×

革命前夜に孵す

 星の光が流れてゆく。遊作はひとり、それを見ている。
 湿り気を含む海からの風に、やわく前髪が揺れる。少しだけ冷たいそれに目を細めれば、視界の中に光が溢れた。
 ここに来たときは、まだ赤い残照が水面に揺蕩っていた。思い出してちいさく身を震わせる。そういえばいつの間にここまで気温が下がったのだろう。今の時間は――思考の隅に生まれた疑問は、いっぱいの光に霞んでゆく。たぶん、こんなことをずっと繰り返している。
 光を見た。仮想の空から溢れ注ぐ光。決して許すことはできないけれど、己の生を、使命を貫こうと『生きた』男のもたらした光。戸惑い、笑み、目覚めた失われたはずの意識たち。失くした仲間たちが戻り、駆け寄り、勝利を喜んでくれた。
 それが何だというのだろう。
 取り戻した。けれど、失ったという事実は紛れもない。
 現実へと返って真っ先に迎えてくれた草薙は目に涙を滲ませて喜び、祝福して、尊諸共肩を叩いたり頭を撫でたり、抱擁をくれた。けれど――何も言わないけれど、遊作たちが生還し実弟も取り戻した彼の意識を、いのちを、一時的にとはいえ葬ったのは遊作だ。大義を取れと己を捨てた彼を、救えなかった。
 光を見た。消えてゆく意識がデータへと変わってゆく光。ブラッドシェパード、スペクター、ブルーメイデン、Soulburner。そして目の前で失った草薙、リボルバー。
 託された想いは果たした。そうなのだろう。けれど本当は、一度も何も失わずに救う術もあったのかも知れない。誰もが遊作へ、Playmakerへと想いを、望みを、願いを託してくれた。頼んだと、自分のいのちが消えることも厭わずに告げてくれた。そしてPlaymakerは勝利して、狂乱が過ぎたネットワーク世界では英雄という言葉がひとり歩きしている。
 光を見た。
 光を、失った。
 星の光から傍らへとそっと視線を送る。ベンチの上に置かれたデュエルディスク。光の落ちたそこに瞳が瞬くことはもうない。ちいさな相棒の姿は、光が注いだあの日から消えてしまった。同時に、ずっと傍らにいた手伝いロボも光を失ったまま動かない。遊作の家はもう、無機質な室内灯がひとりの影を浮かび上がらせるだけだった。
 いずれ帰る存在だ。Aiのことはそう思っていたし、ちょうどこの場所で、星の光を見ながら別れたことだって記憶に新しい。けれどAiが来る前の生活に戻った、わけではない。
 草薙はしばらくワゴンを空けている。やっと戻ってきた弟の元を訪ねているからだ。全ての元凶たるライトニングが消え、弟を取り戻した以上、あとは時間が癒してくれるはずだ。兄弟の時間は二度と奪われることも失うこともないだろう。彼はもう、戦う必要はない。
 尊は寂しそうにしている。不霊夢がいなくなったことを、その存在を、ずっと考えているようだった。ネットワーク知識に疎い彼は、だからこそ純粋にそのいのちについて考えを持っている。元より彼は不霊夢から自分たちの存在を知らされ、戦いに手を貸してくれていただけだ。彼にももう、戦う理由はない。
 そして自分にも、戦う理由はない。そもそもハノイの塔が崩壊したあの日に、遊作の復讐は終わっている。今まで戦い続けていたのはひとえに復讐に手を貸してくれていた草薙のため、そして同じ過去を経てなお闇の中にいる被害者を救うため。そしてネットワーク世界を、人間を害する者と戦うためだった。
 すべては解決した。救われるべきは救われ、敵と呼べるものはおらず、そしてすべての舞台であったリンクヴレインズは閉鎖している。
 光が溢れている。けれど遊作は、光を失っている。
 十年間。復讐ための時間。自分を見出すための時間。けれどすべてはもう、終わった。
 十年で得たものは。草薙はきっと弟の下へ帰るだろう。尊だってどうするかわからない。Aiは、ロボッピは、いなくなってしまった。
 疲れたと、少しだけ思う。
 現実を見つめながら、もう眠りたい、少しだけそうも思う。
 こんなにも美しい光が道筋を描いていて――けれど遊作の行く先はどこにもない。きっと振り返れば暗い闇が広がっていて、ここで座り込んでいる。
「――そこで何をしている」
 背後の闇が問う。
 振り返ることはしなかった。代わりにああ、闇だけではないのだと、己の後ろに引きずるものを思って目を伏せた。声は少しだけ怒っているようだったが、そのことに少しばかり安堵する。
 この声が穏やかに、彼を脅かすもののない時代を懐かしんで、名前を――己だけでなく殲滅すべきと存在を認めなかったAiの名前をも呼んで、そして託して光へ変わっていた。あの瞬間には戸惑うことも嘆くことも許されなかったが、今は思い返すだけで胸が張り裂けそうに辛い。だから、いつも通り追及の鋭さで刺してもらえる方がよほど心地が良かった。
 さくり、さくりと草を踏む音。すぐ後ろに迫る気配。重ねられる問い。
「何をしている、と訊いている」
「……少し、考え事をしていただけだ」
 答えた声は、溜め息のように溢れてしまった。彼は気づいただろうか。気づかれていても構わないと思う。
 苦しみを、弱さを、言える。唯一の相手だと叫んでぶつけた日から随分と経ったような気がする。けれど今はそれを口にすることすら重く、まして本心など遊作自身にも見つけられない。
「こんな、お前の居住地から遠く離れた場所でか」
「……ああ」
「ハノイの、私の拠点のすぐ傍で」
「…………」
 言えない。けれど、ここに来てしまった。
 一度はAiと別れた場所だ。だから遊作はここに来た。そのはずだ。
 ……そのはずだが、自分はもしかして縋っていたのだろうか。草薙にも尊にも見せられない姿を見せられる運命で繋がれた彼が、見つけてくれるのではないかと。
「今日も、か」
「……え?」
 光が揺れる。不意に注いだ大きな波が当たって砕けて、囁く声を打ち消す。それでも確かに聞こえた言葉を確かめようと、頑なに振り返らなかった首をもたげ――闇に閉ざされる。
 視界が塞がれる。存在が、熱が、遊作の背を捉えていた。重たい身体は抵抗なんてひとつも考えつかず、耳朶を掠める甘い息を享受する。
「『ねえ、君』」
 闇に閉ざされた視界に、赤が差している。
 滴り蕩け落ちるような夕陽。長く長く伸びる影を踏んで、けれどあの日の遊作の心は弾んでいた。デッキを手に握り締めて、もう一方の手を少し年上の男の子に握られて、これから起きることをただ楽しみにしていた。
「……『よかったら僕のうちに来ない?』」
 そっと、視界が晴れてゆく。
 そっと、振り返る。
 あの日の男の子が遊作を待っている。手を伸ばして、行こう、と。
 光が遠ざかる。失った闇もまた退いて、薄氷色がもたらす赤の幻影だけが全てになる。
「――うん! 行きたい!」
 差し出された手を取って、遊作は大きく頷いた。光の落ちたデュエルディスクのモニタに、無垢に微笑む少年だけが映っている。

  * * *

 藤木遊作が現れるようになったのは、ミラーリンクヴレインズでの戦いが終わってすぐのことだった。
 クルーザーを拠点に洋上で活動しているとはいえ、物資の補給等定期的な上陸は不可欠である。そしてクルーザーが乗り入れ可能で、且つ人目をある程度制御できる場所は限られていた。つまり最も安全な場所は鴻上邸ということである。
 崖の下に整備されたちいさな波止場に入り、スペクターと滝は食料や日用品を買い込むため市街地へ。煩雑なデータの整理やネットワークを用いての情報収集をクルーザーに残った麻生とゲノムに任せた。
 そして部下たちが働く傍ら、自身はといえば――散策のまにまに、海を見ていた。
 少しだけ、一人の時間が欲しかった。
 幼い頃、父と並んで見つめた星の光。最期に導かれた道。
 その父の仇を取った、とも、言えるのかも知れない。父が昏睡した原因も、父の研究が人類を導きたりえなかった原因も全て――いや、それでも全ての罪はやはり、父にある。そしてそれを受け継いだ自分に。無辜の子どもたちを、彼らに関わる者たちの人生を歪めてしまったことは、どれほど贖おうと許されるものではない。
 夜を微かに撫でる潮風に、過去と未来を考える。最早ネットワーク世界に意識のみで生き永らえる父と共に追っていたイグニスたちも、闇のイグニス一体を残して消えた。その――仮称彼とて、必ずしも人類に仇成す存在とは言えないのではないか。
 鴻上了見という人間のアイデンティティを揺るがす疑問を星の光に透かし見る。水平線の向こうへと延びる光に。
 目を伏せた。この先に待っているものがたった一つであることを、ハノイの騎士の名を冠したそのときから了見は悟っていた。
 そしてその未来はもう、遠くない。
 しばしの瞑目の末、再び瞳を開く。細い糸のような未来から、現在へ、現実へと少しずつ視線を手繰り寄せる。帯を描く光の軌跡は寄せては返す波に砕けて、そして――ちいさな、本当にちいさな人影に消えている。
「――……」
 息を止める。夜闇の中、それでも星の光にぼんやりと浮かび上がる背を了見が見誤るはずがない。
 スターダストロードを一望できるベンチに腰かける、不本意にも見慣れてしまったハイスクールの制服の背。市街地であれば補導されかねない時間だが、街の喧騒から遠いこの海辺で見咎めるのは了見だけだ。
 ……いや、見咎めた訳ではない。ほんの偶然だ。それは了見がたまたま今この時間、感傷のまま逍遥していたからではない。ほんの刹那タイミングを違えれば、了見ですら見落としていたかも知れない。
 それほどまでに、その存在は希薄だった。
 波の音に、奇妙に鼓動が重なっていく。予感だった。今ここに、星の光に浮かび上がる影に、ただならない何かを感じる。
 らしくないと知りながら、杞憂であれと思っていた。殊更に靴音を響かせベンチへと歩み寄る。じっとりした風がこめかみを掠めて目を細める。およそ三歩の距離を置いて、波音を砕くように声を張る。
「そこで何をしている」
 影は動かない。影の向こうに夜の海が揺蕩っている。星の光が波間に揺れ、曇る。鼓動が警鐘を鳴らしている。
 距離であれ声量であれ、聞こえなかったはずがない。何よりこの男は鴻上了見という人間に対して、常よりも高い感度を持っている。だから応えないはずがないのだ――本来であれば。その程度のことは了見も自負していた。
 ほんの刹那、選択肢が浮かんだ。何も見なかったことにしてクルーザーに戻り、部下たちと合流してこの海を去る。何も見なかったと。
 嫌な予感がする。頭が割れるほど、己の鼓動が響いている。口内が乾いてゆく。飛び出しそうになる心臓諸共、無理から唾液で飲み下す。最後の猶予、三歩の距離を大股に二歩で詰め、了見はなよやかな肩を殊更乱暴に掴んだ。
「……ッ」
 息を呑む音は自らの喉から。強引に振り向かせたにも関わらず、その男は何の声も漏らさなかった。
 光が散っている。しかしそれは決して意思の在処を示すものではない。硝子玉に反射しているのと何ら変わりない。
 あるいは了見の意志を揺るがすほどの光を湛えているはずの瞳は、ただ茫洋としていた。一瞬、甲高い均一な電子音と共に失われた父を思い出す。
 今ここに生きているはずの藤木遊作は、およそいのちというものを感じられない。抜け殻、ただ呼吸をしているだけ。リンクヴレインズの英雄だと持て囃される少年はここ現実において、消えてしまいそうに希薄な存在だった。
 過去が交錯する。それは草薙翔一を自らの手で葬った瞬間の叫び、あるいは雷撃に叫びちいさな体躯を壁に打ち付け身動きも取れないままに白い床に伏す姿。
 了見の本能が突き動かす。
「起きろ」
「…………」
 瞳は開いている。眠っているわけでない。吹けば飛びそうな姿でも、きちんと自らベンチに腰かけている。それでも遊作は何も答えない。返さない。
 無言で見つめるまま、了見は静かに右手を上げた。そのまま身動ぎもしない頬へと振り落とす。
 ぱしんと、乾いた音が夜に落ちた。
 そのまま夜の海へと、沈黙が飲み込まれてゆく。波音と自身の心音だけがざわめいている。何ももたらさなかった手のひらを握り締めて、幾度も幾度も繰り返した呪いの言葉を口にする。
「起きろ……起きろ、藤木遊作」
 幾度も幾度も繰り返した呪いの言葉を。
 まるで縋るように。泣きそうだった。十年前、薄闇の中眩く光るモニタを見上げるちいさな自分は、きっとこんな心境だった。
「――…………ねえ、」
 あの時とは異なる自然光。星の光が白く眩い。現実が霞んでいく。了見は歯を食い縛った。あのとき触れられなかった身体を、壊れ物みたいなちいさな身体を、腕の中に囲い込む。
 鼓動が響いている。過去の焦燥を今が塗り替える。そして弱々しく重なっている。あの日の少年の、藤木遊作の生きている証として。
「君、起きて」
「…………ぁ」
 腕の中で、ぴくんとちいさく身体が跳ねた。
 怯えないよう、背を、肩を、頭を撫でる。そうしてゆっくりと覗き込んだ先にいたのは、十年前に了見が人生を歪めてしまった、運命で繋がれた少年だった。


 つまるところ、藤木遊作は少しくたびれてしまったのだ。
 了見は今の状態をそう結論付けている。医師である滝に見せれば具体的な診断や対処法も得られたのかも知れないが、最初の夜からずっと了見はたった一人で運命の子どもを連れていた。
 一切の躊躇いなく掴まれた手を握って(その手は決してやわくまろい幼子の手ではなかった)、幾度も幾度も後悔した家の中へ招き入れて(その足は決して怯えることはなく弾むような足取りだった)、それから、微笑を浮かべて振り返る(その顔は決して了見を疑ってなどいない無垢な表情だった)。
「今日は、何をして遊ぼうか」
 幼い時分の口調を努めてなぞる。個人の邸宅と呼ぶには少々特異なつくりの廊下を、白い室内灯ではなく橙色の常夜灯で照らしながら奥へ奥へと。
 その不自然を遊作は咎めない。安っぽい夕暮れみたいな橙の光の中で、ぎゅっと了見の手を握りながら笑う。
「デュエル!」
「今日も?」
「今日も! ……だって、了見くん強いんだもん」
 拗ねた口調にぷくりと膨れ上がる頬は微笑ましいが、十六歳の少年の顔と夜色に溶けたハイスクールのジャケットは酷く不協和音を奏でている。それでも了見は言及することなく、十年前の自分を手繰り寄せる。何も知らずに罪を犯した自分は、どんな風にこの子を拐かしたのかを考える。
「でも、昨日は遊作が勝っただろう? その前も」
「そうだけどっ、でも……ほんとは、勝ったとか負けたとかじゃなくてね、」
 ぎゅっと、殊更に手を握られる。人工的な橙色の中、遊作の頬がほんのりと染まっていた。
「ずうっと了見くんとデュエルしてたいから」
「……そうか」
 了見は僅かに目を伏せた。
 実際のところ、了見は幼い自分の口調というものをなぞり切れてはいない。ただそれらしく相手をしているだけで、本当のところ普段通りの口調でも今の遊作は気づかないのかも知れない。
 そもそもちいさな遊作の言うことにも矛盾がある。例えば、十年前には互いの名前など知らなかった。
 辿り着いた部屋のロックを解除する。了見の生体認証を必要とするその部屋にはハノイの機密情報などがあるわけではない。埃を被って置き去りにされた、感傷でしかない過去が詰め込まれている。それは了見がこの拠点を半ば放棄しながら処分し切れず、そしてクルーザーに持ち込むこともできなかった――有り体に言ってしまえば、玩具たちの眠る場所だった。
 壁のパネルを操作して、やはり橙色の照明を灯す。するりと遊作の手が離れ、勝手知ったる様子で部屋の中へと駆け込んだ。随分とちいさなチェストの前に座り込んで、未だ部屋の入り口で立ち尽くす了見を振り返る。
「了見くん、早く早く!」
「わかったわかった。今日はどのデッキにするんだ?」
「えっとね、ブルーアイズ!」
 遊作はさっさとチェストを開き、プラスチックのデッキケースを取り出している。チェストの中に並べられているケースは全て過去に発売された構築済みデッキだ。他にも余ったカードたちが種類別にケースに収められていて、既存のデッキに多少の手を加えることも可能である。
 ケースを大事に握り込む遊作の傍らにしゃがみ込む。ぱっと上げられた顔はやはり幼く、期待に満ちた目を了見に注いでいる。……持ち主に置き去られ、了見が展望台のベンチから取り上げるがまま手にしている己のデュエルディスクは視界に入っていない。
「遊作はブルーアイズが好きだな」
「うん! あのね、ちょっとだけ了見くんのヴァレルに似てる感じがするから」
 また矛盾を唇に乗せながら、遊作は早く選んでと了見の袖を引いた。
 実在した幼い遊作は、当然ヴァレルのカードを知らない。故に今目の前にいる幼い遊作は、名前の件も含めて正しく十年間の記憶を持っているはずだ。記憶の逆行や人格の交代といったものではなく、表出されるものだけが幼くなってしまっているのだろう。
 遊作が口にする言葉がきっと、今の十六歳の藤木遊作の心理だ。無論全てではないだろうが、正しく思考するべきを放棄してただデュエルを遊びとして楽しみたい。そんな願望を持っている。了見はそう酌んでいる。
 壊れたのかと思った。最初の夜は呼びかけても頷き程度しか返さなかった。しかし次の夜、その次の夜と海辺に現れた遊作は少しずつ、了見が初めて出会った遊作にまで成長していった。
 だから、くたびれている。そう思うことにする。
 藤木遊作は、Playmakerは、例えどれほど辛くとも決して己を捨てられない。
 しかし今回の戦いは、その遊作の心を磨り潰すに足るものだった。目的のためなら部下も、父すらも葬る決意を固めていた了見とは違う。予感はあった、対策はしていたと語りながら、覚悟はできていなかったのだろう。泣いて手を伸ばして、その末に失って憔悴の果てに倒れた姿を思い出す。
 そして結末たる今現在。あの戦いで失ったものは戻ってきた。
 けれど喪失の過去も、自ら手をかけた事実も変わらない。そして遊作の心に寄り添っていた、あのイグニスも姿を消した。了見の掌中で、デュエルディスクがみしりとちいさく悲鳴を上げた。
 復讐を終え、大義のために数々を失った十六歳の少年に、あの戦いは果たして何を残したのだろうか。
 どれほどの痛みと喪失だったのか、きっと了見が正しく知ることはできない。ただ戦いが終わり日常が戻った今だからこそ人知れず歪み、そして時間をかけて癒しているのだろうと思う。
 人知れず――否。あるいは、了見の前だからこそ。世界の終わりのようなハノイの塔での戦いで、絞り出された声を思い出す。
「了見くん?」
「ああ……すまない、少し考え込んでいた」
 あの時はまだ響かなかった、胸を刺す声。
 今了見を見つめながら、首を傾げる声のあどけなさとは余りに異なる。前髪を撫でてやれば、少しだけ安堵した様子で遊作は目を細めた。
 そのまま適当なデッキケースを選ぶ。自分のデュエルディスクを認識せず己を見失った遊作と、今互いの持つデッキで戦うわけにはいかない。心の安定を欠いているとはいえ互いに一人の決闘者なのだ。そして手札を晒すべきは今ではなく、ここでもない。
 だからままごとのようなデュエルを繰り返す。遊作が勝つこともあるし、了見が勝つこともある。遊作は勝敗に素直に一喜一憂し、そして二人でデッキを広げながらああでもないこうでもないとカードを入れ替え、またデュエルをする。
 繰り返し。繰り返し。
 タイムリミットは――カードたちと共にこの部屋に置き去りにされていた、古めかしい柱時計が零時を差す瞬間。
 ぼぉん、ぼぉんと。橙色の夜の底を突き上げる音。低く繰り返される十二回。
 弾むようにカードに触れていた遊作の手が、ぴくりと止まる。
「……遊作」
 了見はそっとカードを手放した。
 なぞっていた幼い自分と別れを告げる。離れてゆく指の先、カードの向こうで、橙に青白く浮かぶ指が微かに震えていた。
 いつまでも泥濘にはいられないのだ。遊作とてわかっているはずで、だからこうして怯えている。夜の海辺を、了見のもとに訪れている。
 ……考えないわけではない、朝まで、もっと向こうのその先まで、永遠に橙色の世界で幼い遊作を守ってやることを。だって彼を今の地獄に突き落としたのは、本を正せば自分が原因なのだから。
 それでも、決して遊作がそんなことを望まないと了見は知っている。その程度には藤木遊作という人間と通じてしまっていた。
 だから了見は奥歯を噛み締め、低く現実を呼ぶ。
「遊作。もう、眠る時間だ」
「ぁ、ゃ……だ……」
 ばらばらと、カードが零れ落ちる。何も持たない空っぽの手のひらで、遊作は聞きたくないとばかりに耳を塞いだ。きゅうとちいさく身を縮こまらせて、それでも――橙に滲む翡翠の瞳は、了見から逸らすことができない。
 いっそ目を閉じてくれれば。現実などもう視たくないと――否。否。
 強張る指を伸ばす。遊作をこの夜に連れてきた指。始まりの夕暮れに誘った罪。その傲慢で、遊作の望むがまま暴いていく。細い手首を掴んで引き剥がす。橙を遮る了見の影の中で、ちいさなみどりの雫が落ちた。逆さまに映った了見が落ちる。弾ける。
 目覚めを拐かすときと同じく、遊作の耳に唇を寄せた。
「――遊作」
 薄く輪郭を食みながら、身勝手な鋭利で心を砕く。
 ひっと怯えた声。酷く軽い衝撃。悲鳴を上げて遊作は了見に縋りつく。かたかたと震える身体を、了見はただ受け止める。幼い時間から正されてゆく二人を、散らばるカードたちが取り囲んでいる。そこに現在は見出せない。ヴァレルも、サイバースも、今の二人をつくるカードの影はない。
 ぎゅうとシャツが引かれる。遊作は喉の奥で嗚咽していた。目が灼けるほどに白い部屋でも見ることのなかった姿に、了見は静かに目を伏せる。了見を突き飛ばして拒むことのできない遊作の強さが胸を刺す。己の悼みをも労るように、震える背を、細い肩を、俯く後ろ頭を撫でていく。
「……ベッドへ行こうか」
 囁く声が少しだけ幼い響きを残すのは、あわれと思う心からだ。
 過去をなぞるのではなく、今現在の鴻上了見が、この藤木遊作をいとおしいと思うからだ。
 返事はなかった。ただいっそう強い力で縋りつく。それだけで十分だった。
 了見の肩口へと埋められる頭を撫でながら、年齢相応と呼ぶには軽いだろう身体を抱き上げる。終わりを告げる柱時計、散らばるカード、カードを収めるチェスト。過去の愛着を閉じ込めた橙色の部屋を背に、了見は振り向かない。遊作は顔を上げない。
 幼い時間と物言わぬデュエルディスクを置き去りに、音もなく扉が閉ざされた。


 暗く冷たい夜の底。それでも橙よりもなお優しい褥は、一面の硝子窓から星の光を受け青白い波を描いている。
 抱いた身体をそっと横たえれば、浚われるよりも先にそろりと縋る指。海に揺蕩うそれは頼りなく、細く、熱い。了見は呼ばれるがまま、ちいさな身体の隣に滑り込んだ。ふたり分の波を曳いて、遊作が胸に縋りついてくる。
 俯き震える喉から零れる、ちいさく夜に爪を立てる音。あまりにも弱々しい傷を胸に抱きながら、了見はただ遊作を抱き締める。受け止められたことを認めてなお縋る肢体。了見のシャツの胸元を掴み、足を絡ませる。じっとりとした幼い熱をこの身に受けて、今日は何度目の夜だろう。溜め息は細い首筋を愛撫する吐息へと変わる。びくんと跳ねる身体は、それでもやはり拒まない。
 少しだけ、身体を浮かせた。了見の遠ざかる体温を追いかけて上がる白皙は上気して、瞳が揺れている。潤んでいる。熱に溶けて、今にも零れ落ちそうで、そしてその甘露をなぞる了見の舌を拒まない。もっと、と聞こえた囁きは恐らく幻聴ではなかった。
 目尻を、瞼を、額を唇で辿る。ひとつ了見が触れるごとにちいさな身体は弛緩して、ならばとブレザーの肩を引いた。熱く息を吐きながら遊作の身体がもぞりと動く。了見の脱がせる手つきに遊作は甘んじて、頬に甘くかぶりつく頃には夜色のブレザーも、白昼に眩いシャツも、霞空を映したネクタイも全てシーツの沖合に流されて、無防備な上半身を余すところなく晒していた。
 青白い星明りに、白い肌が震えている。それは寒さや怯えによるものではないと、了見はどうしようもなく知っていた。泣きそうに潤んだ翡翠色は熱に浮かされるがまま、了見を見つめている。橙の泥濘に沈み、眠りに怯えていた子どもが浮かべるにはあまりにも婀娜っぽい色。その癖幼くむずがる仕草で足を絡め、腰を寄せ、そして解放をねだる。
 その心を知りたいとは、思わない。恐怖、諦観、希望、不屈、倦怠、抵抗。あらゆる感情がぐちゃぐちゃに溶けてモザイク状に不可解を描く。夜から朝へ、幼子から青年へ、過去から今へ。仮に本人が語ろうと了見が読み解こうと、どの心も正しく、また誤っている。
 蛹のようだと思う。
 ならば了見が与えるのは、夜に溶けた身体と心を孵るそのときまで守る殻だけだ。善も悪もない、贖いにしてまたひとつ重ねる罪。
 人知れず微笑んで、そっと唇を、唇に、押し当てる。
「……ん」
 喉の奥で鳴く声がいとおしい。ねだられるがままベルトを解き、スラックスの前立てを開く。拙く了見の唇を追いながら浮き上がる背に、腰に、目を細めながら応えた。下着ごと膝まで引き下ろしてしまえば、婀娜に無垢を晒す裸身が夜に眩く浮かび上がった。
 ぷは、と幼い吐息が漏れる。浅い呼吸を繰り返しながら、遊作はぎゅっと了見のシャツを掴んでいる。緩く擦り合わされる膝、またとろりと雫を結ぶ瞳に、甘く掠れる幼い声が重なった。
「りょうけ、くん……了見く、ぁ、う」
「……ああ」
 無垢に男を誘う視線を、暴く。一方の手で頭を抱えるようにしながら遊作の前髪を掻き上げて、露わになった額にまた口づける。残る片方の手は望まれるがまま、いとけなく差し出される下肢へ。
 薄い下生えを撫で、少しだけ頭をもたげる遊作自身をそっと握り込む。途端にびくんと跳ねる腰を宥めるようにすっぽりと手のひらで包んで、幼若な茎を擦ってゆく。じわ、と滲む蜜を絡めて、くちくちと微かな水音が夜に響く。
 遊作は喉を反らし、微かに喘いでいた。つんと上を向く鼻先にやわく噛みつき、薄く開いた唇を吸う。するととぷんと濃く蜜が垂れて、溺れるように遊作自身が掌中で跳ねた。水音が隠しようもなく響き、恥ずかし気に逃げる唇が了見の首筋へ、胸元へと逃げて潜り込む。にゅこにゅこといやらしい音に、ぁ、あ、と短く詰まるような声が被さる。了見のシャツの上から皮膚へ伝わり、心臓に直接響いてくる。重なってゆく。
 胸の中に抱いた身体が、燃えるように熱い。遊作の吐息と、堪え切れずに零れる唾液で湿るシャツを煩わしく思う。この幼気な生き物との交歓を遮る布の一枚が邪魔だ。
 遊作、と名を呼べば、察したらしい子どもがくたりと力を抜いた。間隙に呼吸を整える肢体の白さを見下ろしながら了見は手早くシャツを脱ぎ、熱のわだかまるパンツの前を開いた。ぼんやりと了見を見上げていた翡翠色がちいさく見開かれ、ぁ、とまた声を漏らす。喉を鳴らす。今の遊作に、鴻上了見という男はどう映っているのだろう。
 半ばはいとおしく、半ばは自嘲して、了見は再び遊作を胸に抱く。嬉しそうに擦り寄る頭を受け止めて、シャツで自然と拭うかたちになった手のひらで震える幼い雄を育てていく。
「ぁ、あ、う、ゃ、りょうけっ、りょうけん、く、んんっ」
「……気持ちいいな、遊作?」
 胸に縋るつむじに囁きを落としてやれば、素直に腰が跳ね上がった。了見の手のひらに擦りつけるようにして腰を揺らす様がかわいらしい。ねだられるまま、余る皮を擽るように爪先であやしてやればひゃんと子犬のように鳴いた。
 幼い仕草で、種付ける雄の本能に喘ぐ。このアンビバレンツをあわれに思う。心の均衡を崩してくたびれた遊作を朝に孵しながら、このまま夜に囲ってしまいたい悪辣が疼くことを了見は認めていた。……それでもあの鏡面世界で、海を見下ろすベンチで浮かべていた喪失に目を瞑る。征服は了見の胸に縋って晒される、白い首筋への慰撫へと変えた。
「やっ、ぁ……ふぅー……」
「んっ……まるで、赤子まで還ってしまったようだな」
 ちいさな刺激に見下ろせば、かぷりと、丸っこい歯が了見の肌にかぶりついている。了見の声などきっと聞こえていないのだろう。羞恥か、あるいは揶揄への憤りのように薄く脂肪の乗った了見の胸を遊作は吸っていた。
 時折薄く色づく頂に唇が、歯が、舌が掠めるが、性的な愛撫とは程遠い。言葉のとおり、空腹に喘ぐ赤子と大差なかった。好きにさせてやりながら、それでもまるい頭を抱く手に反し、幼気な性器を嬲る手を速めていく。
「ひゃ⁉ や、りょうけ、りょうけんっ、く、ぁ、ゃだ、やだっ」
「嫌じゃない。悦い、だろう? ほら――」
 ばたばたと細い足がシーツを打っている。絡める足で押さえ込みながら、遊作の好きなところを擦ってやった。びしょびしょに溢れる先走りを絡めながら、裏筋を、まるく張る陰嚢を、雁首の裏を撫でる。いやいやと左右に振れる頭もぐっと胸に押さえつけて、了見の乳首を細い悲鳴が擽った。
「ぁ――っ……ッ、――!」
 失墜する。手のひらにびゅるりと白い種が吐き出される。
 くたりと落ちる頭を抱えながら顔中に口づけを降らせ、一方の手は尿道に残る精液までくじり出す。扱く度にぴゅっと溢れ出して、ぴくぴくと震える身体がいとおしい。
 萎えた肉を労わる指を、ゆっくりと遊作の前まで引き寄せる。影の落ちる気配に億劫そうに顔を上げて、遊作ははっと喘いだ。青白い夜にも鮮やかに、頬が赤く色づく。羞恥の色の上に、白い残滓がぽたぽたと滴った。
「……上手に出せたな」
「う、ぁ……ひっ、んっ」
「いい子だ」
 ついに翡翠色の端から零れる雫を、舌先で掬い取る。ひっくひっくと震える胸を撫で、了見のそれと違いつんとちいさくも立ち上がる赤い粒を擽ってやる。手のひらに触れる身体はもっともっとと、熱が渦巻いている。
 とろりと頬を流れる白を吸い、そのまま遊作に口づけた。きゅうと結ばれた唇を舌先でなぞってやればおずおずと開かれる。ねっとりと熱い口内に潜り込んで、白い苦味を互いの唾液に混ぜる。溶かす。飲み下す。ぴくぴくと了見の身体の下で、薄い肢体が跳ねている。
 ちゅるりと粘った糸を引きながら唇を離せば、遊作は茫洋と蕩けた表情を浮かべていた。頬は赤く、瞳は潤んで、浅い呼吸を繰り返す胸では赤い果実が実っている。薄い腹筋の上を汗と精液が滑り、びちょびちょに濡れた下生えの奥ではまた雄が頭をもたげていた。
 了見の視線に嬲られ、恥骨を突き出すように遊作の腰が浮き上がる。内腿が震えている。そろ、と膝が立ち上がってゆく。
「そうだ。……求めてみろ、遊作」
 殊更に低く、囁く。遊作はひゅうと大きく息を吸って、それでもきつく目を伏せた。浮き上がる下肢が開かれてゆく。立てられた膝が割られ、垂れ流れた先走りと精液に濡れそぼった陰部が晒される。
 薄くまろい尻を晒して、あわく勃ち上がる茎の奥で蕾が息づいている。赤く綻ぶそこは呼吸に合わせてはくりはくりと口を開き、暗い肉のうろは待ちかねているようだった。
 そっと、遊作の腹に手を滑らせた。くっと浅く押し込みながら、耳まで赤く染めて俯く前髪に唇を落とす。ほら、と囁く低音が頭蓋の骨を、夜を、幼子を震わせる。ちいさくちいさく罅が入る。
 抉じ開けられていく。溢れ、零れていく。了見の与えた殻のうちがわでかたちをつくりながら、少しずつ、少しずつ。
 そろ、と、縋るばかりだった手が太腿を滑った。濡れた感覚に怯えながら、それでも震える指が薄い肉を掴む。ゆっくりと拓かれる。青白い夜に流れ出す赤。了見は目を眇めた。
「ぁ……は、ぁ、りょ、う、け……く、……ここ、」
 肉のうろがぐにりと広がる。深奥の暗い赤が呼んでいる。
 震える指で、自ら秘めるべきを晒して――そうして遊作は、酷く色に濡れた声で、ないた。
「うめて、なか……ほしい……!」
 ひとりに、しないで。
 光が散った。連れ添った共犯者を自ら屠り叫ぶ英雄、いのち亡きもののように海を見つめる背中、抗うこともできず白い床に敲きつけられる幼躯、そして――崩壊してゆく赤い塔で、俺なら、お前ならと叫ぶ、たったひとりの運命。
 ぱらぱらと翡翠の縁から零れる光に、過去が浮かんで弾ける。ただの一度も聞いたことのない悲鳴が確かに了見の胸を抉って、無垢に笑う子どもの姿が溶けてゆく。
 ここにいるのは、鴻上了見にとってのたったひとり。あらゆる言葉を尽くしてもなお足りない対の存在。過去でも未来でも、今ですらない、久遠に連続する刹那須臾において、絶対のただひとり。
「……藤木、遊作」
「っあ、」
 その名前を呼ぶ。
 夜の底、海から届く星の光。朝未きシーツの波の上、たったふたりの世界。
 この世界で、藤木遊作という人間の輪郭をつくれるのは、自分だけだ。
 細い身体を掻き抱く。決して幼くはない、薄く、骨ばった身体。認識が急速に世界を変える。覆い被さる了見の影の中、涙を零しながら見上げるのは間違いなく、藤木遊作だ。英雄と呼ばれ、全てをその背に預けられた、ただの子ども。人々の祈りでよろわれた、けれど剥いてしまえばただの貧弱な少年。己を偽れない意思の強さを、その正体を知る前から鴻上了見リボルバーは好んでいた。
 ……そうだ、初めからだ。例え運命という鎖がなくとも、ふたりを繋ぐ枷のすべてが存在せずとも、きっと好きになっていた。
 ゆうさく。囁く声が濡れていると、自分でも気づけないほどに。いじらしく肉を割る指をあやしながら、ねっとりと纏わる白濁を絡めて肉のふちをなぞる。怯えて逃げようとする遊作の指に反して、そこは素直に吸いついては綻んでいく。嫌なのか悦いのか、また無為に母音でなく唇を唇で塞いで、言葉も紡げぬほどに舌を絡めて吸って嬲って、どろどろと唾液に汚していく。
 肉を暴いて解す指に、滑りが足りないと思えば下肢に顔を埋めることも厭わない。驚いて暴れる両足を封じ込めて、己の唾液で、口であやして泣き濡れる肉棒から滴る蜜で濡らしてゆく。泣きじゃくる声も「遊作」と名を呼べば、その度に大人しく弛緩してやわく喘ぐだけになってゆく。
 慣らした末、更にびしょびしょに濡れて、くぱりとだらしなく赤を晒す後孔を見下ろした。この期に及んでなお、自ら太腿を抱えて了見を待つ姿のなんといじらしいことか。半端に腰にわだかまっていたパンツを下着と纏めて脱ぎ捨てれば、ほうと感じ入ったような音が漏れた。遊作はとろとろに蕩けた瞳で、了見を見上げている。
「……うめてやる、私を。お前の中に注いでやる」
 嫌だと、要らないと叫んでも放してなどやるものか。
 既に痛いほどに張り詰めているものを、拓いた遊作の隙間に押し当てる。ひゅっと息を吸って強張る瞬間、一思いに押し入った。
「ァ、あ゛――!」
「ぐっ……ッ、は……!」
 呑み込まれる。藤木遊作の空白に、鴻上了見が埋まってゆく。塞いでゆく。
 ぎちりと肌が鈍く啼いた。それは悦んで迎え入れるあまりに食い締める下肢からの音でもあったし、了見の剥き出しの背中に立てられた遊作の爪が皮膚を抉る音でもあった。結びついて刹那に散る痛みは星のようにちかちかと、了見の身体のあちこちに熱を灯してゆく。きっと遊作も同じはずだった。
 呑み込まれて、取り込まれてしまう前に。自分本位に食いつくうちがわの肉を振り切るように、了見は腰を引いた。縋る肉のざわめきに目を細めながら一息に打ち付ける。ぱんとぶつかる肌と肌が鋭い音を立て、更に奥へと進んだ了見の雄に奥の肉がちゅうと吸いつく。
「おっ、ぁ、ハ……ぁあ、ア、りょ、ぅぐっ」
「ふッ、……ぅさく、遊作、」
 ぴったりとうまる。ふたりでひとつの生きもののように。この世界にたったふたりで。
 ひとつになるのは、痛い。噛みついてぶつかって爪を立てて、抉って、絞って。けれどひとりでいるよりもずっといい。この痛みこそが欲しい。痛いから生きている。
 無邪気に笑いながらカードを繰る遊作の姿が浮かぶ。消える。ぽろぽろと零れる翡翠の瞳の甘露を、了見は舐め取った。くたびれて擦り切れて、生きていないみたいな遊作の姿を呑み下した。
「ゆうさく、ゆうさく、」
「はーっ……ハ、ぁ、りょ、うっ……んんっ」
「……驕るなよ、遊作」
 例え世界が忘れても、自分は決して忘れない。この痛みを、夜を、罪を、交わした熱と言葉と想いを。
 共犯者が家族のもとに帰ろうと、協力者が田舎に戻ろうと、相棒が姿を消そうと――無論彼らとて、決して藤木遊作という人間を忘れなどしないのだが――鴻上了見と藤木遊作との間にだけは、重くて痛いものが残り続ける。一生涯消えやしないそれと、例え運命でなくても寄せたであろう感情も合わさって呪いのようにふたりに絡みついている。
 ひとりになれると、思っているのか。噛み締めた奥歯がぎちりとないた。世界に残るたったふたりをまとめて嘲って解く。
「私は、決して、お前を赦さない」
「ぁぐ! ァ、や、お゛っ、ぐぅ! ア! あ゛!」
 細く骨ばった腰を両手で掴む。打ち付ける。劣情も怒りも憐憫も慈愛も、全て全て、どろどろに溶けている。殻の中で渦巻いて、かたちを探している。了見が直に注ぎ込むそれが、藤木遊作の輪郭になってゆく。
 がくがくと揺さぶられるがまま眼球をぐるりと虚ろに上向かせ、それでも了見の背中から離れようとしない爪先がいとおしい。今度こそその仕草に微笑んだ。
「だから、お前も……っハ、私を、赦すな、ぜったいに……ッ!」
 縋り、願い、祈る。結局、英雄に仕立て上げられた少年に了見が捧げられるものはそれしかない。
 けれど酷く傷つけて刻み込んで、同じものを分かち合えるのは――きっと自分だけだと思う。
 だから遊作は、星の光の前に現れるのだ。毎夜毎夜、己を見失いながら。くたびれて、それでももう一度自分になるために。
 了見にされるがまま、腰も背中も浮かせた遊作はシーツの波に浮き沈みする肩と、了見の背中に縋りつく指先だけで身体を支えていた。その努力といじらしさを笑いながら、了見は遊作の身体をすくい上げる。胸の中に抱き締めて、細く白い首筋に顔を埋めて、膝の上に抱き上げる。
「あっ♡ ぁ、ヒ――りょう――け……」
「……遊さ、くっ……」
 ぐぽんと、奥の奥で噛み合う幻聴。
 熱くうねって欲しがる肉の中に、了見は全てを注ぎ込む。どろどろした感情の全てが藤木遊作になってゆく。同時にとろりと了見の腹を濡らすのは、遊作の吐き出した劣情に相違なかった。
 放埓は穏やかだった。いとおしく名前を呼んで、遊作の首筋を、耳朶を吸う。自重で深く深くまで了見を受け入れた遊作は、不規則に痙攣しながら、それでも四肢を了見の身体に巻きつけて達した。
 汗で滑る肌と肌をきつく合わせる。詰めていた息を一気に吐き出して、了見の胸の中でくたりと遊作の身体が弛緩する。肩を上下させて大きく喘ぎ、丸ごと全部を投げ出す遊作を了見はいとおしく抱き締めた。
 星の光が青く、ひとつになったふたりの影を伸ばしている。その暗闇の中で密やかに呼吸を繰り返して、繰り返して、律動が重なっては解けて、やがて遊作の身体がもぞりと蠢いた。じわじわと流れ出す熱を辿るように、了見は起き上がる遊作の背骨を指先で辿る。
「りょう、けん」
「……ああ」
 ちかりと、光が刺さった。痛みに目を眇めれば、了見の見上げる先にはあいしてやまないひとりが在る。
 翡翠色にちかちかと、星が瞬いていた。十年前から続いてほんの刹那までの過去を映す光。意思の証明。いのちの息吹。ゆるゆると言葉を零す背を労わる。浮き上がる肩甲骨のあたりを生に汚れた指先で擽ってやれば、光の瞬く瞳が細められた。
「すまない……俺は、また、お前に、っん」
「それ以上は言うなよ、藤木遊作」
 未だ繋がったままの場所を軽く突き上げた。眉を顰めて声を堪える姿を笑いながら、湿った前髪を掻き上げてやる。
 翡翠の星がよく見えた。了見の与えた殻を破り、幾度目かの夜に再誕する光。
 自失して、幼い姿で己を癒して、また生まれる。了見の中では既にひとつのルーチン、あるいは儀式となったそれに、遊作が何を思っているのかなど予想はつく。そして言葉は要らなかった。
 了見が遊作の中に注いだ感情が、言葉が、全てだ。応えられるものは何もない。
 星の光が流れてゆく。了見は窓の向こうで消えてゆくそれから、胸の中の遊作を隠した。この後はひとつになった身体を解いて、了見が中に注いだものを掻き出して、それから――橙色の部屋に置き去りにしたデュエルディスクを取りに行く。やがて朝が来て、お互いの日常に戻って、また夜が来る。光が消えて、現れる。
 あと幾度、ふたりの夜を繰り返そうか。幾度だって了見は、遊作を閉じ込めて、そしてかえしてやるのだけれど。
 未だ見えない答えに目を閉じて、了見は覆い隠した遊作の頭をそっと抱き寄せた。自然と重なる唇は、刹那に永遠を閉じ込めてゆく。