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どろりのうこうはちみつあじ

 広いばかりの味気ない部屋で、無機質なアラームに起こされる。
 ジャックの目覚めはいつもこのパターンだった。他人が見れば虚しいと、あるいは絶対王者という孤高の称号にふさわしいと称する日々。ジャック自身は不要なものを排除した結果の、当然の生活だと思っていた。
 だが今は違う。
「ジャック……起きてくれ、ジャック」
 控えめな、けれど決して譲るまいと意思を込めた声が耳朶を打ち、やわらかく体を揺すってくる。
 起こそうとしているらしいが、甘やかな声と仕草が余計に微睡みを誘う。なのでジャックはもうしばらく眠っているふりをする。そうすれば起床を促す声にうろたえたような吐息を混ぜてくるのだ。今朝も案の定、耳元ではあと溜め息が零れた。
「ジャック、朝だ。起きてくれ」
 声の調子が少し強くなる。今までよりも大胆に揺すられて、頬をさらりとしたものが滑る。
 その瞬間を狙いすまして、ジャックはするりと腕を伸ばした。あっという小さな声を聞きながら、捕まえたものを腕に抱く。目を開けば頬を紅潮させた鬼柳が腹の上に乗っている。
「寝込みを襲いに来たか」
「ちがっ……!」
 揶揄する口調で問えば、鬼柳は腕の中で小さく身を捩った。もちろん鬼柳がか弱く暴れた所で抜け出せるような拘束ではない。抵抗はすぐに止み、分かっているくせに、というちいさな非難だけを口にして大人しく収まった。
 大人しくなった体を抱き、戯れに背筋から腰までのラインをなぞる。白いシャツを一枚(ジャックの記憶違いでなければ、自分ののシャツだった)羽織ってはいるものの、敏感に感じ取ったらしい。絡まる太股がピクリと跳ね上がり、目元を朱に染めた鬼柳が見上げてくる。
「ジャック!」
「シャワーを浴びたのか」
 鬼柳の声は無視して、しっとりと艶を含んだ旋毛に鼻先を近づける。慣れたシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
「あ、びた」
「処理はしてやったはずだが」
「汗を、かいて……いたから、」
 鬼柳の体が縮こまる。付け入るように絡めた足を持ち上げれば、度が過ぎたのかようやく激昂した。
「朝からっ、やめろ!」
 涙目で怒鳴ったところで何の痛痒も感じないが、反り返った喉の赤い痕に免じてやめてやった。昨夜上書きしたそれは青白い喉によく映える。
 鬼柳の怒りとは無関係なところで満足しているジャックに気付いているのかいないのか。緩くなった拘束から抜け出して鬼柳はベッドサイドに下り立った。やはりジャックのシャツを羽織っていて、適当なボトムが見つけられなかったのかシャツの裾が長いから構わないとでも思ったのか、よりによって下は下着しか身につけていない。
 先程の台詞を己でよく振り返ってみろ、と思わないでもない。
「朝食の準備はできてるからな! シャワーを浴びるなり顔を洗うなりして下りてこい!」
 言い捨て、鬼柳は階下のダイニングへと向かおうとする。踵を返しかけるその背に、
「鬼柳」
 呼びかけるだけで、怒りながらも鬼柳は足を止める。
 ゆるく手を引いてやれば一瞬の硬直。蒼玉がまた険しさを増す前に引き結ばれた唇に己のそれを重ねれば、ぴたりと時間ごと静止した。
 再び動き始めるのはジャックが薄い唇を舌先でなぞり、腕を放して後のことである。
 満ち足りた気分で見上げれば、鬼柳は相変わらず頬を赤く染めている。剣呑は困惑に変わっていた。怒りに羞恥にと朝から忙しい男だ。もちろん、そうさせているのはジャックなのだが。
 結局絆されたのだろう、鬼柳は改めて踵を返した。
「冷める、から、早く来い」
 強気な言葉を並べても、たどたどしく途切れがちでは型なしだ。
 小走りに寝室から出て行く鬼柳の背を見送って、ジャックは口の端を持ち上げた。


 軽くシャワーを浴びてダイニングのドアを開ければ、ちょうどベーコンエッグが焼き上がったところだったらしい。IHのスイッチを切りながら鬼柳が目だけで席に着くよう促す。
 黙ってジャックが椅子に座れば、こちらも黙って鬼柳が新聞を目の前に置いた。手に取って広げながら鬼柳が朝食の皿を並べるのを待つ。
 白いクロスの掛けられたテーブルの上に、サラダとベーコンエッグとコンソメスープが並んでいく光景は、少し前の絶対王者の朝食を思えば不思議ですらある。
 ジャックは自分で料理などしないので、朝食はゼリー飲料か、日によっては狭霧が用意していた。狭霧もそれなりに豪勢な朝食を用意してはくれたが、それらは全てジャックのためだけに用意されていた。ジャックが朝食を摂る間はダイニングの入り口で控えているだけで、鬼柳のように同じテーブルに着いたりすることは決してなかった。
 それがいいとも悪いとも思わないが、この朝食風景の変化は実に劇的だ。
 向かいの席に自分の分の食事を並べる鬼柳を、新聞越しに窺う。ジャックの視線に気づく様子もなく、鬼柳は冷蔵庫から取り出したヨーグルトをガラスの器に盛っている。
 そもそもテーブルクロスも、食卓の真ん中に置かれているレトロなデザインのポップアップトースターも、ジャックの家の殺風景を嘆いた鬼柳が持ち込んだものだ。囲ってやると宣言し、ジャックの一存で鬼柳を半ば無理矢理住まわせている、はずなのだが、こうして見るとジャックの生活圏が少しずつ鬼柳に侵されているようである。
 他の人間ならば許せないのだが、鬼柳に限っては不快ではない。なので好きにさせている。ジャックの目の前で、件のトースターがキツネ色の食パンを跳ね上げた。
 トーストを一枚ずつ皿に乗せ、鬼柳は冷蔵庫を覗き込む。
「ジャック、トーストには何を塗る」
「バターだけでいい」
 すぐに四角いバターが乗ったトーストが目の前に置かれる。ジャックがバターナイフでバターを伸ばす内に、鬼柳も自分の皿と、小さな小瓶を持って向かいの席に座った。いそいそと小瓶の蓋を捻り、ティースプーンを突っ込んでいる。とろりとした黄金色がスプーンから鬼柳のトーストへと落ちていく。
 食事を共にするようになって気がついたのだが、鬼柳は存外と甘いものが好きらしい。
 鬼柳の用意する朝食は大抵パンで、時々によって塗るものが違う。各種のジャムはもちろんのこと、ピーナッツバターやチョコレートソースを塗ることもある。たまにフレンチトーストやら何やら甘いパンを用意していることもあるが、一度ミルキートーストなるものに苦言を呈したところぱたりとやめてしまった。
「今日は蜂蜜か」
 ジャックがトーストに食いつきながら零せば、鬼柳はほんの少し唇を尖らせた。
「……栄養価が高いんだ」
「貴様は細すぎるからな」
 白いシャツの袖から覗く、鬼柳の手首に視線を向ける。
「せいぜい栄養のあるものを食え。でないと俺が食わせていないように見える」
 ジャックの皮肉に取り合わず、鬼柳はトーストを蜂蜜でコーティングする作業を優先した。
 確かに蜂蜜は栄養価が高い。
 そして案外、値段も高い。
 V・S・F・Lで飼われていた時代には、蜂蜜など当然出されることはなかった。ジャックの家で絶対王者の財布を握っていてもつましい生活を送っている鬼柳のことだ、どんな生活を送っていたかは知らないが、ジャックと再会するまでは悲惨な食生活だったのだろう。初めて朝食の席に蜂蜜を持ってきたときの、あの興奮を隠し切れない顔は今でもよく覚えている。
 いや、今でもそんなに大差はない。ジャックを無視して蜂蜜を注ぎ切った鬼柳は目を輝かせてトーストを持ち上げている。単に蜂蜜が瞳に写りこんでいるだけかもしれないが、それはそれで問題だろう。キツネ色どころか飴色に姿を変えたトーストは、鬼柳が齧り付いた瞬間、サクリ、ではなく、ねちゃり、粘着質な音を上げた。
「……旨いか」
「ああ」
 即答だった。
 ジャックとて甘いものが食べられないわけではないが、朝、起き抜けからこれはどうかと思う。
 胡乱なジャックの視線に気付くこともなく鬼柳はトーストを齧り続けている。過度にかけられた蜂蜜が鬼柳の指を汚し、手首を伝い、白いクロスの上にぽたりと滴る。
 食べることに必死な鬼柳はクロスの方までは気付いていないのか、一度トーストを皿に戻し、手首に伝う蜂蜜だけを舌で拭った。薄い舌が一瞬だけ閃いて、黄金色をぞんざいに掬い取っていく。
「鬼柳」
 少しばかり、気に入らなかった。
「零すな、みっともない」
「ん、後で」
「手首だけではないぞ、ここにも」
 椅子から腰を浮かせ、ジャックは身を乗り出す。少しばかりダイニングテーブルを挟んでいて、唇には少し届かない。
 なので蜂蜜の絡まる鬼柳の手を取り、甘く汚れた細い指を口に含んだ。ぴくりと口内で指先が跳ねる。切り揃えられた鬼柳の爪が、ジャックの歯をかつりと叩いた。
「ジャック! 指はまた汚れるからっ……」
 鬼柳の焦った声が耳に心地良い。
 咥えた指の腹をぞろりと舐り、指先に軽く歯を立てる。舌に、喉に絡まる甘ったるい味。吸い上げれば少しばかり苦く感じるのは錯覚だろうか。
「ふっ……!」
 耐え切れない、とでもいうように、鬼柳はぎゅっと目を瞑った。
「……甘いな」
 さんざん舐り尽くした末、ジャックは指先を吐き出した。
 拭い切れなかった蜂蜜かジャックの唾液か、恐らく両方が交じり合ったものが、ジャックの舌先と鬼柳の爪とを透明な糸になって繋いだ。ちょうど目を開いたタイミングで目撃してしまったのか、鬼柳がまた頬を紅潮させる。動揺して震える指から、雫が一滴、白いクロスへと落ちていった。
 ばっと、目の前で鬼柳の手が閃いた。
「ジャック! だから、朝からっ、こういう……!」
「貴様が年甲斐もなく汚していたから綺麗にしてやっただけだろう。こういう、とは何のことだ?」
 ジャックが笑って返してやれば、取り返した手をもう一方の手で抱えたまま鬼柳は押し黙る。
 朝から邪なことを考えているのは自分だけだ、という形に持ち込まれたのが悔しいのか、僅かに下唇を噛み締めていた。うっすらと目元に水の膜が張っているのは、怒りのあまりか羞恥のあまりか、はたまた指先を嬲られた程度で感じ入ってしまったのか。
 口の端を持ち上げて、ジャックは己のトーストを手に取る。さくりと角に食いつく。
 鬼柳は皿の上で蜂蜜まみれになっている自分のトーストを見下ろし、ぽつぽつと水玉を描くクロスを見下ろした。
「テーブルクロス、洗わないと」
 言い訳か誤魔化しのように呟いて、サラダの横に添えてあったナイフとフォークを手に取った。
 これでしばらくは夢中になって齧り付くような真似はしないだろう。朝から胸の焼けるような光景も見なくて済む。
 今日のような悪戯も悪くはないなという考えは頭の隅に押し込めて、ジャックはまたトーストを一口齧った。対面では鬼柳が俯きがちに、蜂蜜だらけのトーストをナイフとフォークで切り分けていた。