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サイン

 鬼柳は夢を見る。およそ三年ほどの記憶を取り落とし、病室で目を覚ましたその日の夜から見ている――のだと、思う。
 何分夢のことなので記憶が曖昧だ。そうでなくても恐らくの始まりが、まるきり変わってしまった世界を相手に無機質で真っ暗な夜の病室で震えていた時分なのだ。あの頃は世界でなければ自分が狂ってしまったのだと諸々を疑っていたのだから仕方がない。自分がずっと、不連続でまとまりのない、けれど確実に同じ夢を続けて見ていると気がついたのは牢獄のような病室を抜け出した後、針の筵に等しい遊星たちの塒を飛び出してからのことである。
 だからきっと、今この場所も夢の中だ。
 夢を見続けていると自覚してしばし、ああまたかと諦念を覚える程度には慣れた風景。温度。感覚。目が覚めれば見たもののほとんどを取り落としてしまう、いつもの夢。
 光のない廊下を、鬼柳はひとり歩いている。無駄に高い天井で蓋をされた、無駄に幅が広く無駄に長いその廊下を、やる気のない靴音を響かせながら歩いている。その無駄を煩わしいと思いつつ、自分もまた無駄に目深くフードを被っていた。
 ただでさえ暗い廊下に、視界を遮る黒い布。やる気のない歩き方も相まって、ずるずる引きずっていたマントの裾が足先に引っかかった。構わず更に一歩を踏み出せば、少しは厭えとばかりに布が絡んで鬼柳の歩みの邪魔をする。もちろん相手をするほどのやる気もなく、鬼柳はそのまま足元を取られ、顔面からしたたかに倒れ込む――
「…………あ?」
 はずだったが、ぼんやりと予想していた衝撃がいつまで経ってもやってこない。鼻先に埃っぽい床を捉えたまま、鬼柳は緩慢に首を捻った。シャツの首元がやけに引っ張られていて痛い、ような気がする。マントの裾が絡んだだけで、首元が引っ張られるほど奇怪な転倒の仕方ではなかったと思うのだが。
 鈍い疑問の答えは、釣り上げられる感覚とともにもたらされた。
「貴様は何をやっている」
 栄養不足は否めないながらもそれなりの体格を持った鬼柳はマントごとシャツの首根っこを掴まれ、まるで猫のように持ち上げられていた。ぶら下げられたまま方向を変えられて、自身を吊り上げる主と顔を合わせることになる。
 鬼柳と同じような意匠の黒尽くめに身を包んだ男である。真っ黒く染まった眼球はともかく、浅黒く焼けた肌を持つ厳つい体格と、背中でひとつに束ねられた長く白い髪が特徴的だった。やたらと威圧感を放つ外観だが、鬼柳は構うことなく、至極つまらなさそうに呟く。
「……アンタかよ」
 鬼柳はその男を、もう見慣れた顔であると認識した。乖離したところで自分を見る鬼柳はといえば、そうなのかと適当に納得する。
 夢の中なのだから当然といえば当然だが、男が俯瞰して眺める鬼柳に気付く様子はない。低く声を這わせる。ぞわぞわと背筋が粟立つような声だが、鬼柳は相変わらずやる気なく、ぶら下げられたままで聞き流している。
「フラフラと歩くな。邪魔だ」
「誰もいないからいいだろ」
「貴様一人の廊下ではない、私がいる。それと」
 首根っこを掴む手が不意に放される。数歩たたらを踏んで、鬼柳は床に足をついた。
「死体が眼の下に隈を作るな。見苦しい」
 それは、鬼柳からは確認のしようのないところである。
 返す言葉を見つけられず、半開きの口で男を見上げる鬼柳はさぞかし間が抜けているだろう。しかし男は鬼柳を笑うことはせず、黙って手を伸ばしてきた。体格に見合う無骨な手が眼前に迫り、ほんの僅か鬼柳は身を引く。鬼柳に向かって伸ばされる手は、いつも碌でもないものばかり与えてくる。
 構わず伸ばされた片手は緩く鬼柳の後頭部を捉え、親指が目の下をなぞった。程度は知らないがそこに隈があるのだろう。
 それにしてもシュールな絵面だ。鬼柳は半ば身を強ばらせ、男は何を言うでもなく隈を指で辿っている。自分たちの姿を客観的に描いて、鬼柳はちいさく息を吐いた。それからぱしりと男の手を払う。
「……死体にも睡眠が必要って、意味わかんねーし」
 夢の中の鬼柳の台詞に、客観的にも主観的にも自分は死んでいらしいと知る。死体でありながら動き回る、ゾンビのようなものなのだろうか。夢ならばもっと穏やかなものであってほしいと思うが、夢のことなので文句のつけようもない。
 男は振り払われた手を軽く振る。どこか呆れたような仕草で、返ってきた声にも呆れに近い何かが含まれているような気がした。
「旧モーメントに引き篭っているだけの貴様が、一睡もせずにしなければならないことがあるのか」
「るせーな」
 何もないらしい。そのくせ寝が足りないのであればなるほど、男の言うことは尤もである。
 鬼柳にとって一日とは有限で惜しみなく全力を注がなければならないものだ。まだ制覇していない地区の下見に行ったり、デッキの調整をしたり、遊星のジャンク拾いを手伝ったり、クロウが面倒を見ている子どもたちの相手をしたり、ジャックと一緒に配給の食料を貰いに行ったり。
 けれどそれらはとうに過ぎ去ってしまったものだ。遊星たちのところに厄介になっていた頃といい勢い旅に出た今といい、やるべきことの見えない毎日は頼りなくて仕方がない。睡眠を取らないという点は首を傾げざるを得ないが、今の鬼柳には、夢の中の鬼柳の漠然とした不安が分かるような気がした。
 反論できないでいる鬼柳の頭上に、振り払われて行き先を失った手が乗せられる。見た目通りずっしりとして重いそれは、鬼柳を殴るでもなく、ただ乗せられていた。
 不意に既視感に囚われる。けれど鬼柳が既視感の正体を探るよりも先に、男の浅黒い手は頭上から離れていく。続けて無駄に長い廊下に響く靴音と、被せるように投げかけられる声。
「着いてこい」
「ンだよ。命令すんな」
「燻っている貴様に仕事をやる」
 しごと。ちいさく反復する鬼柳は、わずかに考えこむ素振りを見せる。自分の中で何かと何かを天秤にかけてでもいるらしい。しかし鬼柳の返答も待たずに靴音高く遠ざかる男を見、思い切り舌を打って小走りに駆け出した。
「待てっつーの! めんどくせーことはゴメンだかんな!」
 鬼柳の視点が乖離する。夢を見ている鬼柳だけが先ほどと同じ場所に立って、ふたつの黒い背中を見送っていた。先をゆく男がどこかうんざりしたように低く呟く声が、遠ざかっているはずなのにやけにはっきりと聞こえる。
「貴様もいい加減、自分の神のために使命を果たせ」
 視界が黒く、フェードアウトする。


 次の場面もまた、光のない暗い場所だった。
 ただしこちらは天井にほど近い場所にガラスの抜けた細い窓があり、なけなしの日が差している。埃がちりちりと輝き舞い落ちる先には、鈍く光を照り返すものがあった。
 青く塗装された先鋭的な印象のそれ。全体の高さに比べてシートは低く、特徴的なデザインのハンドルがよく目立つ。大きな前輪と、前輪に比べると一回り小さい後輪も少し変わっているのだろうか。比較的馴染みあるものに当てはめれば、それはバイクに近いのだろう。
 しかしこれが二輪車などではないことを鬼柳は知っている。正答は背後の男からもたらされた。
「D・ホイールだ」
 青い車体に――正しくはバイク型デュエルディスクの表面に映る鬼柳の真っ黒い目が、ぱちぱちと瞬く。行儀悪くしゃがみ込みながら、男に答えるでもなく、ひたすら青いD・ホイールを見つめ続けていた。新しい玩具を手に入れた子どものような心持ちで、酷く歪んだ笑みを浮かべている。
 構わず男は続ける。男もD・ホイールを見つめてはいるが、彼の視線は未だ未完成であろう、露骨に欠けた中枢部分を見つめている。
「まだモーメントを組み込んでいない、未完成なものだがな。……貴様のものだ」
 また、黒い瞳が瞬いた。薄暗い部屋の中、黒い眼球をやたら艶々と輝かせる。まるで話を聞かない態度は何だったのかと呆れるほどの素早さで夢の中の鬼柳は男を振り返る。夢を見ている鬼柳は一体どのような視点に立っているのか、振り返る鬼柳の表情は見えなくなった。
「……俺の?」
 高揚しているのかと思いきや、予想外に静かな、ひそりとした声だった。
 男も少しは拍子抜けしたのだろうか。らしくなく見える、ような気がする表情で、重々しく頷く。
「貴様を……った仲間、ジャッ……………スがシグナーの一人であることは覚えているな」
「覚えてるよ。死体の俺がこーして動き回ってんのは、あいつらを…ッ…すためだろ」
 夢を見る鬼柳は首を傾げる。
 これはたぶん、なにか、大事な話だ。二人は息をするような気軽さで交わしているが、直感的にそんな気がする。鬼柳がぽっかりと失くした記憶の根ともいうべき、絶対に忘れてはいけない話。
 だとしても、二の腕を這い上る怖気のような、この感覚は何だろうか。
 何より、肝心なところだけ水に潜ったようにぼやけてしまって聞こえない。鬼柳は眉根を寄せ、できる限り聴覚を研ぎ澄ませる。もどかしさに歯噛みする鬼柳など置いてけぼりで、ふたつの死体の会話は続く。
「効率的に…すのならば、同じくライディングデュエルであるほうがいい。我らの…のためにもな」
「それで俺にコレ使って、ライディングでジャックを…せって?」
「かつての……を、貴様は私やディマクに譲るつもりか?」
「冗談じゃねぇ」
 濡れて引きずるような声。どろりと絡みつく粘っこい怨嗟。
「あいつらは、全員、俺が殺してやる」
 割れた地の底から這い上る声は、誰の声だろう。
 夢の鬼柳も対する男も、声の主を探す気配はない。ただ男だけが静かに頷いて、黒耀の瞳を鬼柳のものとなったD・ホイールに再度向けた。さも当然と言わんばかりに、何の感慨もなく会話を続けていく。
「直にモーメントも組み込んで完成させる。それまで貴様はライディングデュエルのルールでも覚えていろ。完成次第走りに慣らしておけるようにな」
 鬼柳は男の視線を追うように、肩越しにD・ホイールを振り返る。
 まだ未完成で走ることはできないが、これは鬼柳のものである。ライディングデュエルの細かいルールなど知る由もないが、そんなものはすぐに覚えられるだろう。どちらかといえば走りに慣らす、という方に俄然興味が湧く。男の言う『慣らす』というのは、走行処女のこの機体と、鬼柳自身を指していることはすぐに知れた。
 D・ホイールで走る、というのは、どういう感覚なのだろう。鬼柳はサテライトでの生活を振り返る。
 サテライトではモーメントによるエネルギーの供給はもちろん、電気やガソリンといったおよそ駆動系のエンジンになりそうなもののすべてが不足していた。動力を要するものといえばシティから定期的にやってくる配給の自動車と、点数稼ぎに警邏するセキュリティのD・ホイールぐらいのもので、自分の足以外で移動したことのある人間などいないに等しい。鬼柳ももちろん例外ではなかった。
 そもそもサテライトは、こんな複雑な機構の大型機器はおろか衣服やパンですら周りから勝ち取らなければ満たされない世界だ。
「……アンタは知らねーかもしんねぇけど、俺は根っからのサテライト育ちだからさ、」
 口の端から、ぼろりと声が転げ落ちる。
 今更、鬼柳は自分が生前とは違う世界にいることを噛み締めている。それは死後という冷たく饐えた感覚ではなく、どちらかといえば真逆の、じわじわと胸を冒す何かだった。
「まず誰かに何かを与えられるっつーのが初めてなんだわ」
 見上げた先の男は相変わらず何を考えているのか分からない無表情。けれど自分と同じ、死者の証である黒い瞳の奥に何かが揺れているような気がする。どこまでも鬼柳の希望でしかない錯覚だが、今この時だけはそうだと思い込む。
「顔も覚えてねー親がつけたんじゃないかっていう、京介って名前は別にしてさ。アンタにはアンタの思惑があってこうしてるんだろうけどよ……あー」
 笑う要領で息を吐いて、ぐいと膝に力を込めた。いまだしゃがみ込んだままの姿勢からようやく居直り、男の目の前を塞ぐように立つ。それでも明らかに高い位置にある男の視線にムッとして、マントの襟元を掴んで引っ張った。男は案外と素直に姿勢を崩し、鬼柳と同じ高さに男の視線が落ちてくる。
 死んでから、生まれて初めて、なる体験をするというのもおかしな話である。鬼柳は口の端を少し持ち上げて嗤った。
「……アンタはぜってーバカにするだろうし、自分でもバカじゃねぇかって思うけど。俺が自分で満足したいだけだから言わせてもらうぜ」
 突き合わせた先の瞳が本当はきれいな空色をしていたことを、鬼柳は今になって知った。ぎりぎりと胸を締め付ける何かに押し出されて、今は白を取り戻した目から零れそうになる水を押し留める。
 夢を見ている鬼柳に、夢の中の、過去の鬼柳は気づかない。未来も別離も知らない鬼柳は笑って、あの時の自分にしては密やかに笑って、囁くように男に告げた。
「ありがとう、な。……ルドガー」


「う、わ」
 流れ落ちた水が耳に入り込む違和感に鬼柳は飛び起きる。次の場面も薄暗く、けれどここは壊れかけたブラインドから朝日が流れ込む現実だった。耳元を軽く叩きながら窓を見やり、眩さに目を眇めてみる。
 鬼柳は夢を見ていた。およそ三年ほどの記憶を取り落とし、病室で目を覚ましたその日の夜から見ている連続した夢である。何分夢のことなので記憶は曖昧で、現に目を覚ましたばかりの今ですら、いろいろなものがぼろぼろと落ちていく感覚に囚われている。
 おまけに今朝はどんな夢を見ていたのやら、涙が溢れて止まらない。泣きながら目を覚ますなんて根っからのガキの時分にもなかったのにと、鬼柳は溢れ続ける水を手の甲で拭った。適当に潜り込んだ空き家なので情けない姿を誰かに見られる心配はないが、涙と一緒に夢の記憶と、何か別のものまで流れ出してしまうようで、それが無性に悲しく、悔しい。そう思えば思うほどに涙は勢いを増していく。悪循環である。
「ンだよちくしょ……あー、もう……止まれっての」
 半ば呆れ、笑いながら、ごしごしと目元を擦って、最後には諦めた。放っておけば止まるだろうと放り投げ、ついでに固い寝床に身を投げ出す。伸び上がる要領で濡れた拳を頭上に突き上げれば、こつんと触れるものがあった。手繰り寄せ、濁った朝日に透かしてみる。
 まだ馴染みのない、けれど不思議とプレイングに悩むことのないカードたち。インフェルニティと名のついた彼らは鬼柳の望むように手札を、フィールドを、墓地を巡る。無一文で遊星たちのところを飛び出した鬼柳だが、賭けデュエルで日銭を稼ぐことができているのはひとえにこのカードたちのおかげだ。
 デッキケースを振れば40枚のカードがかたかたと音を立てる。
 最初に見つけた白紙のカードは抜いて、相性のよさそうな他のカードを投入した。果たして真白いカードたちが何のカードであったのか、今はもう知る術もない。カードの種別から判じるにモンスターカードではないかと思うのだが、この答えも今日の夢にあったのだろうか。
「……どんな夢だったのかな、」
 悲しい夢だろうか。まさかそこまで臆病ではないと思うが、泣くほどの恐怖を感じる夢だったのだろうか。
 目尻に浮かぶ涙を瞬きで散らして、鬼柳はひとり苦笑する。デッキケースの中で、カードがかたりと小さく答える。泣くほど悲しい夢か、泣くほど恐ろしい夢か。もしかすると泣くほど嬉しい夢を見たのかもしれない。悲しい夢よりは嬉しい夢のほうがいいだろう。
「なあ、ルドガー?」
 無意識に呟いた誰かの名前は涙と一緒に散っていった。鬼柳が夢の真実を知るのも嬉しい夢を悲しむのも呼んだ誰かを思い出すのも、もうしばらく先の話である。
    2013.5.19
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