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※この話は番外編ではなく本編中盤の話です
※そのまま本編に組み込まれる可能性があります
その言葉を最後に、ぶつりと通話が途切れた。ツーツーと音を垂れ流す携帯電話をゆっくりと耳から離し、通話を終了することも忘れて握り締める。
握り締めたまま会話の余韻に浸ること暫し。何の前触れもなく椅子ごとぐるりと振り向いて、鬼柳は鋭い声を上げた。
「ラモン!」
「うぇ!? はいっ!?」
椅子から浮き上がるほどに驚いた様子で、呼ばれた男は答えた。
これが普段の鬼柳ならば、露骨な態度をダシにして散々弄り倒してやるところだが今は状況が違う。やつれ気味の顔を引き攣らせるラモンに向け、握りっぱなしの携帯電話をびしりと突き出す。
「明日の22時以降の予定をすべてキャンセルしろ」
「は……」
獣に狙われた獲物の体で縮こまっていたラモンが丸く口を開ける。勢い椅子から滑り落ちそうな姿勢のまま、ちらりと壁にかけられた時計を見、鬼柳の宣告した時刻まで24時間もないことを確認し、派手に椅子を倒しながら立ち上がった。
「はああああああああ!? 何いってんですかアンタ!! 6時から0時でギッチギチに予定詰めとけっていっつもいってんのアンタでしょうが!!」
「急な予定の変更ぐらいいつものことだろ」
事も無げに言い放ち、手の中の携帯電話をもう一度見つめてからようやくフリップを閉じる。パチリと鳴る音にまで不思議と感慨を覚え、思わず顔が綻びそうになる。が、靴音高く目の前にまで迫ってきた男が邪魔でそうはいかない。
「そりゃいつものことですけどね! 今回はどう見てもアンタのプライベートな用事のせいでしょうが!!」
そんなとこまで面倒見れるかといわんばかりだ。薄い表情筋をフル活用させながら、ラモンは無駄に大きな身振り手振りを交えて声を荒げる。今にも鬼柳のデスクをばんばん叩いて泣き喚きそうな様相である。
先程の電話の余韻をぶち壊しにされたことに加え、ラモンのオーバーアクションが鼻について仕方がない。ラモンの指摘通り、滅多に使わないプライベート用の携帯電話をジャケットの内側に仕舞い込みながら、鬼柳はフンと鼻を鳴らして冷笑する。
「仕事だろうがプライベートだろうが、上司の全スケジュールを把握して調整するのが秘書の、つまりお前の仕事だろう」
ついでに足と腕も組んで言葉に詰まる男を見上げる。
ぐっと呻いてラモンは宙でばたつかせていたピタリと静止させる。しばらく引き攣り顔と冷笑のまま見つめ合った末、ガクリと頭を垂れたのはもちろんラモンだった。
「……今度絶対労基に訴えてやる……」
「やれるものならやってみるんだな。お前の労働時間も内容も法規に則ってるし、時間外手当だって一円の狂いもなく出ているぞ」
頭を垂れたまま、鬼柳の言葉に一歩後退するラモン。大方毎月の給与明細でも思い出したのだろう。ラモンと同年代の男性では、例え医者だろうと手にし得ない金額が毎月指定の口座に給金として振り込まれているはずである。
「……パワハラで訴えてやる……」
「まずは内部委員会に陳情してからにするんだな」
微妙に弱気になったラモンの台詞に鬼柳は適当に返した。社内のセクハラ・パワハラ対策委員会は今月も正常に機能しているという報告は昼間受け取ったばかりだ。
「まあ、下手に訴えたところでよくて握り潰し、最悪お前がサテライトの港に沈むだけだろうが」
鬼柳には社内の意見を踏まえて行動する義務があるが、社の方針や外部への干渉、研究部門、とにかくあらゆる問題に関して決定する権利はないに等しい。例えラモンが鬼柳、ひいてはこの会社が損害を被るような行動に出たところで、鬼柳の知らないところで解決への方法は決定される。決定権はすべて今のところひとりの男が握っているのだ。
鬼柳が生まれるよりも前、ネオドミノシティが今の繁栄を築くよりも以前からKCを動かしている男。鬼柳はあの男があまり好きではない。社の指針や方向性はまだしも、鬼柳が知っていなければならないことまであの男はすべて決めてしまう。このラモンという男を秘書に指名したのも、鬼柳なりの男への反抗である。
尤も、権利の象徴たる男の決定で鬼柳が唯一感謝していることもある。
さめざめと泣きながら、鬼柳の反抗の象徴たるラモンは自分のデスクへと引っ込んでいった。机から分厚いファイルを取り出しているのを見るに、今からでも連絡のつく部署には連絡をしようとしているのだろう。降って湧いた仕事に涙する男はしばらくは鬼柳に気を回す余裕もないだろう。ラモンの苦労をいいことに、鬼柳はそっと嘆息した。
懐に仕舞い込んだばかりの携帯電話がほんのりと温かいのはそういうことだ。あの男が今の電話の相手と鬼柳を繋ぎ合わせたのだと思えば、そこだけは感謝しなければならない。
(略)
時間に少し遅れてしまった。人目がないのをいいことに鬼柳はエレベーターに駆け込んで、最上階のボタンを押したところでようやく大きく息を吐いた。アンタ自分のD・ホイールで行くんなら最初からいってくださいよ!などと泣き喚いていたラモンのせいで余計な時間を食ったのは確かだが、それ以前の段階でスケジュールに遅れが出ていたので仕方ないといえば仕方ない。でもラモンは殴りたい。
高速が売りのエレベーターといえど最上階までとなると多少時間がかかる。鬼柳は全面鏡張りとなった壁の真正面に立ち、乱れた髪を軽く撫でつける。するりと滑って背中まで流れる髪は青みの混じった銀で、鬼柳は自分の姿を見る度に苦い気持ちになる。
思わず細められた青い自分の目と目が合って、鬼柳はぱしりと両頬を手で叩いた。今から彼に会うというのに、こんな辛気くさい顔では会えない。しかも今日は、初めて、彼の方から誘ってくれたのだ。
その彼を待たせている事実を思い出し、階数表示のランプを見上げる。ちょうど見計らったかのように目的の階にランプが灯り、チーン、というシックな音とともに扉が開いた。瞬間振り返って、もう一度鏡に映る自分を確認する。大丈夫だ、たぶん。
無様な早足にはならないように、けれどできるだけ早くと、無理な要求を自分に押し付けながら鬼柳はエレベーターを降りる。落ち着いた風合いの深緋の絨毯が敷かれたエントランスを真っ直ぐ抜け、アンティーク調の扉をくぐる。
扉の向こうの薄暗い店内には、淡い橙の照明が灯っている。まず目に入るのは、照明と夜景を照り返して煌めく一面ガラス張りの窓だろう。そこに添うように長く伸びるカウンター席があり、ネオドミノシティの夜景が一望できるカウンター席にはまばらに人影が見える。
しかし鬼柳はすぐに窓とは反対側の、バーカウンターの方へと視線を転じた。こちらは奥の戸棚に収められたグラスを照明が照らし、窓側とはまた違った幻想的な美しさがある。こちらはVIP専用となっているため、人影はひとつしかない。
長い白いコートに金の髪。すらりと背を伸ばしスツールに腰掛ける姿は気品すら漂っている。店内の磨き上げられた美しさすら引き立て役にしてしまう彼の美しさは、背後から一目捉えただけでも鮮明に惹きつけられる。
威圧されたように、鬼柳は静かに息を呑む。続けてそっと深呼吸をしてから、ようやく彼の元へと歩み寄る。
「ジャック」
ゆっくりと、金のつむりが振り返る。振り向く動きに大きなピアスヘッドがちゃらりと音を立てる。同時に自分の心音まで響いてきそうで、鬼柳は自分を落ち着けるべくゆっくりと続けた。
「すまない、待たせてしまって」
「構わん。急に呼びつけたのは俺だからな」
振り向いた紫水晶の瞳に、自分が映っている。薄い唇がうつくしく弧を描いて、鬼柳に許す言葉を与えている。そう思っただけでもう、鬼柳の心臓は張り裂けてしまいそうになる。幸い彼が鬼柳に着席を促すよう視線を逸らしてくれたおかげで、鬼柳は平静を取り戻した。けれど心音のやかましさだけは治まりそうにない。
無敗の決闘者にしてD・ホイーラーである至高の“絶対王者”、ジャック・アトラスの隣に腰掛けて、鬼柳はそっと彼を見つめた。
「今日はありがとう。誘ってくれて」
「一昨日仕事で顔を合わせたばかりだがな」
「それは……まあ、そうだが」
ジャックは鬼柳の会社――KCの広告塔であり、スポンサー契約を結んだ相手である。
本来ジャック・アトラスという存在は、KCのメイン事業である遺伝子操作技術の販売とは相反する存在だ。政界や金融界のVIP御用達の店の計算され尽くした美しさをも引き立て役にしてしまう彼の顔の造形も、体躯も、髪と目の色も、すべて遺伝子改造とは関係のない、いわゆる“天然物”である。
加えていえばプロスポーツや芸術の世界でも密かに氾濫している、先天的な才能に関する違法遺伝子改造とも無縁の存在がジャックである。現代社会では掃いて捨てるほどに溢れた改造遺伝子の持ち主たちを圧倒的な存在として切り捨てるジャックは、KCにとっては邪魔でしかない。
そこで敢えてジャックを広告塔としたのが、鬼柳にはない決定権を行使する男である。特別な見目も才も持たない自然に生まれた者たちが、人の手を入れた遺伝子を持つ者たちに蔑視されつつある社会を鑑み、どちらも共存し手を取り合っていくべきだ、という綺麗事を喧伝するためにジャックのスポンサーとなったのだ。前者の象徴としてジャックを、そして後者の象徴として社長であり一般には流通していないカラーを持つ鬼柳をというわけである。尤も鬼柳は現時点では代用品に過ぎず、本来KCの象徴となるべき人物は別にいる。
「いつもつまらない仕事ばかりをさせてしまって……すまないと思っている」
先日もこの下らない喧伝のために、ジャックと鬼柳である雑誌社から対談形式でのインタビューを受けたばかりである。ジャックはどうインタビューを受けても己の生まれとこれからの自身の決闘者としての展望を語るぐらいで、遺伝子操作や現代社会に関してどう思っているか、本音を聞いたことはない。それ以前にジャックはKCの広告塔でありながら、インタビューや写真撮影といった仕事を嫌っている。
「先シーズンは好成績で終われたのは、貴様の会社の出資があったからだ。あれぐらいは義務として受けてやる」
それでもジャックは鬼柳に、いつもこういってくれるのだ。
単に鬼柳に実権がないことや鬼柳の主導による仕事ではないと知っての台詞かもしれない。スポンサーとの契約だからと割り切っているところもあるだろう。それでも自分にも他人にも厳しいジャックがこういってくれることが、鬼柳にとっては何よりも幸いである。
つい照れを隠すように、鬼柳は少し離れた位置でグラスを磨いていたバーテンダーに声をかけた。いつもの、と投げかければ、鷲鼻の特徴的なマスターはひとつ頷いて作業を始める。
「しかし……一昨日も思ったが、少し痩せたのではないか」
突然、頬に手が添えられる。鬼柳は一瞬肩を跳ねさせるが、気づいているのかいないのか、ジャックは鬼柳の視線を引き戻すように自分の方へと引き寄せるのだから堪らない。ジャックの瞳には、眩しそうに目を細める鬼柳だけが映っている。
「そう、だろうか」
「ああ」
触れられた頬が熱い。ジャックという存在に中てられたようにくらくらする。
だから続けてつい零してしまった。
「仕事と……家のことで少しあって。疲れているのかもしれないな……」
「――そうか」
間を置いて答えたジャックの手が、そっと離れる。ようやく解放された鬼柳は少し視線を彷徨わせた挙句、マスターが目の前に差し出したグラスへと逃げるように視線を落とした。
それからほんの少し、沈黙が二人の間に落ちる。隣ではジャックがグラスを傾ける気配。鬼柳はまだ自分のグラスを見つめている。ジャックに気遣われたことが気恥ずかしく、家のことまでつい零してしまった自分は相当どうかしているのではないだろうか。
「俺には古い友人がいる」
そう切り出したのは、ジャックだった。
唐突な話題に、鬼柳は内心首を傾げた。ジャックの真意が読めない。彼からの初めての誘いに浮かれていたのは確かだが、その彼が自ら会う約束を取り付けてまで話したいこと、とは。
ジャックは昨晩急に「近いうちに会えないか」と持ちかけてきた声のトーンそのままで続ける。
「昨日ひさしぶりに顔を合わせた。俺の知らない人間を連れていて、」
思わせぶりに台詞が区切られる。鬼柳はそっとジャックの方を窺って、すぐに身を強ばらせた。
ジャックは真っ直ぐに鬼柳を見ている。鬼柳の目鼻立ちを、髪色を、そして鬼柳が自身を代用品と称する理由である、青い目を。
「目の色以外、お前と同じ顔をしていた」