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シザー&ハニー

 そうだ、髪を切ろう。
 ラモンがこう思いついたのはなりゆきである。
 ただし切るのは自分の髪ではない。目の前の男の髪だ。
 今、ラモンの目の前には男が一人座っている。影の差した表情に、濁った瞳をした男。平時であればまず近づこうとは思わない、いかにも厄介事を連れてきそうな暗い男だ。それがどうして同じテーブルにつき、目の前でラモンの支払いによるパスタをもそもそと食しているのかと問われれば、ラモンがこの男を雇い、この男がラモンの率いるグループの間接的な稼ぎ頭となっているからにほかならない。
 たまたま町に流れてきた、どうにも死にたがり臭いこの男を雇ったのはラモンの判断だ。マルコムファミリーとの鉱山労働者を賭けたデュエルタイムで負けが込んで焦っていた、とにかくその場凌ぎにでもなればと思ってこの男を雇った。折に触れて発する、敗北や死を仄めかす危うげな発言は気にかかるものの、結果として男はラモンに三十連勝をもたらしている。
 数だけ見れば破格の拾い物だっただろう。しかしだ。
 男はパスタにフォークを落とす。ぐるぐると回して絡めとり、そのまま口へ。まるで味がしないかのように無感動に無表情に咀嚼し嚥下する。
「鬼柳先生」
 ラモンは試しに声をかけてみた。
「美味いですか」
 先生と呼んで持ち上げたところで表情が変わるわけでもない。ラモンがそのことに気づいたのは男の、鬼柳の初勝利から三日を数えたあたりからだったが、なんとなく癖になってしまい、結局こう呼び続けている。
 もちろん今この時も例外でなく、鬼柳はラモンの声にごろりと眼球だけを動かした。長くまばらに伸びた前髪から、あまり見ない色の虹彩がラモンを見つめる。鬼柳は口の中のものを機械的に咀嚼し、飲み下す。かなりの間を置いてラモンに返ってきた台詞は、
「別に」
 これである。ラモンは視界の端で、カウンターに崩れる店主の姿を見た。
 この店はラモンが裏で資金繰りをしている飲食店の中で最も味がいいと思う店なのだ。が、連れてきた初日から料理に対する鬼柳の感想はことごとく「別に」のみ。密かに鬼柳のデュエルの腕前に惚れ込んでいる店主が鬼柳を唸らせるために日々心を砕いていることをラモンは知っている。補足すると、店主の密かな努力が報われる日がまずないだろうことも知っている。
 そう、デュエルタイムという悪しき習慣が始まって以降、初の三十連勝を達成したこの鬼柳京介は一種の象徴なのだ。町のガキ共は鬼柳を羨望の眼差しで見上げているし、ジジババ連中の中には密かに彼の背中を拝んでいるものすらいる。他の中年や若い連中も似たり寄ったりで、この店主の反応がいい例だ。
 この妙な人気とカリスマ性を逆手に取って一儲け、などと考えるほどラモンは落ちぶれていないし、博打打ちでもない。ただ、あらゆる人間が鬼柳を見ている、このことを本人にせめて自覚して欲しいと思っている。地獄の釜がフタを開けて俺を待っているだの何だのとブツブツ呟くのも生への執着を投げ捨てるのもデュエルに影響さえしなければ本人の勝手と捨て置いているのだが、
「鬼柳先生」
 ラモンは再度名前を呼ぶ。鬼柳が視線だけを上げる。
 捨て置いているのだが、せめて最低限の身なりだけは繕ってほしい。
「髪。また口に入ってます」
 鬼柳は黙ったまま、パスタと一緒に食んでいた髪の一筋を口から引っ張り出した。
 この鬼柳という男、死に場所を求めてこの町に来た、などと度し難いことを平然と嘯くだけあって、日常生活を送る気はないらしい。放っておけばデュエルタイムまで延々と死んだように眠っているし、ラモンがこうして食事に引っぱり出さなければ三度の食事も取ろうとしない。こんな有様であるからもちろん身なりに気を遣うはずもなく、この町に来て以来一度もハサミを入れていない、どころかクシを入れているかどうかすら怪しい髪は伸びっぱなしだった。
 おまけに本人が妙に茫洋としているせいで、こうして食事中伸びすぎた髪を口に挟んだり、どこかに後ろ髪を引っかけたりすることもしばしばである。ラモンはそれだけがどうしても気に食わない。不衛生だ、危険だというのもあるし、こんな男を連れ歩くのは辟易するというのもあるし、せめて三十連勝中らしい威厳みたいなものを持って欲しいというのもある。こんな男のおかげでラモングループが持っているという事実に虚しさを覚える、という点からはそっと目を逸らしておいた。
 食事を終え、フォークを更に置く鬼柳へラモンは紙ナプキンを差し出す。光のない目でそれを見つめてから鬼柳はナプキンを受け取り、口の周りを拭き始めた。薄い唇をベッタリと汚すトマトソースがあらかた姿を消したタイミングを見計らい、ラモンは進言する。
「先生、そろそろ髪、切りませんか」
「……髪?」
「だいぶ長くなってきたでしょう。前も見難そうですし」
 髪の毛を咥える姿が実にだらしないから、とは伝えないでおく。
 少し間があった。鬼柳は緩慢に、ああ、とだけ呟いて己の前髪を摘み上げた。すだれのような色素の薄い髪がでろりと持ち上がる。カードを繰る時だけは鋭く動く指先がやる気なく曲げられれば、不揃いな長さでばらりと散った。
「先生がよろしければ、今日中にでもカットのできる人間を」
「知らない人間に髪を触られるのは好きじゃない」
「……はあ?」
 鬼柳はつまらなさそうに、髪先を指に絡めている。
 普段の態度が態度なので、ラモンは理解に少しばかり時間を要した。つまりこの男は婉曲に、誰かに髪を切られるのは嫌だと言っている訳だ。
 ならば本人にハサミを渡してどうぞ切って下さいと告げたところで素直に実行するかといえば、恐らくそんなことはないだろう。まずそんな姿が想像できないし、下手をするとハサミを滑らせる場所を誤って流血の惨事になりかねない。危うい場面だけは容易に思いつく。
「分かりました。また今度にしましょう」
 無理強いすることでもないし、下手に主張して機嫌を損ねられるのもまずい。ラモンはそう判断して身を引いた。また折を見て勧めればいい。
 この話題は終わりとばかりに立ち上がったラモンは、しかし次の瞬間に動きを止めた。
「あんたになら、別に構わない」
 いつもに輪をかけて理解不能な発言に、自分はどんな顔をしていただろう。ある程度の表情を取り繕えていたか、ラモンにはちょっと自信がない。
 ただ、鬼柳はつまらなそうなまま、けれどほんの少し、期待みたいな何かを込めた目でラモンを見上げていた。それだけは覚えている。


 つまり、ラモンなら鬼柳の髪を切ってもいい、という話らしい。
「本当にいいんですかァ?」
 デュエルタイムにはまだ随分と早い、照りつける日光にうだる時間。とはいえ室内では明かりが足りないので、溜まり場として使っているバーのテラスに椅子を出した。屋根の下でもそこそこ明るいし、これなら血色の悪い鬼柳が暑さに倒れることもないだろう。
 いつものコートは脱がせ、床屋で使うようなケープはないので大きなポリ袋に穴を開けたものを鬼柳には被せている。随分お粗末な格好だが、部下には近づかないように言ってあるし、ラモングループの溜まり場に好んで近づく一般人もいない。何より本人に自分の格好を気にする様子がないので構わないだろう。
 長い手足を持て余し気味に、鬼柳は腰掛けたまま首をカクリと下げた。肯定ということでいいらしい。
 問いかけたラモンとしては、肯定されたところで困惑するばかりである。右手に構えた細いハサミを見下ろす。前には無造作に伸びた髪を抱える頭。
 鬼柳の髪を切るのは自分から提案したことだが、もちろんラモン自身がカットをするつもりは毛頭なかった。とはいえ本人が自分で切ることはまずありえず、髪に触れてもいいのはラモンだけだと言われてしまえばこうする他ない、のではないだろうか。自信はないがこの男の言い分を信じれば、そういう結論になるのだろう。たぶん。
 諦念に痛むこめかみを揉もうとして、指を通したままのハサミに断念した。
「どうなっても知りませんからね」
 代わりに吐き出すように念を押す。また考えなしに頷く鬼柳は、声に混じったラモンの怨嗟にも気づくまい。
 まさかラモンさんがやるんですか、という部下の視線を黙殺しておおよそ必要そうなものは揃えた。が、重ねて告げる通りラモンにヘアカットの経験はない。自分の前髪を切り揃える程度なら何度かしたことがあるものの昔の話だ、最近は鬱陶しがって前髪はまとめて後ろに流してしまっている。
 鬼柳の頭をあらゆる方向から矯めつ眇めつ観察した結果、とりあえず毛先を切り揃えるぐらいならなんとかなるだろうとラモンは思うことにした。
 まずは少々失敗してもやり直しの余地がある後ろ髪から。本当は空いて量を減らした方がいいのだろうが素人なのでそこは勘弁してほしい。とりあえず適当に一房手に取る。
(……柔らかい)
 硬質な髪色に反して、存外。
 そこかしこに引っ掛けてはぶちぶちちぎっている割に傷んでいる様子もない。これが女性なら実にラモン好みの手触りだ。ぜひともシーツの上に散らばらせて、思う存分堪能したいところである。
 残念なことに、髪の持ち主は幽霊みたいにふらふらした男なわけだが。
「ちょっと引っ張りますよ」
「ああ」
 今度は頷きではなく声で返事があった。カット中に頭を動かしてはいけないと一応理解しているのだろう。
 指と指で髪を挟んで引っ張る。ハサミを縦に入れたのはただの見よう見まねだ。揺れる刃先の位置を確かめて、瞬間ためらって、ええいままよと右手に力を込めた。しゃきんと小気味のいい音。次いではらはらと銀色が落っこちる。
 ラモンは落下の軌道を見送って、毛先を切り落とされた髪へと視線を戻す。うまく切れているかどうかの判断はつかないが、とにかく進めるしかない。最初の一刀が入ってしまえば後は勢いだ。ラモンは無心になって鬼柳の髪にハサミを入れていく。
 昼下がりのテラスに、ちゃきちゃきというハサミの音だけが響く。鬼柳が会話の口火を切ることはまずないし、ラモンも慣れない作業に必死だった。間を持たせるための会話などあるはずがない。
 なので突然鬼柳の頭がカクリと落ちたのも仕方がないのだろう。
「おわっ」
 手元が狂いそうになり、ラモンは思わず声を上げた。
 咄嗟にハサミを引いたので事なきを得たが、ラモンの動悸はしばらく治まりそうにない。眼前の後ろ頭はといえば、ラモンの気苦労も知らずにカクンカクンと落ちかけている。
 自分もたまにやる行動だが、カットする側になると実に迷惑なものである。
「せーんせぇ、寝んでくださいよ」
「ん……」
「間違えて変なところ切っちまいますよー」
 返事はあるものの寝言と大差ない。持ち上がりかけた頭がまたカクリと落ちる様に、ラモンは溜め息をついた。店でやるように暇つぶしの雑誌でも与えておくべきだったか。
 髪から手を離し、ラモンは数歩下がってひと通りハサミを入れた後頭部を眺める。多少ガタついているような気もするが、だいたい揃っているのではないだろうか。
 自分の素人仕事に感心しつつ、今度はカクカク下がっている頭の前に回る。垂れ下がった前髪の向こうに完全に閉じられた目を見つけた。これはもう、さっさと終わらせるしかないだろう。ひとまずポリ袋越しに鬼柳の肩を揺すってみる。
「先生、前髪いきますよ。起きてください」
「うー……」
 随分と可愛らしい声が答えるものの、瞼も頭も落ちたまま。
 考えた末、ラモンは鬼柳の顎に手を添えて無理矢理顔を持ち上げてみた。これで目を覚ましてくれるなら幸い、覚まさないのならこうして頭を固定して作業をするしかない。
「せんせーい?」
 嫌がるように逸らされかけた顔は、ラモンの手に阻まれて抵抗を止める。だらしくなく伸びた前髪の向こうで睫毛が揺れ、眠気をたっぷり引きずりながら瞼が持ち上がる。
 ぼんやりと彷徨った視線が、ラモンを捉えたところで定まった。顎を掴まれていることにようやく気づいたのか鬼柳の首がわずかに傾きかけた。
 そこから左手を押さえられたのは、ラモンにとって予想外の行動である。
 青白い肌色から、なんとなく体温が低そうだと思っていた。けれど今ラモンの手を掴む手は人並みの温さを湛えている。そんなことに感心する余裕もないのは、男の顔がずいと迫ってきたから。
「……キスでも?」
 珍しく自分から喋ったと思えば。唐突に何を言い出すのか。
「するように見えます?」
「いや」
 あっさりと答えて身を引く様子に、ラモンは脱力した。
 取り落としかけたハサミを構え直し、顎を支えていた手を離す。解放と同時に鬼柳は数度首を回した。退屈だとでも言いたいのだろうか。このガキ、などと憤る気力すらない。この男に真面目に付き合ってはいけないとラモンは三連勝目あたりから悟っている。
「……前髪切りますからね。起きといてくださいよ」
 諦め声で告げれば、鬼柳はああとだけ答えた。
 気を取り直して、ラモンは鬼柳の前髪を手に取る。要領は後ろ髪と同じだ。長さは――毛先だけ揃えて、ある程度置いておけばいいだろう。長いのであれば左右に分けるなり後ろに流すなり自分で勝手にやってもらえばいい。
 ハサミをかざせば再度の鬼柳の目が伏せられる。瞼を縁取る睫毛は長い。ラモンは釈然としないものを感じつつ、前髪を適当に切り揃えていく。
 しゃきんしゃきんと刃が鳴って、銀の髪が白い顔に落ちる。すっと通った鼻の上に髪が落ちれば、鬼柳はくすぐったいのかわずかに身じろいた。
(……それなりのツラだってのに)
 意図の不明な発言を控えて、もっと身なりを整えれば、雑誌のモデルあたりを自称しても押し通せるのではないだろうか。町の連中が鬼柳京介に入れ込んでいるのも、デュエルの腕に加えてこの容姿も多少は加味されているに違いない。
 果たしてそんな鬼柳先生のヘアスタイリストと化している自分とは一体。しゃきんと最後にハサミを鳴らして、ラモンは両手を下ろした。また数歩後ろに下がり、仕上がりを確認する。悪くはないだろう、たぶん。テーブルにハサミを置き、用意していたタオルを手に鬼柳の前に立つ。
 まだ目を閉じたままの鬼柳は、ほんの少し顔を上げてラモンの次の行動を待っている。伏せられた長い睫毛と、すっと通った鼻筋、そして薄く開かれた唇。ラモンは目を細める。
 細めて、手にしたタオルを鬼柳の顔に押し付けた。
「ん」
「ハイ、終わりましたよ先生」
 顔に貼り付いた髪の毛をタオルで払う。ばさばさと数度往復させれば、タオルの下からは若干しかめっ面に見える鬼柳の顔が出てきた。
 構わずラモンは背後に周り、タオルの代わりに手にしたハサミでポリ袋を切り裂いた。ラモンが声をかけるより先に鬼柳がポリ袋だったものを外して足元に落とす。切った髪が服につかないように落としただろうか、という心配はかろうじて飲み込んだ。
 代わりにラモンは部下に用意させた鏡を差し出す。鬼柳は黙って受け取り、鏡面を覗き込む。
「どうですか」
「……軽くなった」
 毛先を揃えただけで、重量としては変わっていないと思うのだが、本人の気分としては軽くなったということだろう。
「そりゃ幸いです。次はプロに切ってもらえると俺としても助かりますけどね」
 ラモングループの顔となっているデュエリストが、身なりを整えたことは実に喜ばしい。ラモンたちはカタギとはいいがたいが、イメージというものは大事だ。が、ラモンとしては慣れない作業の上、ところどころ中腰を強要されて辛いことのほうが多かった。軽くなったと喜ぶのであれば、次は我侭を言わずに大人しくプロにカットされてくれると助かる。
 釘を差したラモンを、鬼柳がチラリと視線で振り返った。
「あんた以外は御免だな」
「……勘弁してください」
 慣れない上にやたらと神経を使う作業は御免だし、ラモンには他の仕事もある。そもそもこの男が他人に髪を触られるのは嫌だ、あんたなら構わないなどと抜かすからこんなことになったのだ。ラモンにとっては厄介事、青天の霹靂でしかない。
 だいたい他の人間はダメで何故自分なら許可されるのかも不明である。表面上はそれなりに取り繕っているつもりだが、ラモンは鬼柳と信頼関係を築けているとは思っていない。ラモンだけ、ラモン以外は、などという線引をされる理由なんて、
「……先生?」
 ないと、ラモンは思っているのだが。
 椅子から立ち上がり服を払う後ろ姿に、つい声がこぼれてしまう。鬼柳は相変わらずつまらなさそうな目でラモンを振り返る。つまらなさそうな目のはずだ、他には何も込められていない、黄色いビー玉みたいなものだ。
「先生でも、あんな冗談言えるんですね?」
 そこで思考を止めておけばいいのに、先ほどの突拍子もない発言を持ち出してしまったのは怖いもの見たさでしかない。
「別に。冗談じゃないからな」
 という、鬼柳の返答は、つまりどういう意味だったのだろうか。
 ふざけるな、とか、とんでもない、という意味で言う「冗談じゃない」だろうか。だとすると会話として成り立たないのだがこの男を相手に会話が成り立たないことなどしばしばあることだ。
 まさか、あの冗談は本気だった、という意味ではあるまい。ラモンが鬼柳に特別視されることに納得できるとしても、いくらなんでも、そんなことは。
「……冗談ですよね?」
「さあ?」
 別の椅子に引っ掛けていた黒いコートを悠然と羽織り、鬼柳は珍しく微笑を浮かべた。思えばラモンの初めて見る、自嘲も皮肉もない、どこまでも腹の読めない微笑みだった。