛された瞬間の激昂は看守たちの暴力に薄れて、ある程度の冷静さのようなものを鬼柳にもたらしていた。最後までそばに居てくれて、いつも優しかった遊星が自分を裏切るはずはない。もう一度遊星と会うことができれば、きっと分かり合える。何か誤解があるのだ。
(本当にそうか?)
(先に離れた二人を見ただろう、言葉を聞いただろう)
(あの男も彼らと同じだ、お前の暴力と愚かさを、お前自身を疎んでいたのだ)
 奈落の底から、否、鬼柳の前で静かに座すカードから声が響く。鬼柳をこうして生かしている神様、願いを叶えてくれる神様。そんなものはちがう、ちがうちがう、違う。
 地縛神は鬼柳の胸の内が読めるのか、こうして惑わす言葉をかけてくる。ずっとずっとその繰り返し。鬼柳は神様の声を振り払うように首を振る。繰り返すばかり。この声に少しでも身を委ねてしまえば、きっと完全にダークシグナーとやらになってしまう。そしてかつての仲間たちに、復讐を果たさなければならなくなる。
 クロウを、ジャックを、遊星を、殺さなければならなくなる。
 鬼柳はぎゅっと身を縮める。これ以上逃げ場はなかった。
 もう一度、遊星に会いたい。会って話をしたい。そうすれば誤解は解ける。ぜったいに、
「……鬼柳」
 もう一度、会うことができれば、
「鬼柳」
 遊星に。
「鬼柳、顔を上げてくれないか」
 酷く聞き慣れた声だった。今まさに求めていた声だ。
 鬼柳はゆっくりと顔を上げる。真っ暗な冷たい部屋に、ぼんやりと人影が浮かんでいる。見間違えようのない個性的な輪郭を描く髪は艶やかな黒。硬質に見えるそれが存外柔らかいことを、鬼柳はよく知っている。
 もう少し、顔を上げる。見慣れた顔があった。いつも鬼柳のそばに居てくれた、表情の乏しい顔。本当は情が深いことも、やさしく笑いかけてくれることも鬼柳は知っている。深い青い瞳が、鬼柳を捉えている。
「ゆう、せい」
「ああ」
 遊星だった。深く頷いて、じっと鬼柳を見つめている。
「ゆうせぇ……ゆうせい、ゆうせいゆうせい、遊星っ」
「ああ、俺だ」
 遊星の両腕が広がる。鬼柳は一瞬顔を歪めて、縮こまらせていた身体を解いた。一も二もなく腕の中に飛び込む、縋りつく。
 遊星は突き放すこともなく、受け止めてくれた。やはりあの裏切りだと思ったものは、誤解だったのだ。そうでなければ遊星が鬼柳を受け止めて抱き締めて微笑みかけてくれるはずもない。鬼柳は遊星に強く縋りつく。ぼろぼろと涙が零れた。
「遊星、おれ、しんだんだ、けど変なカードが神様がいうこと聞けって、お前を殺せって」
 遊星は何もいわない。ただ黙って鬼柳を抱き締める。鬼柳も更に縋りつく。
「ゆうせい、たすけて、遊星……」
「ああ、俺が助けてやる」
「ゆうせぇ……!」
 両肩を掴まれて、そっと身体を離される。鬼柳が涙で淀む目で見上げれば、遊星は青い瞳に深い深い愛情を湛えてこちらを見下ろしていた。そこにはぐずぐずに汚れた鬼柳の姿が映っている。
 遊星が助けてくれるのだ。ならばもう不安なことは何もない。遊星が、仲間がいれば、鬼柳にできないことはなかった。サテライトの統一だってできたのだ。もう何も恐れるものはない。鬼柳の前で座する神様だって、きっと振り払うことが――
「……ぁ?」
 なにか、おかしくはないだろうか。
「どうした、鬼柳」
「……遊星?」
 遊星の手は、鬼柳をしっかりと捕らえたままだった。鬼柳の黒衣と、遊星のグローブを通してもまだ、冷たい手。急速に頭が冷える絶対の零度。鬼柳は身を捩るが、遊星はそれを許さない。青い瞳がじっと見下ろしている。
 この何も見えない真っ暗な部屋の中で、遊星だけは黒と青の輪郭でそこにいる。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ離せッ!!
「なぜ逃げるんだ、鬼柳」
「ヒッ――」
 つめたい。いたい。ギリギリと音の鳴りそうな強さで抱き締められる。遊星の顔がそうっと優しく伏せてきて、鬼柳の耳元を吐息が掠めた。思わず身を縮めるが、ほどくように柔らかく遊星は呟く。
「俺が助けてやろう、鬼柳京介」
「いやだ、お前は……遊星じゃ……」
「不動遊星なら」
 今度こそ本当に、音が聞こえた。
 ぎちりと嫌な音を立てて骨が軋む。酷い圧迫感に鬼柳は呼吸を詰まらせて目を見開く。ぎち、ぎちと音を立てて、遊星を似せた何かは鬼柳を抱き締め続ける。
 意識が落ちそうになったところで不意に突き飛ばされた。解放された身体と呼吸に鬼柳はむせこむ。芋虫のように床に這いつくばって、ひたすらに呼吸を繰り返した。死んだ身体だというのに酷く苦しい。理不尽に憤ることもできず、涙と涎に汚れた顔を鬼柳は歪める。
「……不動遊星なら、お前が抱きついた瞬間にこうしていただろうな」
 整わない呼吸では、ちがう、と声を上げることもできなかった。
 蹲る鬼柳を、遊星の姿をした地縛神が引き起こす。そのまままた腕の中に抱き込まれた。今度は初めと同じように優しく、まるで遊星そのもののようなやわらさで。また耳を掠める吐息に、今度は何の抵抗も返せない。鬼柳は茫として神の言葉を聞く。
「お前の身体も、心も、すべて。お前は復讐のために蘇った」
 確かに自分は復讐を願った。
 けれどそれだけではなくて、本当は、もうひとつの、
「お前は俺が助けてやる、鬼柳。だからずっと俺のことだけを考えていてくれ」
 遊星の声と口調が遮る。大事な、大事な願いがあったはずなのに。甘い声と冷たい熱に浮かされていく。
「遊星……」
「そうだ、鬼柳。それでいい」
 不動遊星への復讐だけを。地縛神への隷属だけを。
 鬼柳は一度目を閉じて、開く。真っ暗で何も見えなかった部屋の全貌が薄く浮かんで見えた。体中にまとわりつく温度が酷く心地いい。もう一度そっと目を閉じて頷く。
 分かった、と返して呼んだ名前は誰の、何の名前だったか、鬼柳には聞き取れない。真っ黒い眼球からこぼれた水は赤いマーカーの上を滑り落ちて弾けた。巨人を象る神の目が青く、歪む。