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結局何も変わらない

「悪趣味な賭けをしたことは、悪かったと思っている」
 赤く傾く光が、長くくろぐろと白いシーツに影を伸ばしている。
 影の中には倦むような波が打っていた。湿り気を帯びて、ともすれば醜悪な、やるせない波間。そして赤と黒の二色の世界にもっと色濃く、波紋すら残さず落ちる痕。
 緩慢に軌跡を描くそれは赤く照らされた足に続いている。細く薄く骨張った、少しばかり不健康なあし。何も纏わず剥き出しで晒されたそれはきゅうと折りたたまれて、やはり不健康に細い腕に囲われている。そちらは辛うじてシャツを羽織っていたが、ただ肩から引っ掛けただけのそれは酷く薄ら寒く見えた。
 案の定、了見の見つめる中錯覚と時を同じくして寒さに縮こまるようにもぞりと動く。途端、視界に蠢く黒。それから、白。あしに引き摺る白黒の線は一度滑り落ちて、乾いて、痕になって、それでも固まりきらなかった液体が膝を抱えて座ることによって逆に流れたが故のものだ。これは間違いなく、了見がまたひとつ重ねた罪の証左だった。
 引っ掻いたように細く、そのくせ濃い黒が痛みを突きつけてくる。反して白は赤い光に染まりながら、未だ乾ききらずぬめりとして不道徳を滲ませる。
 なのに。唇を噛む了見に、被害者であるところの足の持ち主は改めて、
「悪かった」
 そう呟いた。膝を抱えていた腕を解いて、シーツの波を掻き混ぜてまるで血の痕跡を、どちらのものとも知れない吐精の残滓を隠すようにしながら。
 殊勝な言葉と偽装の動作とは真逆に、彼はまっすぐに了見を見つめていた。西日が翡翠の瞳とふしぎに混ざり合って鋭いまでの輝きを宿している。その奥に、了見と、そしてもっとずっと奥の、横たわる赤を映している。
 ここまでつぶさに見て取れるということはつまり、彼と同じく了見もまた、罪の意識がありながらまっすぐに見返していたということだった。
 開き直るといえば質が悪いがそうではない。ならば真っ向から贖う姿勢かといえばこれもまた違う。
 了見はただ、わからない、と思っている。少年が目の前で不健康に細い足に血痕を垂らして、その付け根よりもっと奥の奥を暴いて傷つけた了見と事後のベッドで肩を並べて座りながら、なお加害者である了見に謝罪の言葉を口にしている意味がわからない。
 沈黙があった。まるで澱んだシーツの波が立てる潮騒が響いてくるような、長い沈黙。
 実際、赤く長く差し込む光を取り込む大きな窓はオーシャンビューで、寄せては返す波の音が聞こえそうではあった。しかしながらこの部屋が窓さえ閉めてしまえば余程の大嵐でもない限り外部の音を遮断してしまうことを了見は知っている。何故なら了見はずっとこの家で暮らしている――暮らしていたのだから。だから二人の間に横たわる潮騒は明らかな幻聴であった。
 ここまで的確に現状を見極めることができるのに、結局どれほど黙考したとて了見は答えに辿り着けない。出題者はじいと、影を許さぬ光を宿して応えを待っている。
「……何が」
 制限時間に耐えきれず、そう答えた刹那に後悔した。
 お前が謝るなと善人ぶって憤ればよかった。あるいはいっそ、そうだお前が悪いのだと、屑みたいに開き直って責めた方がまだましだった。そうすれば了見はどこまでも加害者で、悪人になれた。非現実めいた赤黒の世界の、見えない境界線をきっぱりと定義してしまえた。真意を問うことは深みに嵌まるに相違なく、了見は例え現実を歪めてでもその深淵を避けたいと思う。
 ゆっくりと光が瞬く。暗闇の海に道筋を照らす灯台のようでもあり、死刑執行を知らせるランプのようでもある。赤と黒の世界にあって、理不尽な陵辱を受けてなお失われない翡翠の光。被害者であるはずの彼の瞳が、了見の浅ましい底を見透かしている。決して、微塵も責める色はないままに。
 すうと指が滑った。シーツの水面を飛び立って、ほとんど了見の鼻先に触れるほどにまで近づく。けれど倦んだ空気を挟んでその指はついと立てられた。
「一つ、」
 三本のそれが、順に折られてゆく。十年前に了見が彼に与えた、運命という呪いの言葉。かつての二人の希望であり、今や了見の絶望である。彼にとっては――聞きたくもない。
「単純な不法侵入を」
「……お前の遵法精神が――今更だが損なわれている点も含めて、私には関係のないことだ。確かにこの家はかつての住居だったが、今は鴻上のものではない」
 戻ってくるつもりもなかった、という言葉は飲み込んだ。今は無用だと思ったのだ。
 俺のものではない、という言葉も真実のすべてではなかった。了見がデンシティを去った後、この邸宅はSOLテクノロジー社が調査のためと差し押さえたが、すぐに放置された。念入りな調査の結果、何の痕跡もデータも残されていないことが早々に判明したためである。しかしながら今現在、こうしてかつての居室にいるように、出入り口のロック解除が自在であること、出入りをSOLに感知されないことも含めて、了見が望めばいつでも取り戻せる手筈は整っている。
 知っている、とでも言いたげな表情で、彼は少しだけ視線を彷徨わせた。今は背を向けている海を望む窓を振り返り、それからずっと瞳の奥に宿している、了見の背後に横たわる赤を見つめた。
「それでも、思い出があるだろう」
 そこにはかつて、寝台に横たわる父の姿があった。
 今は何もない。否、歪な寝台の代わりに無機質なデザインの椅子がある。かつて了見がダイニングで使用していたものだが、寝室に持ち込んだりはしていない。ならば誰が、と考えるならこの邸宅を差し押さえたSOLか、あるいは了見よりも前にこの屋敷に忍び込んだ侵入者ということになる。
 どちらの仕業かなど問うまでもない。椅子の上にちいさく横たわる、赤い光の中朽ちながらなお赤い花も含めて。
 二本目の指が折られた。
「二つ、お前の想いを踏みにじるような真似をした。……俺は今日が、……月命日だと知っていてここに侵入した。この家のロックシステムにハッキングすればお前が気づくだろうことも、監視カメラにアクセスして侵入者を確かめるだろうことも想定していた」
 了見は視界の端で捉えていた、枯れかけの彼岸花から目を逸らす。そうして俄に増えた口数を一蹴する。
「私が何を思うかは私の勝手だ。お前の勝手な憶測が当たっているとは思えん。それこそ関係がない」
 今は亡き父の代わりのように横たわる花は、確かに某かを思い起こさせるものだろう。けれどそれはただの感傷、錯覚でしかない。仮に想いのあるものだとしてもそれは了見ではなく、誰の月命日であるのか、言葉を濁した彼のものであろうと思う。
 ダイニングから椅子を引き摺ってきて、手折った一輪を横たえた彼の胸に去来したものは哀悼だろうか、憐憫だろうか、憎しみだろうか。戯れに考えることすら無駄だった。
 最後を視線で促す。彼ももう、海に背を向け彼岸の花は眼中にない。ただ了見だけを見つめている。二人して赤い光の中に濃く黒い影を作りながら、見つめ合っている。
「三つ、」
 最後の指が、落ちた。シーツの波に墜落して、ずるりと波紋を引き摺る。
「俺は、もう一度お前と会いたかった。話をしたかった。繋がっていたかった。そんな身勝手のために、」
 剥き出しの膝が崩れて、浅瀬に突く。肩に羽織っただけのシャツは頼りなくも流された。緩慢に、手のひらが、膝が、波を割って進む。
 赤い世界で黒い影が一層濃くなる。了見の眼前に、あまりにも眩い翡翠いろの瞳がある。二人の影が重なって何も見えない。世界が閉ざされる。
 影が黒く映えることを、場違いにも了見は喜んだ。白く閉ざされたならきっと、この瞳は毀れてしまっていただろう。十年前、一方的に見つめるだけだったちいさな世界を幻視する。
 あの時真ん中で蹲って、了見の声にならない声を頼りに三つを繰り返し呟いていた子どもは少年と青年の境にまで成長して、VRバイザーに覆われていない剥き出しの瞳で、了見を捕らえている。溶けてしまいそうな存在の希薄さはなく、ただただ毒々しいまでに艶かしい生を晒している。
 シーツの海を泳ぎ切った指が、触れる。それは了見の右手の赤いしるしに重なって、同時に唇に唇が噛みついた。それは刹那の交合で、二人を繋ぐものは柔らかい皮膚から吐息で紡がれる言葉に変わる。
「お前に、罪を」
「やめろ」
 台詞半ばで、了見は明確に否定を口にした。
 光が散っている。毀れずとも零れた光を拭うことはしない。否定はするが、慰めはしない。これは彼が――被害者たる藤木遊作が鴻上了見を加害者たらしめた、などと、単純な図式に当てはめていいものではない。
 何故ならば、悪趣味な賭けに興じたのは遊作で、賭けに勝たせてやったのは了見だからだ。
 手放した海辺の家にわざとらしく忍び込む遊作の姿を監視カメラからのデータに認めて、わざわざ自ら赴いたのは了見だ。まだ赤の遠い陽の光を背負って、了見を待っていたのは遊作だ。交わす言葉もないままに触れ合ったのはどちらからだっただろう。少なくとも遊作を押し倒したのも赤と白の二重螺旋を描くほどに暴いたのも了見の意思だった。けれど一切拒絶せず、それどころか迎え入れるように受け入れたのは遊作だ。
 だから遊作が了見を仕向けたような言い方をするのは、間違ってはいないがフェアではない。故に否定はする。慰めはしない。それでも二人の間では、慰めの代わりにあえかな体温が手元に宿っている。
 加害者か、被害者か。有罪か無罪か。二人の関係は二元論では語れない。司法の場や衆目に示されれば白黒はつくのかも知れないが、第三者の結論など了見にも、そして遊作にも意味のないことだった。
 そもそもここは赤と黒の世界だ。非現実の逢魔が時、感情は無意味なのに理性では計れない世界。イチとゼロの間の、虚構のような現実。
 何を確かなものと認めるか。この部屋に夜の帳が下りて、あるいは朝が来て、そうでなくてもこの部屋から一歩外へ出てしまえば意味を失うアンカーを、けれど間違いなく今、ここにいる二人は好き勝手に決めて打ち込んでいいのだろう。だって答えなどない。出ない。了見も遊作も同じ先を見ているのに、決して二人の描いた軌跡は交わらない。平行線なのだ、少なくとも、今は。
 右手の親指の付け根あたりに、痛みとも呼べない鈍い感覚があった。遊作の爪が甘く赤いマーカーに立てられている。翡翠の瞳は重なったままの影の中で、より強く光を宿していた。遊作はこの体温だけは間違いないものだとするようだった。
「……三つ、」
 遊作の瞳。拙く重なる手と手。湿ったシーツの波紋。引き摺る剥き出しの足に残る破瓜の赤、この世界に唯一の白は劣情。窓の向こうに煌めく海も、もう見えない悲願の花も黒い影を落とす赤。
 了見は、言葉を吐き出していく。ここは現実であって虚構なのだ、そう思えば呼吸は楽だった。交わらないはずの未来など、今は考えなくていい。
「考えろ。お前が私に望んだことを、もう一度」
「会いたかった」
 刹那の間もなく遊作は答える。影の中の翡翠が一層煌めく。立てられる爪が傷つけない程度に力を増す。
 淀みなく了見は次を問う。
「それから」
「話をしたかった」
「……最後は」
 流れるように答える声は、決して大きな声ではなかったが凛としていた。
 三つ目の問いに逡巡したのは了見の躊躇いではなく、遊作に思考する間を与えるためであった。けれど遊作は決して考え直すことはせず、ただ蕩揺とした声で答えた。
「繋がっていたい」
 自分も同じだと思う。
 了見の現実は、今この瞬間だけはここにある。例え真実ではないとしてもそれでいい。
 触れる手を絡め捕らえて、今度は了見から遊作の唇に噛みついた。刹那で離れることはせず、願うままに繋がってゆく。深く、温く。閉ざす瞼の裏はやはり黒と、西日の名残の赤で、けれど世界が閉ざされる間際に見えた遊作の瞳から零れ落ちる光は、刺すほどに白かった。不道徳とも劣情ともほど遠い、酷く美しい色だった。