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人として軸がぶれている

 遊作には丸くなって眠る癖がある。
 了見が気づいたのはもう何度目か、少なくとも両手の指で足りない程度の回数遊作からベッドへの侵攻を受けてのことである。
 毎度毎度きちんとしたベッドを貸し与えているのに、了見がいざ自室で眠ろうと布団を捲ればそこには遊作が丸くなっている。あるいは了見が眠っていると空気の通る薄ら寒い感覚に目が覚め、すると隣で遊作が縮こまっている。しかも必ず了見の方を向いて。自室のドアにロックをしかけていてもだ。十六にして優秀なハッカーである遊作は電子錠など当然のように解除してみせたし、ならばと意固地になって物理的に鍵を取り付ければこちらは雑に破壊されていた。
「どうしてそんなことをする」
 南京錠の破壊された朝、正面から、否、隣り合って眠っていた故正しくは傍らから問い質した。返答如何によってはイグニスアルゴリズムで電子錠を組んでやろうとまで思いながら。
 まだ開かれていないカーテン越しのひやりとした朝の光の中、起き抜けのぼんやりした顔で了見を見上げる遊作は拙く舌を動かして言葉を吐き出した。
「お前のそばだとよく眠れる」
 恐らくそれは遊作にとって、全く他意のない、ただ事実だけを告げる言葉だった。
 了見は絶句した。同時に納得もする。わざわざ一晩を同じベッドで過ごした後の朝説教をしているのも今までベッドに遊作を見つけて憤りはしても追い出すことをしなかったのも、丸くなって眠る顔があまりにも幼気で、あどけなくて、触れ難かったからだ。起こすのが忍びなかったのだ。
 そばだと、よく眠れる。裏を返せばそれは他所では眠りが浅いということ。加えてまるで身を守るようにちいさくちいさく丸くなる姿は、浅い眠りが何に起因するのかを雄弁に物語っていた。
 じくじくと胸で蟠る感情に言葉を失う了見に気づかず、いつもの鋭さを欠いた眼差しで遊作はベッドから這い出ていく。白い剥き出しの足裏がぺたぺたと床を踏み、破砕された錠を無造作に踏み越えて、そのまま部屋を出て行く。遠く洗面所から水の出る音が聞こえて、了見は浅く息を吐いた。
『遊作はさぁ』
 視線だけを声の方へ向ける。ご丁寧にベッドのサイドテーブルに持ち込まれていた遊作のデュエルディスクから、彼がAiと名付けたイグニスが居心地悪そうに顔を出していた。
 了見が厭うていることを知っている彼――便宜上そう称する――は、遠慮がちにもごもごと口を開いた。AIの癖に言い淀む姿が滑稽でもあり癇にも障るが、心配そうに、としか見えないかたちに黄色い目を歪め、遊作の消えた扉へと視線を向ける姿に了見は口を噤んだ。発言を許されたと気づいた彼は躊躇いがちに続ける。
『自分ちでひとりだと、俺を抱いて寝るんだよ』
 そこでまた声が途切れた。引き攣ったような声で睨むなよと一言挟まるが、了見には睨んだつもりなどない。
 俺を、とイグニスは称したが、彼はデュエルプログラムとしてディスクをベースに実体化しているに過ぎない。であればペットのように彼そのものを胸に抱き込んでいるわけではないだろう。ならばこのAIが『俺』と呼んだのは、正しくはデュエルディスクのことだ。
 了見は知らず奥歯を噛んだ。遊作の自室のことは知っている。必要なものだけが置かれた手狭なワンルーム。ネットワーク端末こそ充実して最新のものだが、ひび割れた内壁が剥き出しの殺風景な部屋。人として当然の楽しみなど一切興味を持てず、虚ろな人生をネットワークでの復讐に費やした主の象徴のごときそこにはこのイグニスと手伝いロボがいるだけで、家族はいない。
 簡素なベッドの真ん中で、デュエルディスクを抱いて小さくなって眠る遊作。その想像にはどうしても十年前の無機質な白の中、蹲っていた子どもの姿が重なる。
『ああやって丸くなってさ。俺は人間じゃないけど、誰かそばにいるって思うと安心するんだろう。それでもちょっとした物音で目を覚ましちまう。だから、だけど……』
 お前になら、そう続けたきり、その先はなかった。彼はふるふると小器用に頭を振って、それから了見をじいと丸い瞳で見つめて、後は黙ってディスクの中に沈んでいく。
 一人きりになった寝室は無音。洗面所からの水音は途絶えている。恐らく遊作が顔を洗い終えて、そのまま奥のシャワーブースに消えたのだろうと知れた。
 了見は知らず噛んでいた奥歯を緩め、今度こそ深く息を吐きだした。ベッドから足を下ろし、遊作の歩んだのと同じ道筋を辿る。
 洗面所兼脱衣場に踏み込めば案の定、鈍い流水音が響いている。ランドリーバスケットの縁に遊作の寝間着と下着が引っかかっていた。目線を上げればシャワーブースを隔てる磨りガラスの扉に細身の影が映っている。
 了見は目を細めて、ずるずるとバスマットの上に座り込む。ブースのドアに肩を預け、静かに下肢へと手を伸ばした。ゴムの穿き口をずらし、下着の中から陰茎を取り出す。朝の生理現象と、それからもう一つの理由から緩く芯を持つそこをゆっくりと右手で擦り上げていく。
 シャワーの音は止まらない。ちらりと横目で見上げても近すぎる距離の磨りガラスは何のシルエットも映さない。ただでこぼこした半透明に、浅ましくもたれかかる自身の姿だけが映っている。凹凸のおかげで表情までは見えないことだけは幸いだった。まだ己には成さなければならないことがあるというのに、舌を噛み切ってしまいたくなる。
 こめかみをガラスに擦りつけて目を閉じる。見えないがこの薄い扉の向こうには間違いなく遊作がいるのだ。了見の家で、寝起きの茫とした頭を醒ますべく、剥き出しの薄い身体を晒して湯を纏わりつかせている。了見は瞼の裏に、夜の寝台に見た白を思い浮かべた。幼気であどけなくて触れ難い、存外に長い睫毛を伏せ、薄く唇を開いて眠る顔。寝間着の襟元から覗く首筋。緩くシーツを握り締める手が随分と華奢に見えること、指が細いこと。
 それから――了見のそばでなら、よく眠れるという、あまりにも無防備な姿。寝起きでもつれがちに言葉を載せる赤い舌。
「――っ」
 音を立てないように体を起こし、汚れていない左手を伸ばした。指先が捕らえたのはランドリーバスケットの縁に引っかかっていた下着だった。
 昨晩の入浴前に替えたのであろう薄いグレーのそれを鼻先に近づける。薄く遊作の匂いがする。頭がくらくらする。右手の中で肉の塊が跳ねる。くちくちと微かに響く粘りを含んだ音は絶え間ないシャワーの音に霞むことすらしない。一番気持ちいいところを擦り上げながら布越しに大きく息を吸い、了見は衝動に抗わず己を絶頂を導いた。
 瞼の裏に光が散る瞬間零れた、ゆうさく、という酷く辿々しい声は、手にした遊作の下着に吸い込まれていった。
 頭の向こうでは未だに流水音が続いている。間違いなく遊作には聞こえなかっただろう。
 は、と短く息を吐きながら、右手をゆっくりと持ち上げた。手のひらには精液がどろりと貼りついて垂れ流れている。左手には少し皺の寄った下着。綿素材のそれをぞんざいに引き伸ばして、元通りランドリーバスケットに引っかけた。空になった左手で己の下着を引き上げ、萎えた陰茎を押し込む。右手の白を手のひらに握り込みながら立ち上がり、洗面台の前に立つ。
 先ほどは凹凸でありがたくも見えなかった男の顔がウォールミラーに映っている。それは舌を噛み切りたくなるほどのものではなかったが、しかし間違いなく悪漢の顔だった。自らに安寧を見出す少年を食いものにしている下衆の顔。他人で快感を得ておいて泣きそうな表情をする、どうしようもない子どもの顔だった。
 目を伏せる。真鍮製の水栓を捻れば程なくして湯が吐き出される。了見は右手を差し出して、白濁を洗い流した。たんぱく質の塊はくるくると渦を描いて排水口に呑まれていく。
 自分以外の流水音に気づいたのか、シャワーブースから遊作の声が響いた。
『――鴻上』
 次、使うかと続く声に肯定を返す。出たら洗濯機を回すから汚れ物は全部出しておけと付け足して、日常のルーチンに思考と感情を当てはめ、埋没させていく。そうすれば今日一日を始めるための作業に行動は自動化されて、余分で不純な行為などなかったかのように常の鴻上了見に戻れる。
 水栓を捻り、湯を止める。まっさらになった右手から透明な雫が滴って、黒々とした排水口に消えていった。


 そもそもどうして遊作が了見に安眠を見出すほど近くにいるのか。了見の家に寝泊まりし、こうして朝食を共に摂る関係になったのか。
 発端も経緯も振り返れば定かではない。敵の敵は味方だと嘯いて現実世界で何度かデータや情報をやり取りするうちにいつの間にか、という他なかった。
 香ばしく焼き上がったトースターに広がる黄色いバターにはたっぷりと赤いイチゴジャムを載せて。コーンポタージュは湯を注ぐだけのインスタントだし、サラダは野菜を適当に切ったり千切ったりしてドレッシングをかけただけ。ソーセージは遊作が「草薙さんから貰った」と持ち込んだものをフライパンで転がして終わり。唯一作ったらしいものといえばスクランブルエッグぐらいだろうか――少しボソボソし過ぎている気もするが。
 そんな朝食でも遊作は文句一つ言わず――というと語弊がある、無言で平らげていく。向かい合って座る了見と言葉を交わすことはない。この家にはテレビモニタの類いもないため、時事について語るような糸口もなければ無音を紛らわすキャスターの声もない。ただ咀嚼と食器の触れ合う音だけが響いている。初めのうちは食卓の隅にデュエルディスクを持ち込んでいた遊作だったが、最近は寝室かリビングに置きっ放しにしているようだった。あまりの会話のなさに何とか場を盛り上げようとしていたAIも挫けて留守番を買って出たのだろうと容易に知れた。
 そんな状況の変遷を思い描ける程度には、二人で過ごす時間が積み重なっている。
 白けた朝の光の中、食卓の色彩だけは雄弁なほどに豊かだ。自分だけに淹れたコーヒー――遊作にはミルクを出している――を啜りながら、了見はちらりと対面の様子を窺う。遊作はトーストをさくりと音を立てて囓り、垂れ零れるジャムを指で掬っているところだった。そのままジャムまみれになった指に吸いついている。
 了見は少しだけ眉間を寄せた。
 赤い舌が閃いて、白い指にちゅくりと水音を立てながら絡みついている。ジャムを嚥下する喉仏がちいさく上下する様が艶かしい。
 瑞々しい生の動きはどこかエロティックに見える。しかしながら了見は今の遊作に。そのことを訝しんでいる。
 嗚呼、やっぱり。
 浮上する疑惑を黒い液体で臓腑の底、あるいは日常に流し込むと同時に、遊作の表情が少しだけ動いた。
「何だ?」
 ほんのわずか首を傾けて、眉尻を下げている。じっと見つめていることに気づいたらしい。珍しく口火を切る程度には了見の視線が気になったようだ。
「いや。……そうだな、無邪気な食べ方だと思っただけだ」
「それは子どもっぽいと言うんじゃないのか」
 再びコーヒーを啜る了見に、遊作は俄に反駁した。怒りやふて腐れたものではなく単に事実を言い換えただけらしかったが、少しばかりは意識が向いたらしい。ミルクのグラスに伸ばそうとしていた手を引っ込めて、片手で囓っていたトーストに両手を添える。品のある食べ方を目指したものだろうとは思うが、了見の目にはそういう動物のようにしか見えない。例えば齧歯類とか、パンダとか、ラッコのような。
 それを口にするほど了見は浅慮でも無神経でもなかった。コーヒーカップを置いてフォークを取り、サラダの皿に隠れ潜むプチトマトに突き刺す。僅かに飛び出した赤い汁がレタスを彩った。
 プチトマトを口に運びながら、今度は了見が訝る番だった。がしがしとトーストを食べ進めながら、今度は遊作が了見を見つめていた。まだ言いたいことがあるらしい。朝食の場において四ターン以上会話が続くのは稀なことである。
「俺から見れば、お前にもそんなところがある」
「ほう」
 汚れた手を湯で洗い流す、泣きそうな子どもの鏡像が脳裏に浮かんで消えた。
 遊作があの姿を知るはずがない。そして思い出した悪徳は既に霧散していて、了見は表情を陰らせる間もなく日常の顔で遊作の発言を促している。パン屑を皿に落としながら、遊作はじいと了見を見返した。
「今朝、寝室への侵入を問い質されたが――お前、毎回俺を抱き枕にして眠っているんだぞ」
 フォークから赤い実が零れ落ちた。
 てんてんと白い皿の上を転がって、散った赤い汁が血痕のような軌跡を曳いている。了見はその様を見ない。抱き枕、なんて単語を人生で口にすることなどなさそうな少年は了見の視線の先で、何でもないことのようにトーストをかじり続けている。
「だからよく眠れるんだと思う」
 ぱちりと翡翠いろの瞳が瞬いた瞬間、了見の視界が切り替わった。
 この瞳が閉ざされる様は何度も見てきた。遊作には丸くなって眠る癖がある、そう看破する程度に彼とベッドを共にしたのだから。
 だがしかし、その距離は如何ほどだっただろう。了見は遊作の伏せる睫毛が存外に長いことを、唇を薄く開いて眠る姿を知っている。そして寝起きに見る遊作は必ず、了見の方を向いて眠っていた。
 トーストを平らげた遊作が、口の端のジャムをちろりと舐め取った。まるでそれが合図だったかのように了見は自らの血の気の引く音を聞いた。そこに混じるやけにかさついた音はどうも自分の声らしかった。
「抱き枕、というのは、」
「やはり覚えていないのか」
 遊作はあくまで淡々としている。呆れることすらしない口調は彼にとって当然のことを語り聞かせているに相違ない。朝のお前とは態度が違うからそうだとは思っていたが、そんな前置きを添えて。
「文字通り、俺を正面から、肩の辺りを、両腕で」
「正面から、肩の辺りを、両腕で」
「ぎゅっと」
 甲高い音が二人の間を割った。今度はフォークが皿の上に転がっている。了見は空になった両の手のひらを見つめた。右手が嫌に冷えている。
 遊作は一瞥しただけで了見の動揺に言及することはなかった。先ほど手にし損ねたグラスを手に取り、ミルクを一口、二口嚥下して、夜の行動を客観視する。
「満たされていないとか、不安とか、人肌恋しいとか、恐らくはそんな心理からの行為だろう。……恐らく俺も」
「君は自分がそうだと思うのか」
 推測には答えず水を向ければ、ここに来て初めて遊作は考え込むそぶりを見せた。
「そうだな……俺も他人の温もりがあると、誰かがそばにいると安心する、と思う。実際、お前と一緒だとよく眠れる」
 遊作はもちろん了見も、心理学に関しては門外漢である。しかしながら推論はさておき事実は事実だった。遊作が安寧を見出していつもより深く眠れることも、了見が無意識に遊作を抱き締めて眠っているらしいことも事実なのだ。二人の行為が類似の心理的欲求から生じていることも恐らく当たっていると思われた。了見も遊作も歩む道こそ違えど、十年間同じ運命に囚われて生きてきたのだから。
 ただし二人の行動には決定的な違いがあった。
 遊作は丸く縮こまって他人の傍に寄る。了見は手を伸ばして他人を腕の中に収める。
 即ち、自ら触れるか、否か。遊作は触れることはせず、了見は触れることを望んだ。よりにもよって了見の方が。
 空の右手が酷く冷たく、重い。遊作の口にしたミルクよりもずっと濁った白がそこには見えている。この場で嘔吐しなかった自分を褒めてやりたい。了見は心底そう思った。


 鴻上了見は藤木遊作に特別な感情を抱いている。
 それは遊作とて同じだろう。その程度の自負はあったが、両者の『特別な感情』が全く異なる正体のものであることは了見しか知らないに違いない。
 乾燥機に二人分の食器を収めていく。遊作たちとコンタクトを取るために入手したアジトの一つであるこの家には生活感なんてないのに、あつらえたように食器たちの収まってゆく様が不思議だった。
 その遊作は少し前に帰っていった。昨晩持ち寄り統合した情報を草薙翔一に渡し、穂村尊とも共有するのだろう。
 了見は独り、二人分の食事の痕跡を片付けている。世話になったのだからこれぐらいは、という遊作の申し出を断り、帰らせたのは了見だ。不器用でないことは知っているものの、生活感が恐ろしく希薄な彼に食器を任せるのは不安だという思惑もあるにはあったが、それよりも早く一人になりたいという思いが強かった。
 リビングへと向かい、ソファに身を沈める。そのままゆるく目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくるのは遊作の姿だった。
 身を守るようにちいさく丸くなり、いとけない表情を晒して眠る姿。了見のそばであればよく眠れる、安心すると、ただの事実として告げる様。
 この距離感の名前を、互いの関係の名前を了見は知らない。友と呼ぶには遠く、仲間と呼ぶには見ている方向が違いすぎる。けれどもっとよそよそしい名の関係であれば、同じ寝台で夜の熱を分かち合うことなどしないだろう。
 右手の甲を瞼に乗せる。洗い物の後、冷えたままのそこは不快な水気を纏っていた。それは徐々に了見を非日常へ、不純へ、不道徳へと引き上げていく。
 だらりと右腕を落とし、薄く目を開いた。酷く愚鈍な仕草で視線を転じれば、目の前のローテーブルの上に小さな端末がある。ゆっくりと引き寄せていくつかの操作を施せば、ほんの小さなホログラム映像が浮かび上がってくる。
 それは眩しいほどに白い、白一色の空間だった。
 時折ノイズの走る白い世界に浮かび上がる影がある。目元にVRゴーグルを、左腕には大きくすら見えるデュエルディスクを装着した小さな子どもだ。引いた視点の映像でありながら、身につけた厚手のコートもブーツも草臥れているのが見て取れる。着の身着のまま、整容する間など一切与えられなかったのだから当たり前だ。当時はおぼろげにしか理解できなかった子どもの状況が、今の了見には嫌になるほど理解できる。
 言うまでもない。再生される映像は十年前の遊作の姿だ。
 音声からは遊作の声が漏れている。今よりもずっと高い、幼い声でフェイズの移行を宣言し、カード効果を読み上げ、まだちいさな手のひらでディスク上にカードを繰る。拙さがありながらも、たった六歳の少年にしてはこなれた姿。当たり前だ。遊作にとってデュエルモンスターズは最早遊びではなく、生きるための糧なのだから。
 ちいさな遊作の宣言にAIの機械音声が応えた。まだ純粋な文章構造も複雑な処理も理解できないはずの歳の子どもに、容赦なく暴力的に浴びせられるカウンター。遊作の身体が震え始める。ゴーグルの向こうの瞳はきっと大きく見開かれ、涙を滲ませているのだろう。
 冷たく重いはずの右腕が這い始めるのを、了見は意識の外に感知した。ベルトを緩めて、前を開き、緩慢に下着から雄を取り出す。そこが緩く兆していることへの嫌悪は随分前に捨ててしまった。
 右の手のひらに陰茎を握り込む。のろのろと擦り上げながら、視線は過去の映像に釘付けだった。身体と意識と感情が千切れ裂けたように一致しない。映像の中では自分フィールドのカードを一掃された遊作がよろめきながら後ずさっていた――逃げ場などないのに。
 そう思うと自らの口の端が持ち上がって、またひとつ、了見の中から感情が離れていく。
 機械音声が何かあるかと問う。何もないと答える遊作の声は濡れていた。がら空きのフィールドにAIの展開したモンスターのダイレクトアタックが通り、ソリッドビジョンに煽られた遊作のちいさな身体が吹き飛ぶ。了見の手のひらの中で醜悪な肉塊がびくびくと脈打ち、なお擦り続ければにちゃにちゃと音が鳴る。壁に打ち付けられた遊作の身体がゴム鞠のように簡単に跳ねて、目視できるほどの電撃が幼躯を襲った。ちいさな手足を硬直させて、遊作が絹を裂くような悲鳴を上げる。胸を掻き毟られるそれに了見は息を詰める。亀頭を覆う手の中で青臭い精液が噴き出した。
 ライフがゼロになったことを告げる、割れるような音が響く。映像の中、舞い散ったカードの真ん中で仰向けになったちいさな肢体がぴくぴくと痙攣していた。衝撃でゴーグルが外れ、半開きの唇から涎をこぼし、涙すら零せず虚ろに天井を見上げる様が露わになる。
 そんなホログラム映像の遊作の前に了見は右手をかざした。
 どろりと、酷く不道徳な白が滴り落ちる。朝吐き出したそれよりもずっと濁っていて、粘ついて、重たいように了見には思えた。
 鴻上了見は藤木遊作に特別な感情を抱いている。
 きっとそれは遊作とて同じだろうが、了見の抱く感情は悪辣で醜悪なものだった。絶対に遊作の感情とは相容れないし、その資格もない。
 こんな自分が遊作に近づき、触れていいとも思わない。
 ホログラムの遊作はぴくりとも動かず、投げ出されるがままの姿勢で転がっている。了見はそこにちいさく丸くなって眠る遊作を重ね見る。まぼろしの遊作はゆっくりと目を見開いて、幼いままの遊作の声で言うのだ。お前のそばなら、と。安心するのだと。
 自分は彼に安寧など与えてやれない、信頼を寄せるに到底値しない。そもそも幼く遠い日、夕暮れの曲がり角で無垢な遊作の人生を運命に縛り付けたのは了見なのに、今や酷く身勝手な感情で彼を汚している。
 こんな自分を遊作は知らない。知らぬままに触れられることを拒みもせず、当然のように受け入れているのだ。
「――ッぐ、」
 朝食の席でこみ上げた悪寒が臓腑を逆流する。喉の奥が焼けるように痛むのを、了見は汚れた右手で口を覆い堪える。
 唾棄するべきは鴻上了見という、どうしようもない子どもだ。身勝手な不満足だか、不安だか、寂しさだか、そんな感情から知らず他人の温もりを欲しがっている。遊作を食いものにするその手で遊作に縋っている。そんな資格はないのだと弁えることもできない、拒まれないことを許されたのだと履き違えて蹂躙する子ども。
 歓喜するのは鴻上了見という、どうしようもない男だ。二度も吐き出した欲は三度雄を猛らせ始めている。鴻上了見なんて人間に求められた藤木遊作の不幸があまりに愛おしいと、もっと彼が泣いて叫んで傷ついて絶望して正体を失くす姿を見たいのだと、下衆なエゴで独り昂ぶる掬いようのない男。
 喉を苛む嘔気と手のひらから漂う酷い臭気に涙が浮かんだ。映像の中の子どもは泣くこともできないのに、十八になる今の自分はなんと幼弱なのだろうか。冷え切った右手を外して不器用に息を吸えば、口内に入り込んだ粘つく精が酷くえぐく味蕾を刺した。
 唾棄し、歓喜する。見下げ果てた男だと自分を唾棄し、そんな自分に執心される遊作の不幸を歓喜する。己の精液が絡む舌で囁く声はあまりにも粘ついて、そして蕩けるほどの陶酔を含んでいた。
「ゆうさく、」
 ――ああ。
 残りカウントゼロを示し、静止したまま過去の白い世界は掻き消える。残るのは今と現実だけ。
 了見は一度目を閉じた。痙攣していた胃の底は今は息絶えたように静かで、白く汚れた右手には生温い温度が生まれ始めている。手のひらを握り込み、代わりにゆるりと瞼を持ち上げた。
 緩慢に、陶酔に濡れた声を振り返る。了見に応えた声のあるじは温もり始めた朝の光の中に立っていて、それから初めて微笑んでみせた。了見も同じだけの穏やかさで微笑を返した。

     ❖

 自己の性を認識したのは、父の意識をネットワーク上において再現させた頃。記憶が確かならばその前後だったように思う。
 実質父を失った了見を公私共によく支えてくれたのは三騎士だった。特に麻生と滝は兄や姉、あるいは親のように甲斐甲斐しく世話をしてくれた。プログラムやネットワークに関して父仕込みの知識があるとはいえ、現実世界において十を過ぎて少しの子どもにできることなどたかが知れている。父を呼び戻し再び言葉を交わすことができたのは三人の協力があってこそだ。了見は彼らに深く深く感謝している。
 故にその頃、まだハノイの名を冠してはいなかったものの、了見は三騎士を始めとした父の部下たちの首魁にほど近い立場にあった。父の意識の再現を企図し決定したのは了見だったし、父の残した膨大な実験や開発に関するデータを了見は可能な限り掌握していた。
 そう、自分より幼い子どもたちに対して父が如何に非人道的な実験を行ったのかも、この頃の了見は正確に理解していたのである。
 半年間聞こえ続けた悲鳴。通報のために押した発信ボタン。救い出される子どもたちと引き替えのように帰ってこなくなった父。
 了見の生活はあの通報から一変した。押し潰されそうな後悔の中、それでも父を取り戻すことだけに必死で、胸を掻き毟る悲鳴は記憶の底の方へとしまわれていた――ただ一人の例外を除いては。
 その例外が、ちいさな子どもが傍らにしゃがみ込んでいる。了見はいつも、気がつけば夕暮れの曲がり角に立っていた。
 散らばるカードを集めるその子の前に跪く。拾うのを手伝ってやれば、ありがとう、と微笑まれる。細められた瞳が美しくて、見とれるうちにカードを手渡す指が触れ合って、次の瞬間、子どもは弾き飛ばされ壁に身体を打ち据え悲鳴を上げて転がった。
 散らばるカードの中、虚ろな顔をして、ぴくりとも動かないその子を了見は見つめている。その繰り返し。
 まるで悪夢だ。妄想とも白昼夢ともつかないそれは、父の意識がネットワーク上に戻りつつあるに比例して頻度を上げていった。
 あの子だけが、了見の決意を、行動を鈍らせる。
 父のためにと、前だけを見て進む背を呼び止める。
 それは実生活においては睡眠障害や精神の不安定といったかたちで表出した。家族のように近しく医師でもある滝が真っ先に気づき話を聞いてくれたが、何故か了見はあの子のことを口にできなかった。それでも何事か察した滝は労るような励ますような言葉をくれたし、あまりに酷いときは少量、消極的ながら眠剤や安定剤の類いも出してくれた。本来未成年には好ましくないそれを了見はいつも礼を述べて受け取ったが、薬も含めてあまり効いた記憶はない。
 睡眠の重要性を理解していた了見は、それでも夜は眠るに努めた。一人きりの部屋で照明を落とし、ベッドに潜り込み、目を閉じる。
 ――すると部屋の隅にあの子が現れる。
 そんなときの彼は何も言わない。電撃を受けて弾き飛ばされることもなく、カードを拾い上げるでもなく、ただじっと了見を見ている。了見は彼の視線を感じながら目を閉じている。そして気がつけば朝になっている。その、繰り返し。
 精通を迎えたのはそんな朝だった。
 何の夢を見た記憶もないが、目覚めた了見は下半身に違和感を覚えて下着を覗き込んだ。白く粘ついたものが布地にべっとりと貼りついている。
 了見は脱いだ下着をぼんやりと見つめ、それから部屋の隅を見た。朝日が差し込み明るくなったそこに変わらず彼は立っていた。相変わらず感情らしいものを浮かべることも、何かを訴えようとすることもなかった。非現実の彼に背を向けて、了見は一日を始めるべく身支度を始める。存在しないはずの視線を感じながら部屋を出た。
 その日、いつものように話を聞いてくれた滝に何か変わったことはなかったかと問われ、その流れで精通を迎えたことを告げた。特段、恥じ入ることでもない。滝は女性ではあったが了見にとって家族も同然だったし、更に付け足すならば医師である。もちろん過剰な反応などはせず、彼女はおめでとうございますと嬉しそうに微笑んでくれた。
 事はその後に起きた。
 思いがけなく第二次性徴の発露を滝に伝えた了見は話の後いつも通り父を再現するためのデータ構築に没頭し、夕方頃麻生によって自宅へと帰された。彼らの首魁であろうと精通を迎えようと、麻生にとって自分はまだ庇護すべき子どもなのだ。作業は日中しか許されなかった。
 彼の善意に抗うほどの子どもでもなく、了見は大人しく自宅へと辞す。自宅と言っても研究施設のおまけのような居住スペースで、父の部下たちが行き交う廊下をいくつか渡り、扉一枚を隔てたすぐ先である。
 だから不思議に思いこそすれ、不審には思わなかった。
 夕日の差し込む廊下の先、自宅へと繋がる扉の傍に女が立っていた。見覚えのある顔だったと記憶している。父の部下の一人、滝の部署にいる女だった。了見は簡単に労いの声をかけて通り過ぎようとしたが、女は了見様、と声を上げた。
 振り向けば、女の表情は夕日の陰影で歪んで見えた。それは覚えている。見覚えがある女だったとは記憶しているが、果たしてどんな顔だったのかは覚えていない。ただ酷く優しげな、優しげに聞こえる声で彼女は告げた。
 ――よく眠れる方法があるんです。
 彼女の物言いに特別興味があったわけでもない。しかしながら結論から言って、了見は彼女を抱いた。
 甘い言葉で囁く女の声に誘われるまま、性行為を望まれているのだと気づき抗いもせずそうした。故に行為自体は合意のものである。例え彼女が幼く精神的に不安定な了見につけ込んだかたちを取っていたとしてもだ。
 彼女が何を思ってそうしたのかは知らない。滝とのカウンセリングめいた会話を盗み聞いて哀れんだのかも知れないし、少年趣味だったのかも知れない。あるいは真実、了見に愛情を抱いていたのかも知れない。行為の翌日にはもう、研究施設から彼女の姿は消えていたので確かめようもなかった。恐らく事に気づいた麻生たちが穏便に言って彼女を『辞めさせた』のだと思うがそれも定かではない。
 覚えているのは、薄暗がりで揺れる豊満な肉体と、珠のような汗の滑る肌が白く柔らかかったこと。咽せるような甘い匂い。了見の陰茎を包み込む膣が熱くて狭かったこと。それから足の付け根にあったほくろぐらいだ。
 了見にとって初めての行為の後、女は朝になるまでベッドを共にするような図々しい真似はしなかった。交わす言葉もそこそこに帰っていき、了見はいつもより湿った部屋に一人きりになった。
 よく眠れる方法が、という建前だったが、確かにその夜部屋の隅には誰も現れなかった。
 濃密な生の匂いと他人の熱に溢れた部屋で了見はじいと天井を見上げ、やがて起き上がり、そのままトイレへと駆け込んだ。
 胸を焼く感覚に抗わず胃の底のものを吐き出す。黄色い水をぼちゃぼちゃと受けとめる溜まり水に女の白い肌と弾むほくろを見、鼻先にすえた異臭と同時に女の匂いを感じ、自分の嘔吐く声の向こうに高い喘ぎ声を聞き、吐瀉物に苛まれる味蕾に女の汗の甘さを覚え、胸を押さえ冷たくなっていく指先に埋もれるような乳房の弾力が蘇った。なお一層嘔吐感が酷くなって、了見は吐き出せるものをすべて吐き出した。
 ひとしきり胃が空になるまで吐いて、やがてのろのろと力なく立ち上がる。洗面所で口を濯ぎ顔や手を洗って、了見はすっかり冷えたベッドの端に腰かけた。
 酷く寒かった。部屋やシーツに残る湿度に反して、了見のからだは渇いていて、空っぽで、頼りなくて、ひとりきりで、死んでしまいそうに寒かった。どんなに部屋の隅を見つめてもあの子は現れず、それは正しいことのはずなのにどうしようもなく泣きたくなった。
 震える身体を堪える。叫び出しそうになる喉を押さえる。ぎゅっと身を縮こまらせて、耐えて、耐えて堪えて絶えて、了見は鉛のように冷えて重たい指を伸ばした。
 求めた先にあるのは小さな端末だった。研究施設に収められた莫大な量のデータにアクセス可能なそれを操作し、了見は認識し内容を把握こそすれど、今まで一度も開いたことのなかったファイルを開いた。
 ファイル名に与えられた文字列はIGN006。了見の例外である悪夢たる少年、了見が人生を歪めてしまった贖うべきあの子のデータだ。
 震える指で動画を再生する。夜中の暗がりにぼうと映像が浮かび上がり、幻影と寸分変わらぬ少年が映し出される。
 白い部屋に閉じ込められた直後の困惑した様子。答えの返ってこない問いや懇願を虚空に向かって必死に叫ぶ姿。部屋の真ん中に無造作に置かれていたVRゴーグルを恐る恐る装着し、あんなに無邪気に大好きだと言っていたデュエルに挑む泣きそうな声。
 端末を操作しながら、もう片方の手がのろのろと動く。呼吸が少しずつ浅く、速くなっていく。動画の中の少年はデュエルに勝利し安堵していたが、次の動画、その次の動画と、回数を重ねるごとに苦しい場面が増え、怯えた様子で声を震わせていた。這うように動いていた自分の手の行き着く先に気づき、了見も泣きたくなった。指は下着に潜り込み、数時間前女に挿入したばかりの陰茎を掴んでいた。
 そして遂に、少年の敗北する時が来る。確実に減っていくライフポイントに少年は声を震わせ、がら空きになるフィールドには言葉を失う。了見の指はにちにちと、僅かに滲む体液を絡めながら陰茎を擦り上げている。戦局は覆ることのないまま、機械音声が少年に初めての敗北を突きつける――同時に、迸る電撃。何の心構えもしていなかった少年の身体は呆気なく弾き飛ばされた。横向けに倒れ込んで、ちょうどカメラに表情が鮮明に捉えられる位置。
 少年はしばらく動かなかった。自分の身に何が起きたのか、理解できなかったのだろう。やがて長い時間をかけて、緩慢に身を起こす。ゴーグルを外す。
 彼は泣いていた。ほろほろと涙を零して、声にならない声で呟く。どうして、と。もういやだと。
 ――だれか、たすけてと。
 手のひらに濡れる感触があった。了見も泣きたかった。けれど手のひらを濡らすのは涙などではなく、指を開けば萎えた陰茎と、そこに絡まる精液が白い糸を引いて粘ついている。
 あまりに濃密で、身勝手で、どろりとした欲望。手のひらを持ち上げて開けば蜘蛛の巣のように白が広がる。罠にかかるのは指と精液の向こう、動画の中で絶望に泣くあの子だった。
 渇いた音が落ちた。断続的に、徐々に大きく、最後は響いて重なる音。それは笑い声だった。
 了見は生まれて初めて、自らの意思で性を、欲を導いた。意識的に誰かを選んで射精した。その相手は柔らかく温かく豊満な肉体で受けとめるような女ではなく、何年も何年も了見の意識の片隅に居続ける少年だった。
 笑い声が止まらない。笑っているのは了見だった。泣きたいはずなのに、空虚な笑い声は零れ続ける。
 藍深い夜の部屋の隅にはやはり誰もいない。この日からぱたりと悪夢は消えた。
 代わりに、彼は了見の欲望の中に現れるようになった。忌まわしい日々の記録と、悲痛な声と共に。ただ了見に性的に貪られるためだけに。

     ❖

 あの時は知りもしなかった名前を囁く。
 父の研究データの中に、被験者たちの個人情報と呼べるものはないに等しかった。研究において必要なのはAIに学習させるための彼らのデュエルとせいぜい生体データぐらいで、彼ら個人は求められていなかったから当然だ。了見も食いものにする少年の名を知りたいとは思わなかった――自らそれを知ってしまえば、本当に終わりだと思っていたから。
 名前を知ったのは明確にハノイの騎士のリーダーという立場を得、『三つ』を口にするPlaymakerに出会って以降必要に迫られてのこと。運命というやつは本当に酷い思う。知ってしまえば歪んだ情欲を以て縋ることを止められなくなる。
 嗚呼。了見は諦念を溜め息で吐き出した。
 ああ。囁く名に、了見の嘆息に応えたのは、遊作だった。
 振り返った先、光の中で遊作が微笑んでいる。記憶とも記録とも異なる成長した姿の彼は、曲がり角でカードを共に拾ったあの時きり見せなかった微笑を湛えて佇んでいる。
 遊作が腕を上げる。そこにデュエルディスクはなく、従ってプログラムとしてロックされているイグニスはいなかった。一度仲間たちのもとに帰って預けてきたのか、否、遊作を帰してからそれほどの時間は経っていない。この家のどこかに置いてきたのかも知れない。
 持ち上がった遊作の手のひらがゆっくりと開かれて、ぱらぱらとちいさな欠片が落ちた。
「気づかないと思っていたか」
「……気づかれなければいい、とは思っていた」
 足下に散らばる超小型の監視カメラを踏みつけながら、遊作が少しずつ歩み寄る。了見が自ら各部屋に設置している監視カメラのデータにはさすがの遊作でもアクセスできなかったのだろう。いくら遊作たちに開示しているアジトであり、見られても困らないものしか扱わない場所とはいえここはハノイの領域の一つだ。イグニスアルゴリズムほどではないものの寝室のドアよりは余程強固なプロテクトを掛けている。
 故に了見には秘密裏に、遊作は自らカメラを設置した。つまりそこまでして知りたいことがあったということだ。であれば遊作が了見の行為に気づいたのは昨日今日の話ではあるまい。
 目の前に立つ遊作を見上げる。断頭台の前に立つ死刑囚とはこんな心境なのかも知れない。
 果たして執行人の感情は窺えない。憤懣も軽蔑も困惑もなく、表情は穏やかだった。ともすれば口の端にまだ、先ほどの微笑が残ってすらいるように見える。あるいは執行人ではなく、最期の罪人に赦しを与える聖者のようだと思う。
 遊作はすとんと、呆れるほど無防備に了見の前に座り込んだ。彼が床で、了見はソファ。であれば当然高低差があり、醜悪で悪辣な鴻上了見という人間のすべてが晒されている。遊作のほとんど眼前にはこの期に及んで未だに萎えない雄の欲望と、力なく垂れ下がる汚れた右手。ローテーブルに開かれたまま停止している十年前の映像記録。
 じいと翡翠の目がそれらすべてを見つめる。酷く無垢なその瞳を意識して――正しくは、この無垢を陰らせる想像を意識して、抑えの効かない陰茎が跳ね涎を垂らした。
「これは、」
 白く細い指が、赤黒い肉棒を指さす。猫のような目が頭上の了見を見上げた。
「俺にか」
「……そうだ」
 お前にだけだ。ずっと、きっとあの赤い夕暮れの曲がり角から、俺にはお前だけだ。
 絞り出すような己の声に内心で自嘲する。まるで己の罪を認め殊勝に赦しを乞う、そんな愚者を演じているようで滑稽だ。了見はそんなものを求めてはいない。例え憤懣を、軽蔑をぶつけられようと平然としているだろう。唾棄すべき鴻上了見という男は、そういう男だった。
 対する遊作は、ふうん、とだけ答えた。先日ベッドの上の起き抜けの遊作に、今日は雨みたいだぞ、と投げつけたところ同じ調子の返事があったことを思い出す。つまり、特に気にしてもいない声だ。
 白い指が更に伸ばされる。行き着いた先で了見の右の手首を捉えて引っ張り寄せながら、同時にするりと背筋を伸ばした。鼻先にまで寄せた白く粘つく指の前で、あ、と遊作が口を開く。明るい日差しの中に口内の温かい赤が晒される――そのままぺろりと、伸びた舌が了見の指に絡んだ。
「……っ」
 声は辛うじて飲み込んだ。遊作は神妙な顔をして了見の指先から、第一関節、第二関節、指の付け根へと順に舌を絡めていく。ぬるい温度にじゅるりと、唾液と精液が絡まって遊作の口内に吸い取られる音がする。
 やがてちゅうとかわいらしい音を立てながら、遊作の舌は離れていった。了見は遊作の細く白い喉が、取り込んだものを嚥下して上下する様を瞬きもせずに見ていた。
「まずい」
「……そうだろうな」
 至極シンプルな感想に同意する。
 了見は寝室の床に散らばる錠の残骸と、そして先ほどばらまかれたカメラを思い出した。あれらのように、遊作は全く当然といった様子で了見の動揺も無造作に踏みつけ、踏み越えていく。
 遊作の眉間に少しばかり寄せられる皺は了見の行為を非難するものではない。了見の精液を絡め取った赤い舌をべろりと垂らして、舌先に指で触れている。まるで不味を労るような仕草だ。
「お前、こんなもの飲んでるのか」
「何故そうなる」
 了見の顔を見上げながら、舌を撫でていた指で「ここ」と口の端を示す。少しだけ考えて、ああと合点がいった。吐き気を抑えるために右手で触れた際汚れたものだ。
 確かに結果として、あれから口内に入り込んだ己の精液を味わう羽目にはなった。しかしながら自らの意思で意図してのことではない。考えるまでもなくわかりきっているだろうに。
「これは不本意ながら結果としてそうなっただけだ。第一、自分の出したものを自分で飲むなど気が触れている」
 己の口内に残る苦みに顔を顰めながら答えるも、遊作の反応はやはり「ふうん」だった。じろじろと了見を見上げて、おもむろに腰を浮かせる。
 了見の目前に影が差した。同時にがしりと、両の頬骨を挟まれる。顔を固定された了見には確かめる術もなかったが、遊作が了見の膝の間に己の膝で乗り上げる。膝頭と剥き出しの陰茎が微かに触れ合って、弱く苛む快感に了見の腰が浮きかけるが――上から押さえられた。
 あの夕暮れの曲がり角で美しいと思った瞳。無垢に煌めく翡翠いろ。嬉しそうに、とは異なる、酷く色を含んで見える仕草で細められるそれに吸い込まれていく。
 遊作はそっと首を傾けて、ちいさく口を開いて、了見に顔を寄せ――まるで口づけるようだと思った。
「ん」
 唇の横に、熱。熱い、濡れた感触が掠める。ぺろりと舐めて、ちゅっと吸って、かぷりと噛みつく。
「ふ、む」
 まるで、だ。口づけではない。遊作は唇と唇を重ねるのではなく、了見の口の周りに熱心に食いついていた。瞳を閉ざして、じいと見つめる了見になど気づかず、唾液をまぶしながら舐め啜り、時に歯で削ぐように触れる。時折その舌や唇や歯が了見の唇に掠めることがあってもそれだけだ。
 決して口づけであろうはずがない。了見にはもう、遊作が何をしているのかわかっている。
 ひとしきり了見の口の周りを舐りしゃぶった遊作は、無感動に身を起こした。己の唾液と了見の限りなく薄くなった精液でべたべたに汚れた唇や顎を、まるでひと仕事終えたとでも言わんばかりに手の甲で拭っている。
「どうだ」
「……どうも何もあるか」
「お前が不本意だと言うから」
 ここに来て初めて、遊作はほんのわずか眉を顰めた。
「自分の出したものを自分で飲むのがおかしいなら、他人の俺なら問題ないだろう」
 問題がある。その理屈はおかしい。
 おかしいのだが、その問題が根本的過ぎて了見は絶句した。間違いなくおかしいのに、少しもおかしくないように答える遊作にどこから正していいのかわからない。何故遊作がこうするのかが見えてこない。
 鴻上了見は、あるいはリボルバーと名乗る男は、Playmaker、つまり藤木遊作という人間を予想超える、度し難い人間だと認めていた。しかしこれは、今は、底なしの穴を覗き込んでいるようだと思う。
 ちいさく身体を丸めて了見に擦り寄って、身を守るみたいにして眠る少年が。真っ白い部屋の中虚ろな表情で倒れ伏すあの子が。目の前の藤木遊作に重なって、離れて、交わって消えていく。ちかちかと明滅している。
「っく」
 不意に遊作が身を捩った。触れ合ったままの膝頭に亀頭が擦れて、意図せず了見の喉から声が漏れる。そこで初めて気づいたらしく遊作はじいと己の膝と、了見の下肢を見つめた。
 たらたらと零れる先走りが、遊作の制服のスラックスに濃い染みを作っている。了見の陰茎が初めに見たよりもずっと角度を増して血管を浮かび上がらせていることにも気づいているだろう。
 そっと膝を下げて、遊作はまた床に座り込んだ。了見の膝頭や内腿をくすぐるような柔らかさで撫でながら、また了見を見上げてくる。
 遊作はずっと、同じ目をしている。幼い頃に了見が見とれた無垢な翡翠いろの、猫みたいな目。そしてどこか不思議そうに、あるいは未知未踏を眺めるような目。
 違和感がある。
「俺にはわからないが、こういうのは苦しいんだろう」
「……ああ」
 違和感が喉につかえたまま、了見は頷いた。
 遊作はやはり猫のように目を細めて、視線を転じる。ほとんど目前の、悪辣で醜悪な欲望の塊、肉の脈打つ様を厭うことなく見つめている。
「これは、俺に対して、こうなんだろう」
「……ああ」
 曖昧に示されるすべてを正しく酌み取り、了見は頷いた。
「なら、」
 しなやかに、遊作の背筋が伸びた。了見の内腿を這う指が奥へと進んだ。
「お前を救えるのは、俺だけだ。鴻上了見」
 己の雄を他人に触れられるのは、部屋の隅に誰も現れなくなったあの日、あの子の悪夢が消えてから初めてのことだ。
 その相手がまさしくあの子だと、十年の間一日たりとも忘れられなかった藤木遊作だという現実。
 この現実は、悪夢かも知れない。
 遊作の指の一本が了見の陰茎に触れる。輪郭を辿るように、ほんの指の先で幹の根元から、余る川をくすぐり、雁首を引っ掛けて、つるりとした亀頭を撫でる。先走りを零す鈴口には指の腹を押しつけるようにして、それからそっと指を放して、粘って糸を引く白濁混じりの液体をしげしげと見つめていた。指と指をくっつけて、にちゃりと伸びる先走りで遊んですらいる。
 この現実は、現実だろうか。
「ゆう、さく」
「ああ」
 妄想でも白昼夢でもない証明に、呻けば返事がある。今度は一本だけでなく、了見のカウパーに濡れた右の手のひらがそのまま伸ばされた。柔らかく温かい手の肉に包まれてちいさく息を詰める。
「ぬるぬるして、熱い。……こんなふうになるんだな」
 違和感がある。
 問い質すべき理性が本能に押し負ける。浮き上がる血管を辿るように、悪戯に揉みながら遊作が手を上下させた。親指の腹が裏筋をやわらかく押し潰しながら擦り上げて、気持ちいい。びくんと腰が跳ね上がる。遊作が少しだけ目を丸くした。
「ぁ、大きくなる……のか? 硬いし、反り返って、どんどん出てくる、粘ったのが」
「……っ遊作、両手で」
「ん、こう、か?」
 乞うたとおりに、先走りを絡めながら、両の手のひらで包み込んでくる。扱き上げる動きに、了見も自ら腰を使い始めた。
 ぁ、とちいさく遊作が声を上げる。刹那手の動きを止めて、しかしすぐに了見に合わせてきた。にゅちにゅちと粘った音が大きくなる。
 人差し指で雁の付け根をやわらかく抉りながら、左右の親指でやわやわと裏筋を揉まれる。手のひらの肉が垂れ流れる先走りを受け止めて、竿全体に伸ばしながら気紛れに強弱をつけるのも気持ちがよかった。はあと熱く息を吐く。熱に浮かされていく視界で、遊作が嬉しそうに笑ったような気がした。
「気持ちいいか?」
「ああ……っもっと、激しくしていい、下も」
 下、と繰り返して、遊作の手の一方が離れた。その指は直に精液と先走りで湿る下生えを掻き混ぜて、もっと奥へと伸びる。幹を強く擦り上げる動きに反して、おずおずと陰嚢に触れる指がもどかしい。
 ゆうさく、と促せば、意を決したように性急に触れてくる。指先できゅうと強めに握られて、思わず鋭い声が漏れた。さっと遊作の手が離れる。
「ぁ、すまない」
「いい、けどそこはもっとっ……は、自分でも、わかるだろう」
 痛いところも気持ちいいところも、同じ男同士だ。そういう意味で言ったのだが、遊作はわずかに眉を下げるだけだった。
 違和感がある。
 曇っては晴れる違和感の中、遊作は片方の手で幹を擦り上げながら、もう片方の手でそっと、撫でるように双珠をくすぐり始めた。指先で労るように、徐々に手のひらで包み込むように。すると余った指が会陰部に触れる。そこも、と囁けば、遊作は不思議そうに指を伸ばした。
「ここも気持ちいいのか。……ちがうのに」
「……気持ちいいだろう。お前は違うのか」
「俺は、……わからない」
 遊作はもう一度、わからないと首を振って、それきりだった。了見の示したところをひとつずつ、確かめるように愛撫しながら答えを置き去りにする。
 違和感。違和感がある。
 それでも了見は快感を追っていく。ぐちゅぐちゅと粘る音は大きくなって、遊作の手の動きも大胆なものになっていく。射精を求めて肉棒が跳ねる度に、指を離して、すぐに戻って。時折ねばりと糸を引っ張りながら、育ちきった了見の陰茎を見つめて、また最初に触れたときのように形を確かめる動きで触れていく。
「腹につきそうだな……それにすごく熱くて、硬くて、ビクビクしてる。音も、すごい」
「はっ、……いちいち、言わなくて、いいっ」
「なあ、出そう、か?」
 了見のわずかな苛立ちを置き去りに、遊作は酷い水音を立てながら男の陰茎を擦り上げて、そのくせ子どもみたいな仕草で首を傾げている。
 翠の瞳が瞬いて、朝よりもなお熱い光がちらちらと瞬いた。その白さに目を細めながら頷けば、遊作がぐっと身を乗り出す――
「遊、作っ!?
「ん、ぐっ」
 目の覚めるような赤が閃いた。大きく口を開いて、次の瞬間、了見の雄の欲望は熱く柔らかい場所に包まれている。思わず腰が浮いて、げほ、と濁った咳が聞こえた。
 口からまろび出た性器に、遊作はなおも追い縋る。幹の太いところを横から唇で挟み、ぬるんと滑れば業を煮やしたように顔を上げた。了見の内腿、ほとんど鼠径部の延長戦を鷲づかみ、ぐっと頭を下げる。癖の強い前髪が湿った了見の腹を撫で、その感触にまた腰が跳ねるが今度は押さえ込まれた。喉奥を晒すほどに口を開いた遊作が、腹につくほど反り返る了見の陰茎を咥え込む。
「ぅ、んむ、ぐう゛っ」
「ゆぅ、さくっ……」
 辿々しくも丁寧な手での愛撫と異なり、遊作はめちゃくちゃに頭を上下させる。時折歯が当たって了見は顔を顰めるが、萎えるということはなかった。
 萎えるどころか、暴力的なまでの快感が襲ってくる。それは遊作の舌の熱さや、砲身を扱く唇のしなやかさや、雁を刺激する口蓋の凹凸、無理に飲み込んで締めつける喉奥のきつさから生じるものではない。きゅうと眉根を寄せて目端に涙を浮かべながら、それでも必死に了見のものに口淫を施す切なげな表情に感じてのものでもない。
 あの子が、藤木遊作が、鴻上了見というどうしようもない男に征服され陵辱され苦しんでいる。その姿にこそ興奮する。
「遊作――」
「ふっ……んぶ!? ぐ、ぅう、んっ、ん、んん゛っ!」
 遊作の柔らかい髪がぶちぶちと抜ける音がする。それを掻き消すようなままならない苦鳴と高く響く濁った水音が耳に心地良く、了見は微笑んだ。どこか幼さの残る丸い後頭部を無理矢理押さえつけ、物みたいにめちゃくちゃに振り動かしながら、自分勝手に腰を前後させる男が浮かべていい表情ではない。それを非難する者はこの場にいなかった。
 了見のパンツにきつく皺が寄る。遊作は必死で縋りつきながら、それでも逃げることはしなかった。口の中に迎え入れた悪辣で醜悪な肉欲を吐き出そうとはせず、それどころかもっと飲み込もうとする。了見の手から逃げようと首を左右に振ることもやろうと思えばできるだろうに、強いられるままに前後させている。
 ふふ、と笑う。ままならない動きの中、翡翠いろが了見を見上げてくる。何かもわからない液体で顔中を汚しながら、口の中に収めた雄に頬を膨らませ、あるいはすぼめる遊作の顔。じっと了見を見つめる瞳。
「ああ――かわいいな、遊作……」
 了見はこれを初めて、愛おしいと思った。
「ふ、んぐ、おっ……げ、んっ、ぎぼぢ、ぃ、がっ? は、んぶっ」
「ああ、気持ちいいっ……」
 酷い声で息を継ぎながら、それでも問う遊作に答える。がくがくと揺さぶるだけの傲慢な手で前髪を掻き上げてやれば、苦しげに眉を寄せながら、それでも遊作の瞳が細められた。
 同時にぢゅうと吸い込まれて呻く。優しくしたばかりの手で、彼の温かい場所の一番奥まで押しつける。
「出す、ぞ!」
「んぐ、ぅ――!」
 気管を塞がれてなお叫ぶ。絶叫ごと遊作の喉の奥へ、精液と一緒に押し返される。
 身勝手な精を注ぎながら、了見はしばらく遊作の頭を押さえ続けた。ふうふうと荒い息が陰毛をくすぐり、了見はむずがる仕草でちいさく腰を揺らす。最後の一滴まで余さず遊作の腹に注ぎ込んでやるつもりだった。
 やがて「んぶっ」と濁った音が股座から響く。萎れた陰茎を吐き出した遊作がげほげほと激しく咳き込んでいた。ついさっきまで苛んでいた手のひらで頭を、肩を、背を擦ってやる。
 どれぐらいそうしていただろう、咳き込む音をひゅうひゅうと細い呼吸音に変えて、ようやく遊作は顔を上げた。真っ赤に染まった目元は涙で濡れ、口の周りは涎と精液の混じったもので酷い有様になっている。鼻からたらりと白濁を垂らして、遊作はまたけほっとちいさく咳き込んだ。
「は、ぁ……ん、ふ、すまなっ……ぜんぶは、飲めなかった……」
「……謝る必要はない」
 男というのは薄情にも正直な生物で、一度出してしまえば多少冷静になれる。
 そもそもおかしいのだ。問題がある、問題しかない。遊作の理屈はおかしい。
 今になって正すのであれば、最初から精液を飲む必要など一切ない。十年前人生をねじ曲げてしまった少年の苦しむ姿に歓喜するような唾棄すべき鴻上了見、この男を救えるとするならば――救いなど必要ないが――それは確かに、この藤木遊作だけだろう。この子どもは了見の運命で、了見もまた遊作の運命だ。
 だからといって、救う必要はない。赦さなくていい。遊作は困惑と軽蔑と憤懣で以て了見を断罪するべきなのだ。それがどうして、遊作が了見に謝ることなどあるだろうか。跪いて首を晒して、贖い償うべきは了見の方なのに。
 ぼんやりと眺めるうちに、遊作はようやく落ち着いた様子だった。まだらに染みのできた青臭いソファに頬を預けて、くたりと力を抜いている。不足した酸素を補うように深い呼吸を繰り返す背に、了見は静かに触れた。遊作は顔を上げる気力もないのか、ちらりと視線だけで了見を仰いだ。
「遊作」
「ああ……」
 濃藍のブレザーの背を辿り、白いシャツの襟へと潜る。細い首の後ろのくぼみ、襟足をくすぐって、ひやりとした耳へと指を滑らせる。遊作は少しだけくすぐったそうに肩をすくめた。まだ顔を汚したまま、そのくせ淫行などなかったかのように。本当にくすぐったいだけの仕草だった。
 了見は柔らかい耳朶を弄ぶ。今のは少なからず、愛撫のつもりだった。無論了見の性交の経験など回想するまでもない程度のものだが、男同士ということを差し引いても今の流れならば多少感じるところがあるのではないだろうか。
 男同士だ。ゆっくりと、置き去りの違和感が差した。淫らに茹だって曇っていた思考が晴れてゆく。
 お前は、と投げかければ、俺はわからないと首を振った。自分でも、と諫めれば、困ったように眉を下げた。こうなるのか、こんなふうに、俺にはわからない。そして未知未踏を眺めるような、不思議そうな、無垢の瞳。
 じっと了見のことばを待って見上げる翡翠。そこにはたった一人、自分しかいない。
 遊作、ともう一度名前を呼んだ。なんだと問う声はこちらももう少し冷静を取り戻している。
「お前、こういった行為に及んだことはあるのか」
「ない」
 ぱちんと光が弾ける。瞬いた瞳はさも当然のように了見を見上げ、一瞬だけ、先ほど乱暴に口内を犯した了見の雄を覗き見た。
 くらりと闇が蟠る。予想はついているが、問わない訳にはいかなかった。
「自慰……一人でしたことは」
「ない」
「……お前は、そもそも」
 らしくなく、唾を飲み込んだ。自分の精液を舌に乗せるよりもずっと、苦くてえぐい味がした。
「精通は、迎えているのか」
 せいつう。辿々しく遊作は復唱した。
 またぱちんと光が弾ける。ゆっくりと頭を起こした遊作は、了見の足の間でじっと座り込んだままこちらを見上げてくる。ぱち、ぱちと光が弾ける度に、遊作の姿は十年間ずっと縋ってきたちいさな体躯の子どもへと変わってゆく。
 無論それは錯覚で、遊作は当時よりもずっと低くなった声で応えた――首を振りながら。
「ない。俺はお前がしていたみたいに自分のものに触れても気持ちいいと思ったことはないし、性的興奮を覚えたこともない。勃起したこともない」
 予想通りの答えに、ぐるりと闇が渦巻いた。
 精神的なものか、身体的なものか。遊作の人生を考えるにどちらも大いにあり得る話だ。
 ロスト事件以来孤独だったと、他者との同一性を感じられなかったと遊作は言っていた。他人から乖離した遊作が性的興奮を覚えるほどの興味を他の人間に抱けるだろうか。
 更に溯るなら十年前の監禁生活において、遊作たちの扱いは実験用のモルモットよりも酷いものだった。生命の維持だけが最低ラインで――父の残した実験の概要を見るに、最悪死んでしまってもそれはそれとしてデータを採るつもりのものだった。幼い身体に有り余る電気ショックも後遺症を引き起こしうる。人体は微少な電気活動の塊だ、何が起きても不思議ではないだろう。
 了見の頭の中を様々な思考が渦巻く。ロスト事件の被害者たちのデータは徹底的に洗い直したはずだが、漏れていたのか医療データにも載せていないのか。遊作の保護者に近しいあの男は知っているのか、一度滝に診せるべきか――そして目を灼くような光が、そのすべてを覆い隠す。
 遊作は微笑んでいた。無垢な翡翠の瞳は夕暮れの中で見とれたのと同じ美しさで、けれどあの曲がり角よりもずっと不穏だった。生の証に汚れた姿で、ゆっくりと遊作は立ち上がる。
「鴻上。鴻上――了見」
 白に汚れた手のひらが差し出される。了見の精液で粘つくそこには糸が引いて、まるで蜘蛛の巣のようだと思った。
「なあ、了見。俺を救えるのは、お前だけだ」
 その罠にかかるのは誰だろう。動画の中のあの子か、遊作か、了見か――あるいは最初から、二人ともが。
 たすけてと、遊作は囁いた。
 緩慢に、陶酔に濡れた声。浮かべる微笑は夕暮れの曲がり角で浮かべたものとは全く異なるのに、了見にとっては同じもの。了見は救いを求めていないが、遊作の救いには応える義務がある。そういう運命。
 何よりも、男として持つべき機能を遊作は未だ持っていない。原因は、理由は。そう考えて唾棄すべき男が歓喜する。
 愛おしい。その錯覚で縋りついて、了見は差し出された手を恭しく取った。酷い生の象徴に汚れた手の甲に口づけ、かわいらしい、を別のことばにすり替えてしまう。騎士の誓いのように、もっと悪辣で醜悪で捻れた想いで絡め取る。今までと違うのは、きっと遊作も同じだろう、ということ。
「……愛している、遊作」
 俺もだ、と応える声は無垢で、滴るような歓喜に打ち震えていた。
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