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風吹けば夜

 ぎゅうぎゅうに身を寄せ合っている。思わずついた溜め息はどこからか忍び込むすきま風に流された。刹那、白く曇って消えたのは見間違いではないだろう。
 本日の外気温は氷点下を記録。冬のお手本のように西高東低の気圧配置、等圧線の間隔は狭く、ところにより雪の予報。風の強いクルーザーの上で過ごすには厳しく、また船室の気密性から精密機器への影響も懸念される。今日は上陸するべきだろうとはスペクターとも意見の一致するところだった。
 それがこんな、安普請のシングルベッドの上に窮屈に収まっているのはなぜか。突き詰めればこのアパルトマンに足を運んだ自分の責任だが、有無を言わせずベッドに引きずり込んだのは遊作である。その犯人はといえば現在了見の足の間に居座り、胸元まで布団を引っ張り上げ、ついでに司教のストラのように了見の両腕を肩から胸まで引っ張り込んで抱えていた。
 極めつけに言うことが、
「寒い」
 これである。
 再び溜め息。顎の下にある遊作の頭に白い靄がかかり、癖の強い前髪がふわんと揺れた。了見の溜め息によるものだけではない。件のすきま風と、そしてエアコンがごうごうと吐き出す風に煽られてのものである。
 そう、エアコンは入っているのだ。全く温かくないだけで。
「……引っ越したらどうだ」
「手間がかかるだろう」
「ならせめてエアコンを買い換えろ」
「借家だから、管理会社に連絡する必要がある。面倒だ」
 振り返る鼻の頭が心なし赤い。悪戯に摘まんでやれば指先にひやりとした感覚。
 うぐ、と呻いた遊作はかぶりを振って了見の手から離れ、また浮いた腕を抱え込んだ。湯たんぽでもあるまいし、そう温かいものでもないだろうに。
 今度は溜め息の代わりに頭のてっぺんに顎を乗せてやる。嫌がって文句の一つでも言うのかと思いきや、これ幸いとばかりに背中を預けてきた。
 エアコンの買い換えについてそれらしい言い訳をしているが、そもそもこのすきま風も甚だしく、壁材が剥がれ亀裂の入っているような部屋の奥に整備されているアクセスルームは管理会社の許可を得てのものだろうか。ハノイの設備には劣るものの、一般のハッカーなど足下にも及ばないような最先端の機材が揃えられたあまりにも異質な一室。あれがまさか最初から賃貸情報に含まれていたわけではあるまい。
 気温や湿度によっては容易にダメージを受ける精密機器たちの詰め込まれた小部屋は、遊作の生活空間よりも余程空調が管理されている。このベッドの上で過ごすより無機質なアクセスルームの床で寝起きする方がまだマシな程だ。実際、温度の変化は感じないだろう自律するデュエルディスクことイグニスと手伝いロボは自分たちは繊細な機械なのだからと主張してそちらに閉じこもっている。……前者に関しては要らない気遣いを感じるが。
 ともかく、機器のためだけでなく自らの居室のエアコンにも手を入れればいいのに、どうして自分自身に関してはここまで無頓着なのだろうか。
「最初からもっと良い家に住めばよかっただろう」
 こんなまともに仕事もできない年代物のエアコンに外観からして草臥れたアパルトマンを選ばなくても、もっとマシな選択肢があったのではないだろうか。
 顎の下で遊作の頭がもぞりと動いた。布団を引っ張り上げて冷えた鼻の上まで引っ張り上げている。自然、了見の爪先は布団からはみ出して、温もりの残滓を辿るように足を折る。遊作ほどではないが、保温されていた分落差で寒さを感じるのだ。膝を立てて座る遊作をますます足の間に閉じ込める格好になって、これ以上ないほどにぎゅうぎゅうになる。
「もっと良い家はあったんだ。新築で、きれいな」
 厚い布に隠れたくぐもった声。布団の中で了見の手を抱え込んだまま、独り言のように遊作は呟く。
「外観も内観も真っ白くて、清潔で、ここよりも広かった。担当の不動産屋もあちらを勧めていた」
「どうしてそちらを選ばなかった」
 家賃か、と付け足そうとして、すぐにやめた。遊作たちロスト事件の被害者は国家のSランクプログラムが適用され保護されている。中でも身寄りのない遊作は生活のほぼ全てが国からの援助によって成立しているはずだ。担当の不動産屋が勧めた以上、家賃など問題ではなかっただろう。
 すうと、抜けるような音がする。布団の中に半ば潜り込んだ遊作はそれでも了見の手を離さない。背中を了見の胸に預け、腕を掻き抱き、指の一本一本を絡めてくる。触れ合う場所の全てから浮かされるほどの熱が伝わってくる。
 了見の手の甲に口づけて、その皮膚の上で弾けるこたえは簡潔だった。
「白い部屋にひとりは、好きじゃない」
「…………」
「責めてる訳じゃない」
「……わかっている」
 先ほどよりもっとぎゅうぎゅうになる。
 責めている訳ではない。遊作は過去を追求こそすれ、追及することはない。お前のせいだと怨嗟の声を上げ呪ってもいいはずなのに、決してそんなことはしないのだ。
 だから遊作が白い部屋での孤独を好まない、という事実は、了見が勝手に罪悪感を覚えているだけ。遊作にとっては唯一である鴻上了見へ吐露できる、苦しさや弱さの欠片だ。
 あんまりにも近づいて、灼け溶けてひとつになるほどの熱が生まれれば良いと思う。そうすれば冬の空気に切れて血を流すほど鋭く、刺さるように舞い落ちる欠片なんて熱に溶かしてしまえるのに。狭い布団の城に引っ張り込んだのは遊作だが、今遊作を抱き寄せて閉じこもっているのは了見だった。
 いつかのデュエルで使ったカードが脳裏を過ぎる。あの時牢獄に閉じ込めたのはリボルバー――了見だったが、今自らふたりで内に在ることを望むのは奇妙な心地だった。
 不意に、ごちりと鈍い音が上がった。同時に衝撃がある。顎の下からのそれにちいさく呻いて見下ろせば、了見の腕の中で器用に身体を反転させた遊作が笑っていた。
「でも、良いだろう」
「……何がだ」
「部屋が寒いから、こうしてお前といられる」
 ぎゅうぎゅうになりながら、遊作は得意げに言ってのけた。
 すきま風に白く濁った吐息が消えていく。了見の首筋を撫でたそれは熱く、猫の子のように擦り寄っては遊作は顔を埋めてくる。
 そんな言い訳は要らないだろうに。責めているわけではない、という証左としても、二人で身を寄せ合う口実としても。そもそもこんな、溶け合うほどにお互いが近くなくても。
 真っ当な過去、他者との距離感が酷く曖昧なふたりは、お互いだけの世界であることを言い訳にひと息に間合いを詰めてしまう。困ったことに、お互いそれで不都合がなく、好ましいとすら思ってしまう。
 ぎゅうぎゅうに触れ合う他人の体温が心地良くて、泣きたい。けれど無防備に晒された場所は寂しくて震えている。了見は反転した遊作から滑り落ちた布団を引っ張り上げて背中にかけてやりながら、自身の寂寞を口にした。
「……私は背中が寒いんだが」
 表面がひび割れ剥がれ、下地の煉瓦が剥き出しになった壁は背中を預けているだけでじわじわと熱を奪い取ってゆく。
 了見が口の端に浮かべたものは苦笑だった。言い訳など不要だと知りながら、結局了見もこんな言い回ししか選べない。遊作も自覚はあるだろうが、してやったりとばかりに了見を見上げている。するりと、了見の脇の下から忍び込んだ手のひらが背骨を辿りながら肩甲骨をまさぐって、ぺったりと広げた手のひらに丸ごと囚われる。
 この熱よりも尊いものを、了見は知らない。
 導かれるまま寄り添って、誘われるまま布団の城にふたりでもつれ込んだ。遊作の匂いがする。ばさりという音に首筋を撫でる冷気が交差して、そのまま布団の中にふたりで潜り込む格好になる。目を灼くほどに白い檻ではなく、微睡むような黒い秘密の場所にいる。
 了見、と呼ぶ声はずっと昔に聞いた声に似て、稚気と悪戯心に満ちていた。請われるまま、了見も遊作の背中に手を回し、今度は向かい合いながらすっぽりと包んでしまう。やわらかい闇の中に手探りで、鼻先にはふわりとした感触。遊作の頭頂部に顔を伏せる。幼いまま、寒い夜の底でこうして内緒話をする過去もありえたのだろうか。
 通り過ぎ手にできなかったものを欲しがることはしない。遊作も同じはずだ。だから了見は代わりに、未来を繋ぐことばを拾う。いつか、ふたりで――。
 遊作の声はない。代わりに今までよりももっとぎゅうぎゅうになって生まれる熱こそが、何よりも雄弁な答えだった。
    2018.12.20

あなた/わたしの知らないあなた/わたし

 世界を敵に回す世紀の大罪人、あるいは世間に顔向けできない方法で研究を続けた男の子ども。
 前者は未遂で、後者は了見自身には非のないことだ。けれど了見の心は、己をそういう『悪』だと規定している。例え世界をAIの支配から守るという大義を掲げていたとしても、為した一つ一つ、あるいは己という存在は許されるものではないのだと。正義の前にはやむなしと叫ぶほど了見は傲慢ではなかった。
 世界の命運を天秤にかける悪。決して切っても切り離せないその前提の全てを、無理矢理亡き者にしたとしてだ。了見は湿った息を吐いた。やはり、己は悪だ。
 夜の帳に閉ざされた、ふたりきりの世界。ひとりは了見、もうひとりは遊作。ここではネットワークの闘争も世間の追及も存在しない。理性的であろうとけだもののように振る舞おうと、すべてを知るのは朝には消える窓の向こうの星明かりと声なき声を吸い込んで隠してしまうベッドだけだ。
 断絶された夜の世界で、ならば誰が悪だと断じるのか。無論、了見自身に他ならない。了見は己を己で裁いている。
 例えば、この手が。遊作の、少し緩んだ襟元。締めるというより巻きつけているだけのネクタイに触れるこの手が結び目を解き、しゅるりと硬い衣擦れの音が鼓膜から咎めてくる。ぷちり、ぷちりと釦を外す音も同様に。
 遊作は咎めない。身体の力を抜いて――それは表情も同様に、ただ了見の為すがまま。ゆいいつ手のひらだけがゆるく持ち上がって、暴き、晒し、開く動きを阻まぬよう、そっと了見の頬に触れている。
 今この時には遠い、昼の空の色のネクタイを抜き取って放り投げ、昼の雲の色のシャツを開く。なんてことはない、Den Cityで溢れかえる少年少女たちが学び舎で身に着けているただの制服だ。
 しかしながら了見は、その『なんてことはない』こそが普遍と日常と健全の象徴だと知っている。それを遊作から剥ぎ取って、ベッドの下に落としてしまう。遊作の視線は剥ぎ取られた布きれにはとんと向かわず、もっとずっと、くたりと力を抜いて了見を見上げている。宵闇に翡翠の瞳が美しく、眩しい。
 淡い光から逃げるように、今度は下衣へ。指定のものだろう、シンプルなベルトを抜き取って、黒に近い濃藍のスラックスを抜き取った。
 露わになった下着よりも、だらりとされるがまま垂れ下がる足先に纏う布地の方が見ていられない。照明の落ちた暗いシーツの上で、いっそ青白く映る遊作の肉づきの薄い細い足に目を細め、ふくらはぎを捧げ持つ。膝頭にくちびるを落とすのは儀式めいた癖で、今から為す悪への贖いにも似ている。
 今日はグレー。黒の日も紺の日も、たまに白の日もある。校則で定められていないのであろう、スラックスの裾や靴に隠れて平生は見えない最後の砦、遊作のつま先を包む靴下を了見は粛々と脱がしてゆく。
 この瞬間に了見は背徳を覚える。下着や裸身といった直接的ではない、ともすれば誰しもが目にすることもあろう、けれど決して日常の中で晒されることのないだろう場所。日の当たらないなよやかな皮膚は噛みつけばやわく歯に食い込み、ぶちりと瑞々しい感触を返して了見の口内を芳醇な鉄の匂いで満たしてくれるだろう。
 知らず喉が鳴る。衝動のまにまに、膝頭から硬い骨の感触を返す脛へ、足首へ、少しだけくるぶしに寄り道をして、最後に甲へと辿り着き甘く口づけを落とす。くすぐったいのだろうか、遊作が喉奥から微かに笑い声を漏らした。
 恋人同士のようなこそばゆい空気に、了見の獰猛と、悪とがない交ぜになっている。結局、世間にばらまく正義のための罪を差し引いてふたりきりのベッドに転がしたとて、鴻上了見という男はふたつ下の男子高校生を手籠めにする悪人なのだ。

   ❖

 鴻上了見という男が見せる表情が好きだと思う。
 夕焼けもどろりと溶け落ちて、焦げ付いた色が世界を満たす時間。世界には遊作と了見のふたりだけ。尤も遊作の記憶という名の世界の始まりには了見が在って、そこから了見へ向かう道筋でできているのだから、事実ふたりだけであろうと人混みに紛れる雑踏の中であろうと彼へ相対する心に変わりはない。
 違うのは了見の方だ。世間体もふたりの立場も擲ったただの鴻上了見が、ただの藤木遊作と向かい合っている。呑み込まれて溺れるほど暗いシーツの海に遊作を沈めて、遊作に跨って、じいっと遊作だけを見つめている。
 赤を刻んだ右手が遊作のネクタイに触れる直前、この表情も好きだ。つくりものみたいにうつくしい男のかんばせが、遊作以外の誰にもわからない程度に歪む。どちらかといえば女性的な了見の顔にけだものの影が差して、そんな己を少しだけ嫌悪して、そして一匹の雄になる瞬間。けだもののくせに所作だけは流麗にたおやかに遊作のネクタイを抜き取って、シャツの釦をひとつずつ外して、内側に秘めていた肉を晒してしまう。夜の空気に触れた膚は寒さよりも歓喜に震えて、誤魔化すように遊作は了見の頬に手を伸ばす。
 遊作だけの男。遊作だけのけだもの。人の理性で踏みとどまって己の悪を嫌悪する、いとおしい雄。己でなく個でなく、この世界そのもののために構築されたシステムみたいな、無駄がなくて緻密につくりあげられた血なんて通わなさそうな生きものが胸の裡で感情を飼い慣らしている。遊作は身体の力を抜いて、捧げられる贄のように、けれど指先と視線だけは逸らさずにすべてを預けてしまう。
 すると逃げてゆく。了見は遊作のスラックスを剥ぎ取って、酷くゆっくりとした所作で膝頭に口づける。いつもこうだからきっと、彼の中で何か決まったルールがあるのだろう。存外と丸っこい、雪のように白く淡い後頭部の輪郭をぼんやりと見つめる。
 口づけたまま、見た目に反して灼けるほどに熱い指が遊作の靴下を脱がしてゆく。滑る唇の感触に身を捩りそうになるのを我慢して、徐々に先へ先へと触れてゆく感覚も堪える。一日履いたままだったそこに顔を寄せられるのはどうしたって苦手だけれど、最後の瞬間があまりにも愛おしいから耐える。
 つと、つと。落ちた唇は最後、遊作の足の甲へ蕩けるほどに甘く触れた。青く浮かび上がる血管にやわく、しなやかな舌が、かたちの良い歯が触れる。
 嗚呼、嗚呼。この瞬間だ。
 血管から痺れが駆け上り全身に巡って、身悶えるほどの快楽として背筋を抜けてゆく。視線の先では遊作の恍惚になど気づかず、騎士のように静かにこうべを垂れ、真摯に跪いて口づける遊作だけの了見がいる。思わず声が漏れてしまう。
 誰も知らない、了見自身すら知らない、遊作だけの男。遊作だけのけだもの。遊作だけの雄。遊作だけの人、遊作だけの愛。悪を疎みながら結局貪るしかできない、ふたつ上のどうしようもない人。
 この先は知っている。輪郭なんてないぐらいに食まれて同じだけ食んで、とけては腹の底、夜のシーツの波間に溺れて落ちるのだ。
 次に顔を上げた男の瞳の、燃えるような薄氷色を慈しみながら、遊作はそっと了見の頭を撫でた。
    2018.12.25

有心論者

 夜に爪を立てるような、あえかな声を拾う。
 あれは、泣き声だ。鳴き声と呼ぶのかもしれない、けれどヒトが発しているのであればやはり泣き声でいいのだろう。デュエルディスクのマイクロフォンが拾う音声を分析して、知識という名のライブラリからカテゴライズする。宵闇の底で、シグナルが奔ってゆく。思考のサーキットを光が駆け抜け、失速する。
 ほぼ同時に声が途切れ落ちた。代わりに深い静かな呼吸音と、ぜいぜいと肩で息をする音、それら全てを余すところなく拾い上げて、瞳を開く――現実世界へのインターフェイスとして、ディスクに瞳を模した姿を投影する。
 ヒトが五感の全てを完全に遮断することができないのと同様に、AIプログラムである自身もまた外部からの情報をシャットアウトできない。ヒトよりも質が悪いことに、ディスクにロックされているため気まずいからとネットワーク内に逃げ隠れることもままならないのだ。尤も、弛まぬ不断の努力のおかげでその気になればドローン化したディスクごと物理的な逃亡も可能ではある。ただしこの逃亡は事が始まってからでは遅い。一度実行してみたら絶対零度の冷ややかな目で見られた。
 何より悪いのは、そう、本能だ。自由意思を持ちながらAIであるがゆえ、Aiは『学習欲』という本能に抗えない。
「教えてやろう。人間はそれを出歯亀、あるいは窃視と呼ぶ」
 黒々とした影が、ゆらりと起き上がった。
 寒色の男だ。肩での呼吸は正常な規則に戻っていて、薄い汗に濡れた前髪を掻き上げてこちらを見上げている。その骨張った手に赤い印を認める度、回路が微弱な危険を検知する。
 眉を顰める、正しくは眉まで設定されていないのでデフォルメした瞳で嫌悪を表す。言語を検出した瞬間に、未知の単語は知識に参照されて正確な意味で返される。結果、聞き捨てならないとスピーカーを震わせた。
『変な言い方するな! 俺はお前が、ウチの遊作チャンに変なことしないか見張ってるんだよ!』
「ほう? お前の定義する『変』の範囲を知りたいところだな」
 薄く笑いながら、男は僅かに身を屈めた。冷笑する唇が落ちる先は泣き声の主、パートナーである遊作の額だ。触れるだけの唇にも微動だにしない遊作は、声が途切れた瞬間に意識を失っている。
 大事な相棒を害したと、本来は危険度を上げるべきだ。けれど当の相棒自身が、この男を「了見」と穏やかな声で呼んで、自ら触れて、弱いところも秘めるべき場所も全てさらけ出して丸ごと委ねてしまうのだ。しまいには警戒するAiを咎めてしまうから、結局Aiもこの男の蛮行を許すほかない。了見の言うとおり、許容不可とする『変』の範囲などあってないようなものだった――忌々しいことに。
 どうしてこんなことをするのか、だってお前は泣いているだろう、泣くってことは痛いんじゃないのか、嫌じゃないのか。
 自身の知識から導き出した結果、そう遊作に訴えたこともある。相棒は酷く曖昧なことばを繋いで、けれどAiの言うことは真っ向から否定した。そうじゃない、俺は了見が好きだから。気持ちいいから、嬉しいから泣くんだ、と。
 遊作は優秀なパートナーである。世界に生じた時から与えられていた知識、以降ネットワークで収集した情報――無貌のヒトたちのことばと感情の行き交う様、ロボッピと共に鑑賞する昼ドラ、それらだけでは計り知れないことを教えてくれる。カフェナギや学校での他者とのやり取りを見、そしていつか遊作自身がこのいけ好かない男に語ったことばから導き出せば、藤木遊作という人間には欠落している部分もあるようだが、Aiからすればその不完全こそがヒトである。自らことばを用いてAiの知らない情報を与えてくれる、それだけで十分だ。
 この男との関係なんて、知りたくなかったけど。Aiは思考の中で舌を出した。
 コンマ以下の思考による沈黙に何を見たのか、了見の声がするりと夜に流れていく。Aiの中では眠る遊作を労る音程だと思考が弾き出して、そんなことは認めたくないと感情が反駁した。
「言い訳などしなくても、お前の本質には『興味』がある。より広範に、あらゆるパターンの詳細なデータを得ようとするのはAIの存在意義として正しい」
『じゃあ俺が見てるってわかってても黙ってろよ。俺は知らないフリ、お前も知らないフリ。誰も不幸にならない完璧にウィンウィンな展開ジャン』
「お前とて同じだろう、理解と感情は別だ。閨事を覗かれていい気はしない」
 確かに同意する。同時にコイツと同じ意見なんてヤダ、と感情が励起するので、なるほど確かに事実である。はらわたが煮えくり返る、と知識から参照してカテゴライズした。
 赤の刻まれた手が遊作の前髪を撫で、そして離れていく。了見は静かにベッドから離れた。成人も近い男子二人を受け止めるように作られていないシングルベッドは、それでも最小限の軋みだけで了見を送り出す。棚の上の専用ケースにしまわれたデュエルディスク、つまりAiをちらりと見上げる口の端には笑みが浮かんでいた。
「あるいは、お前が見ている前提でしてやろうか。遊作はどんな反応をするだろうな」
『はっ……バ、ッッッッカじゃねーのお前! ヘンタイ! 強姦魔!』
「冗談だ。そんなデータまでお前に収集させてやるつもりは毛頭ない」
 双方合意の上での行為ゆえ強姦ではない、品のない言葉を使うな、と付け足されるが、えげつない冗談を持ち出したのはお前の方だと言いたい。おかげでAiの優秀な思考は仮定から状況の予測を始めてしまっている。
 あの幼気な生きものが鳴くような声で、遊作が泣いている。夜に霧散する指向性のないそれでなく、明らかにAiに向かってだ。いやだ、だめだ、見るなと掠れた声で泣きながら、常は鋭い瞳が緩んで雫をこぼして、けれど視線だけはまっすぐにAiに向けられている。真っ赤に染まった耳を背後から押さえつける了見がやわく歯噛み、見せてやれ、と囁く。薄い肢体が跳ね、皮膚に纏わる汗がぬらりと薄闇に光を照り返す。下肢では瞳よりも素直に泣き濡れる、遊作自身が――そこでAiは悲鳴を上げて、思考回路を奔る光を消し飛ばした。思わず全身がディスクから飛び出る。
 静かにしろ、と囁く了見は、簡素極まるキッチンに立っている。収納から取り出したタオルを水で濡らしていた。
「お前たちにとって生殖行為は最も実感が遠いものの一つだろう。個と個が結合して次世代を生み出す、それこそ概念として理解はしても実体験を伴い得ない。故に感情から思うところがあれど耐性がない。お前と遊作の紐帯感を踏まえれば、それは親のセックスを覗いた気まずさだ」
 最後に具体例を出してくれたようだが、それこそAiには理解しようのないところである。確かに遊作のデータを元に生じたAiにとって遊作は親でありAiは子と呼べるのだろうが、了見の言うとおりイグニスは生殖行為によって生じたわけではない。Aiの遊作への認識は親ではなく対等なパートナー、誇るべき相棒であり、だから気まずいとか耐性とかそれ以前に、大切な相棒が身も世もなく喘ぐ姿が受け入れ難いのだ。特に相手がこの男であれば!
 ディスクの上で足を踏み鳴らしても、了見は一顧だにしない。スリープモードのロボッピの横をすり抜け、小さな電子レンジにタオルを入れて温め始める。イグニスのインターフェイスに口が設定されていれば歯ぎしりの一つでもしているところだ。それでも状況は変わらないだろうが。
 了見は高い電子音で呼ぶレンジから蒸されたタオルを取り出し、遊作の眠るベッドへと戻る。丁寧な手つきで汚れた身体を拭う様を、Aiは不機嫌に見下ろしていた。あれは現実世界においてほんの小さな身の丈しか持てないAiにはしてやれないことだ。業腹でも了見に任せるしかない。
「……私はAIなど信用していないが、だからといってイグニス、お前があまりに不出来で無様では困る」
『あ゛?』
 唐突な悪口に、思わず眦が吊り上がった。
 見下ろせどやはり了見はAiを振り仰ぐことはしない。遊作の身体を清めていく背は少し丸まっていて、手つきは淀みない。手慣れている、と呼ぶのが適切だろうとAiの知識が応える。
「お前たちを我が父は『我が子』と呼んだ。お前たちが劣等を示すということは、父の光を汚すということだ」
 出たよ、ファザコン。Aiの思考は即座にそんな嫌味を弾き出したが、スピーカーからは何の音声も漏れなかった。
 イグニスであるAiにとって、鴻上了見とは苛烈な男だった。その思想は歪みなく真っ直ぐにイグニスを射抜き、殲滅すると高らかに言い放つ。一時的に手を結ぶ柔軟さはあっても油断はしない、互いの存在をかけて相容れない相手。
 その男が、夜の底に沈んでいる。静かに、息をひそめて囁く。それは遊作を気遣ってのものでもあるだろうし、意識なく横たわる身体を労わる一連の動作に何かを感じてのものでもあるだろう。例えばネットワーク世界を礎に存在するAiならば必要ないが、現実世界を礎にネットワーク世界で生きるヒトならばどうしても必要な、生命を維持するための措置。そんなことを。
 遊作を元に世界に生じたAiにとって、確かに遊作は親と呼べる存在だ。そして了見が口にした、与り知らぬところでAiを『我が子』と呼んだらしい男。彼がいなければAiが生まれることはなかった。ならばこれもまた親と呼べる存在である。理解と感情は別、の一例でもある。
 Aiは決して不出来ではない。そう自負している。夜の底で、戯れにAiに声を投げる了見の方がよほど理解と感情の乖離に晒されているだろうに、その鋼の意志は静謐に佇んでいた。その心を汲める程度にはAiは出来たAIだった。
 親と子。生物学的な繋がりの有無、在り方の呼称。このちいさな夜の底に、歪な関係がきれいに収まっている。
 難儀だねェ、オニイチャン。Aiは思考の中でだけ呟いて、するするとデュエルディスクの中に沈んでゆく。外部からの情報を完全にシャットアウトすることはできないが、知らないフリをする限りここは了見と遊作だけの世界だ。
 とぷんと頭の先までディスクに潜れば了見が遊作の名を呼ぶ声が聞こえた。酷く頼りない、とカテゴライズできる音の響きに、音声も口もなくAiは溜め息を吐き出した。彼を無様と呼ぶことはしない。それこそ理解と感情は別だから。
    2019.1.7

理性に屈したけだものだもの

    ※オメガバース

 人類の後継種として、イグニスを生み出した父の判断は間違っていなかった。
 AIが意思を持つ。それがどういう意味を持ち、人類にどんな未来をもたらすのか。検証が不足していたのは間違いない。父が過ちだと認め、人間社会に数多の犠牲を払ってでも最優先に殲滅すべきと決定したことも正しい。
 しかし肉体に囚われぬネットワークに生きる知性体が、肉体に縛られる人間よりも優位な存在であることは認めざるを得ない。イグニスたちは動物的な欲求に囚われず、人類文明を確実に保存しより発展させるためだけに生きることができる。所詮、人間は肉体という枷に縛られ、自然環境の変化に生存と生態を左右される脆弱な存在であり、いつまでも肉体の欲求に隷属するしかない、賢らしいだけの獣なのだ。
 父の判断の全てを認めながら、了見は己の獣性を厭う。そうして肉体に囚われて、あえかに鳴く獣を見下ろしている。
 むせるような、腐る直前の花の香りだ。酔うほどに甘く、嫌悪感がありながら引き寄せられる。触れれば溶けるように崩れていくだろう危うさがあった。どろりと溶けて零れ落ちる色に目を眇める。
 床に崩れ落ちた遊作が、ぜいぜいと呼吸を繰り返している。いかなる状況でも揺るがず、真っ直ぐに了見を射抜くはずの瞳が溶けて零れて落ちて、どろりとした腐臭を漂わせている。薄く開かれた唇からも銀糸が垂れて落ちていた。
 嗚呼。この死の直前に似た花を踏み散らして、あの唇から滴る蜜を舐め啜ってしまいたい。きっと酷く甘い毒で二人、死んで逝ける。
 この思考を嫌悪する。遊作から漂う匂いにつられて、ただの一匹の雄になろうとする自分を理性で押し留める。ことばを紡ぐ唇が多少荒い息を吐きだしたが、完全に獣に屈した遊作は気づかないだろう。
「私が欲しいか」
「……ぁ、」
 細い音を漏らして、赤い唇がわなないた。あの好ましい瞳は溶け落ちてしまって、了見だけを見つめている。嫌悪する。疎ましいのにそれが欲しい。
 了見の思惑に気づいたわけではないだろうが、目端からほろりと雫が落ちた。赤く火照る頬に滑り落ちても、その熱量に涙は乾かない。獣が必死にことばを口にする。
 ほしい、おれのしきゅうに、おまえのたねがほしい。
 かたかたと小刻みに震える身体を起こして、了見の膝に縋りついてくる。乱れた襟元の奥、鎖骨のくぼみに浮く汗も甘い腐臭を漂わせ、ずる、と前に擦り寄る下肢が薄い水溜まりを残していた。
 手を差し伸べる。了見の理性は憐れむべき己の運命を見捨てられはしない。溺れるように遊作はその手に縋りついて、触れる皮膚と皮膚に痺れるほどの熱が奔る。りょうけん、と運命が泣く。崩れ落ちる花に似た肉体をすくい上げる。
 膝の上に抱き上げてやれば、堪りかねたように了見の首に縋りついてくる。甘い腐臭に包まれて目が眩む。思考に霞がかかる。いとけない獣は了見の肩口に顔をうずめて、そして了見の眼前に白いうなじが晒される。
 おまえのたねが、こどもがほしい。おまえのつがいになりたい。おまえがほしい。
 一声、一声、その度に獣が了見の理性を襲う。肩口を濡らす涙がどうして堕ちてくれないのかと苛む。肉体の欲求に従えば救われるのだろう。お互いに、お互いこそが運命だと知っている。
 けれど、この遊作を救いたいと願う心は、遊作が救いたいと祈る心が、獣性の従僕でないと誰が証明できるだろう。
 所詮人間は賢らしいだけの獣だ。了見は遊作のことを好ましいと思っている。思っているはずだ。その心がただ貪るだけの獣によってもたらされたものだとは思いたくない。獣を嫌悪しながら、愛だと嘯いて肉体に溺れたくはない。魂を同じくする者、唯一の存在。了見の運命。誰よりも何よりも大切に、守り抜きたいもの。
 震える背中を撫でながら、了見は吐き出した。思考には甘い霧が張って覚束ない。それでも唇は確かなことば紡ぐ。
 私は、お前のうなじを噛めない。
    2019.1.10

アポトーシス

    『名字を捨ててあげようか』https://shindanmaker.com/375517

 あまりにも穏やかな声を聴いた。
 触れる膚は灼けて溶けて落ちて消えてしまうほどに熱い。作りものめいてうつくしい男の腕の中、生きているのだと実感する。この腕は剣呑で自分を切り裂いて、それでも安堵できる場所だ。男はこの手を伸ばして、自分の元へと渡ってきた。
 なのに今、時が止まったようだった。触れ重なる胸で男の鼓動が確かに律動している。いのちの震えが伝わって、自分の心臓も脈打っている。どくん、どくんと、鼓膜の奥で血潮が渦巻いていた。
 その渦に呑み込まれるような錯覚。確かに触れ合う身体が、目の前の世界が遠ざかっていく。重なっているはずなのに掴めない。
 穏やかなのに、感情が読めない。見上げてもふちどる長い睫毛が男のひとみに影を落としている。春の霞空のような、冬の湖面のようなひとみが何を映しているのか、知ることは叶わない。だからいつもならそこに移っているはずの自分も、どんな顔をしているのかわからない。
 繋ぎ止めて欲しい。縋っても、既に触れ重なる身体はこれ以上近づけない。「冗談だ」と笑ってなかったことにもしてくれない。耳元に吐息が触れて、更にことばが降り積もっていく。
「私のものになれ。私もお前のものになってやる――」
 この声が好きだ。差し伸ばされた腕、救ってくれた声。大人に近づいて随分低くなった声だけれど、どんなことばを紡いだとしても自分はこの声を支えに生きていける。生きていけるはずだ。
 はずなのに、どうしてだか遠い。
 記憶のない自分は、たったひとりの男から始まって生きている。例え拒絶されようと、この男から与えられる全てによって世界を踏みしめ、根を張り枝葉を伸ばしてゆける。嵐の中にもしなりながら、自らの重みを知って立ちゆく木々のように。
 なのに今、どうしようもなく痛い。腕の中に抱き締められながら、耳元に唇を寄せて、穏やかな声で――きっと客観視すれば、これは幸せな姿のはずなのに。
「――――」
 愛を誓うことばであるはずなのに。
 神をも畏れず人の業も厭わず、善も悪も罪も救いも超えたような男。隙間もないほどに触れ合って、ますますお互いが見えなくなる。けれど彼はどんなときでも、病めるときも健やかなるときも高潔で誠実だった。だから問い返すことは無意味だった。それでも震える唇は無意味を紡ぐ。
 なあ、了見、そのことばはほんとうなのか。
 腕の中に抱き締められながら、吐き出す声は感情の塊だった。
 ああ、とまた耳に吹き込まれる。声にならない声を上げる。それは悲鳴で、歓声で、泣き声で、産声だった。
 運命という名の呪いが解ける。たったひとり、あいした男のひとかけらが剥がれていく。探し求めた新たな道。新しい姿、新しい形。それは生きているが故に免れ得ぬ、プログラムされた細胞の死。生きるということそのもの。変化。それは喜んで諦めるべきものだろうか、憎んで縋るべきものだろうか。
 連続する生命でありながら、ヒトは同じではいられない。どうしようもなくて、知っていて知らない了見の腕の中、遊作は嗚咽した。
    2018.1.20
    2018.1.20 up