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チョコリメント

「鴻上、手を出せ」
「……なんだ」
 夏の衝突、秋の共闘を越え、反射的に手を出してしまう程度には距離が縮まっているのだと思う。良いか悪いかは別として、この距離感を存外悪くないと思ってしまっている事実は苦々しく捉えておかなければならないだろう。冬の冷たさに人肌が恋しくなるから、など、何の言い訳にもならない。むしろ悪手だ。
 そんな葛藤など知らぬ遊作は細い筒を差し出して、了見の掌の上でとんとんと打った。ぽろりぽろりと、色鮮やかな欠片が落ちてくる。碁石のような、それよりも小さい扁平な丸い固形物は白い手の中で粛々と鎮座している。赤、黄緑、ピンク、橙。数えるともなしに視認して顔を上げれば、正しく了見の疑問を汲み取って遊作は答える。
「学校で財前に貰ったんだが、良ければ食べてくれないか」
「……お前が貰ったものだろう」
 SOLテクノロジー重鎮の義妹、息もつかせぬ攻めを得意とする決闘者ながらそうと悟らせない控えめな|女子高生《リアル》を脳裏に描きながら、了見の思考は更なる疑問で明滅する。Playmakerはまだしも藤木遊作と財前葵は同じ学級、同じ部活に属する程度の仲でしかない。彼女が遊作にささやかながら菓子を渡す理由などあるだろうか。いや、ある。了見も今朝方、部下であり姉のような存在である滝からチョコ菓子を渡されたばかりだ。
 開いたままのPCを確認する。画面の隅では二月十四日の文字が佇んでいた。作業を遮ることのない控えめなその表示が、今は重々しく自己を主張している。
「財前には悪いが、あまりこの手の食べ物は得意じゃないんだ」
「ほう? 甘いものが苦手か?」
 予想外の遊作の言葉を、心の片隅に書き付けている自分を認識しないまま了見は問う。対する遊作は少しだけ俯いて、常から揺るがぬ翡翠の瞳に少しだけ影を宿した。
「味じゃない。形が少し……サプリメントというか、薬というか、似ているから」
「————」
 不足した肉体に無理から補わせるものを想起させる。それが苦手だと言う。
 冷えていく。浮ついた心が急速に落ちていく。了見はそのよく回る思考で、遊作の苦手の根幹にあるものに辿り着いてしまう。ドローンにより差し入れられる、とにかく必要な栄養が取れればよい、という食事。楽しみなどはなく、決闘次第でいくらでも削減されるそれ。閉鎖空間で生命活動を維持させるため、必ずといっていいほど添えられていた錠剤めいたものを了見も見たことがある。
 了見の内心を賢らしくも悟ったらしく、遊作がそっと指を伸ばした。すまない、忘れてくれと囁いて赤い粒を取り上げ持ち去る――その細い指に、了見は食いついた。
「こ、鴻上!」
 遊作の悲鳴など聞き入れない。逃げようとする手首を捕らえ赤色のコーティングを歯で割れば、遊作の指先を少しだけ犬歯が抉った。赤の中から零れるチョコレートの甘さが重く、了見の舌に纏わりつく。唾液に溶けていくそれを遊作の指と一緒に吸い上げた。
 遊作の手から伝わるちいさな震えは、決闘の衝撃に跳ね飛ばされる十年前よりも随分と細やかだ。
「……苦いな」
 けれどこの甘く苦い感覚はずっと、遊作を、了見を縛り続ける。触れ合う距離も舌ですくう甘さも等しく苦く、せめてと了見は呑み下した。遊作の目が細められて、翡翠の目端にちいさく光が落ちている。
    2019.2.11

くっついておねだり

 この瞬間が、いちばん好きだ。
 くっついて溶け合うぐらいに抱き締め合って、汗で滑る肌をぴったりと重ね合わせる。ひんやりとした佇まいのおとこの、熔け落ちそうなほどの熱に包まれて、喘いで、くらりと遠のく意識を眼前のかんばせに注ぎ込む。つくりものみたいな彼が、その酷く整った顔を歪ませる、この刹那が遊作は好きだった。
 眉間にぎゅうと縦皺を刻んで。長い睫毛を汗で濡らしながら伏せて、にわかに歯を食いしばって。ちいさく呻きながら、一生懸命遊作を抱き締めている。この腕から抜け出すことなんて絶対にありえないのに、逃がさないと吼え立てるこの傲慢。幼気な必死。遊作の中で、奥へ奥へと貪欲に求めて、押し上げて、果てる。感覚なんてないはずのうちがわに、じわりと浸み込んでいく熱。
 詰めていた吐息の零れる音は艶めいていて、遊作の首筋を擽る。汗に濡れた肌を擽る感覚が堪らない。胎の中を満たす熱さが外側の感覚とリンクして、遊作も絶頂へと至る。か細く啼いて、一気に落ちる。それすら逃がさないと喘ぐかたちのままの唇に食いつかれる。
 ぬるんと潜り込んで、思う様荒らす。見かけよりも厚い舌が熱い。互いの唾液を混ぜ合って、脳天を刺す甘さに変わる。甘美で遊作を縫い留めながら、まだ胎の中に潜り込んだままの肉の象徴を奥へと擦りつけて、雄の傲慢さで孕みもしない肉のうろを蹂躙していく。筋の浮いた腕で遊作の身体を絡め取りながら、上も下も中も隙間がないほどにくっついている。
 蹂躙する傲慢さで、けれど逃がさないと必死で。
 この瞬間が、いちばん好きだ。
 この男の、恐らく遊作以外の誰も見たことのないこの姿を、かわいい、と思う。
 絶頂の余韻に浸るばかりで男ほどには巧く動かせない舌を、遊作も自ら絡ませる。それはきっと小鳥が水を飲むようなささやかなものだろうけれど、そんな微かな交歓が嬉しいと男は表情を緩ませるのだ。広い背中に滑らせる手のひらを緩慢に持ち上げて、うなじに、後ろ髪に指を絡めればもっとと吸いつかれた。
 舌と、唇と、指と腕。水っぽい交わりを続け、やがてどちらともなく離れる。覆い被さる男の舌からつうと滴る銀糸を舌で絡めて飲み込めば、離れたばかりだというのに肩口に顔を埋められた。
 ちいさな子どもに触れるように、遊作は汗で湿った頭を撫でてやる。実際、幼い子どもに触れたことなどない指は酷く不器用だろうけれど、そうすると男は甘えるように擦り寄ってくる。
「……ゆうさく、」
「んっ、……ぁ、」
 いとけない仕草で、けれど遊作の耳朶を擽り耳に直接吹き込まれる声は色を含んで滴るほどの欲を孕んでいる。未だ胎の中に呑み込んだものが、ぐずりと蠢いた。
「もう一度、」
 したい。
 響いている。鼓膜を震わす低音が、遊作の脳みそを掻き回す。胎の中の熱が遊作の快感をそうっと、けれどあまりにも無遠慮に押し上げて、腰から背骨に向かってびりびりと響く。頭の天辺から、瞳が、舌が、痺れていく。はくはくと喘ぐ吐息を甘く塞がれて視界がくらくらする。薄暗がりに月明かりに似た仄かな青の瞳が瞬いていて、縋るようにして許しを待っていた。
 胎の奥が疼く。酷いおとこ。遊作の喉笛に噛みつく肉食の暴虐に、庇護を求めるいとけなさで追い立てる。かわいいおとこ。遊作だけのひと。腹の奥が、もっともっとと疼いている。胸の奥がちいさく痛む。答える代わりに、憎たらしいほどに整った鼻梁にやわく歯を立ててやった。
    2019.4.24

白い実弾けた

 湿って重たいシーツの上に投げ出された、白い水風船を拾い上げる。
 固く縛られた口を摘まみ、もう一方の手で膨らんだ下部を突っついた。爪の先がぐにゅりとラテックスに埋まり、けれど決して破れることはない。そのうち纏わりつく粘性に滑り、虚しく何もないところを指差すだけになる。
 もう一度風船を弄ぼうとすれば、筋の浮いた手のひらが視界を横切った。この手はついさっきまで遊作の腰を押さえ込んでいた手だ。いつでも凛としていて涼やかで、性欲なんて知りません、みたいなきれいな顔をしているくせに、獲物に食らいつく餓えた獣みたいにきつく遊作を押さえ込んでいた手。痛い、放して欲しいと身を捩っても全然緩める様子がなかった。思わずじっと見つめてしまう。
 遊作の少しばかり恨めしげな視線に気づくことなく、間接照明の橙に薄らと汗の滲んだ赤いマーカーが浮かび上がり、長い指は白い水風船を取り上げる。
「……遊ぶな」
 しかめ面すら美しいとはどういうことなのだろうか。シーツの波に泳ぎながら見上げる向こうで、既に身を起こしている了見はスキンを見えない位置に放ってしまった。後々遊作が気づかないうちにティッシュに包んで処理してしまうのだろう。いつもそうだ、遊作が知らないところで、ひとりでスマートに済ませてしまう。
 取り上げられたことか、強く掴まれたことか。今日は何となく面白くない気分だった。ずるりとシーツの波紋を広げて這い、了見の膝に肘を、顎を乗せる。目線と同じ高さに、未だに着衣を纏わない下肢、散々遊作の中を荒らしてくれた雄の欲望がある。今はもう鎮まっているそれを見つめながら指を伸ばして、臍から下生えに続くラインを擽ってやる。
「こら」
「さっきの、」
 指先に跳ね返ってくる感触は、風船に比べるとずっと硬い。この硬くてしなやかな腹が遊作のうちがわを蹂躙して艶かしくうねる様を目を細めて思い出す。
「飲んでやろうか」
 ちらりと上目遣いで了見を見つめる。咎める言葉ばかり吐いていた唇は薄く開いて、絶句しているようだった。
 少しだけ溜飲が下がって指に下生えを絡めて遊べば、やがてくっと喉の鳴る音。それから、諦めたように重く落ちてくる溜め息。
「……どこで覚えた、そんな台詞」
「アダルト動画で」
「君は未成年だろう」
 思わず噴き出した。発言の滑稽には了見本人も気づいているようで、苦々しく白皙を歪めていた。
 ハッカーで保護者も存在しない遊作にとって、年齢によるフィルタリング制限など意味はない。何より、そもそも実際に身体を交えた直後に、身体を暴いた本人がそんなことを口にする。これほどおかしなことはない。
 触りの良い柔らかな陰毛を弄びながら、時々際どいラインまで触れる。揶揄から出た言葉ではあるが、別に冗談のつもりもないのだ。遊作はあの風船の口を解いて、中の白濁を吸い出して、舌に絡めて、飲み干して、胃の中に収めたって構わない。むしろ遊作の知らないところで遊作の中に出された了見のものがただの芥として捨てられることを思えば、何となく惜しくもある。
 あれは、了見が遊作のためにつくって注いだものなのに。本当は女の身体に注いで次の命を生み出すための種を、何も残せない遊作の腹に惜しみなく注いでくれているのに。
「どうせ何も残らないなら、飲み干したい」
 ぽつりと呟く。了見のために何も残せないこの身なら、せめて腹の中で溶かして自分の一部にしてしまいたい。
 下生えに縋るだけの指を長い指が掬い上げる。橙の薄明かりに了見の瞳が剣呑な光を宿しているのが見える。ゆっくりと開く唇が紡ぐ言葉はともすれば絶望的で、どうしようもなくいとけなくて、呆れるほどに愛おしい。
「……私はお前の中に、万が一にも私の子を残すことがなくてよかったと、思っている」
 この剣呑は何度も見た。過去に、己に、その根幹を刺す光。怒りをぶつけられたアバターで、夕暮れの橙の中で浮かべた光。
 それは内罰であり、傲慢だ。酷い執着心で遊作の身体を暴きながら過去の幻影に苛まれて、こんなふうに自分ひとりで抱え込む。鴻上の名の呪い、彼だけの罪ではないものを、あるいは遊作が望むものをも連れ去ってしまう。そんな懊悩手放してしまえばいいのに、けれど捨てられないのが鴻上了見という男だ。
 ならば、一緒に背負ってもいい、背負わせて欲しいと遊作は思う。絶対に彼がその重荷に触れさせることはないと知りながら、ならばあの白を腹に根付かせて、続く赤い糸で縛ってしまいたいのにそれも叶わない。この細胞に溶かすことすら許してくれない。
 結局、酷い男なのだ。未成年と姦淫をするような悪い男。
 そんな男に身体を許して、自責を知りながら迫る自分も大概悪い。結局どこまでも似たもの同士だと思いながら、遊作は目の前の膝頭にあまく噛みついた。薄い歯形以外何も残さないけれど。
    2019.5.7

凸凹にキス

 息が止まるほど。呼吸を止めるほど。散々貪り合った身体の残滓まで余さず、寄越さず、全て自分のものであると主張するかのように温かい口内の奥の奥まで侵入り込む。絡め取って、吸って、啜って、飲み干す。落としていた瞼を持ち上げて窺えば、弄ばれるまま子猫のような声を喉から零す遊作のとろりと蕩けた表情がすぐ目の前にある。足りない酸素と倦怠感のまま、意識を取りこぼす寸前に、けれど健気に了見に縋りつく指。
 侵略だ。慈しむと呼ぶには暴虐に過ぎ、愛撫と取るには痛みが奔る。それでも遊作は甘受して一身に受け止める。その健気を悦ぶと同時に憤る。了見の相反する感情を、身勝手を知っているだろうに、ただ受け入れる。欲しがる。手を伸ばす。
 噛みついてた唇を解放してやれば、ぁ、と落ちる声は名残を惜しむものだ。細めていた瞳が酷く残念がって了見を見上げる。緩んで零れる舌先がつうと水っぽい銀糸で了見に繋がっていた。それを辿るように遊作はちいさく背筋を伸ばし、了見の口の端に唇だけで触れる。ちうと微かな音が、これまでの侵略に酷くいとけなく響いた。りょうけんと、舌足らずな囁きは確かな熱を持っている。
 もう寝てしまえと、甘えつく身体を押し戻した。自身は遊作を振り返ることもなくシーツの中に潜り込む。すると追ってきた熱が了見を引っ張って、引っ繰り返す。向けていた背中が反転して向き合う格好に、そう視認する間もなく薄い胸の中に抱き込まれた。
 仕方ないな。そんな声が髪を擽った。母が子にするように、先までの淫らとは随分と遠い温もりが了見の剥き出しの背に触れる。縋りついた爪痕なぞは知らぬげに、あやす仕草で撫でさする。とん、とんと、ちいさな律動を刻んでいる。大丈夫だ、大丈夫……謳う声は何のつもりなのか。欲を灯していたはずの火がすっかり熾火になっていることも、了見を眠りに誘っていることもわかる。けれど何が仕方ないのか、大丈夫なのか、遊作の考えがひとつもわからない。
 口づけひとつでこんなにすれ違うというのに、同じシーツの中、夜の底に、ぴったりと寄り添ってくっついて存在している。この矛盾が、藤木遊作という人間が了見にはやはり心底理解できない。けれど誘い込まれた胸に頬を寄せて、遊作の心音に耳を澄ませて目を閉じて、彼の匂いを吸い込みながら熱を分け合って――この夜を、愛おしいと呼ぶのだろう。囁く声が解ける寝息を耳に心地良く思いながら、了見も散々食い散らかした身体をゆっくりと抱き締めた。
    2019.5.23

さよなら罪悪またきて至福

    ※未来とかロスト事件被害者とかを捏造したし諸々注意

 抜けるような青に水気を湛えた白が浮かぶ。蝉時雨が降り注ぐ。
 見上げれば咽せるほどの緑がそよぎ、波のように光が揺れている。その眩しさに目を細めると同時に、首筋をつうと汗が伝った。本当は日傘を差したかったけれど、手荷物が多いからとやめてしまったことを少しだけ後悔する。けれども代わりにと夫から念入りに被せられた真っ白い帽子はつばが広く、何よりも彼が贈ってくれたものだからお気に入りだった。
 降り注ぐ時雨の下、右手では木桶を、左手では花束をしっかりと支える。舗装されたコンクリートの小道では足下に熱気がわだかまる。桶の中でちいさく跳ねる水音は清涼感をもたらしてくれるが、その分零さないよう気をつけなければならない。グラジオラスの優しい赤が目の前で揺れる。ゆっくりと、熱い坂道を登ってゆく。
 登るにつれ、咽せる緑の匂いから薄らとした潮の匂いへ、蝉の声から波の音へと様変わりしてゆく。目的の場所は山の中腹、見晴らしのよい開けた場所にあった。緑差す道を抜ければ、遠くは寄せて返す海原、そして夏の陽光にも揺るがず立ち並ぶ、白や灰や黒の墓石が立ち並んでいる。
 墓参の時期ではなく、適した時間でもない。今日の予定を告げたとき、暑すぎるだろうやめておけと夫も渋い顔をしていた。それでも最も海が輝いて見えるこの時間に参りたいのだと告げれば、結局白い帽子を被せてくれた。
 だから――自分以外の誰かがいるとは思わなかった。それも自分の家の墓の前に。
 夏とは対極の姿をしていた。浅黒い肌こそ日差しの存在を思わせるが、じっと御影石を見つめる瞳も日除けもなく陽に晒された髪も寒色を帯びている。静かに積もる冬を思わせる佇まいで、ともすれば陽炎の幻を見たかと思ったかも知れない。すらりとした足の先にわだかまる濃い影だけが彼が夏の中に確かに実在しているのだと思わせた。
「あの、」
 右手の先でちいさく水が跳ねた。歩み寄ってみれば、彼は本当に、まるで薄紙一枚向こうの世界にいるかのようだった。こちらの声に気づいて静かに上がる顔は、この水気を纏う空気の中汗一つ浮かべていない。
 白い帽子のもたらす淡い影から、そっと男を見上げる。ほんの刹那瞠目した彼は、すぐに緩んで溶けるような微笑を浮かべた。非常に目鼻立ちの良い顔のつくりをしている。男は顔の造作に違わない耳に心地良いバリトンで、柔い声を熱気に乗せた。
「どうも。こんにちは」
「こんにちは。……あの、こちらの墓にお参りに?」
 そっと頭を下げ、そのまま傾ける。白い帽子のつばの向こうに、男の影が揺れる。
「参りに……いえ、そうですね。顔を見せに、といったところですが」
 供えるものも持たずに、不作法で。あまり申し訳なさそうでもなく自嘲して、男は目を細めた。
 随分と曖昧な物言いをする男だった。彼の背を追い越して、入道雲がゆっくりと流れてゆく。
 墓前の玉砂利の上に水桶を下ろす。たぷんと揺れる水の中、波紋が広がる。
「私はこちらの嫁なのですけれど……失礼でしたらごめんなさい、貴方のことを存じ上げなくて。どちらかの縁者の方でしょうか」
「いえ、私は……貴女の夫君と、知らない仲ではない、程度の者です。こちらこそ突然お邪魔して失礼を」
「ああ、いえ、そんな。どなたであれ、故人を悼むのに理由も遠慮も要らないと思いますから」
 緩く吹き抜ける潮風に、グラジオラスがゆらりと赤を揺らめかせた。対称に青を帯びた男は目を細めて、薄く唇を開く。潮騒に、蝉時雨に、低い声が溶けてゆく。
「悼むと、呼んでもいいものでしょうか。何をしても許されるとは思いませんし、そうしようとも思いませんが……けれど最期に顔を見せるぐらいは筋ではないかと思ったんです。もう一度夫君に殴られるほどの覚悟はありませんでしたが」
「え?」
「ここで貴女に会えて良かった。きっと怒ると思いますが、尊さんによろしくお伝えください」
 夏の幻のようだった。澄み切ったきれいな微笑みを浮かべて、男はちいさく頭を下げる。そのままこちらを振り返ることもせず、緑の被さる蝉時雨の中、山を下る小道へと進んでゆく。
 すれ違いざま、白檀の香りがした。輝かしい海の青とはまた異なる、もっと深い深い青を連れて、男の背は坂道の向こうへ消えてゆく。
 潮騒が囁いた。白い帽子のつばを、結わえて肩へと流した三つ編みをふわりと遊ばせる風に、鮮烈に、炎のように、けれど優しい赤が男の背を見送った。後に残されたのは自分と、花も線香も供えられることのないまま黙り込む墓石だけだった。


「あっ」
 思わず声が漏れた。僅かな休憩時間の合間に急ぎ、と気を逸らせていたのがよくなかった。よく磨かれたコンビニの床に落ちた雑誌を拾い上げるべく身を屈め――ようとしたところで、自分以外の手が伸びた。浅黒い肌、節の目立つ男らしい手、長い指。その親指の付け根には変わった赤いタトゥーを刻んでいる。
「どうぞ」
「あ、すいません。ありがとうございます」
 差し出された雑誌を受け取る。そこでようやっと見上げた相手の顔に、刹那言葉を失った。モデルだろうか、やたらと見目のよい男だ。見慣れたコンビニの内装から浮き上がって見える。
 雑誌の表紙をはたきながら、きっと衆目を引いて止まないだろう男から視線を逸らす。ところが追撃があった。
「デュエルモンスターズ、お好きなんですね」
「えっ? あ、ああ、そうですね」
 手にした雑誌はデュエルモンスターズの専門誌だ。今やネットワーク上、主にリンクヴレインズでのプレイが主流だが、コンビニの小さな書架に置かれる程度には細々と、酔狂で熱心なファンが買い支え刊行され続けている雑誌である。
 紙面にはカード情報や大会に関する記事だけでなく、リンクヴレインズ内の決闘者たちの特集や名試合なども取り上げられている。今月号は今や伝説とも囁かれるPlaymakerの特集に大きく頁が割かれ、表紙にも大きく彼の名前が踊っていた。定期購読者以外の層にも需要があると見て売り切れも必至かと思い、雑誌を取り落とす程度に焦っていた次第である。無論、ここで急ぎ買わずとも年間購読している三部が帰宅すれば届いているはずだがそれはそれである。
「それはよかった」
 存在を失念しかけていた男の声にはっとする。まだ隣に立ち続けている男は微笑を浮かべていたが、何故か背筋にひやりとしたものが奔った。恐らく外気温に反して過剰に低く設定された空調のせいではないだろう。
 コンビニでたまたま、落とした雑誌を拾ってもらった。そんなこともあるだろう。雑誌のタイトルに関して軽く声をかけられた。そんなことも、珍しくはあるがあるかも知れない。例えば拾い主も重度の同好の士だった、ならば話しかけたくもなるのかも知れない。
 けれど、これはないだろう。
「貴方はデュエルが嫌いかも知れないと思っていましたから」
 見知らぬ相手がそんな、既知のようなことを言うはずがない。
 しかも――確かに、幼い頃はデュエルモンスターズに関してただ好きという感情だけではない、多大に思うところがあった。嫌悪や恐怖に近いものもあったかも知れない。けれど今は違う。そしてかつての自分の感情を、身内以外の人間に語ったことはない。誰もそんなこと、知るはずがない。
 思わず言葉を失う。意に介す様子もない男は、書架の向こうの町並みを見つめていた。炎天下のビルの隙間、アスファルトの上を人波がうねっている。黒い日傘の下、顔を伏せる栗色の髪の女性と、身を寄せて彼女の肩を抱く猫のような目をした女性の姿が見えた。
 喪服に似た黒いワンピースの裾が、アスファルトの上に影を踊らせている。主たちはその陽気さとはほど遠く、ようよう泣き歩き、またそれを支えているように見える。夏の空気に水の軌跡を曳いているのが見えた。
「最期に会えて良かった。それでは」
 何も言えないうちに、奇妙な男は踵を返した。ライトグレーのジャケットの背は自動ドアから灼熱の外界へ吐き出されて、人並みに溶けていく。黒い服の女性たちもとうに流されて見えなくなっている。
 まるで狐につままれたような気持ちで立ち尽くす。思わず力のこもる指の先で、雑誌の表紙が柔く歪んだ。
『Playmaker失踪から早――彼の戦術、戦績、その軌跡の全てを余さず――』
 そんな見出しが躍る隣では、在りし日の英雄のアバターがじっと男の消えた先を見つめている。
 頬を外から流れ込む温い風がそっと撫でていった。鼻先には白檀の香りが掠めて、すぐに消えてゆく。


 暑い。熱い。目の前が熱気で歪んで見える。
 一番気温の高い時間帯も過ぎ、車内クーラーも天井部に取り付けた扇風機も唸りを上げてフル稼働しているが、それでも暑いものは暑いし熱いものは熱い。ワゴンの前面は開け放たれているから冷気は逃げていくし、何より目の前にじゅうじゅうと油と肉を焦がす鉄板があるのだから涼しくなりようはずもなかった。
 額を滑る汗が鉄板に落ちる前に顔を上げる。日陰の少ないパブリックビューイングでは、いつもは倦んで群れる人たちも刺すほどの日差しに俯きがちに波のように過ぎていく。大型の街頭モニタも今はデュエルの中継を映してはいない。代わりに雑誌の広告が流れていた。老舗のデュエル専門誌、今月号の特集はリンクヴレインズから姿を消した――
「ホットドッグを二つ。それとコーラを。テイクアウトで」
「あ、はい、ただいま――……」
 何年もこの店を手伝ううちに、客の応対には自然に声が出るようになった。腕で汗を拭ってソーセージをトングに挟み、客に向かって笑みを浮かべる。ここまでは、本当に自然にできるようになったのだ。
 けれど浮かべた笑みはこの熱気の中、凍りついた。
 何度か見たことのある男だった。言葉を交わした覚えはあまりない。一方的にかけられる言葉は真摯なものだったが、自分には答えることはできなかった。兄や、もう一人の背に隠れて声や音を耳に入れるので精一杯だった。それだってろくに覚えていない。
 舌が凍りついたように動かない。喉がからからに乾いている。それでも手だけはソーセージを焼き、バンズに野菜を挟み、コーラをプラスチックカップに注ぎ、マスコットキャラクターばかりが陽気な紙袋を用意していく。
 はくはくと喘いでも、果たして目の前の男は気づいていないのだろうか。黙ってこちらの手つきを見つめていた。ぎこちないながらも客とやり取りができるようになったという矜持に、この特異な男がこの場所を訪れた意味を考える。喋るにはあまりに不向きな口が、消え入るような声を絞り出す。
「ぁ、兄は、今日は、」
「不在だろう。知っている。彼がどこへ行っているのかも」
 縺れる声は凛として掬い上げられた。
 バンズに焼き上がったばかりのソーセージを挟む。ホットドッグを紙で包み、それを二つ並べる。そしてちらりと、男へ視線を向ける。
 そうだ、兄の行方をこの男が知らないはずがない。兄も、他の誰も彼も、今日は皆同じ場所へ行っている。自分は彼の背中に庇われたことこそあれど直接言葉を交わしたことはないからここで留守番をしているだけだ。自分に語りかける男を遮り、あるいは間に立っていた彼は誰よりもこの男を親しく呼んでいた。
 思い出すと同時に、疑問が生まれる。どうしてこの男は、兄たちの行った場所にいないのか、ここにいるのか。
 その疑問も泡のように弾けて消えた。
「私は、最期に君に会いに来たんだ」
 夏空に抜けるような、澄んだ微笑み。
 言葉を失う。深く問うこともできないまま、できあがったホットドッグを二つ紙袋に詰め、コーラのカップと共に渡す。代金は既にカウンターに置かれていた。ありがとうと、まるで普通の客のようにホットドッグを受け取って男は踵を返す。
「君にとっては迷惑どころではないだろうが、話せて良かった」
 それでは。一方的に告げて立ち去る男に、やっと言葉を取り戻した自分がかけられる言葉などあるはずもない。
 ただ――ふと、思い出した。彼が客としてここを訪れ、兄が応対する様を傍らで見たことは何度かある。
 彼はただの一度も、コーラなんて頼まなかった。
 俯く人の波に消える彼を、黙って見送る。ちかちかと、赤の混じり始めた陽光の下、影が長く伸びている。硝子片のような光が彼の輪郭を彩って、そして消えていく。
 街頭モニタは相変わらず消えた英雄を特集する雑誌の広告を謳っていた。


 夕陽の溶ける、赤と藍の狭間。長く伸びる自分の影の黒。硝子の向こうにうねる海の暗さ。表面にまぶされた陽光の名残が、星の輝きを帯び始めている。
 誰かが亡くなったのは随分と前のことなのに、未だにこの家には死の影が蹲っているようだ。そんな考えを笑って、背もたれの深い椅子に身を投げる。傍らのテーブルにはまだ温かいホットドッグと、号泣したようにびしょびしょに汗を掻いたコーラのカップ。そして流麗な文字の綴られた、一枚の便箋。
 送り主にしては意外な、たった一枚、ほんの数行には、長年を共にした感謝が淡々と、しかし愛情深く綴られていた。感謝するのはこちらの方だ。恨まれても同然のはずの彼は、自分を主と呼んでよく従ってくれた。奇特なことだ、とは、もう思わない。彼の忠義心は本物だった。最期の我儘をこうして許してくれる程度には。
 便箋の傍らには、グラスがひとつ。自分はコーラは飲まない。舌の上で弾けるいかにも人工的な甘味が苦手だった。こんなものをいつも好んで――好んでいたのだろうか、いくらか鈍磨した味覚ではただの慣習で口にしていただけかも知れない――飲んでいたのは、あれだった。眉を顰めればお前も飲んでみろと頼んでもいないのにストローを押しつけてきて、同じ黒でも苦みの深い珈琲を好む自分を信じられないといった顔で見つめていた。こちらからすれば信じられないのはお前の方だ。
 だが、今日グラスに注がれた水は黒ではない。硝子の向こう、星が落ち夕陽が溶ける前の海に似た青をしている。
 あれは、どんな顔をするだろうか。
 やはり信じられないとでも言いたげな顔をするだろうか。それとも眉を顰めるだろうか。あるいは頬を張られるかも知れない。あるいは――俺も同じものを、とは、言わないだろうか。
 もう随分と前に、確かめることはできなくなったのだけれど。
 ホットドッグを、一口だけ囓る。店番をしていた彼は兄にも遜色ないほどにソーセージを焼き上げているが、どうしたって味気なく思えた。理由はわかっている。焼き上げたのはあれではないし、隣にもあれがいない。
 ここまで随分と長かった。寒かった。時間をかけて、そして今日、自分の背負った罪の名残が、それでも彼らの人生を歩き始めていることを確かめることができた。ある者は妻を迎え、ある者は日常の中でも決闘を好み続け、ある者は友に寄り添い、ある者は一人で立ち上がることを始め、ある者は長年を尽くした主人と別れを告げた。
 だから、お前だけがいない。
 だから、もういいだろう。
 ホットドッグを包み紙の上に戻し、青い水に満たされたグラスを手に取った。夕陽に透かしてみればちかちかと星が散っている。もう少し時を待てばもしかすれば海に浮かぶ光の道を見られたのかも知れない。お前との未来を繋げた決闘に見た、あの星屑の道が。
 けれど、その道の先にお前はいない。
 だから飲み干してしまおう。永遠に、私の中で光り輝いて、そして導いてくれればいい。
「……――遊作」
 愛すべき名を囁く声と共に、飲み干した。
 手からグラスが滑り落ちる。遠く星の砕ける音を聞く。新たに生まれた星の産声、生まれたての光。ちいさな輝きを追いながら闇の中へと意識を委ねる。
『――Into the ■■■■■■』
 懐かしい声が、耳元で囁いた。


 白い部屋だった。
 何も構築されていない、真っ新な世界。自分だけがいる。自分しかいない。果てはなく、始まりもないような白の世界。
『了見』
 あの日の姿のまま、懐かしい運命が佇んでいる。
 自分だけがいる。自分しかいない?
 遊作は笑っていた。呆れたように困ったように眉尻を下げて。しょうがないな、とでも言いたげに。ああ、お前のそんな顔は、あまり見られなかったなと思う。
『駄目だろう、お前は……こんなところにまで』
 細い指が、手に触れてくる。とっくにこの世に存在しないはずの遊作の指は温かった。あるいは自分の方が氷のように冷たいのだろうか。
 柔らかな感触。温かな肌。まるで生きているように、確かに目の前に――存在する?
『だから――勝手で悪いと思ったんだが、俺はここにいる』
 でも、お前の方がよっぽど勝手だ。だからこれでおあいこだろう?
 悪戯に笑いながら、遊作はそっと身を寄せてきた。ぐっと背を伸ばして、もちろん、この仕草の意味するところは知っている。
 ここはどこで。目の前の愛しい存在が何か。今の自分は、何なのか。
 そんな疑問にわざとらしく目を伏せて、了見はそっと遊作の唇に己のそれを重ねる。刺すような甘みも、沈むような苦みも、眠るような毒もない。どこまでも透明な口づけに、刹那が永遠になっていく。
    2019.5.20
    2019.6.24 up