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ロッシュの限界

 小さく体を丸めて、しゃがみ込む自分が見える。
 やわらかい春の日差しの下、丘の上の公園。青々とした植え込みの陰で、息を潜めるようにして。けれどくすぐるような笑みは抑え切れずに、吐息に混じってこぼれ落ちる。
 確か、かくれんぼをしていたのだ。
 他の子たちの面倒を見ることが多かったから、必然的に自分は鬼ばかりやっていた。だからこうして隠れていることが楽しくて仕方がなかった。
 どれぐらいそうしてしゃがみ込んでいただろうか。植え込みを掻き分ける音に顔を上げた。自分の代わりに鬼役だったのは、珍しく遊びに参加していた彼だった。だからいっそう嬉しくて、わくわくしながら顔を上げた。そして綻んでいた顔は、そのまま固まった。
 知らない大人の、男の人がいた。自分を見下ろす視線が、なぜだかすごく気持ち悪かった。
 どうしたらいいのか分からなかった。困惑してしゃがみ込んでいる自分に向かって伸ばされた手。その手が大きな影になって、覆い被さってくる。着ていたシャツが耳障りな音を立てて、裂けて、


「――ッ!」
 身の毛のよだつ感覚に、鬼柳は飛び起きた。
 ちかちかと目を差す光。反射的に目を閉じれば、ぎゅっと寄せられた眉間を汗が流れ伝う。不快感に耐えゆっくりと目を開けば、睫毛の上で汗が弾けた。
「……ゆ、め」
 夢だ。声に出してしまえば、流れて溶けてしまうほどに頼りない、ただの夢。あの時から何度も繰り返し見る、夢のかたちをした過去の追体験だ。
 自分の身にかつて起こった、過ぎ去った日の現実。
 鬼柳は左右に頭を振る。髪の生え際に汗がじわりと滲む。手の甲で拭って、視界を満たす光を見上げた。薄く埃の積もったブラインドから差し込む朝日は煩わしいが、先ほどまで見ていたものが夢だと実感させてくれるのはありがたい。
 あれは現実だったが、今ではない。過去だ。今は春の昼下がりではなく初夏の朝だし、鬼柳は植え込みの陰ではなくパイプベッドの上にいる。今は朝で、ベッドの上なのだ。
「あ」
 今は、朝だ。
 一気に覚醒する思考にさあっと血の気の引く感覚。記憶が確かならば今日はごく普通の平日のはず。鬼柳が慌てて枕元の携帯電話を覗き込めば、液晶画面はいつもならとうに家を出ている時間を告げてきた。
 確認してからは何かを考える余裕もない。鬼柳は慌ててベッドを飛び降り、壁にかけてある制服へと着替える。べたりとまとわりつく寝汗が不快だが、シャワーを浴びている時間など当然ない。シャツのボタンを留めるのももどかしく通学カバンを肩に引っ掛ける。かろうじて顔だけは家を飛び出す前に洗って行った。
 この1Kの部屋には鬼柳しか住んでいない。もちろん戸締りも自己責任だ。もつれる指先で玄関のドアに施錠し、アパートの階段を駆け下りる。
 最後の一段を下りたところで、視界に鮮やかな金が飛び込んできた。眩しさに目を眇めれば、駆け下りてきた鬼柳に気づいて向き直る影。
 ほんの少し憤りを乗せて鬼柳を射抜く視線は、あの時、鬼柳を見つけてくれるはずだった鬼のもの。
「遅いぞ、鬼柳」
「すまない……おはよう、ジャック」
 朝一番だろうと関係のない鋭いジャックの声に、鬼柳はわずかに俯いた。
 寝過ごすのも遅刻をするのも、もちろんいけないことだ。だが鬼柳は自分の成績表にマイナスがつくことよりも、毎朝待ち合わせて一緒に通学する幼馴染を待たせてしまうことを一番恐れている。
 そろりと顔を上げれば、ジャックは鬼柳の頭のてっぺんから爪先までをじろじろと眺めている。幾度か上下に往復した末、筋張った白い手が鬼柳の胸元に伸ばされた。指先は触れる直前、白いシャツを掠める程度の位置で制止する。
「いい歳をして掛け違えるな。みっともない」
 言われて見下ろせば、いくつかボタンを掛け違えている。恥じ入りながらボタンを留め直す鬼柳を置いて、ジャックはさっさと歩き出した。慌ててその背を追う。
「寝過ごしたのか」
「う……少し――いや、俺の怠慢だ」
 舌先に乗りかけた夢の話を、鬼柳は喉の奥へと転がした。
 鬼柳とジャックは、片手で数えられる程度の歳から中学まで、同じ屋根の下で暮らしていた。今日の夢はまさしくその当時に起こったことだ。女々しく夢に見ては飛び起きる姿など、ジャックには何度となく目撃されている。布団を並べて寝ていたのだから当然だ。
 だから、夢見が悪かった、などと口にしてはいけない。ジャックには分かってしまう。ジャックを、縛ってしまう。
 きっと口にしなくても態度で知られてしまっているのだろうけれど。隠し事などまるで通じない紫の瞳がこちらを振り返っていることに気づき、鬼柳は無理矢理話題の修正を図った。
「本当にすまない。わざわざアパートの前まで越させてしまって」
「謝罪の言葉を口にするよりも生活態度を改めろ。今度こそ栄養失調で倒れたのかと思ったぞ」
 本来の待ち合わせ場所は鬼柳の住まうアパートではなく、ここから徒歩で十分ほどかかる駅だ。ジャックは駅を挟んで鬼柳とは反対方向から来ているのだから、実に無駄なとんぼ返りをさせたことになる。
 だがそんな朝の余剰な往復よりも、ジャックは鬼柳の生活態度が気に食わないらしい。生来の少食も後天的な寝の浅さも知られて久しい仲だ。鬼柳は引きつった笑みを浮かべた。起き抜けのまま飛び出して朝食どころか水分の一滴も摂っていないことは黙っておく。
 傍から見ると不自然な、本人たちにとっては慣れ切ってしまった奇妙な距離感と沈黙を保ったまま、只管歩き続ける。やがて駅に近づくにつれて増える、同じ制服を纏った学生たちの姿を認め、ジャックが小さく舌を打った。
 鬼柳とジャックが普段駅で待ち合わせる時間は、本当は通学にはずっと早い時間だ。自分たち以外の学生など数えるほどしか見かけない。今この時間は鬼柳が寝過ごして遅れてしまったものの、本来遅刻の心配など必要のない、むしろ一番通学・通勤に適した時間帯らしく、電車に乗るとまず間違いなく満員となっている。
「混むな」
 いつもの時間なら誰かにぶつかる心配もないし、運が良ければシートに座ることもできるのに。ジャックの呟きにまた謝ろうとして、思いとどまる。代わりに鬼柳はそっと唇を噛んだ。
 本当は、こんなことは必要ない。早い時間の電車に乗る必要も、そもそもジャックと一緒に通学する必要も。
 謝りたいのは寝過ごしたことなんかではなく。ジャックの後ろにくっついて、乗車カードで改札を抜ける。ホームに入れば分刻みで運行する電車がちょうど到着したところで、降車と乗車のために人の波がさざめいている。
 鉄の箱に乗り込む流れに従いながらも、前をゆくジャックは確固とした動きで人を掻き分けてゆく。ひとつ頭抜けた金髪を見失わないように鬼柳は黙って後ろに続く。こうやって乗車する度に、ジャックは一体どんなマジックを使っているのかと不思議に思う。甲高い音とともに電車のドアが閉まれば、鬼柳は誰かにぶつかることもなく、ドアとジャックの隙間に収まっているのだ。
 ガタリと揺れて電車が動き出す。鬼柳はドアに背中を預けて自分の爪先を見つめた。ジャックの顔を見ることなどできないからだ。満員電車に乗る時は、いつもこういう形になる。
 誰にも触れることのないように誘導されて、誰かに触れられることのないようにジャックとドアの間に立たされている。これではまるで過保護な彼氏と、庇護されるばかりの可憐な恋人のようだ。
 鬼柳が初めてそう気づいた時は、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。しかしそんな甘酸っぱくしょっぱい羞恥は、すぐに罪悪感へと変わって鬼柳の腹の底に転がった。
 恋人などとんでもない。ジャックの行動には、そんな存在とは決定的に異なるものがある。
 鬼柳はそっと視線を上げた。顔の横では、鬼柳を覆い隠すようにジャックがドアに腕を突いている。これが恋人なら、ほんの少しの乗車時間を惜しむように、相手の髪にでも触れているのだろう。
 ジャックは決してそんなことはしない。例え髪の一筋だろうと鬼柳に触れないように常に気を張っている。満員電車の中でも、道を歩いている時でも、ずっと。
 電車がまた大きく揺れた。きっと運転士が不測の事態に急ブレーキをかけたって、ジャックは決して鬼柳に触れないのだろう。誰にも触れさせないという彼の意思には、ジャック自身も含まれている。
 本当に謝りたいのは、こういうことだ。
 今朝も罪悪感と、何か、切なさみたいなものが、鬼柳の心臓を締めつける。苦しさに鬼柳はまた視線を落とした。
 まだこの電車を降りることはできない。


 ジャックと別れるのは下駄箱前の廊下だ。学年は同じだがクラスが違うので、あとは放課後までそれぞれの時間を過ごせる。たぶん、お互いに安息の時間。ジャックは鬼柳のためにピリピリする必要がないし、鬼柳はジャックを自分から解放させていられる。
 そっと息を吐く。同時に、ジャックの声が聞こえて、ほんの少しどきりとした。
「今日の放課後は野暮用がある」
「野暮用って……生徒会の集まりだろう」
 ジャックは養父の教育方針に従って生徒会に籍を置いている。なお付け足すならジャックは生徒会長なのだが、本人がまったく乗り気でないためこの物言いだ。それでも毎週朝礼でジャックがマイクの前に立つ度に女子生徒たちは色めき立つのだから、一定層からの人気はあるのだろう。
 他人のために何かしようというタイプではないが、ジャックは生来人目を引く華やかさとカリスマ性を持っている。いつも傍にいながらこんな話はしたことがないけれど、さぞかしモテるだろう。そんなジャックを、鬼柳はずっと縛りつけている。
「鬼柳」
 後ろ向きで物思いに沈みがちなのは、自分の悪い癖だ。ジャックはやはり分かっている顔で鬼柳を見下ろしている。
「あまり遅くはならない。自分の教室で待っていろ」
 帰りの話だ。行きだろうと帰りだろうと、電車に乗る鬼柳の傍らには必ずジャックがいる。
「分かった」
 こくりと頷いてみせればジャックも鷹揚に頷く。そのままさっさと歩き出すが、今度は焦って着いていく必要はない。他の生徒たちに紛れても目立つ後ろ姿を見送ってから、鬼柳も自分の教室へ向かう。階段を登って廊下を進み、開けっ放しの扉をくぐる。
 まばらに声をかけてくる級友に適当に挨拶を返しながら、窓際の自分の席に辿り着く。
「おはよう、鬼柳」
「……おはよう、不動」
 最後に声をかけてきたのは後ろの席の不動遊星だった。
 下らない雑談や昼食を共にするぐらいならともかく、放課後や休日を誰かと過ごすような仲のいい友人はクラスにいない。不動遊星もその一人だ。ただ不動は他の級友と違って物静かで、品のない話や余計な詮索はしない。そこは少し好ましく思っている。
 不動は挨拶の後、じっと鬼柳を見つめていた。物問いたげな視線に首を傾げるが、不動は鬼柳の仕草を見る前に視線を手元の雑誌に落とした。鬼柳も追求する気はなく、椅子に腰を下ろす。
 今日の放課後は、少し時間を潰さなければならない。
 窓の外、登校してくる生徒たちを眺めながら、ジャックの視線を思い出す。
 命令口調でジャックは鬼柳の行動を縛ってくる。けれどジャックにそうさせているのは自分だ。放課後までの短い時間、形ばかり自由なその時間にも、罪悪感は鬼柳の背後に寄り添っている。


 植え込みの陰で震えている。ひく、ひぐっ、と引き攣るように喉が鳴り、まだ喉仏もできていない細い首が跳ねている。首から下に視線を滑らせれば、赤い擦り傷や青い痣が浮かぶ体に、ちぎれたシャツの切れ端が引っかかっている。
 視線を滑らせているのは、ジャックだった。
 今よりはやわらかい瞳が、ガラス球のように丸く見開かれている。ジャックは乱れた幼馴染の姿を見て何を思っただろう。スニーカーが音を立てて砂利の上を後退った。
 鬼柳はうずくまる自分を見下ろし、立ち尽くすジャックを眺める。
 たぶんジャックは、自分が鬼柳を見つけるのが遅くなってしまったせいでこんなことになったのだと、ずっと思っている。ジャックは他人に対して責任を負うような性格ではないけれど、常に高潔であろうとする姿勢だけは変わらない。だから自分の目が行き届かなかったばかりに起きたこの事態は、つまり鬼柳は、きっとジャックにとって汚点のようなものなのだ。
 ジャックが唇を引き結ぶ。意を決したように一歩踏み出す。
『……鬼柳』
 砂利が擦れる音が、ジャックの声に被さる。
 震える指先が静かに伸ばされて――触れる前に、びくりと、ちいさな鬼柳の体が跳ねた。同時に剥き出しのふくらはぎを、白いものがどろりと伝った。
 弾かれたようにジャックは手を引っ込める。届かなかった手のひらを見下ろし、ぶるぶると震え続ける幼馴染と見比べている。
 あの時、ジャックの手を受け入れることができていれば。
 自分はジャックを、自分に触れるものを拒絶してしまった。
 実際あれからしばらくは他人が、特に大人の男の人が怖くて怖くて仕方がなかった。率先して他の子たちの先頭に立っていた自分が急に大人しく、人のいないところを好むようになって、他の子たちも施設の先生も、ジャック以外の皆が不思議がっていた。あれからだ、他の子たちが鬼柳ではなくジャックを自分たちのまとめ役だと見なすようになったのは。
 そしてジャックが、鬼柳が誰かに触れられることのないよう、常に気を張り始めたのは。
 気にしなくてもいいのに。決してジャックのせいではないのに。
 すぐに逃げなかった自分が悪いのだ。あのかくれんぼで鬼だったジャックが、どうして鬼柳を見つけるのが遅くなってしまったかだって、鬼柳はちゃんと知っている。一緒に遊んでいたもっと小さな子どもが体調を崩してしまって、ジャックはその子を背負い一度施設まで戻ったのだ。たぶん、鬼柳なら少しばかり遅くなっても大丈夫だと信じて。
 鬼柳はちゃんと分かっている。なのに、この歳になってもまだ、あの時のことは気にしなくていいと伝えられずにいる。そうしてジャックを縛っている。


 ふっと意識が浮上する。うっすらと開いた瞼に、赤い夕陽が眩しい。
 光に慣らすようにそっと目を開ける。きらきらと埃の舞う教室には鬼柳一人しかいない。黒板の上にかかった時計を見れば、最後の記憶と二時間ほどのずれがあった。ジャックを待っている間に眠ってしまったらしい。
 あくびを噛み殺して、先ほどまで頭を預けていたカバンに顎を乗せる。がらがらと音を立てて教室の扉が開いたのはその時だった。ジャックだろうかと視線を転じれば、そこにはもっと特徴的なシルエットが立っていた。
「――鬼柳?」
 後ろの席の級友だ。不動、と呟くように名前を呼ぶ。
「珍しいな、こんな時間までいるなんて」
「……人を、待ってるんだ。不動は?」
「部活が終わって帰るところだ。課題を机に入れっぱなしだったから、取りに来た」
 あまり踏み込まれたくはない。そう思って鬼柳は質問で返した。
 しかし不動は気づいているのかいないのか、予想外に踏み込んできた。西日に目を細めてから、ゆっくりと自分の席の方へと歩み寄る。
「鬼柳は、ジャックを待っているのか?」
「……どうして」
「よく一緒にいるだろう。今朝、俺の席から並んで登校してくるのが見えた」
 よく一緒にいる。第三者にはそう思われているのだろうか。
 鬼柳としては目立たないように行動しているつもりなのだが、やはりジャックの姿はそれだけで人目を引くのだろう。こんなところでも自分はジャックを縛っているのかと鬼柳は俯き、続く言葉に顔を上げた。
「仲がいいんだな」
「え」
「……? 違うのか? ジャックも鬼柳も、普段より柔らかい表情をしていたから」
 仲がいい? 柔らかい表情?
 普段は誰に対しても尊大なジャックが、普通に会話をし――少々歪ではあるが、気を遣う相手、という意味では、確かに鬼柳はジャックの特別だ。あのジャックと一緒に歩いているというだけで仲のいい友人に見えるのかもしれない。
 けれどそれは仲がいいとか友人とかではなくて、過失とか義務とか、そういったもので成り立っている関係だ。鬼柳はそう考えている。もちろん鬼柳とジャックの本当の関係なんて誰も知らないのだから、勘違いはあるだろう。
 だが、ジャックも鬼柳も柔らかい表情をしている、とは?
 考えてみるが、鬼柳はいつもジャックの後ろで俯いているばかりだ。だからジャックの表情をちゃんと見ていない。過去の経験と声の調子から、漠然と憤っているのだろうと思っていた。これだけ鬼柳に実生活を縛られているのだから当然だ。当然だろう。
 ちがうのだろうか。
 それに自分だって、きっと強張った顔を隠せずにいる。柔らかい、とは、真逆の心情にいるのだから。
「鬼柳?」
「あ、」
 不動が、鬼柳の席の傍に立っている。反射的に見上げれば不動は目を丸く見開いて、怪訝そうに眉を顰めた。
「泣いているのか?」
「ち、がっ――」
 問われて目元に指先をやれば、ひたりと濡れた感触。夢を見ながら泣いていたのだろうか、それとも。
 自覚した途端、ぼろりと唐突に水が零れ落ちた。意思とは関係なくだ。現に鬼柳自身、栓の壊れた蛇口のようにぼたぼたと落下する水に驚いている。対面に立つ不動も相当驚いたのだろう。
「す、すまない、大丈夫か鬼柳?」
 慌てた様子で、恐らく咄嗟に伸ばされただろう級友の手のひら。
 好意しかないはずのそれがほんの一瞬違うものに見えて、鬼柳は思わず身を引いてしまった。ひっと喉奥から搾り出された声がせめて不動に聞こえていなければいい。いや、聞こえていないだろう。
 突然割って入った大音声があった。鬼柳の鼓膜を強く打つ、酷く聞き慣れた声。
「鬼柳!!
「ジャッ――やっ、め、ジャック!!
 ジャックの声だった。振り向けば明らかに激昂した様子でジャックがこちらに向かってきている。幼馴染の視線の先にいるのが不動だと、そして右の拳が振り上げられていると気づいて、鬼柳は慌てて級友とジャックの間に割って入った。
 こんな時でも、鬼柳はジャックに縋りついて止めることができない。
 情けなさとすぐに訪れるだろう衝撃にぎゅっと目を瞑る。目端を溢れっぱなしの涙が滑り落ちる。
 ただ、こんな時でも、という言葉はジャックにも当てはまったらしい。繰り出された拳は鬼柳に届く寸でのところでびたりと止まった。代わりにぎしりと奥歯を噛み締める音が鬼柳の上に落ちてくる。
「ッどういうことだ、鬼柳!」
「ち、が……ジャック、これはっ……おれ、が、勝手に」
 たぶん、ジャックは鬼柳が不動に何かされたと思ったのだろう。そうでなくても、不動が鬼柳に触れようとする姿勢に思うところもあったに違いない。
 ただ、鬼柳には状況が説明できない。流れる涙はジャックの挙動がどこかの琴線に触れでもしたのか、更に勢いを増している。せめて何かと説明しなければと開いた唇は、喘ぐように戦慄いて役に立たない。
「鬼柳――ジャック、俺が、」
「貴様には聞いていない! 来い、鬼柳!」
 まともに喋れない鬼柳の代わりに不動が口を開いたが、ジャックは一喝して退けた。そのまま視線と声で鬼柳に命じ、大股に教室を出て行く。迫り上がる衝動を飲み込んで、鬼柳はカバンを掴んだ。なぜか震えている指先に力を込める。早くジャックを追わなければ。
「すま、ない、不動……また明日、にっ」
「あ、ああ。俺の方こそ、すまない」
 気をつけて、と付け足された声には頷くだけで返した。不動はさぞかし驚いたことだろう。だが謝罪する時間はないし、まともに喋れる自信もない。今はただと、ジャックを追いかける。たぶん、また、怒らせてしまった。
 もつれそうになる足を急がせて、ジャックには昇降口で追いついた。ジャックが待ってくれていた、というのが正しい。既に靴を履き替えたジャックは視線で鬼柳を促している。促されるまま、鬼柳も慌ててスニーカーに履き替える。
「拭け」
 ジャックの傍に小走りで寄れば、フェイスタオルが鼻先に突き出された。
 自分が酷い顔をしている自覚はある。鬼柳は素直に受け取り、タオルに顔を埋めた。どこか嗅ぎ慣れたジャックの臭いになぜかまた涙がこぼれる。落ちる間もなくタオル地に吸い込まれた。
 ごしごしと目元を擦って、ようやく落ち着いた頃合いになってそっとジャックを窺う。
「……何があった」
 ゆっくりとガラスのドアの方へ踵を返しながら。こんなところで面と向かっていては話しづらいからというジャックの配慮は鬼柳にも分かった。心なしいつもより距離を詰めて後ろに続く。
 何が、と問われても。具体的に何かがあったわけではない。
「ジャックを、教室で待っていたんだ……最初は課題をしながら、だったけど、すぐに終わって。いつの間にか、寝てしまって……起きたら、ちょうど不動が入ってきた。少し話をして、気がついたら……泣いてた」
「不動というのは、さっきの男か」
 頷いて、前をゆくジャックからは見えないだろうと付け足す。
「ただの、クラスメイトだ」
「何の話をしていた」
 ほんの一瞬、言葉に詰まった。ジャックのことを話していたとは伝えたくなかった。
「何をしてるんだ、と」
「それだけか」
「それだけだ」
 そこから無言。ジャックから話してくれなければ、鬼柳は黙っているしかない。今口を開けばきっと、言い訳みたいなものばかり並べ立ててしまう。沈黙を引きずって、町並みを横目に流すことしばし。
 ジャックが歩みを止める。駅前の横断歩道、信号は赤。交通量の多い大通りで待ち時間は長い。鬼柳とジャックの他に信号を待つ人影はなく、ジャックはゆっくりと鬼柳を振り返る。西日に伸びる影が大きく揺れた。
「何かされた訳ではないんだな」
 戸惑う。二人の関係がおかしくなってしまったあのかくれんぼ以来、誰かに何かをされたとか、そんな話は話題をぼかしてもしたことがない。ジャックが過剰といえるほどに鬼柳を他人の接触から遠ざけているのは、いわば暗黙の了解というか、偶然とか無意識の産物の結果として扱っていた。少なくとも、鬼柳の方は。ジャックも同じだと疑っていなかった。ジャックにとってはきっと人生の汚点のような出来事だ、とも。
 なのに、ジャックが自ら、こんな言い方をするなんて。
 考えすぎかもしれない。ジャックの言う“何か”とは喧嘩の類を指していてもおかしくないのだ。けれど二人の間でこんな言い方をすれば、あの時に繋がる行為を指しているとしか思えない。
「……触られては、いない」
 考えた末に、鬼柳も今まで避けていた言葉で返す。
 初夏の夕暮れに溶ける夕日が、瞬きほどの時間、春の日差しを連れ戻した。擦り傷と痣の残る体を抱えてうずくまっている。錯覚は歩行可能を知らせる電子音にすぐに霧散した。
 鳥の声を模した音にも、ジャックの声はよく通る。そうか、という平坦な声と、横断歩道へと踏み出すジャックの背に、鬼柳は追求が終わったことを知った。
「明日、不動に謝らないと」
 これはジャックを怒らせるだろうか。少し図るような気持ちで呟く。
 返ってきた台詞は、いつものジャックのものだった。
「俺は謝らんぞ」
「分かってるよ」
 傲岸な背中に見つからないよう、そっと嘆息する。
 不動に殴りかかろうとしたのはジャックだし、率直な言い方をすれば早とちりをしたのもジャックだ。すべて鬼柳のための行動だから嬉しいとすら思うのだけれど、ジャックが素直に謝ってくれれば早いのにと思ってしまうのも仕方がない。そもそも鬼柳が間に合わなければ生徒会長が他の生徒を殴ったという図式が成立していたわけで、それはとてもまずいことにだったのではないかと今更背筋が寒くなる。
 不動にどう顛末を伝えてどう謝ればいいのか。相手は鬼柳とジャックが仲のいい友人だと思っているのだ。余計にややこしい。
 悩みながらも前のジャックの動きをなぞり、乗車カードを取り出して改札を通り抜ける。朝は通勤通学ラッシュの恩恵を受けたが、今はまだ帰宅ラッシュには早い。乗り換えの関係もあり、朝よりずっとホームの人影は少なかった。電車を待ちながら、鬼柳はふと気がついてジャックへ声をかける。
「タオル、」
「持たされていただけだ。好きに処理しろ」
「……洗って返すな」
 返答はにべもない。両手で持ったタオルで、もう乾いた目元をそっと拭うふりをする。柔軟剤の利いたふかふかのタオル。昔から隣にいたからだろうか、ほのかなジャックの匂いがすごく落ち着く。好きに、という言葉をそまま受け取って、貰ってしまおうかと思うぐらいには。
 自分はずっと、ジャックを縛っている。さっきだって、鬼柳のせいでジャックが何らかの処分を受けることになっていたかもしれないのだ。澱のような罪悪感はきっと、あの春の話をすることができるようになるまで、一方的に積もっていくだけだろう。
 でも、ジャックといて安心するのも事実だ。あのかくれんぼがなかったら、ここまでジャックという存在に安堵を覚えることもなかったのだろうか。こんな気持ちは知らないままのほうがよかったのだろうか。今となっては分からない。
 ――普段より柔らかい表情をしていたから。
 結局有耶無耶になってしまった、不動の台詞を思い出す。彼は目が悪いのだろうかと思わず疑った一言だが、案外真実なのかもしれない。ジャックはきっと違うだろうけれど、鬼柳は罪悪感を掻き分けた先に、こんなにも温かい感情を持っている。本当はもっとずっと幼い頃から、胸の内に秘めていたものを。
 遠くから高い摩擦音を響かせて、ようやく目的の電車が到着する。ブレーキ音に紛れて聞こえなければ、それでいい。「ジャック」囁く声で名前を呼ぶ。
 乗車するべく一歩を踏み出したジャックは耳ざとく鬼柳を振り返る。心臓が跳ね上がる。
 ずっと二人の間に横たわっていた暗黙が、ほんの少し欠け落ちた今なら。いつもは俯いてしまう顔を真っ直ぐにジャックへと向けて、鬼柳は言えずにいた言葉のひとつを初めて口にする。
「ありがとう」
「――――」
 停止した電車のドアが開く音。背後で流れるアナウンス。ジャックがわずかに口を開いたものの、何か答えがあったのか、それとも言いさしてやめたのか、鬼柳にジャックの声は聞こえなかった。
 聞き返す間もなく、ジャックの白いシャツが視界を覆う。いつも通り先に立って電車に乗り込む背中を小走りに追いかける。朝と違って余裕のある車内では、誰もいないシートが客の着席を待っていた。ジャックは迷いなくシートに腰を下ろし、隣へちらりと視線を転じる。無言で促されるまま、鬼柳もシートに身を預けた。同時にドアが閉まり電車が動き出す。
「鬼柳」
 ジャックは背中をシートに預けて、目を閉じている。
「着いたら起こせ」
 乗車時間は二十分ほど。眠るには短いが、ジャックの姿勢は疑問も他の話題もこれ以上は御免だと暗に告げている。
 鬼柳の言葉に、ジャックは何を思ったのだろうか。もう聞き出すすべのない疑問に鬼柳はひとり苦笑した。謝罪をするぐらいなら改善しろ、というスタンスのジャックだ。感謝の言葉も同様だろうか。それとも鬼柳のひとりよがりのような、滑稽なものに聞こえただろうか。ジャックをずっと縛りつけている鬼柳の言葉なのだから、そちらのほうが正解かもしれない。
 例えそうだとしても、今日だけは。今だけは。
 目を閉じたジャックに悟られないよう、鬼柳はそろそろと幼馴染の方へ体を傾ける。制服のシャツ越しにジャックの熱が触れる位置でほうと息を吐く。じんわりと温かい。普段は決して触れないようにと気を張っているジャックに対して悪いだろうか、とも思ったが、迷惑ついでだと内心で開き直る。
 もう何年も遠ざかっている温もりを、ほんの少しでいいから感じたい。お互いの呪縛がどこか綻んだ今日だけはそうしたかった。
 いつか。知られないようにひそり、ではなく、電車に揺られる僅かな時間だけでなく、もっと長く。伸ばされる手のひらを恐れずに、ジャックと手を繋げる日が来るといい。またじわりと溢れてきた涙を鬼柳は瞳を閉ざして追い出した。





 幾度も繰り返された振動の末、静かに瞼を開く。
 控えめにクーラーの入れられた車内で、左肩だけがじんわりと温かい。耳元をくすぐる吐息に耳を澄ませることしばし。ジャックは極力体を揺らさないよう努め、己の左肩に視線をやった。
 すぐ目の前に、ことりと頭を預ける鬼柳がいる。
 長い睫毛に縁取られた瞳が開かれる気配はない。電車の振動も厭わず、一定のリズムで寝息を零している。鬼柳がジャックに身を預けてほんの五分程度。熟睡に至るには少しばかり早い。が、朝の様子からしてきっと今日も夢見が悪かったのだろう。そうでなければ、鬼柳がこんなに無防備に寄りかかってくることなどあるはずがない。
 施設で布団を並べていた頃は、鬼柳はもっと快活で人懐こい性格だった。暑苦しい、狭いと何度蹴り出そうが、根気よくジャックの布団に潜り込んできてくれたものだ。それが今や。
 あの春の日の、間延びした陽光を思い出す。植え込みの陰で嗚咽を堪える鬼柳。大丈夫かと声をかけるのもためらわれて、代わりに手を伸ばした。ちいさな体が余りにも大きく跳ねるものだから、思わず手を引いてしまった。
 あの時から鬼柳は大人を、ジャックを、過剰に避けて怯えるようになったのだ。人との触れ合いを好んでいた幼馴染の変化は、幼いジャックには衝撃だった。
 自分が鬼柳を後回しにしたばかりに、伸ばした手を引いてしまったばかりに。
 どれだけ悔やんだところで、あの事件はなかったことにはならない。
 ただ、ジャックはあの時から、鬼柳を誰にも触れさせたくないと思うようになった。
 先程の、鬼柳の教室でのことを思い返す。あの不動とかいう生徒が鬼柳に触れ、鬼柳を泣かせたのだと思うと頭に血が上った。鬼柳にかつて何があったのか知りもしない人間に触れさせてなるものかと、確かに思った。
 ジャックは自分の抱える独占欲めいたものを、初めて自覚したのだ。
 我ながら理不尽な思考だ。鬼柳に何があったかを知る人間は鬼柳本人と自分しかいない。つまり自分は心の奥底で、自分以外の誰も鬼柳に触れる権利などないと思っている。
 鬼柳は恐らく、ジャックすら恐れている。そんな鬼柳を独り善がりな感情で庇い、囲い、他人から引き離すような真似は本当はやめるべきだろう。荒療治だとしても鬼柳は他人との触れ合いによって過去の傷を癒されるべきだと、ジャック自身ずっと考えている。その他人が自分ではないことも。
 それでも。未だ眠り続ける鬼柳の顔を覗き込む。目元の赤は涙の名残だろうか。
 あの時引いてしまった手を伸ばし、鬼柳の目尻に触れる。瞼がわずかに震えたが、まだ目を覚ます気配はなかった。
 眠り続けていればいいとも、目を覚ませばいいとも思う。怯えさせたくはない。だが、ここで鬼柳が目覚めれば、この縛りつけ合う関係はきっと終わる。
 鬼柳を今度こそ守ってやりたい。自分だけのものにしたい。それは鬼柳のためにはならない。……せめてもう一度、鬼柳と目を合わせて触れ合いたい。
 思考はせめぎ合い渦巻くばかりだ。そしてジャックは結局、気づかれないよう鬼柳に触れることしかできない。いつかこの関係が終わることを願いながら、赤く染まった目の縁をなぞる。指先に宿る感情の名前はまだ知らない。
    2013.7.9(+12) x 2013.7.15
    (二人とも高校生の設定で
    片想いの相手に気付かれないように触れるジャ京
    http://shindanmaker.com/293935)