×
シェイムレス・プラクティス
一息にシャツを脱ぐ。ベルトを外す金属音にどくどくと心臓が跳ねるのはいつものことだ。革のパンツを下着と一緒にするりと足から抜く。
鬼柳の動作を、ジャックは黙って見つめている。瞬きひとつしない様もいつものことだ。広すぎるダブルベッドの上で、ジャックは着衣を乱すこともせず腕を組み、鬼柳を観察している。
零度の視線が何を考えているのか、そればかりを気にしながら鬼柳はジャックの正面で膝立ちになって裸身を晒す。羞恥はない。ジャックが求めるのであれば自分は全てを捧げるのみだ。望まれることが嬉しい、ならば恥じ入る余地などどこにもない。初めの頃はジャックに比べて随分と肉の薄い自分の身体を恥じたりもしたが、今はただ王者を待たせることのないようにと手を急かせるばかりだ。
脱ぎ捨てた衣服をベッドの端に寄せて、鬼柳は改めてジャックに向き直る。ジャックはまだ何も言わない。ただ視線だけが雄弁に熱く、鬼柳は身を捩りたくなる衝動を必死に堪える。
たっぷりと王者の視線を注ぎ、ジャックはようやく口を開いた。
「――貴様は、恥ずべきことだと思わんのか?」
ひくりと鬼柳の肩が跳ねる。見つめられるだけで半ば疲弊していた鬼柳は一瞬責めの言葉かと怯えたが、ジャックの表情を見てすぐに考えを改めた。ジャックは薄く笑みを浮かべ、実に楽しそうに鬼柳を眺めている。
「ジャックが愛してくれる身体だ。恥じることなんてない」
鬼柳はきっぱりと言い切る。
例え貧相な体つきでも抱き心地が悪くても、ジャックが愛情と精を注いでくれるのだ。王者の寵愛を唯一与えられているのだから、誇りこそすれ恥じることはない。
ジャックはクッと喉を鳴らし、鬼柳へと手を伸ばす。
抱き寄せられるのかという鬼柳の期待はすぐに裏切られた。ジャックは鬼柳の腕を掴んで引き寄せ、重ねたクッションの上へと突き飛ばす。羽毛の柔らかさに背を預けながら鬼柳はジャックを見上げる。王者の笑みがあった。
「慣らされたわけではないのならば、今日は少し趣向を変えるか」
きっと鬼柳が裸身を晒す間に考えていたのだろう。王者の朗々とした声が告げる。
「一人でしてみせろ、鬼柳」
鬼柳はといえば、目を丸くするしかない。
「……ひと、り?」
鬼柳が呻いて見上げても、ジャックは薄く笑みを刷いたまま微動だにしない。悠然と腕を組んで鬼柳を見下ろすばかりだった。
一人でしてみせろ、とは、つまり、ジャックの前で自慰行為に及べ、ということか。
体を晒すことに今更抵抗はない。喘ぎ声も、ジャックの性器を受け入れることも、攻めに泣き濡れる表情も全て、ジャックが望むのならと抑えることをやめた。ジャックが望むのなら喜んで差し出そう。
けれどそれは、ジャックが望むがままに、彼のしたいようにされたいという意思によるものだ。自慰をしろ、というのも確かにジャックに望まれた行為ではあるが、行為の主体はジャックではない。鬼柳自身が、鬼柳自身に施さなければならない。そしてジャックはそれを傍観して楽しむ。
鬼柳にとっては許容しがたい。しかしいくら戸惑ったところで、一度口にしたことをジャックは翻しはしないだろう。
「わかっ、た」
ジャックが望むのなら、鬼柳に拒否することはできない。
ついてこない感情を引きずって、鬼柳は辛うじてそう答えた。ジャックの視線を強く感じながら、ひとまずクッションに深く背を預ける。預けるが、そこから先をどうすればいいのかが分からない。
鬼柳は自分のことを性に淡白な方だと思っている。今でこそ毎日のようにジャックと肌を合わせているが、それはジャックが望んでいるからであって、鬼柳の方から誘いをかけたことなど――ない、とはいわないが、ほとんどない。
ジャックには毎夜疲弊するほど抱き尽くされているから、自慰などにはとんと縁がない。
ならばジャックと一緒になる前、一般的に性への好奇心が旺盛だとされる少年の時分にはどうだったかと問われればここでも無縁だった。安心して休める寝床を探すのに精一杯の状態で、どうして安穏と性行為に耽ることができるだろう。答えは否だ。
結論として、鬼柳には自慰の経験などないに等しい。
衝撃の事実に思わず固まる鬼柳を、ジャックは心底楽しそうに眺める。
「いつまでそうしているつもりだ」
「う、うるさい……」
向けられる揶揄の響きに身じろぐ。
抱かれる側に甘んじているとはいえ、鬼柳は男の矜持を捨てているわけではない。性経験の浅さを話題にされたくはないのが性というものだ。
半ば意地になって、鬼柳は下肢に手を伸ばす。脱衣の際に向けられたジャックの視線に昂揚していたと思ったが、予想外の事態のせいだろうか、そこには何の反応もなかった。
そろそろと指を伸ばして萎えた陰茎を掴む。とりあえず刺激を与えさえすれば勃つのだからと、肉を包む手を上下させた。一番いい力加減を探しながら、時々亀頭を弾くようにして擦り上げる。
鬼柳は慣れない行為に必死だった。つい、何のためにこんな真似をしているのかを忘れてしまう程度には。
「鬼柳よ」
「っあ」
ジャックの声にようやく状況を思い出す。少し笑いを含んだ声の、混ぜられた吐息にすら感じたのか、手中で陰茎が僅かに硬度を増した。
ジャックは気づいただろうか。
「よく見えんな」
この言葉を信じるなら、気づかれていないのだろう。しかし下された台詞は安堵には程遠いものだった。
「膝を立てて足を開け。俺に見せずに一人で楽しむつもりか?」
「……っ!」
鬼柳はきゅっと唇を噛む。
ジャックに請われた上で行為に及んでいるのだから、そのジャックに見せなければ意味がない。理屈としては正しいのだが、感情も理性もついてこない。ただジャックだけが状況を楽しんでいる。ジャックだけは、着衣も呼吸も乱さずに、鬼柳の動向を観察している。
逡巡の末、鬼柳はのろのろと膝を立てた。言われるがままに立てた膝を左右に開く。憚るものもなくジャックの視線に晒された陰茎がまた少し角度を増した。
鬼柳はといえば、ジャックの視線から顔を逸らして震えている。
いつも通りのセックスであればこんなことはありえない。詰る視線だろうが、蔑みの言葉だろうが、鬼柳はジャックから与えられるものであれば真っ直ぐに受け止める。
なのに今日は。おかしい。
「ふ……」
只管、手を動かす。
この時間はいつまで続くのか、ジャックが満足するまで、だろうけれど、それはつまり自分が射精すれば終わりなのだろうか。
どこか焦り始めた思考に、ジャックが追い打ちをかける。
「幼い。拙いな、鬼柳。俺への愛撫程度にやってみせろ」
ジャックへの愛撫程度に、などと言われても。己が快感を得るよりも、ジャックへの奉仕に手慣れた鬼柳にはどだい無理な話だ。ジャックはきっと、分かっていて言っている。
絡みつくジャックの視線が質量すら伴っているように思えて、鬼柳は左右に首を振った。もちろん振り払えるわけもない。は、と息を吐く。
もう終わりにしていつも通りジャックに抱かれたい。
ぐちゃぐちゃになる頭の中をただその思考だけが埋め尽くすが、擦るだけの単調な動きで達することなどできない。人並みの自慰よりも、ジャックに貫かれる快感を覚えた身体では尚更だった。
もう一つ悪いことに、ジャックに抱かれたいと思った瞬間から、前よりも後ろが強く疼き始める。
「ぁ……う、あっ」
腰が跳ねる。陰茎と掌の摩擦に、ささやかに水音が混じる。先走りが肉を伝う感覚にひくりと後孔が疼いたのは錯覚だと思いたい。そうでなければジャックに全て見られていることになる。
ジャックは何も言わない。達するまでには足りない、緩やかな刺激に身悶える鬼柳をじっと見ている。ジャックの太く長い陰茎に貫かれる快感を知っている身体が、鬼柳の意思を置いて暴れ始める。
左手で幹を擦り、右手で双球を揉み込む。揉み込む動作に混ぜて、中指をそろりと伸ばす。
「ふうっ……」
爪先が会陰をなぞる感覚に跳ね上がりそうになるが、辛うじてジャックには知られたくないと堪える。陰嚢をくすぐる動作に見えていればいい、伸ばした中指が入り込む動作には、気づかれたくない。
「アっ」
中指の先がほんの僅か埋まる。普段はもっとずっと大きなものを受け入れているくせに、押し出すような抵抗があった。
無理矢理進めれば指先は肉を割り、第二関節辺りまで埋まった。後孔が指を締め付ける感覚に、手中の陰茎が跳ねる。勝手に逸れていく背筋を正すことができず、鬼柳は強く目を閉じた。
「鬼柳」
ぞくりと、肌が粟立った。
低く響く王者の声が、吐息が、鬼柳の耳を掠める。ばちりと目を開けば、少し離れて静観していたはずのジャックの顔が眼前にあった。
反射的に鬼柳の膝が閉じられる。もちろんジャックが許すはずもなく、閉じられる前に膝を割り入れられ無理から開かされた。指を押し込めた後孔まで余すところなく晒される。鬼柳の耳元でジャックの喉が、くつくつと鳴った。
「――浅ましいな」
王者の睥睨が何に対してのものかなど、視線を辿らずとも分かる。
「あ……う、ぁ……!」
ぼろり。鬼柳の目の端から、涙が零れ落ちた。
侮蔑の言葉に心臓が縮み上がる。そんな感覚を覚えたのに、性器を擦り排泄器官を抉る手は何故か加速する。乖離していく感情と肉体が酷く辛い。鬼柳は体裁も何もかもを放り投げ、いやいやと首を振った。汗で湿った髪が振り乱されて頬を打つ。
「ぃ、やッ……ジャック、じゃっくぅ……!」
「何がだ?」
「もっ……あァ、んっ、こんな、の……やっ、ああ!」
滅茶苦茶に陰茎を擦って、時々尿道に爪を立てる。後ろを抉る指はもっと酷くて、一気に二本を増やした。伝い落ちた先走りだけでは潤いも足りず、無理に突き入れられた三本の指に穴がぎちぎちと軋む。どれが錯覚で、どれがジャックの望んだ行為なのか。もう何も分からない。
ただ、浅ましいと謗る声が、鬼柳の心と肉を波打たせる。
「ご、めんなさッ……ア、も、ゆるして……!」
そうだ、こんな、こんなことは浅ましい。
快感も質量も足りなくて、ジャックではないものを自ら突っ込んで腰を振って。ジャックの前で、自分の絶頂だけを追い求めている。ただ自分を哀れんでいるようで、頬を滑る涙すら不快だった。
もう終わりにして欲しい。己を高めることに必死な手ではジャックに縋りつくこともできず、鬼柳はただ唇を戦慄かせて王者の赦しを請うた。
「ならば」
涙に滲んだ視界の向こうでジャックが笑う。震える鬼柳の顎を掴んでついと持ち上げ、唇で薄い三日月を描いてみせる。
「イッてみせろ」
「ぁあ……は、あッ――……!!」
王者の声が、ぞろりと鬼柳の耳に、入り込む。
その低く甘く、熱に掠れた声に、鬼柳の後孔がきゅうっと窄まった。肉壁が中の指を締め上げて、擦れて、堪らない。
この肉がいつもジャックの性器を咥えているのだと自覚した瞬間、爪先で抉られていた尿道が精液を噴き出した。じわりと滲んで開放された白濁は、飛び散ることなく手のひらと陰茎を伝い落ちる。内腿が、背筋が、逸らした喉が、ぴんと張り詰めて弛緩した。
「ようやく達したか」
クッションに沈んでいく鬼柳の背中を、ジャックが掬い上げた。触れられた身体に安堵を覚え、鬼柳はそっとジャックを見上げた。最初から最後まで、一人だけ楽しんでいた酷い男の顔だ。
悪態のひとつやふたつつきたいところだが、生憎と乱れた呼吸と疲労感がそれを許さなかった。今の鬼柳では睨みつけることもできないだろう。瞬きで目尻に溜まった涙をひたすら追い散らすぐらいが関の山だ。
「貴様は自慰もしたことがないのか」
相変わらず責めの体を取った揶揄の言葉。呼吸の隙間を縫って鬼柳は返す。
「お前がっ……いる、のに、そんなこと……」
「だろうな。そんな余裕があるのなら、俺も考えを改めねばならんところだ」
もしも改めたらどうなるのか、など。考えたくもない。
鬼柳はゆるく頭を振って、ジャックの腕の中で収まりのいいところを探し始める。一人で達しただけにしてはやたらと重くのしかかる疲労感を宥めすかして身を捩れば、珍しくジャックの方から膝の間に引き上げてくれた。
ほうと息を吐いて、鬼柳は脱力する。安堵の中、まだジャックが着ている服が邪魔だと思う。臀部に当たる硬いものも、少し。
「っあ」
驚いて鬼柳が身を震わせれば、薄い尻を抉るようにそれは寄せられる。ジャックはまた擽るような声で鬼柳の耳に唇を寄せる。
「……どうして欲しい、鬼柳」
その声が、欲情に濡れているような気すらした。
随分な目に遭ったが、見ていただけのジャックもちゃんと感じてくれていた。鬼柳が自分自身で与え、浅ましく享受していただけの行為に。
台詞こそ鬼柳に求めさせるものだが、ジャックがどうしたいかは鬼柳にもちゃんと伝わっている。何より鬼柳自身、慣れない行為の中最後まで求めていたものだ。
「一人じゃ、満足できない。ジャックに……抱いて欲しい」
両手は汚れているので、唇だけ、ジャックの頬に寄せる。
頷いたジャックの髪が首筋を掠めてこそばゆい。鬼柳がそっと瞼を下ろせば、そのまま柔らかく押し倒された。
こんな疲労感を抱えたままジャックを受け入れて、明日の朝はどうなるのだろうか。そもそもどうしてジャックは鬼柳に自慰を強いたのか、何かそうさせるようなものがあっただろうか。取り留めもない疑問は頭の片隅に押しやって、鬼柳はジャックに身を委ねた。
鬼柳の動作を、ジャックは黙って見つめている。瞬きひとつしない様もいつものことだ。広すぎるダブルベッドの上で、ジャックは着衣を乱すこともせず腕を組み、鬼柳を観察している。
零度の視線が何を考えているのか、そればかりを気にしながら鬼柳はジャックの正面で膝立ちになって裸身を晒す。羞恥はない。ジャックが求めるのであれば自分は全てを捧げるのみだ。望まれることが嬉しい、ならば恥じ入る余地などどこにもない。初めの頃はジャックに比べて随分と肉の薄い自分の身体を恥じたりもしたが、今はただ王者を待たせることのないようにと手を急かせるばかりだ。
脱ぎ捨てた衣服をベッドの端に寄せて、鬼柳は改めてジャックに向き直る。ジャックはまだ何も言わない。ただ視線だけが雄弁に熱く、鬼柳は身を捩りたくなる衝動を必死に堪える。
たっぷりと王者の視線を注ぎ、ジャックはようやく口を開いた。
「――貴様は、恥ずべきことだと思わんのか?」
ひくりと鬼柳の肩が跳ねる。見つめられるだけで半ば疲弊していた鬼柳は一瞬責めの言葉かと怯えたが、ジャックの表情を見てすぐに考えを改めた。ジャックは薄く笑みを浮かべ、実に楽しそうに鬼柳を眺めている。
「ジャックが愛してくれる身体だ。恥じることなんてない」
鬼柳はきっぱりと言い切る。
例え貧相な体つきでも抱き心地が悪くても、ジャックが愛情と精を注いでくれるのだ。王者の寵愛を唯一与えられているのだから、誇りこそすれ恥じることはない。
ジャックはクッと喉を鳴らし、鬼柳へと手を伸ばす。
抱き寄せられるのかという鬼柳の期待はすぐに裏切られた。ジャックは鬼柳の腕を掴んで引き寄せ、重ねたクッションの上へと突き飛ばす。羽毛の柔らかさに背を預けながら鬼柳はジャックを見上げる。王者の笑みがあった。
「慣らされたわけではないのならば、今日は少し趣向を変えるか」
きっと鬼柳が裸身を晒す間に考えていたのだろう。王者の朗々とした声が告げる。
「一人でしてみせろ、鬼柳」
鬼柳はといえば、目を丸くするしかない。
「……ひと、り?」
鬼柳が呻いて見上げても、ジャックは薄く笑みを刷いたまま微動だにしない。悠然と腕を組んで鬼柳を見下ろすばかりだった。
一人でしてみせろ、とは、つまり、ジャックの前で自慰行為に及べ、ということか。
体を晒すことに今更抵抗はない。喘ぎ声も、ジャックの性器を受け入れることも、攻めに泣き濡れる表情も全て、ジャックが望むのならと抑えることをやめた。ジャックが望むのなら喜んで差し出そう。
けれどそれは、ジャックが望むがままに、彼のしたいようにされたいという意思によるものだ。自慰をしろ、というのも確かにジャックに望まれた行為ではあるが、行為の主体はジャックではない。鬼柳自身が、鬼柳自身に施さなければならない。そしてジャックはそれを傍観して楽しむ。
鬼柳にとっては許容しがたい。しかしいくら戸惑ったところで、一度口にしたことをジャックは翻しはしないだろう。
「わかっ、た」
ジャックが望むのなら、鬼柳に拒否することはできない。
ついてこない感情を引きずって、鬼柳は辛うじてそう答えた。ジャックの視線を強く感じながら、ひとまずクッションに深く背を預ける。預けるが、そこから先をどうすればいいのかが分からない。
鬼柳は自分のことを性に淡白な方だと思っている。今でこそ毎日のようにジャックと肌を合わせているが、それはジャックが望んでいるからであって、鬼柳の方から誘いをかけたことなど――ない、とはいわないが、ほとんどない。
ジャックには毎夜疲弊するほど抱き尽くされているから、自慰などにはとんと縁がない。
ならばジャックと一緒になる前、一般的に性への好奇心が旺盛だとされる少年の時分にはどうだったかと問われればここでも無縁だった。安心して休める寝床を探すのに精一杯の状態で、どうして安穏と性行為に耽ることができるだろう。答えは否だ。
結論として、鬼柳には自慰の経験などないに等しい。
衝撃の事実に思わず固まる鬼柳を、ジャックは心底楽しそうに眺める。
「いつまでそうしているつもりだ」
「う、うるさい……」
向けられる揶揄の響きに身じろぐ。
抱かれる側に甘んじているとはいえ、鬼柳は男の矜持を捨てているわけではない。性経験の浅さを話題にされたくはないのが性というものだ。
半ば意地になって、鬼柳は下肢に手を伸ばす。脱衣の際に向けられたジャックの視線に昂揚していたと思ったが、予想外の事態のせいだろうか、そこには何の反応もなかった。
そろそろと指を伸ばして萎えた陰茎を掴む。とりあえず刺激を与えさえすれば勃つのだからと、肉を包む手を上下させた。一番いい力加減を探しながら、時々亀頭を弾くようにして擦り上げる。
鬼柳は慣れない行為に必死だった。つい、何のためにこんな真似をしているのかを忘れてしまう程度には。
「鬼柳よ」
「っあ」
ジャックの声にようやく状況を思い出す。少し笑いを含んだ声の、混ぜられた吐息にすら感じたのか、手中で陰茎が僅かに硬度を増した。
ジャックは気づいただろうか。
「よく見えんな」
この言葉を信じるなら、気づかれていないのだろう。しかし下された台詞は安堵には程遠いものだった。
「膝を立てて足を開け。俺に見せずに一人で楽しむつもりか?」
「……っ!」
鬼柳はきゅっと唇を噛む。
ジャックに請われた上で行為に及んでいるのだから、そのジャックに見せなければ意味がない。理屈としては正しいのだが、感情も理性もついてこない。ただジャックだけが状況を楽しんでいる。ジャックだけは、着衣も呼吸も乱さずに、鬼柳の動向を観察している。
逡巡の末、鬼柳はのろのろと膝を立てた。言われるがままに立てた膝を左右に開く。憚るものもなくジャックの視線に晒された陰茎がまた少し角度を増した。
鬼柳はといえば、ジャックの視線から顔を逸らして震えている。
いつも通りのセックスであればこんなことはありえない。詰る視線だろうが、蔑みの言葉だろうが、鬼柳はジャックから与えられるものであれば真っ直ぐに受け止める。
なのに今日は。おかしい。
「ふ……」
只管、手を動かす。
この時間はいつまで続くのか、ジャックが満足するまで、だろうけれど、それはつまり自分が射精すれば終わりなのだろうか。
どこか焦り始めた思考に、ジャックが追い打ちをかける。
「幼い。拙いな、鬼柳。俺への愛撫程度にやってみせろ」
ジャックへの愛撫程度に、などと言われても。己が快感を得るよりも、ジャックへの奉仕に手慣れた鬼柳にはどだい無理な話だ。ジャックはきっと、分かっていて言っている。
絡みつくジャックの視線が質量すら伴っているように思えて、鬼柳は左右に首を振った。もちろん振り払えるわけもない。は、と息を吐く。
もう終わりにしていつも通りジャックに抱かれたい。
ぐちゃぐちゃになる頭の中をただその思考だけが埋め尽くすが、擦るだけの単調な動きで達することなどできない。人並みの自慰よりも、ジャックに貫かれる快感を覚えた身体では尚更だった。
もう一つ悪いことに、ジャックに抱かれたいと思った瞬間から、前よりも後ろが強く疼き始める。
「ぁ……う、あっ」
腰が跳ねる。陰茎と掌の摩擦に、ささやかに水音が混じる。先走りが肉を伝う感覚にひくりと後孔が疼いたのは錯覚だと思いたい。そうでなければジャックに全て見られていることになる。
ジャックは何も言わない。達するまでには足りない、緩やかな刺激に身悶える鬼柳をじっと見ている。ジャックの太く長い陰茎に貫かれる快感を知っている身体が、鬼柳の意思を置いて暴れ始める。
左手で幹を擦り、右手で双球を揉み込む。揉み込む動作に混ぜて、中指をそろりと伸ばす。
「ふうっ……」
爪先が会陰をなぞる感覚に跳ね上がりそうになるが、辛うじてジャックには知られたくないと堪える。陰嚢をくすぐる動作に見えていればいい、伸ばした中指が入り込む動作には、気づかれたくない。
「アっ」
中指の先がほんの僅か埋まる。普段はもっとずっと大きなものを受け入れているくせに、押し出すような抵抗があった。
無理矢理進めれば指先は肉を割り、第二関節辺りまで埋まった。後孔が指を締め付ける感覚に、手中の陰茎が跳ねる。勝手に逸れていく背筋を正すことができず、鬼柳は強く目を閉じた。
「鬼柳」
ぞくりと、肌が粟立った。
低く響く王者の声が、吐息が、鬼柳の耳を掠める。ばちりと目を開けば、少し離れて静観していたはずのジャックの顔が眼前にあった。
反射的に鬼柳の膝が閉じられる。もちろんジャックが許すはずもなく、閉じられる前に膝を割り入れられ無理から開かされた。指を押し込めた後孔まで余すところなく晒される。鬼柳の耳元でジャックの喉が、くつくつと鳴った。
「――浅ましいな」
王者の睥睨が何に対してのものかなど、視線を辿らずとも分かる。
「あ……う、ぁ……!」
ぼろり。鬼柳の目の端から、涙が零れ落ちた。
侮蔑の言葉に心臓が縮み上がる。そんな感覚を覚えたのに、性器を擦り排泄器官を抉る手は何故か加速する。乖離していく感情と肉体が酷く辛い。鬼柳は体裁も何もかもを放り投げ、いやいやと首を振った。汗で湿った髪が振り乱されて頬を打つ。
「ぃ、やッ……ジャック、じゃっくぅ……!」
「何がだ?」
「もっ……あァ、んっ、こんな、の……やっ、ああ!」
滅茶苦茶に陰茎を擦って、時々尿道に爪を立てる。後ろを抉る指はもっと酷くて、一気に二本を増やした。伝い落ちた先走りだけでは潤いも足りず、無理に突き入れられた三本の指に穴がぎちぎちと軋む。どれが錯覚で、どれがジャックの望んだ行為なのか。もう何も分からない。
ただ、浅ましいと謗る声が、鬼柳の心と肉を波打たせる。
「ご、めんなさッ……ア、も、ゆるして……!」
そうだ、こんな、こんなことは浅ましい。
快感も質量も足りなくて、ジャックではないものを自ら突っ込んで腰を振って。ジャックの前で、自分の絶頂だけを追い求めている。ただ自分を哀れんでいるようで、頬を滑る涙すら不快だった。
もう終わりにして欲しい。己を高めることに必死な手ではジャックに縋りつくこともできず、鬼柳はただ唇を戦慄かせて王者の赦しを請うた。
「ならば」
涙に滲んだ視界の向こうでジャックが笑う。震える鬼柳の顎を掴んでついと持ち上げ、唇で薄い三日月を描いてみせる。
「イッてみせろ」
「ぁあ……は、あッ――……!!」
王者の声が、ぞろりと鬼柳の耳に、入り込む。
その低く甘く、熱に掠れた声に、鬼柳の後孔がきゅうっと窄まった。肉壁が中の指を締め上げて、擦れて、堪らない。
この肉がいつもジャックの性器を咥えているのだと自覚した瞬間、爪先で抉られていた尿道が精液を噴き出した。じわりと滲んで開放された白濁は、飛び散ることなく手のひらと陰茎を伝い落ちる。内腿が、背筋が、逸らした喉が、ぴんと張り詰めて弛緩した。
「ようやく達したか」
クッションに沈んでいく鬼柳の背中を、ジャックが掬い上げた。触れられた身体に安堵を覚え、鬼柳はそっとジャックを見上げた。最初から最後まで、一人だけ楽しんでいた酷い男の顔だ。
悪態のひとつやふたつつきたいところだが、生憎と乱れた呼吸と疲労感がそれを許さなかった。今の鬼柳では睨みつけることもできないだろう。瞬きで目尻に溜まった涙をひたすら追い散らすぐらいが関の山だ。
「貴様は自慰もしたことがないのか」
相変わらず責めの体を取った揶揄の言葉。呼吸の隙間を縫って鬼柳は返す。
「お前がっ……いる、のに、そんなこと……」
「だろうな。そんな余裕があるのなら、俺も考えを改めねばならんところだ」
もしも改めたらどうなるのか、など。考えたくもない。
鬼柳はゆるく頭を振って、ジャックの腕の中で収まりのいいところを探し始める。一人で達しただけにしてはやたらと重くのしかかる疲労感を宥めすかして身を捩れば、珍しくジャックの方から膝の間に引き上げてくれた。
ほうと息を吐いて、鬼柳は脱力する。安堵の中、まだジャックが着ている服が邪魔だと思う。臀部に当たる硬いものも、少し。
「っあ」
驚いて鬼柳が身を震わせれば、薄い尻を抉るようにそれは寄せられる。ジャックはまた擽るような声で鬼柳の耳に唇を寄せる。
「……どうして欲しい、鬼柳」
その声が、欲情に濡れているような気すらした。
随分な目に遭ったが、見ていただけのジャックもちゃんと感じてくれていた。鬼柳が自分自身で与え、浅ましく享受していただけの行為に。
台詞こそ鬼柳に求めさせるものだが、ジャックがどうしたいかは鬼柳にもちゃんと伝わっている。何より鬼柳自身、慣れない行為の中最後まで求めていたものだ。
「一人じゃ、満足できない。ジャックに……抱いて欲しい」
両手は汚れているので、唇だけ、ジャックの頬に寄せる。
頷いたジャックの髪が首筋を掠めてこそばゆい。鬼柳がそっと瞼を下ろせば、そのまま柔らかく押し倒された。
こんな疲労感を抱えたままジャックを受け入れて、明日の朝はどうなるのだろうか。そもそもどうしてジャックは鬼柳に自慰を強いたのか、何かそうさせるようなものがあっただろうか。取り留めもない疑問は頭の片隅に押しやって、鬼柳はジャックに身を委ねた。
- 2013.7.22
戻