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バックトゥインフェルニティ
鬼柳は考えに考え抜いた末、首を傾げて呟いた。
「……おかしい。ルドガーがいる」
がっしりとした体躯に浅黒い肌。淡い金髪にマーカーのない頬と、何よりも薄氷色の虹彩が浮かぶ眼球は常人と同じ白。赤いラインに縁取られた怪しげなローブではなく、スーツに白衣を羽織っている。見覚えのある姿とは多少異なるが、かつて死した鬼柳を導いた男に相違ない。
しげしげと眺めれば、ルドガーはあからさまに溜め息をついた。それからつかつかと距離を詰めて鬼柳の眼前に立つ。なんだと訝るよりも先に頭頂部に衝撃が落ちてきた。
「あだっ!?」
「何をしている、貴様は」
白衣に不似合いなたくましい腕が手刀を作って構えられている。
あのルドガーがチョップ、と笑ってもよかった。けれどルドガーは鬼柳から笑う気力を削ぐほどに苦い顔をしている。なにより鬼柳自身が、ルドガーの言葉に酷く違和感を覚えてためらった。
痛む頭を擦りながら考える。随分長く伸びた自分の髪が、コート越しに腕に絡まる。
「……何、してたんだっけ?」
確か自分はいつも通り、町の住人から好意で提供された家で起きて、ニコの作った朝食をウエストと一緒に食べて、役場で仕事をしてラモンと昼食を食べて、午後は鉱山の方へ行って……おかしい、そこから先が思い出せない。
うんうんと首を捻っても、すとんと抜け落ちてしまったのか、まったく思い出せない。鉱山で採掘場に小屋を立てる仕事を手伝いに行って、それから、それから。……それから?
「やべえ、もうボケ始めてんのかな俺」
若いのに、と付け足したのは決してルドガーへの当てつけなどではない。
ないのだが何故かまた手刀が落ちてきた。
「いッ……ってーな! オッサンのせいで記憶飛んでるだろこれ! 絶対!」
「馬鹿も休み休み言え」
二度に渡る手刀は相当なものである。ルドガーはもともと科学者だったと聞いたが、何の冗談だといいたくなるほど逞しい体つきをしている。その腕は振り下ろされればかなりの重量と衝撃を生む。実に痛い。それはもう痛い。思わず目端に涙が浮かぶ程度には痛い。
理不尽な暴力にルドガーを睨みつけるが、また持ち上げれた腕に思わずぎくりとする。咄嗟に身を引くも間に合わず、そしてその鬼柳の行動は無駄だった。
「貴様は」
三度目にもたらされたのは痛みなどではない。ずっしりとした重みと温みが、存外と優しい動作で降ってくる。
ただし告げられた言葉は、手刀よりも遥かに厳しいものだった。
「死んだのだぞ」
鬼柳はピタリと動きを止める。
瞬きも、呼吸すらも、すべて止まったような。
「……あー」
無論、それは錯覚だろう。いや、死んだというなら瞬いて呼吸をしている、と思うほうが勘違いだろうか。
鬼柳は確かめるように息を吐く。塞き止められていた気流は、ハ、と苦く鳴る。頭の重みに抗うように顔を上げれば、相変わらずルドガーは神妙な表情を浮かべている。
「そっか、死んだのかあ……」
「……それだけか」
「もう三度目になるとなあ」
鬼柳は自身の記憶にあるだけで、既に二回は死を経験している。冷静に考えればどんなデタラメだと自分でも思うのだが、実際二度死んで二度蘇ったのだから仕方がない。とはいえ今回のように、死後の世界めいたところでその事実を突きつけられるのは初めての経験だ。
鬼柳は辺りを見回してみる。向い合って立つルドガーと自分、その他は星のない夜空のような黒。光のない闇。自分かルドガーが喋られなければ完全に無音で、なるほど死のイメージとはこんなものなのかもしれない、と思う。
何より一度死んで、今度こそ冥界に旅立ったと聞かされていたルドガーが生前の姿で目の前にいるのだ。現実ではないどこかであることには間違いないだろう。
「冥界ってこんなに何にもないのか? もっと蓮の花とか咲いて天使が飛び回っててもいいんじゃねーの?」
我ながらいろいろと混じっている気がする死生観である。とはいえ鬼柳の考える死後の世界だか天国だかはそんなイメージなのだ。それとも死後の世界、イコール天国という考えが驕りで、ここは地獄なのだろうか。
鬼柳の予測を裏付けるように、あるいはふざけるなといわんばかりに、ルドガーは重々しく答える。
「ただ死んだわけではない。貴様は、殺された」
「だよなあ」
あっさりと頷けば軽薄に聞こえたのか、ルドガーがまた腕を上げる。今度は振り下ろされるよりも先に避けることができた。慌ててフォローを入れる。
「違うって、ふざけてるんじゃなくてよ!」
「ほう」
「だからその腕下ろせって! ……折角アンタとアンタの弟が返してくれた人生で、俺はロクなことしなかったから」
ダークシグナーとしての罪を思い出し、死に場所を求めて彷徨った。その末に辿り着いた町で、鬼柳が重ねた勝利は五十連勝。生きては戻れないと囁かれる山に送った決闘者は五十人。その内の何人が過酷な労働で命を落としたのか、あるいは誰も死なずに山を出たのか、鬼柳は知らない。知ることが恐ろしかったし、周りが極力知らせないようにしていたからだ。
しかし、鬼柳が山に送ったことで人生を歪められたものが少なくとも五十人はいる、ということには違いない。鬼柳があの町に流れ着き、連れ戻すために遊星が訪れ、最終的にはセキュリティが介入した。逮捕された者も何人、何十人といるだろう。実際サティスファクションと名を改めた町で暮らしていて、闇討ちに遭ったり暴力を振るわれたことも何度もある。恨み事をぶつけられたことなど数えるのが馬鹿らしいほどだ。
鬼柳はそれらを受け入れ、幼い姉弟を見守り、町を復興させることを贖いとして生きていくと決めた。
けれどそれは本当に贖罪足りうるだろうか。鬼柳が生きるための免罪符でしかないのではないか?
「だから、誰かに殺されるとか……いい死に方はしないんじゃないかって、自分でも思ってた。アンタには、本当に悪いと思うんだけど」
そもそも一度目の死よりも前の時点で、鬼柳は大きな罪を犯している。
許す、許さないの基準を誰が定めるのかは知らない。けれど鬼柳自身がずっと、自分の生が許せないと思っていた。それが贖いと言われればそれまでだが。
「ああ、悪いな」
唐突に、酷くあっさりとした口調が鬼柳の思考を遮った。
誰が、と訝るまでもなく一人しかいない。
「貴様は生き続けることで裁かれる」
「は――」
「何よりも問題なのは、貴様が死ぬことで未来が大きく変わってしまう可能性があることだ」
ルドガーは何か、運命論めいたものを口にしているのだろうか。
鬼柳は眉間に皺を寄せるが、ルドガーは決して不確定な未来の話などしていないとすぐに知れた。いくつかの事象を鑑みた上で、起こりうる、いや、間違いなく訪れるだろう将来の話をしている。
「貴様の死に最も影響を受ける人物が誰か、分かるか」
「え……そりゃあ、ニコと、ウエストと……」
それから、もしかすると。
いや、過去はともかく、ここまできてそんなことはないだろう。鬼柳には鬼柳の人生があった。彼には彼の人生があって、その道はもう、絡み合うことはない。
鬼柳は思い浮かんだもう一人を、頭を振って否定した。
だがルドガーは、鬼柳の否定を根こそぎ否定するように首を振る。
「不動遊星」
「……ッ! ゆ、うせいは、そんな」
「貴様が真っ当に生き続けていれば、そのまま道は分かたれただろう。だがあの男の性格を、貴様は知っているだろう」
確かに遊星は、自身に関わる諸々を背負い込む質だ。罰されたいと心の奥底で思っていたことは鬼柳ですら知っている。
けれど遊星だって大人になったのだ。過剰に自分のせいだと思い込むことももうないだろうし、今回の鬼柳の死は遊星にはまるで関係がないはずだ。かつてのように遠因を辿って苦悩することもないだろう。
……ただ、ひとつだけ、そうではないと思える要素があるとすれば。
「何よりあの男が、貴様に寄せていた感情を知っているだろう」
「~~~~っっ!!」
顔に、頭に、血が上る。鬼柳は耐えかねてその場にしゃがみ込んだ。
そうだ、鬼柳は知っていた。知っていてそれは遊星のためにならないからと、知らないふりをした。本当は自分だって期待していたのに、その感情には蓋をしたのだ。
それを、それを、
「――ッんでアンタが知ってんだよ!?」
「照れるな、気色が悪い」
よりによってルドガーなどに指摘されなければならないのだ!
恐らく真剣な話をしていたはずだが、そんなことはすとんと抜け落ちる。鬼柳はその場で転げまわりたくなった。ルドガーが実に鬱陶しそうに目を細めているのも当然目に入らない。
自分と遊星がお互い胸に秘めていた青臭い感情を、ジャックでもクロウでも、ニコでもない、ルドガーに淡々と暴露されるこの羞恥。いつどのようにして知ったというのか、きっとサテライト時代から寄せられていて、それでも鬼柳が二回目の死の後、ようやく自覚したこの感情を! まさか鬼柳自身はまったく気づきもしなかったダークシグナーだった当時から悟られていたのだとしたら、
「うわああああ……死にてえ……」
「もう死んでいるだろう」
冷めたツッコミはもうやめてほしい。なんだか涙が出そうになる。
ありがたいことにルドガーはこれ以上の言及をやめたらしい。疲れた様子で溜め息を吐いて、いまだしゃがみ込む鬼柳に歩み寄った。
「とにかく、貴様の死で不動遊星が立ち直れないようなことがあっては困る。貴様の死自体はそれほどの問題ではないがな」
「……オイ、オッサン」
「だから」
さり気なくも酷い言われように思わず顔を上げれば、ルドガーは予想以上に近いところにいた。
威圧する白衣姿に素直に身を引けば、ルドガーの分厚い手のひらが突き出される。そのまま鬼柳コートの襟元を掴み――持ち上げた。
本当にどこかが科学者なのかと叫び出したくなるほどの膂力だが、宙吊りにされた鬼柳はそれどころではない。バタバタと手足を振ってみてもルドガーは微動だにしなかった。今までと変わらない淡々とした口調で鬼柳に告げる。
「やり直してこい」
「は、あ……ああああああ!?」
そのまま宙へ放り投げられた。
吸い込まれるように体が引かれる。引かれるままに視界と体がぐるんぐるん回る。全身がでたらめに伸び縮みするような、そんな感覚と気持ち悪さに鬼柳は目を瞑った。右腕がやたら熱いが、一度目を閉じてしまえば開いて確認することもままならない。
それきり鬼柳の意識は途切れた。
外では、雨が降っている。
そうか、雨が降っていたのかと、遊星は無感動に思った。この意味のない確認も何度目だろう。遊星は何時間もずっと、こんなことを繰り返している。
いつもは工具かカードが散らばっている作業台の上には、使い込まれた様子のデッキが一つ。デッキのカードたちは見るまでもなく、インフェルニティの名を戴くカードたち。それから真っ白いさらさらした布に包まれたちいさな箱がある。箱の中身は、
「…………」
遊星は長く息を吐く。肺の底で渦巻いていた腐った空気が流れ出していくような感覚。けれど吐き出しきれずに、膿んでわだかまる違和感。作業台の縁に額を擦りつけるようにして顔を伏せる。
何も見たくない。何も聴きたくない。何も考えたくない。
それでも使い込まれたデッキと白い包みは、遊星の瞼の裏に灼きついて離れない。どちらも手のひらの上に収まるちいさなものなのに、鉛のように重く沈み、思考を嫌でも引き戻してくれる。
このふたつが遊星たちのもとにもたらされたのは数時間前、いや、昨日だったか、それとも一昨日だっただろうか。それすらも定かではない。ただ、白い包みとデッキを大事に抱えてポッポタイムを訪れたのが、辺境の町で出会った幼い姉弟と、ひょろりと痩せた男だったことだけ覚えている。
見るからに着慣れていないだろう、真っ黒な服に身を包んだ少女はそっと目を伏せ、粛々と口を開いた。
『――鬼柳さんが、亡くなったんです』
辛うじてそれだけを口にしたのだろう。嗚咽になって続かない言葉を引き継いだのは痩せた男だった。セキュリティに連行されたが、鬼柳が掛け合って釈放してもらったという男。今は補佐としてこき使っているのだと、汚い文字の踊る手紙で遊星は知らされていた。
鉱山での仕事の帰り、人目につかず声も届かないような場所で、何者かに襲われて鬼柳は死んだ。発見された時には周囲に人影はなく、刺傷や殴打された痕の残る鬼柳の遺体だけが横たわっていたのだという。
それから少女は白い布に包まれた小さな箱を差し出した。既に遺体は焼いて、鬼柳が好んでハーモニカを吹いていた丘に埋葬した。けれど鬼柳のルーツはネオ童実野シティに、サテライトにこそある。だから遊星たちの判断でサテライトのどこかにこそ埋葬するべきだと、幼い弟が主張し、結果分骨することにしたのだという。差し出された、小さく、酷く軽い箱に納められているのは、鬼柳の遺骨だった。
最後に目を真っ赤に腫らした少年がデッキを差し出した。いうまでもない、鬼柳のデッキだった。
『兄ちゃんは、サテライトを制覇したチームサティスファクションのリーダーだから』
涙を隠しもせずに少年は遊星に告げた。デッキを遺骨と一緒に埋葬することも考えたが、カードはデュエリストの魂そのものだ。同じ時代を共有したデュエリストに委ねるべきだということらしかった。
三人がいつ帰ったのか、自分がどんな顔をしていのか、遊星は思い出せない。
ただ、ブルーノが酷く気の毒そうな顔をしていたから、よほど酷い顔をしていたのだろう。対照的にジャックは怒り狂う直前のように表情を歪めていた。
それから確か、学校帰りのアキと、龍亞と、龍可が、たまたまやってきたことも辛うじて覚えている。二言三言話しかけられたような気もするが、内容はまったく覚えていない。そもそも聞いていなかったのかもしれない。最後には五人ともガレージから出て行ったことだけは思い出せる。クロウは確かどこかに電話をかけて、それからブラック・バードに乗って出かけていった。
そのブラック・バードが濡れた路面を滑る音が、鈍く、遊星の鼓膜に響く。
少しの間を置いて、シャッターががらがらと音を立てる。上がり切ったシャッターをくぐったクロウは黙ったまま、ガレージの定位置までブラック・バードを押した。濡れてつやつやと光る車体を、遊星はぼんやりと視界の端に捉える。
「遊星、雑賀と連絡ついたぜ」
ヘルメットを被ったままのくぐもった声が、遊星を無理矢理現実に引き戻す。いつもは配達のために使っている荷台から、クロウは何かを取り出している。
「サテライトの共同墓地、用意できたってよ」
真っ白い、大輪のユリだった。
こんなときばかり、空は遊星たちに気を遣ってくれる。D・ホイールを走らせ始めた辺りから霧雨に、墓地につく頃には曇り程度にまで天気は変わっていた。
「どうせやむなら、ぱーっと晴れて欲しかったな」
あいつは、太陽みたいだったもんな。
白い四角い石でできた、こじんまりとした墓標。白い箱の遺骨だけを葬って、デッキはブルーノと一緒にガレージに残してきた。縦に横に、等間隔にひしめく石の一つにユリを捧げながら、クロウがぽつりと呟く。遊星もジャックも何もいわず、過去形の一言は曇り空に滲んで落っこちた。
クロウは、行動が早すぎると思う。連絡を受けたその日の内に手配をした雑賀も、既に焼骨済みであれば遺骨を埋葬するだけだからとすぐに返事をした墓地の管理人も、皆あまりにも早い。
鬼柳が死んだというのに。
遊星は鉛の海に沈んだように動けずにいるというのに。
鬼柳京介の名と没年が刻まれただけの簡素な石が、遊星の視界でグラグラと揺れた。
不意に肩を掴まれる。耳元でジャックの声がする。
「遊星。おい、遊星、しっかりしろ」
「……ぁ、あ」
軽く揺さぶられて、遊星はようやく声を上げた。喘ぐような声だった。背中に刺さる鈍い痛みは、遊星の背とジャックの胸に挟まれたペンダントだろうか。ジャックが好んで首に下げているだけのそれが、なんだか遊星を責めているような気すらする。
倒れかけたところをジャックに抱きとめられたのだと遊星が気づいたのは、地面に座らされてしばらく経ってからだった。
「ゆうせい、お前疲れてるんだよ」
遊星の前にしゃがみ込んだクロウがふるふると首を振る。それから、恐らくジャックを見上げて、次に墓地の向うの町並みを振り返った。
鬼柳と駆け回った頃からは、随分と趣を変えたサテライトの町並み。クロウも少しは感傷的になっていたのだろうか、少しの間を置いて続ける。
「こっからだとマーサんとこが近いしさ。休ませてもらってから帰ろうぜ」
それからどうやってD・ホイールを走らせたのか、遊星は覚えていない。けれど気がつけばマーサハウスの前にいて、自分のD・ホイールもきちんと敷地内に停めていたから、どうにか移動するぐらいはできたのだろう。
鬼柳が死んだと聞かされてから、遊星はいろいろと覚えていられなくなっている。見たり聞いたりもうまいことできないままだ。突然来訪した遊星たちをマーサが驚いた顔で迎えて、クロウと何事か話している姿も、水槽越しに見ているような感覚で受け止めていた。背後で支えてくれているらしいジャックの存在だけはなんとか感じ取れた。
やがてマーサは頷いて、とても優しい顔で遊星の肩をそっと叩いた。奥の部屋が空いてるから少し休んでおいで。いわれるがままに遊星はハウスの奥の部屋へ行き、埃っぽいベッドに身を投げた。
見えないままの瞼が酷く重い。逆らわず遊星は目を閉じる。徹夜でD・ホイールの調整をしたときだって感じたことのない体の怠さに、もう動けそうもない。これは疲れている、ということでいいのだろうか。休めば元に戻るのだろうか。……鬼柳はもう、戻ってこないのに?
「――――」
長く、長く息を吐く。すべて吐き出して空になってしまえばいい。自分の呼気だけが世界を埋め尽くして、やがて薄れて消える。重なって耳に届くハウスの子どもたちの笑い声、泣き声。閉じた瞼の裏に散る光と、揺らめくちいさな人影と、ベッドの端がきしりと鳴る音。
「……?」
「コラ、この部屋は入っちゃダメっていっただろう!」
ばたばたと忙しない足音が響いて、少し抑えたマーサの声が聞こえた。瞼の向こうでまた影が動いてベッドが鳴る。遊星の傍らまで子どもが来ていて、どうやらマーサはその子を連れ戻しに来たらしい。諌める養母の声に、抗議のつもりだろうか、う、という幼い声が紛れる。
常ならばありえないが、遊星は自身の不調を盾にそのまま眠りの姿勢を貫こうとした。恐らく続くマーサの声が聞こえなければ、落ちるように意識を失えていただろう。
「あっちの部屋で遊んでおいで、『きょうすけ』」
重く落ちる瞼を跳ね上げた。
たまたま同じ名前だとしても、今の遊星には反応せざるを得ない名前だった。目を開けば鬼柳がいる、裏切られるとわかっていながら酷い幻想に突き動かされ――遊星は息を止めた。
「遊星、悪かったね。もう少し休んで」
「マー、サ、その子は」
マーサに後ろから抱え上げられた子どもが、遊星を見つめている。まん丸く見開かれた瞳はあまり見かけない強い金色。三、四歳ほどだろうか、子どもらしいふっくらとしたまるい頬のラインに、だからこそ右顔面を縦に貫くマーカーが酷く異彩を放っている。ふわふわと揺れる髪は澄んだ銀色をしていた。
子どもが居心地悪そうに身を捩る。思わずだろうか、マーサが手を離し、子どもはすとんと着地した。遊星の横たわるベッドに近づき、満面の笑みを浮かべる。
「この子かい? 三日ぐらい前にウチの前で座り込んでたのさ。……捨て子かねぇ」
頬に片手を添え、マーサは深く溜め息をつく。
「本人に訊いても、きょうすけって名前しか分からないし」
悩みは尽きない様子のマーサとは打って変わって、子どものほうは悲壮感などどこ吹く風と笑い続けている。まだ動けずにいる遊星の前で、短い両腕を目一杯広げて声を張り上げた。
「ゆーせー!」
そのぷにぷにした右腕に目眩を覚える。腕の長さが違うせいか、以前見たものより随分とかわいらしく縮んで見える。けれど間違いなく同じものだ。でなければあんなに悪趣味なものがあっていいはずがない。
子どもの腕にはかつて鬼柳の右腕に浮かんでいた巨人の痣が刻まれていた。
銀髪の子どもを真ん中に、遊星とジャックとクロウは円を描いて座っている。椅子もない部屋だったので床の上に直接だ。囲むほうが三人しかいないのだから正しくは三角形なのかもしれないが、気分としては円である。
マーサには言葉を濁しながら、なんとか納得して部屋を出てもらった。今にも倒れそうだった遊星がにわかに回復した点と引き換えに妥協してもらったようなものだ。しかし何が起こっているのか判じかねる今、マーサに余計な心配をかけたくないという点だけは三人とも譲れなかった。
狭い部屋にはマーサハウスからの幼馴染、いや、元チームサティスファクションのメンバーが残っている。
となれば、口火を切るのは鉄砲玉のクロウだ。厳かに腕を組み、常日頃子どもたちにかける口調と、かつて鬼柳に対していた口調を混ぜたような調子で口を開く。
「よし、じゃあお前の名前をいってみろ」
「う!」
子どもは元気よく右手を上げる。腕に刻まれた痣の不穏さと、大きく開かれる元気のいい、悪くいえば少々頭の弱そうな口の動きが実にミスマッチである。
「きうーきょおーすけ!」
「……この、きうー、とは、鬼柳、といいたいのか」
こちらは常の尊大さを含んだ腕組みで、ジャックがクロウを目で問いただす。
「ガキのうちはラ行がいいにくいらしいぜ」
「きうー」
「ということは、マーサは鬼柳と聞き取れなかったということか?」
「きうー」
ジャックが僅かな不審を含んで呟く。自分たちを含め、数えきれないほどの子どもたちを育ててきたマーサだ。舌足らずでラ行がいえないことぐらいすぐに察しそうなものだといいたいのだろう。
「……俺たちはこの子が鬼柳ではないかと疑っているから、鬼柳と聞き取れるんじゃないだろうか」
「き、うー」
視覚でも聴覚でも、既知のものであれば勝手に脳が判断して補完してしまうのだと聞いたことがある。遊星たちはまず外見で鬼柳と判断してこの怪しい発音を聞いているため、鬼柳と聞こえるのだろう。鬼柳という姓自体が多いものではないから、マーサが正しく聞き取れなかったのも不思議ではない。
遊星の言に、ジャックは一度頷いた。それでもフンと鼻を鳴らし、“きうーきょおーすけ”と自称する子どもを頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺める。
「それでも鬼柳本人だと判断するのは突飛すぎるのではないか。鬼柳の隠し子かもしれんぞ」
「き、うぅー」
「いや、そっちのほうが突飛すぎるだろ。ツラだけはいいかもしんねーけど鬼柳だぞ?」
「き、う、う!」
「ええいさっきからやかましい! いえておらんわ!」
ひとり正しい発音に挑戦していたらしい子どもを、ついにジャックが一喝する。
驚いたのか子どもはビクリと体を跳ねさせて、先ほどまでの笑顔をくしゃりと歪めた。遊星は泣き出してしまうのではないかと一瞬焦ったが、そんな遊星のそばに子どもは小走りで駆け寄る。ジャックから身を隠すように遊星の背後に回り、ぼそりと声を漏らした。
「……じゃっく・あほあす」
「貴様、今俺のことをアホラスといっただろう!」
「待てジャック、タ行もいえないのかもしれない」
「やっぱり鬼柳本人じゃねえの。名乗ってもないのにジャックのフルネーム知ってるし」
クロウの台詞に遊星も頷く。この子どもは真っ先に遊星の名を呼んだのだ。
それでは俺の名がジャック・アホラスのようではないか!とジャックの吼える声は無視して、クロウは遊星の背に隠れる子どもを覗き込む。確信を持った笑顔で、
「鬼柳、俺の名前は?」
「くおー・ほーがん!」
「……クロウな」
「くおー」
そっと訂正を入れた。奇妙な鳴き声のようになっているが概ね正解でいいだろう。
ジャックや遊星はキングとしてメディアに取り上げられたこともあるから、テレビででも見て知った可能性もある。一方クロウはWRGP出場者として名を連ねているものの、子どもが覚えられるほど頻繁にメディアに露出しているわけではない。メディアとは関係なく、元から知っていたと考えてもいいのではないだろうか。
遊星はそっと背後を振り返る。座った遊星の目線とちょうど同じ高さに子どもの顔があった。ぱちぱちと瞬く目の色も、首筋あたりで切り揃えられた髪の色も記憶の中の鬼柳と相違ない。目や髪の色だけで本人と断じる訳にはいかないが、明らかに他の子どもにはない特徴が堂々と頬を貫いている。
「この子には、鬼柳と同じ形のマーカーがある。こんなに小さな子どもにまでセキュリティがマーカーをつけていたとは考えにくい」
「……それはそうだな」
こんな言葉もおぼつかんような子どもでは。自ら補足して、ジャックはようやく納得したようだった。
マーカーからは個人情報を読み取ることができる。もしこのマーカーを解析できれば更なる確信が得られるかもしれない。しかしマーカー制の廃止された今となっては、牛尾や狭霧のコネを使っても確認できるかどうか。怪しいところだ。
そんな不確かなことをしなくても、この子は極めつけに特異なものを持っている。
遊星は半ば恐れるような気持ちで、子どもの右腕に手を伸ばした。遊星の意図に気づいた子どもは嬉しそうに右手を差し出す。ほんの一瞬だけためらって、覚悟を決める。力を込めすぎないように、けれどしっかりと掴んだ小さな右腕は温かい。血の通った生きている者の腕だ。
だからこそそこに刻まれた痣の違和感が酷い。遊星はそっと子どもの腕を引き、ジャックとクロウに示してみせた。
「何より、この痣だ」
「ダークシグナーの証、か」
激闘の末に封じたはずの、地縛神をかたちどる痣。描かれているのは巨人。鬼柳を含むすべての元ダークシグナーたちが失った、もう二度と復活するはずのなかったしるしだ。
ジャックは己のコートの袖を捲る。彼が生まれた時から持っているシグナーの痣は、光を放つこともなく黙して右腕に収まっていた。隣でクロウも自分の右腕を見下ろしている。
「……シグナーの痣には何の反応もないな」
「ってことは地縛神が復活したとか、そういうわけじゃないよなあ」
クロウは首を左右に傾げ、遊星が掴んだままの子どもの腕に手を伸ばす。何をするのかと思えば、そのまま指の腹で痣を擦り始めた。子どもがきゃらきゃらと笑い声を上げるが、クロウは気にせず擦り続ける。
「さすがにペンで描いた、なんてこたないよな」
「くーうぐったい!」
「……無害だと思うと、アレだな。この痣って子ども向け番組に出てくるなんかのキャラクターにしか見えねえよな」
クロウがしみじみと零し、ジャックは苦虫を噛み潰したような顔をした。遊星はといえば、もしかしてあれだろうか、と内心で該当するキャラクターを思い浮かべている。
こそばゆさに耐えかねたのか、子どもは小さな腕を振ってクロウの手を振り払った。何の意味があるのか痣にふうふうと息を吹きかける。それから小さな胸を精一杯逸らして、遊星たちに右腕を掲げてみせてくれる。
「あぷ!」
「……地縛神コカパク・アプで、間違いないようだな」
かつて最大限の恐怖を植え付けられたモンスターの名を口にして、酷く脱力感を覚えるのはどういうことだろう。自然項垂れてしまったのは仕方があるまい。現にジャックもクロウも、多分に憐憫を含んだ表情で遊星を見つめていた。
がくりと落ち込んだ遊星の頭に、ちいさな何かが乗せられる。顔を上げれば子どもが笑っていて、遊星の頭をぐりぐりと撫でてくる。
「ゆーせー、まんぞく?」
「あ、もうコレ絶対鬼柳本人だわ」
「ああ。間違いないな」
「……ッ鬼柳!!」
随分とちいさくやわらかくなってしまった鬼柳の体に、ついに遊星は感極まって抱きついた。やたら冷めた幼馴染二人の声など聞こえるはずもない。嬉しそうに笑って身を捩る鬼柳を羽交い絞めにして、固く固く目を閉じる。
もう二度と失わないと誓い、助けられず、それでも帰ってきてくれた鬼柳。遊星は三度、彼を喪失したのだ。
大人になったのだと、お互いのためだと、遊星は賢いふりで鬼柳と道を違えた。
だがやはり――放してはいけなかったのだ。
この子どもが鬼柳に限りなく近い存在であることには間違いない。戻ってきたと安堵するには先ほど墓に納めてきた遺骨の説明ができないし、シグナーの痣が沈黙を守っている点も気にかかる。
だからこそ、今度こそ本当に、鬼柳を守ってみせる。二度とこの体を離してなるものか!
「鬼柳?」
遊星の壮絶な決意をよそに、クロウが鬼柳の名前を呼ぶ。
「う」
「貴様は死んだのだろう。どうしてここにいる?」
ジャックが引き継いで、ダイレクトに疑問を口にした。
幼い鬼柳は、ことんと首を傾げる。いまだ抱きついたまま微動だにしない遊星を見下ろし、ボウリングのボールを転がすように大きく腕を振る。
「うどがー、やいなおし! ぽーん!」
「ウドガー? ……ウドの大木?」
「クロウ、貴様なぜ俺を見た」
要領を得ない会話に、鬼柳が地団駄を踏んだ。意味を理解しかねる単語をひときわ大きな声で叫ぶ。
「うどがー!」
「……まさか、ルドガーか」
ようやく会話を耳に入れた遊星が身を起こして呟けば、鬼柳は大きく何度も頷いた。確かめるようにまた「うどがー!」と声を上げる。この鬼柳はとことんラ行に弱いらしい。いや、それはさておき。
冥界の住人であるところの人物に、遊星たちは顔を見合わせた。これで超常現象の説明は半ばついたようなものだが、鬼柳の説明では仔細を掴めそうにはない。どうして鬼柳がこんな姿になってしまったのか、説明ができるのは判明している限りではルドガーだけだ。もちろん死者である彼を訪ね、説明を請うこともできない。
結局現状を維持するしかない、という結論に至るのは、ほんの数分の後のことである。
「……おかしい。ルドガーがいる」
がっしりとした体躯に浅黒い肌。淡い金髪にマーカーのない頬と、何よりも薄氷色の虹彩が浮かぶ眼球は常人と同じ白。赤いラインに縁取られた怪しげなローブではなく、スーツに白衣を羽織っている。見覚えのある姿とは多少異なるが、かつて死した鬼柳を導いた男に相違ない。
しげしげと眺めれば、ルドガーはあからさまに溜め息をついた。それからつかつかと距離を詰めて鬼柳の眼前に立つ。なんだと訝るよりも先に頭頂部に衝撃が落ちてきた。
「あだっ!?」
「何をしている、貴様は」
白衣に不似合いなたくましい腕が手刀を作って構えられている。
あのルドガーがチョップ、と笑ってもよかった。けれどルドガーは鬼柳から笑う気力を削ぐほどに苦い顔をしている。なにより鬼柳自身が、ルドガーの言葉に酷く違和感を覚えてためらった。
痛む頭を擦りながら考える。随分長く伸びた自分の髪が、コート越しに腕に絡まる。
「……何、してたんだっけ?」
確か自分はいつも通り、町の住人から好意で提供された家で起きて、ニコの作った朝食をウエストと一緒に食べて、役場で仕事をしてラモンと昼食を食べて、午後は鉱山の方へ行って……おかしい、そこから先が思い出せない。
うんうんと首を捻っても、すとんと抜け落ちてしまったのか、まったく思い出せない。鉱山で採掘場に小屋を立てる仕事を手伝いに行って、それから、それから。……それから?
「やべえ、もうボケ始めてんのかな俺」
若いのに、と付け足したのは決してルドガーへの当てつけなどではない。
ないのだが何故かまた手刀が落ちてきた。
「いッ……ってーな! オッサンのせいで記憶飛んでるだろこれ! 絶対!」
「馬鹿も休み休み言え」
二度に渡る手刀は相当なものである。ルドガーはもともと科学者だったと聞いたが、何の冗談だといいたくなるほど逞しい体つきをしている。その腕は振り下ろされればかなりの重量と衝撃を生む。実に痛い。それはもう痛い。思わず目端に涙が浮かぶ程度には痛い。
理不尽な暴力にルドガーを睨みつけるが、また持ち上げれた腕に思わずぎくりとする。咄嗟に身を引くも間に合わず、そしてその鬼柳の行動は無駄だった。
「貴様は」
三度目にもたらされたのは痛みなどではない。ずっしりとした重みと温みが、存外と優しい動作で降ってくる。
ただし告げられた言葉は、手刀よりも遥かに厳しいものだった。
「死んだのだぞ」
鬼柳はピタリと動きを止める。
瞬きも、呼吸すらも、すべて止まったような。
「……あー」
無論、それは錯覚だろう。いや、死んだというなら瞬いて呼吸をしている、と思うほうが勘違いだろうか。
鬼柳は確かめるように息を吐く。塞き止められていた気流は、ハ、と苦く鳴る。頭の重みに抗うように顔を上げれば、相変わらずルドガーは神妙な表情を浮かべている。
「そっか、死んだのかあ……」
「……それだけか」
「もう三度目になるとなあ」
鬼柳は自身の記憶にあるだけで、既に二回は死を経験している。冷静に考えればどんなデタラメだと自分でも思うのだが、実際二度死んで二度蘇ったのだから仕方がない。とはいえ今回のように、死後の世界めいたところでその事実を突きつけられるのは初めての経験だ。
鬼柳は辺りを見回してみる。向い合って立つルドガーと自分、その他は星のない夜空のような黒。光のない闇。自分かルドガーが喋られなければ完全に無音で、なるほど死のイメージとはこんなものなのかもしれない、と思う。
何より一度死んで、今度こそ冥界に旅立ったと聞かされていたルドガーが生前の姿で目の前にいるのだ。現実ではないどこかであることには間違いないだろう。
「冥界ってこんなに何にもないのか? もっと蓮の花とか咲いて天使が飛び回っててもいいんじゃねーの?」
我ながらいろいろと混じっている気がする死生観である。とはいえ鬼柳の考える死後の世界だか天国だかはそんなイメージなのだ。それとも死後の世界、イコール天国という考えが驕りで、ここは地獄なのだろうか。
鬼柳の予測を裏付けるように、あるいはふざけるなといわんばかりに、ルドガーは重々しく答える。
「ただ死んだわけではない。貴様は、殺された」
「だよなあ」
あっさりと頷けば軽薄に聞こえたのか、ルドガーがまた腕を上げる。今度は振り下ろされるよりも先に避けることができた。慌ててフォローを入れる。
「違うって、ふざけてるんじゃなくてよ!」
「ほう」
「だからその腕下ろせって! ……折角アンタとアンタの弟が返してくれた人生で、俺はロクなことしなかったから」
ダークシグナーとしての罪を思い出し、死に場所を求めて彷徨った。その末に辿り着いた町で、鬼柳が重ねた勝利は五十連勝。生きては戻れないと囁かれる山に送った決闘者は五十人。その内の何人が過酷な労働で命を落としたのか、あるいは誰も死なずに山を出たのか、鬼柳は知らない。知ることが恐ろしかったし、周りが極力知らせないようにしていたからだ。
しかし、鬼柳が山に送ったことで人生を歪められたものが少なくとも五十人はいる、ということには違いない。鬼柳があの町に流れ着き、連れ戻すために遊星が訪れ、最終的にはセキュリティが介入した。逮捕された者も何人、何十人といるだろう。実際サティスファクションと名を改めた町で暮らしていて、闇討ちに遭ったり暴力を振るわれたことも何度もある。恨み事をぶつけられたことなど数えるのが馬鹿らしいほどだ。
鬼柳はそれらを受け入れ、幼い姉弟を見守り、町を復興させることを贖いとして生きていくと決めた。
けれどそれは本当に贖罪足りうるだろうか。鬼柳が生きるための免罪符でしかないのではないか?
「だから、誰かに殺されるとか……いい死に方はしないんじゃないかって、自分でも思ってた。アンタには、本当に悪いと思うんだけど」
そもそも一度目の死よりも前の時点で、鬼柳は大きな罪を犯している。
許す、許さないの基準を誰が定めるのかは知らない。けれど鬼柳自身がずっと、自分の生が許せないと思っていた。それが贖いと言われればそれまでだが。
「ああ、悪いな」
唐突に、酷くあっさりとした口調が鬼柳の思考を遮った。
誰が、と訝るまでもなく一人しかいない。
「貴様は生き続けることで裁かれる」
「は――」
「何よりも問題なのは、貴様が死ぬことで未来が大きく変わってしまう可能性があることだ」
ルドガーは何か、運命論めいたものを口にしているのだろうか。
鬼柳は眉間に皺を寄せるが、ルドガーは決して不確定な未来の話などしていないとすぐに知れた。いくつかの事象を鑑みた上で、起こりうる、いや、間違いなく訪れるだろう将来の話をしている。
「貴様の死に最も影響を受ける人物が誰か、分かるか」
「え……そりゃあ、ニコと、ウエストと……」
それから、もしかすると。
いや、過去はともかく、ここまできてそんなことはないだろう。鬼柳には鬼柳の人生があった。彼には彼の人生があって、その道はもう、絡み合うことはない。
鬼柳は思い浮かんだもう一人を、頭を振って否定した。
だがルドガーは、鬼柳の否定を根こそぎ否定するように首を振る。
「不動遊星」
「……ッ! ゆ、うせいは、そんな」
「貴様が真っ当に生き続けていれば、そのまま道は分かたれただろう。だがあの男の性格を、貴様は知っているだろう」
確かに遊星は、自身に関わる諸々を背負い込む質だ。罰されたいと心の奥底で思っていたことは鬼柳ですら知っている。
けれど遊星だって大人になったのだ。過剰に自分のせいだと思い込むことももうないだろうし、今回の鬼柳の死は遊星にはまるで関係がないはずだ。かつてのように遠因を辿って苦悩することもないだろう。
……ただ、ひとつだけ、そうではないと思える要素があるとすれば。
「何よりあの男が、貴様に寄せていた感情を知っているだろう」
「~~~~っっ!!」
顔に、頭に、血が上る。鬼柳は耐えかねてその場にしゃがみ込んだ。
そうだ、鬼柳は知っていた。知っていてそれは遊星のためにならないからと、知らないふりをした。本当は自分だって期待していたのに、その感情には蓋をしたのだ。
それを、それを、
「――ッんでアンタが知ってんだよ!?」
「照れるな、気色が悪い」
よりによってルドガーなどに指摘されなければならないのだ!
恐らく真剣な話をしていたはずだが、そんなことはすとんと抜け落ちる。鬼柳はその場で転げまわりたくなった。ルドガーが実に鬱陶しそうに目を細めているのも当然目に入らない。
自分と遊星がお互い胸に秘めていた青臭い感情を、ジャックでもクロウでも、ニコでもない、ルドガーに淡々と暴露されるこの羞恥。いつどのようにして知ったというのか、きっとサテライト時代から寄せられていて、それでも鬼柳が二回目の死の後、ようやく自覚したこの感情を! まさか鬼柳自身はまったく気づきもしなかったダークシグナーだった当時から悟られていたのだとしたら、
「うわああああ……死にてえ……」
「もう死んでいるだろう」
冷めたツッコミはもうやめてほしい。なんだか涙が出そうになる。
ありがたいことにルドガーはこれ以上の言及をやめたらしい。疲れた様子で溜め息を吐いて、いまだしゃがみ込む鬼柳に歩み寄った。
「とにかく、貴様の死で不動遊星が立ち直れないようなことがあっては困る。貴様の死自体はそれほどの問題ではないがな」
「……オイ、オッサン」
「だから」
さり気なくも酷い言われように思わず顔を上げれば、ルドガーは予想以上に近いところにいた。
威圧する白衣姿に素直に身を引けば、ルドガーの分厚い手のひらが突き出される。そのまま鬼柳コートの襟元を掴み――持ち上げた。
本当にどこかが科学者なのかと叫び出したくなるほどの膂力だが、宙吊りにされた鬼柳はそれどころではない。バタバタと手足を振ってみてもルドガーは微動だにしなかった。今までと変わらない淡々とした口調で鬼柳に告げる。
「やり直してこい」
「は、あ……ああああああ!?」
そのまま宙へ放り投げられた。
吸い込まれるように体が引かれる。引かれるままに視界と体がぐるんぐるん回る。全身がでたらめに伸び縮みするような、そんな感覚と気持ち悪さに鬼柳は目を瞑った。右腕がやたら熱いが、一度目を閉じてしまえば開いて確認することもままならない。
それきり鬼柳の意識は途切れた。
外では、雨が降っている。
そうか、雨が降っていたのかと、遊星は無感動に思った。この意味のない確認も何度目だろう。遊星は何時間もずっと、こんなことを繰り返している。
いつもは工具かカードが散らばっている作業台の上には、使い込まれた様子のデッキが一つ。デッキのカードたちは見るまでもなく、インフェルニティの名を戴くカードたち。それから真っ白いさらさらした布に包まれたちいさな箱がある。箱の中身は、
「…………」
遊星は長く息を吐く。肺の底で渦巻いていた腐った空気が流れ出していくような感覚。けれど吐き出しきれずに、膿んでわだかまる違和感。作業台の縁に額を擦りつけるようにして顔を伏せる。
何も見たくない。何も聴きたくない。何も考えたくない。
それでも使い込まれたデッキと白い包みは、遊星の瞼の裏に灼きついて離れない。どちらも手のひらの上に収まるちいさなものなのに、鉛のように重く沈み、思考を嫌でも引き戻してくれる。
このふたつが遊星たちのもとにもたらされたのは数時間前、いや、昨日だったか、それとも一昨日だっただろうか。それすらも定かではない。ただ、白い包みとデッキを大事に抱えてポッポタイムを訪れたのが、辺境の町で出会った幼い姉弟と、ひょろりと痩せた男だったことだけ覚えている。
見るからに着慣れていないだろう、真っ黒な服に身を包んだ少女はそっと目を伏せ、粛々と口を開いた。
『――鬼柳さんが、亡くなったんです』
辛うじてそれだけを口にしたのだろう。嗚咽になって続かない言葉を引き継いだのは痩せた男だった。セキュリティに連行されたが、鬼柳が掛け合って釈放してもらったという男。今は補佐としてこき使っているのだと、汚い文字の踊る手紙で遊星は知らされていた。
鉱山での仕事の帰り、人目につかず声も届かないような場所で、何者かに襲われて鬼柳は死んだ。発見された時には周囲に人影はなく、刺傷や殴打された痕の残る鬼柳の遺体だけが横たわっていたのだという。
それから少女は白い布に包まれた小さな箱を差し出した。既に遺体は焼いて、鬼柳が好んでハーモニカを吹いていた丘に埋葬した。けれど鬼柳のルーツはネオ童実野シティに、サテライトにこそある。だから遊星たちの判断でサテライトのどこかにこそ埋葬するべきだと、幼い弟が主張し、結果分骨することにしたのだという。差し出された、小さく、酷く軽い箱に納められているのは、鬼柳の遺骨だった。
最後に目を真っ赤に腫らした少年がデッキを差し出した。いうまでもない、鬼柳のデッキだった。
『兄ちゃんは、サテライトを制覇したチームサティスファクションのリーダーだから』
涙を隠しもせずに少年は遊星に告げた。デッキを遺骨と一緒に埋葬することも考えたが、カードはデュエリストの魂そのものだ。同じ時代を共有したデュエリストに委ねるべきだということらしかった。
三人がいつ帰ったのか、自分がどんな顔をしていのか、遊星は思い出せない。
ただ、ブルーノが酷く気の毒そうな顔をしていたから、よほど酷い顔をしていたのだろう。対照的にジャックは怒り狂う直前のように表情を歪めていた。
それから確か、学校帰りのアキと、龍亞と、龍可が、たまたまやってきたことも辛うじて覚えている。二言三言話しかけられたような気もするが、内容はまったく覚えていない。そもそも聞いていなかったのかもしれない。最後には五人ともガレージから出て行ったことだけは思い出せる。クロウは確かどこかに電話をかけて、それからブラック・バードに乗って出かけていった。
そのブラック・バードが濡れた路面を滑る音が、鈍く、遊星の鼓膜に響く。
少しの間を置いて、シャッターががらがらと音を立てる。上がり切ったシャッターをくぐったクロウは黙ったまま、ガレージの定位置までブラック・バードを押した。濡れてつやつやと光る車体を、遊星はぼんやりと視界の端に捉える。
「遊星、雑賀と連絡ついたぜ」
ヘルメットを被ったままのくぐもった声が、遊星を無理矢理現実に引き戻す。いつもは配達のために使っている荷台から、クロウは何かを取り出している。
「サテライトの共同墓地、用意できたってよ」
真っ白い、大輪のユリだった。
こんなときばかり、空は遊星たちに気を遣ってくれる。D・ホイールを走らせ始めた辺りから霧雨に、墓地につく頃には曇り程度にまで天気は変わっていた。
「どうせやむなら、ぱーっと晴れて欲しかったな」
あいつは、太陽みたいだったもんな。
白い四角い石でできた、こじんまりとした墓標。白い箱の遺骨だけを葬って、デッキはブルーノと一緒にガレージに残してきた。縦に横に、等間隔にひしめく石の一つにユリを捧げながら、クロウがぽつりと呟く。遊星もジャックも何もいわず、過去形の一言は曇り空に滲んで落っこちた。
クロウは、行動が早すぎると思う。連絡を受けたその日の内に手配をした雑賀も、既に焼骨済みであれば遺骨を埋葬するだけだからとすぐに返事をした墓地の管理人も、皆あまりにも早い。
鬼柳が死んだというのに。
遊星は鉛の海に沈んだように動けずにいるというのに。
鬼柳京介の名と没年が刻まれただけの簡素な石が、遊星の視界でグラグラと揺れた。
不意に肩を掴まれる。耳元でジャックの声がする。
「遊星。おい、遊星、しっかりしろ」
「……ぁ、あ」
軽く揺さぶられて、遊星はようやく声を上げた。喘ぐような声だった。背中に刺さる鈍い痛みは、遊星の背とジャックの胸に挟まれたペンダントだろうか。ジャックが好んで首に下げているだけのそれが、なんだか遊星を責めているような気すらする。
倒れかけたところをジャックに抱きとめられたのだと遊星が気づいたのは、地面に座らされてしばらく経ってからだった。
「ゆうせい、お前疲れてるんだよ」
遊星の前にしゃがみ込んだクロウがふるふると首を振る。それから、恐らくジャックを見上げて、次に墓地の向うの町並みを振り返った。
鬼柳と駆け回った頃からは、随分と趣を変えたサテライトの町並み。クロウも少しは感傷的になっていたのだろうか、少しの間を置いて続ける。
「こっからだとマーサんとこが近いしさ。休ませてもらってから帰ろうぜ」
それからどうやってD・ホイールを走らせたのか、遊星は覚えていない。けれど気がつけばマーサハウスの前にいて、自分のD・ホイールもきちんと敷地内に停めていたから、どうにか移動するぐらいはできたのだろう。
鬼柳が死んだと聞かされてから、遊星はいろいろと覚えていられなくなっている。見たり聞いたりもうまいことできないままだ。突然来訪した遊星たちをマーサが驚いた顔で迎えて、クロウと何事か話している姿も、水槽越しに見ているような感覚で受け止めていた。背後で支えてくれているらしいジャックの存在だけはなんとか感じ取れた。
やがてマーサは頷いて、とても優しい顔で遊星の肩をそっと叩いた。奥の部屋が空いてるから少し休んでおいで。いわれるがままに遊星はハウスの奥の部屋へ行き、埃っぽいベッドに身を投げた。
見えないままの瞼が酷く重い。逆らわず遊星は目を閉じる。徹夜でD・ホイールの調整をしたときだって感じたことのない体の怠さに、もう動けそうもない。これは疲れている、ということでいいのだろうか。休めば元に戻るのだろうか。……鬼柳はもう、戻ってこないのに?
「――――」
長く、長く息を吐く。すべて吐き出して空になってしまえばいい。自分の呼気だけが世界を埋め尽くして、やがて薄れて消える。重なって耳に届くハウスの子どもたちの笑い声、泣き声。閉じた瞼の裏に散る光と、揺らめくちいさな人影と、ベッドの端がきしりと鳴る音。
「……?」
「コラ、この部屋は入っちゃダメっていっただろう!」
ばたばたと忙しない足音が響いて、少し抑えたマーサの声が聞こえた。瞼の向こうでまた影が動いてベッドが鳴る。遊星の傍らまで子どもが来ていて、どうやらマーサはその子を連れ戻しに来たらしい。諌める養母の声に、抗議のつもりだろうか、う、という幼い声が紛れる。
常ならばありえないが、遊星は自身の不調を盾にそのまま眠りの姿勢を貫こうとした。恐らく続くマーサの声が聞こえなければ、落ちるように意識を失えていただろう。
「あっちの部屋で遊んでおいで、『きょうすけ』」
重く落ちる瞼を跳ね上げた。
たまたま同じ名前だとしても、今の遊星には反応せざるを得ない名前だった。目を開けば鬼柳がいる、裏切られるとわかっていながら酷い幻想に突き動かされ――遊星は息を止めた。
「遊星、悪かったね。もう少し休んで」
「マー、サ、その子は」
マーサに後ろから抱え上げられた子どもが、遊星を見つめている。まん丸く見開かれた瞳はあまり見かけない強い金色。三、四歳ほどだろうか、子どもらしいふっくらとしたまるい頬のラインに、だからこそ右顔面を縦に貫くマーカーが酷く異彩を放っている。ふわふわと揺れる髪は澄んだ銀色をしていた。
子どもが居心地悪そうに身を捩る。思わずだろうか、マーサが手を離し、子どもはすとんと着地した。遊星の横たわるベッドに近づき、満面の笑みを浮かべる。
「この子かい? 三日ぐらい前にウチの前で座り込んでたのさ。……捨て子かねぇ」
頬に片手を添え、マーサは深く溜め息をつく。
「本人に訊いても、きょうすけって名前しか分からないし」
悩みは尽きない様子のマーサとは打って変わって、子どものほうは悲壮感などどこ吹く風と笑い続けている。まだ動けずにいる遊星の前で、短い両腕を目一杯広げて声を張り上げた。
「ゆーせー!」
そのぷにぷにした右腕に目眩を覚える。腕の長さが違うせいか、以前見たものより随分とかわいらしく縮んで見える。けれど間違いなく同じものだ。でなければあんなに悪趣味なものがあっていいはずがない。
子どもの腕にはかつて鬼柳の右腕に浮かんでいた巨人の痣が刻まれていた。
銀髪の子どもを真ん中に、遊星とジャックとクロウは円を描いて座っている。椅子もない部屋だったので床の上に直接だ。囲むほうが三人しかいないのだから正しくは三角形なのかもしれないが、気分としては円である。
マーサには言葉を濁しながら、なんとか納得して部屋を出てもらった。今にも倒れそうだった遊星がにわかに回復した点と引き換えに妥協してもらったようなものだ。しかし何が起こっているのか判じかねる今、マーサに余計な心配をかけたくないという点だけは三人とも譲れなかった。
狭い部屋にはマーサハウスからの幼馴染、いや、元チームサティスファクションのメンバーが残っている。
となれば、口火を切るのは鉄砲玉のクロウだ。厳かに腕を組み、常日頃子どもたちにかける口調と、かつて鬼柳に対していた口調を混ぜたような調子で口を開く。
「よし、じゃあお前の名前をいってみろ」
「う!」
子どもは元気よく右手を上げる。腕に刻まれた痣の不穏さと、大きく開かれる元気のいい、悪くいえば少々頭の弱そうな口の動きが実にミスマッチである。
「きうーきょおーすけ!」
「……この、きうー、とは、鬼柳、といいたいのか」
こちらは常の尊大さを含んだ腕組みで、ジャックがクロウを目で問いただす。
「ガキのうちはラ行がいいにくいらしいぜ」
「きうー」
「ということは、マーサは鬼柳と聞き取れなかったということか?」
「きうー」
ジャックが僅かな不審を含んで呟く。自分たちを含め、数えきれないほどの子どもたちを育ててきたマーサだ。舌足らずでラ行がいえないことぐらいすぐに察しそうなものだといいたいのだろう。
「……俺たちはこの子が鬼柳ではないかと疑っているから、鬼柳と聞き取れるんじゃないだろうか」
「き、うー」
視覚でも聴覚でも、既知のものであれば勝手に脳が判断して補完してしまうのだと聞いたことがある。遊星たちはまず外見で鬼柳と判断してこの怪しい発音を聞いているため、鬼柳と聞こえるのだろう。鬼柳という姓自体が多いものではないから、マーサが正しく聞き取れなかったのも不思議ではない。
遊星の言に、ジャックは一度頷いた。それでもフンと鼻を鳴らし、“きうーきょおーすけ”と自称する子どもを頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺める。
「それでも鬼柳本人だと判断するのは突飛すぎるのではないか。鬼柳の隠し子かもしれんぞ」
「き、うぅー」
「いや、そっちのほうが突飛すぎるだろ。ツラだけはいいかもしんねーけど鬼柳だぞ?」
「き、う、う!」
「ええいさっきからやかましい! いえておらんわ!」
ひとり正しい発音に挑戦していたらしい子どもを、ついにジャックが一喝する。
驚いたのか子どもはビクリと体を跳ねさせて、先ほどまでの笑顔をくしゃりと歪めた。遊星は泣き出してしまうのではないかと一瞬焦ったが、そんな遊星のそばに子どもは小走りで駆け寄る。ジャックから身を隠すように遊星の背後に回り、ぼそりと声を漏らした。
「……じゃっく・あほあす」
「貴様、今俺のことをアホラスといっただろう!」
「待てジャック、タ行もいえないのかもしれない」
「やっぱり鬼柳本人じゃねえの。名乗ってもないのにジャックのフルネーム知ってるし」
クロウの台詞に遊星も頷く。この子どもは真っ先に遊星の名を呼んだのだ。
それでは俺の名がジャック・アホラスのようではないか!とジャックの吼える声は無視して、クロウは遊星の背に隠れる子どもを覗き込む。確信を持った笑顔で、
「鬼柳、俺の名前は?」
「くおー・ほーがん!」
「……クロウな」
「くおー」
そっと訂正を入れた。奇妙な鳴き声のようになっているが概ね正解でいいだろう。
ジャックや遊星はキングとしてメディアに取り上げられたこともあるから、テレビででも見て知った可能性もある。一方クロウはWRGP出場者として名を連ねているものの、子どもが覚えられるほど頻繁にメディアに露出しているわけではない。メディアとは関係なく、元から知っていたと考えてもいいのではないだろうか。
遊星はそっと背後を振り返る。座った遊星の目線とちょうど同じ高さに子どもの顔があった。ぱちぱちと瞬く目の色も、首筋あたりで切り揃えられた髪の色も記憶の中の鬼柳と相違ない。目や髪の色だけで本人と断じる訳にはいかないが、明らかに他の子どもにはない特徴が堂々と頬を貫いている。
「この子には、鬼柳と同じ形のマーカーがある。こんなに小さな子どもにまでセキュリティがマーカーをつけていたとは考えにくい」
「……それはそうだな」
こんな言葉もおぼつかんような子どもでは。自ら補足して、ジャックはようやく納得したようだった。
マーカーからは個人情報を読み取ることができる。もしこのマーカーを解析できれば更なる確信が得られるかもしれない。しかしマーカー制の廃止された今となっては、牛尾や狭霧のコネを使っても確認できるかどうか。怪しいところだ。
そんな不確かなことをしなくても、この子は極めつけに特異なものを持っている。
遊星は半ば恐れるような気持ちで、子どもの右腕に手を伸ばした。遊星の意図に気づいた子どもは嬉しそうに右手を差し出す。ほんの一瞬だけためらって、覚悟を決める。力を込めすぎないように、けれどしっかりと掴んだ小さな右腕は温かい。血の通った生きている者の腕だ。
だからこそそこに刻まれた痣の違和感が酷い。遊星はそっと子どもの腕を引き、ジャックとクロウに示してみせた。
「何より、この痣だ」
「ダークシグナーの証、か」
激闘の末に封じたはずの、地縛神をかたちどる痣。描かれているのは巨人。鬼柳を含むすべての元ダークシグナーたちが失った、もう二度と復活するはずのなかったしるしだ。
ジャックは己のコートの袖を捲る。彼が生まれた時から持っているシグナーの痣は、光を放つこともなく黙して右腕に収まっていた。隣でクロウも自分の右腕を見下ろしている。
「……シグナーの痣には何の反応もないな」
「ってことは地縛神が復活したとか、そういうわけじゃないよなあ」
クロウは首を左右に傾げ、遊星が掴んだままの子どもの腕に手を伸ばす。何をするのかと思えば、そのまま指の腹で痣を擦り始めた。子どもがきゃらきゃらと笑い声を上げるが、クロウは気にせず擦り続ける。
「さすがにペンで描いた、なんてこたないよな」
「くーうぐったい!」
「……無害だと思うと、アレだな。この痣って子ども向け番組に出てくるなんかのキャラクターにしか見えねえよな」
クロウがしみじみと零し、ジャックは苦虫を噛み潰したような顔をした。遊星はといえば、もしかしてあれだろうか、と内心で該当するキャラクターを思い浮かべている。
こそばゆさに耐えかねたのか、子どもは小さな腕を振ってクロウの手を振り払った。何の意味があるのか痣にふうふうと息を吹きかける。それから小さな胸を精一杯逸らして、遊星たちに右腕を掲げてみせてくれる。
「あぷ!」
「……地縛神コカパク・アプで、間違いないようだな」
かつて最大限の恐怖を植え付けられたモンスターの名を口にして、酷く脱力感を覚えるのはどういうことだろう。自然項垂れてしまったのは仕方があるまい。現にジャックもクロウも、多分に憐憫を含んだ表情で遊星を見つめていた。
がくりと落ち込んだ遊星の頭に、ちいさな何かが乗せられる。顔を上げれば子どもが笑っていて、遊星の頭をぐりぐりと撫でてくる。
「ゆーせー、まんぞく?」
「あ、もうコレ絶対鬼柳本人だわ」
「ああ。間違いないな」
「……ッ鬼柳!!」
随分とちいさくやわらかくなってしまった鬼柳の体に、ついに遊星は感極まって抱きついた。やたら冷めた幼馴染二人の声など聞こえるはずもない。嬉しそうに笑って身を捩る鬼柳を羽交い絞めにして、固く固く目を閉じる。
もう二度と失わないと誓い、助けられず、それでも帰ってきてくれた鬼柳。遊星は三度、彼を喪失したのだ。
大人になったのだと、お互いのためだと、遊星は賢いふりで鬼柳と道を違えた。
だがやはり――放してはいけなかったのだ。
この子どもが鬼柳に限りなく近い存在であることには間違いない。戻ってきたと安堵するには先ほど墓に納めてきた遺骨の説明ができないし、シグナーの痣が沈黙を守っている点も気にかかる。
だからこそ、今度こそ本当に、鬼柳を守ってみせる。二度とこの体を離してなるものか!
「鬼柳?」
遊星の壮絶な決意をよそに、クロウが鬼柳の名前を呼ぶ。
「う」
「貴様は死んだのだろう。どうしてここにいる?」
ジャックが引き継いで、ダイレクトに疑問を口にした。
幼い鬼柳は、ことんと首を傾げる。いまだ抱きついたまま微動だにしない遊星を見下ろし、ボウリングのボールを転がすように大きく腕を振る。
「うどがー、やいなおし! ぽーん!」
「ウドガー? ……ウドの大木?」
「クロウ、貴様なぜ俺を見た」
要領を得ない会話に、鬼柳が地団駄を踏んだ。意味を理解しかねる単語をひときわ大きな声で叫ぶ。
「うどがー!」
「……まさか、ルドガーか」
ようやく会話を耳に入れた遊星が身を起こして呟けば、鬼柳は大きく何度も頷いた。確かめるようにまた「うどがー!」と声を上げる。この鬼柳はとことんラ行に弱いらしい。いや、それはさておき。
冥界の住人であるところの人物に、遊星たちは顔を見合わせた。これで超常現象の説明は半ばついたようなものだが、鬼柳の説明では仔細を掴めそうにはない。どうして鬼柳がこんな姿になってしまったのか、説明ができるのは判明している限りではルドガーだけだ。もちろん死者である彼を訪ね、説明を請うこともできない。
結局現状を維持するしかない、という結論に至るのは、ほんの数分の後のことである。
- 2013.6.26
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