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廃棄スクラップトラップ

 軽く柄に指を添えるような心持ちで構える。力を入れすぎてはいけない。そしてまずは始めが肝心だ。一刀はぷつり。
 続けて薄く細い鋼が裂く感触。まっすぐに刃を奔らせて、流れる縦にも、無論左右にもブレないよう、均質に力を乗せる。細心の注意は要するものの遅すぎてもいけない、適切な速さでするすると腕を動かす――
「……何をやっている、鬼柳」
「っ! ジャッ、ク!?
 聞こえるはずのない声に、思わずビクリと震えて動揺する。それでも手にした刃を揺らすことがなかったのは我ながら大したものだ。手元では迅速かつ慎重に刃を収め、中途に切り開かれた物を閉ざして背後に庇いつつ声の方を振り返る。
 ジャックは部屋の出入り口を塞ぐようにして立っていた。腕を組んで胡乱な目でこちらを見ている、ように見えるのは、鬼柳自身自分の行動に後ろめたさを感じているから、だと思いたい。
「き、今日は遅くなるんじゃなかったのか」
 問いかけながら背後に回した手をそろそろと滑らせて対象を遠ざける。ジャックには気づかれていない、気づかれてはいけない。
 と、いう鬼柳の希望的観測は脆くも崩れ去った。長い足を存分に見せつけながら数歩の闊歩で距離を詰め、鬼柳の目前に迫ったジャックは抵抗する間もなく鬼柳の背後へ手を伸ばす。ここで抗って皺や折り目でもついたら、無意識にそう判断した鬼柳はあっさり手を離してしまう。ばさりと無情な音を上げて、鬼柳の頭上からジャックの目の前にそれは晒された。
 可もなく不可もない色彩とデザインは老若男女を問わず手に取るのに抵抗がない。よくあるサイズによくある厚みで、先のデザインも相俟ってみっちりと情報の詰め込まれた専門誌というよりは大衆向けであると知れる。
 有り体にいってしまえばただの雑誌だった。堅実な装丁やカードが描かれた表紙からして、あることないことを過剰に騒ぎ立てるゴシップ記事がひしめいているわけでも、女性のあられもない写真が袋とじで掲載されているわけでもない、一般に広く知られているデュエル雑誌であると見て取れるだろう。鬼柳が慌てて背に隠すようなやましいものではない。
 表紙に力強いゴシック体で『絶対王者特集―戦績からデッキレシピまで解説―』の文字さえ躍っていなければ。
「…………」
「…………」
 ジャックは何も言わない。黙って雑誌を見つめているようだが、鬼柳の角度からでは雑誌の影になって表情は窺えなかった。
 そうでなくても込み上げる感情が邪魔をしてまともにジャックの顔など見れそうにない。膝の上に拳を置いて鬼柳は俯く。まんじりとして待つ時間と空気は鉛のように重かった。そのような気概でいれば、続くジャックの挙動に過剰に動揺してしまうのも当然である。
 重なる紙がはためく音に顔を上げる。宙を舞う雑誌がやたらスローに見えて、鬼柳は捲れ上がったページに覗くジャックと目が合った気すらした。もちろん幻想である。恐らく皺も折れ目も入ってしまっただろう、ぐしゃりという墜落音を背にジャックは力強く腕を組み鬼柳を睥睨する。
「何の真似だ、これは」
 淡々とした声に、ジャックの心情を推し量りかねる。少なくとも逃げ場がないことだけは知れて、鬼柳は首筋が痛むほどに視線を逸らし、ようよう答えた。
「……切り抜きだ」
「ほう」
 ジャックの返答は剣呑を孕んでいる。暗にそれだけかと更なる回答を迫られているが、まさか昔からの趣味であるとは答えられない。離れ離れとなったジャックがゴドウィンの庇護下絶対王者として名を馳せてゆく過程を、逐一切り抜きなり記録媒体なりといった形で保管していたなど。恋する乙女のように頬を染めてそれらを眺めては、いつか再会する日を待ち侘びていたなど。死んでも言えるか。
 視線を逸らしたまま、鬼柳は口を噤む。自分は貝であると思い込むが、沈黙を貫くこの姿勢が結果としてジャックの素早い行動を許してしまった。
 無残な姿を晒す雑誌を拾い上げ、でかでかと表紙を飾る文句を一瞥して後、ジャックは近くの屑籠に丸めて突っ込んだ。流れる動作で鬼柳の横をすり抜け、テレビの下、密かに稼働を始めていた録画機器の電源ケーブルを引き抜いた。
「ああっ……!」
 などと悲痛の声を上げたところでジャックが意に介すはずもない。
 高性能な最新機が備え付けられているとはいえ、ジャックが自ら積極的にテレビやパソコンといった電子機器を操作している姿は見たことがない。使用しないのであれば気づかれる可能性も低いだろうと踏んで絶対王者の防衛戦をハイライトした番組を録画予約していたのだが、ジャックは目聡くも録画を知らせる小さなランプの点灯に気づいていたらしい。いかな最新鋭機であろうと供給されるべき電力が断たれば抵抗のしようがなく、録画は中断という形で結末を迎えただろう。
 ジャックが帰って来なければ重ねてリアルタイムで試聴する予定だったのに。鬼柳は無念に奥歯を噛む。再放送を期待するしかない。
「鬼柳よ」
 すいと落ちる声と、影に、背けていた顔を上げる。そこにはやたらきれいなジャックの目があった。
 これ以上の逃げは許さないとばかりに、けれども存外に優しい動作でジャックの手が鬼柳の頬に触れた。滑る指の感覚に背筋が震える。
「貴様、この俺が目前にいるというのに、それでも平面の俺が好きか?」
「っ……!」
 この一言で先程まで痛烈に感じていた無念が霧消するのだから、自分は相当ジャックに躾けられている。
 という自覚すら吹き飛ばし、鬼柳は慚愧と歓喜の相反する感情に身を震わせた。
「そ、そんなことはないっ、目の前にいるお前のほうがずっと好きに決まってる!」
「そうか」
 ぶるぶると首を横に振る鬼柳を見下ろすジャックの瞳は王者の瞳だ。慈愛に溢れてはいるが、それは自分のために忠実で勤勉な民衆を満遍なく愛でているだけに過ぎない、絶対的に上位の人間のみが持ち得る愛情である。
 とはいえ愛情であることには間違いなく、ジャックが鬼柳以外の他者にこのような感情を向けることはありえない。何より王の視線に背いて口を噤む鬼柳と視線を合わせるために膝をついている時点で、ジャックにしてみれば随分と対等に近い関係である。
 鬼柳はそれをよく分かっていた。目を細めて見下ろすジャックの視線と抱き寄せられる感覚にのぼせながら、されるがままに目を閉じる――耳元に寄せられたジャックの唇が、無情に言葉を紡ぐその瞬間までは。
「ならば鬼柳、今まで貴様が溜めてきた切り抜きやら映像記録やら、すべて破棄しろ」
「……え」
「破棄しろ」
 思わず問い返す鬼柳の声に重ねて繰り返される。
 施設を逃げ出してから今まで、つまりジャックの住居になし崩しで厄介になってからもずっと、そして密かに続けていた収集癖を知られていたのか。鬼柳が顔を引き攣らせたところで、王者が構うはずもない。涼しい調子で続けてくる。
「貴様の一生は俺が貰い受けると言っただろう。ならば切れ端の情報でしかない物を相手に恋情を募らせる必要もあるまい。破棄しろ」
「そ、それはそうだが!」
 長い年月をかけ、ひとつひとつ哀切を込めてコレクションしてきた切り抜きや録画映像たちである。ジャックに如何な心情の変化があろうと、明らかに見放されるまでは添い遂げようと覚悟しているがそれとこれとはまた別の問題だ。離れていた間の寂しさを埋めてくれたそれらをおいそれと捨てられるほど割り切って考えることはできない。
 ジャックからの無情な勧告に必死になる鬼柳には、最早収集にかける熱意を見透かされていたことなどスポンと抜けてしまっている。
「ジャック、あのコレクションは、その、お前とデュエルの次くらいに大切なものなんだ……! だから、」
「俺だけでは満足できないのか」
「そんなことはない! ないが、しかし――」
 鬼柳、と、力を込めて名を呼ばれ息を呑む。
 ジャックは薄く笑っていた。果たしてどれほどの考えがそこに渦巻いているのか、鬼柳が知る由もない。
「貴様の了解を得ず、そのまま俺が棄ててもよかったのだぞ」
「う……」
「この意味が分からない貴様ではあるまい。なあ、鬼柳?」
 全く以てその通りだ。ジャックは今雑誌を屑籠に投げ込んだように他の鬼柳の収集物を黙って処分してもよかった。むしろジャックの性格からすればそちらのほうがらしい判断にも思える。
 にも関わらずこうして一言で破棄を命じてくるあたり、ジャックなりの温情なのだ。他にも思惑はあるのだろうが鬼柳はとにかくこれだけを解釈して、項垂れる要領で頷いた。ジャックが鷹揚に頷く気配も遠い。
「……ジャックの言うとおりだ。俺は、ジャックさえいれば満足できるんだから……今まで集めたものは、処分、する」
 絞り出した声が震えていたか否か、鬼柳にはその判断すらつかなかった。
 これ以上みっともない言葉を重ねてしまう前に早々に立ち去って処分してしまおうと決意する。確かにジャックの言うとおりかもしれない。これから先の未来はジャックと共にあるのだし、寂しい過去の収集物など笑って手放す時が来たのだろう。前向きに考え直してみる。
 傍らのジャックを制しながらゆっくりと立ち上がって、近くの棚へと歩み寄る。ジャックには内緒で空の抽斗を二重底にしておいたのだ。
 まさか露見するとは。未だ残る悔しさに苦笑しながら取っ手を引く。
 そこには鬼柳の仕込んだ二重底と、違和感があった。
「……?」
 鬼柳が最後にこの抽斗を開けた時にはなかったものがある。比較的大きなバインダーだった。中にはみっしりと某かが綴じられているのか、厚く硬い材質の表紙は少し浮いてしまっている。そしてそこから覗く光沢のある紙切れの端。
 鬼柳はその紙切れを何気なく引き出して――目を見開いた。
 まさか、と思い、バインダーをまるごと引っ張り出す。綴じずに挟まれていただけらしい紙切れがバラバラと足元に散る。そこに映るものにバインダーの中身を半ば確信しながら開く。背後でジャックの声がする。目に飛び込むのは長い銀髪に陰鬱な顔をした男、の、隠し撮りだと知れるアングルの写真。そればかりである。
「……ジャック?」
「……何だ」
 これはD1GPの時のものだろうか、陰鬱な顔の男が黒いコートを靡かせて、青いD・ホイールに乗って決闘をしている最中の写真だ。どう違うか分からないような微細な変化しかない写真が綺麗に並べてファイリングされていて、コマ送りで切り取ったものだろうと鬼柳は当たりをつける。
「これは、何だ」
 ファイルを抱えたままゆっくりと振り返れば、絶対王者は既視感を覚える仕草で顔を背けた。
「写真だ」
「誰の」
「見れば分かるだろう」
 見れば分かる。その通りだ。毎朝鏡で見る男の顔だ。
 つまりこの写真の被写体は、間違えようもなく、どうしようもなく、鬼柳自身である。
 視線を遠くに飛ばしながら堂々と答える様は流石絶対王者である。常の風格や威圧感は全くない。低く呻きながら、鬼柳はじりじりとジャックに詰め寄る。
「……どうやって撮った」
「ゴドウィンの所持していた映像記録から拝借した」
 返すあてのないものについて拝借という言葉は妥当なのか。鬼柳はふつふつと込み上げる何かを抑えながら取り留めもないことを考える。その反動か、ジャックにバインダーを突き出す動作にいやに力が入ってしまったのは仕方がないことだろう。硬いバインダーの角で腹を抉られるジャックも自業自得である。
「ジャック……さっきお前が俺に言った言葉、全てそのままそっくり返させてもらうぞ」
 ついでにぐりぐりと角で抉り込むが、ジャックは珍しくも曖昧に頷くのみである。
「俺がいるのにこんなものに現を抜かしていたのか、お前、は……」
 糾弾の声は、はたと思い至ったところで弱くしぼむ。
 鬼柳は手にしたバインダーを見る。続けて角で抉るジャックの腹を、そこからそろそろと視線を転じてジャックの顔を見る。ジャックは顔を鬼柳から逸らしたままで、けれどほんの一瞬、ちらりと鬼柳を見下ろした。
 バインダーひとつで先程までと立場が逆転したわけで、つまり鬼柳が今抱える憤りは大小の差はあれどジャックも抱いていたものだと推測できる。ジャックは重ねて俺がいるのに切り抜きに拘るのかと責め、収集物を捨てるよう命じたわけである。今まさに鬼柳もこの心境だ。俺がいるのに、こんな写真なんか必要ないだろうと、こんな写真より俺を見ろと――
 がつんと派手な音を立てて、鬼柳の手からバインダーが滑り落ちた。
 続けてばたばたと写真のばらける音。その全てが鬼柳の耳には入ってこない。役立たずの耳はみるみる赤く染まって、鬼柳の視線は取り落としたバインダーではなくジャックにひたすら注がれている。
「ジャック」
「何だ」
「なんというか、その……悪、かった」
 今度はまた、鬼柳が視線を逸らす番だった。
 ジャックは何も答えず、ただ動揺したような気配だけがひしひしと伝わってくる。恐らくジャックも視線を逸らしたままで、床に散らばる写真の男を“無手札の鬼神”などと大袈裟に呼称する連中や、今や屑籠の中で沈黙しているあの雑誌を購読する連中がこの光景を見たら我が目を疑うに違いない。何より、鬼柳自身が信じられないでいる。
 ジャックが、鬼柳の集める切り抜きや映像記録のジャックに――もしかすると言葉が間違っているかもしれないが――嫉妬、しているなどと。
「……できるだけ、切り抜きとか、やめる、な」
 やたらと火照る頬に浮かされるがままに呟けば、視界の端の端で静かに頷くジャックが見えた。大きく揺れるジャックの金の一房に同意を見たような気がして、鬼柳は否応なしに潤む瞳を瞬きひとつで蹴散らす。コレクションの処分は保留ということでいいだろうが、床に散らばった大量の自分の写真をバインダーに収め直すぐらいはしなければなるまい。ジャックのプライドを立てるためにも。
 鬼柳が写真を拾い、ジャックが屑籠に突っ込んだ雑誌を拾い上げるまであと数分である。