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埋葬の森の黄昏坂

 これは夢か幻覚か、でなければいいとこ自分の心象風景とか精神世界とか、そういうものだ。
 鬼柳はあからさまにつまらなさそうな表情でフンと鼻を鳴らした。神様を宿した右腕は死体の冷たさのまま変わり映えしないが、たぶんそういうことだ。
 見慣れた部屋だった。打ちっ放しでひび割れ放題のコンクリートの壁に、配線が剥き出しで垂れ下がっている室内灯。酷いボロ部屋だが、これでも雨風が防げて水道が生きていただけ天国だったのだ、自分にとっては。
 つまり間違いなく、昔鬼柳が根城にしていたサテライトの廃ビルだった。何よりの証拠として、綿が抜けて固いばかりのソファに嫌というほど見慣れた顔の男が転がっている。当時と同じ姿をした鬼柳自身だった。
 かつての自分を、鬼柳は俯瞰した視点で見下ろしている。もしもあそこで転がっている鬼柳が幽体離脱でもすればこんな視点なのだろう。しかし鬼柳は幽体などではなく動き回る死体であった。なので転がっている鬼柳と自分であるところの鬼柳はやっぱり別に存在していて、ああ、だんだん訳がわからなくなってきた。
 らしくなく考える鬼柳など知らぬげに眼下の鬼柳は馬鹿面を晒して寝こけている。そもそも起きていたところで、そっちの鬼柳からこちらが視認できるのかは定かではないが。
 状況の大雑把な把握はできた。そもそも右腕に神を宿して死んだはずの自分が生者さながらに動き回っている時点で何が起きてもおかしくはないのだから、納得するだけなら簡単だ。
 ならばかつての自分と相対している、今の状況の意味は何だ。
 地縛神は自分に何をさせたいのか。当然眼下の自分以外、干渉できそうな対象はいない。この部屋を出れば仲間だった連中がいるのかもしれないが、まずこの部屋から出られるのかも怪しい。そして地に足の着いていないこの状態から、ソファで転がる男の元まで下りられるのかも不明だ。
 と、鬼柳が考える間に、少しずつ視点が下がっていく。
「――あ?」
 なるほど、自分の意思次第でどうとでもなるらしい。神の御業という名のご都合展開だが、鬼柳が鬼柳をどうにかするためだけの空間なら当然か。
 靴の踵が固い床に触れる感覚に、鬼柳は数歩たたらを踏む。そのままのしのしと歩いて、間近から自分の顔を覗き込んだ。チームのリーダーを名乗って憚らないその男は、我ながら不健康に白い肌色をしている。血管の透けそうな白さは顔も同様で、右頬は一層まっさらに見えた。
 自分の右の顔面を、鬼柳は片手で覆ってみる。指を滑らせても引っかかりなどないそこには、しかし犯罪者の証とマーカーが刻まれているはずだ。おまけに今は血化粧のごとく真っ赤に染められている。
 この歳までマーカーなしで上手いこと生きてきたのに、近いうち派手にタテ線入れられるんだぜ、あーあ、可哀想に……などと自分を哀れんでみるが腹立たしいばかりで、鬼柳はひとまず眠り続ける自分の頭をはたいてやった。景気よく、中身の詰まっていなさそうな音が鳴る。
「ッで!! 何すんだクロ…う……?」
 馬鹿面に反して俊敏な起き上がりだ。ただし鬼柳は感心するでもなく、苦々しい感情に表情を歪めた。
 サテライト制覇を謳い、あちこちから恨みを買いつつ勝ち進んできたデュエルギャングのリーダー。闇討ちのひとつやふたつ受けてもおかしくない筈の男は、安眠を遮る暴力が仲間によるものだと信じて疑わないのだ。しかも迷いなく呼ばれた名前は、よりによって真っ先にチームを抜ける男のものである。
 果たして予想と異なる、どころか、遥かに予想を超える相手と顔を合わせたかつての鬼柳は、驚きに目を見開いていた。白いままの眼球は、艶々とした真っ黒い目と、赤く大きく引かれたマーカーに注がれているのだろう。にんまりと笑ってずいと顔を寄せれば、びくりと震えて引くまっさらな顔。ようやく事態の異常性に気付いたのか、怯えと恐怖に近いものが見て取れる。
「そんなに警戒すんなよ、よォく知った顔じゃねぇか。あァ?」
「お前っ……」
 滑稽である。いざ当時の自分と喋ってみて何を思うのかと考えていた部分もあったのだが、実に滑稽だとそればかりを思う。
 少しばかり、といっていいかは分からないが、とにかく多少風貌が変わったところで間違いなく自分だとこの鬼柳も感覚的に悟っているだろう。だというのに自分自身を怪しんで、近い未来に裏切る仲間を頼みにしている。滑稽だ。
 じりじりと距離を詰める。寝起きの鬼柳がどれだけ身を引こうと所詮は狭苦しいソファの上で、直に背もたれに阻まれたようだった。好機と見て、鼻と鼻が触れ合う手前まで迫ってやった。
「お前……誰だよ……!」
「は? ホンットに馬鹿だなー、分かってんだろ? いい加減現実見ようぜぇ?」
 鬼柳とてここが真実現実であるかは知らない。
 けれど今目の前で起こっているのなら、現実ということにしておいていいだろう。平和なチームごっこに慣らされた鬼柳の方は、その程度の思考もできないらしい。
 少しばかり、認めたくはない気持ちがある。それでもこの男がここまでのぼせているから、今自分がこうして在るのだ。この男に今の鬼柳の何百分の一かでも疑う心があれば、自分は死ぬことも、神に選ばれることも、復讐鬼として蘇ることもなかった。
 ぶつけられた問いに、口元を歪めて返す。声は笑っていた。鬼柳を嗤い、鬼柳に納得させるために言葉にする。
「俺はお前で、お前は俺だよ。鬼柳京介」
 微かな息を呑む音。それに吸い寄せられるように薄い唇に噛み付いた。
 一瞬しんとして、鬼柳が呆然としているのをいいことに舌で唇を割ろうとしたところから抵抗が始まった。狭く壊れかけのソファに成人間近の暴れる男二人が受け止められる訳もなく、すぐに舞台はコンクリートの床へと移った。滑り落ちる直前に左右に振られる頭を殴りつける。ぐっと痛みに鳴る喉は掌で強く押さえ込んだ。
 濁った灰色の床に銀の髪が散る。無駄に長い手足が振り回されるが馬乗りになって体幹を押さえ込めばたやすい。やがて閉ざされてゆく呼吸も相俟って、鬼柳を殴りつけていた腕は縋るように地縛のしるしに伸ばされる。
 ふと、あ、やべ、という思考がよぎった。
 地縛神様がここで自分に何をさせたいか、下僕たる自分は図りかねている。とりあえず心の赴くままに行動してはみたものの、仮に今組み敷いている男が過去の自分だとして、殺してしまってよいものだろうか。この男が事切れた瞬間、自分が消えてしまうということはないか?
 それはたぶん、アウトだ。鬼柳はぱっと手を離す。突然解放された呼吸に激しくむせこむ自分を眼下に見下ろして考える。
 もしかするとこの男は過去の自分の残滓とかそういうもので、殺して完全に過去を断ち切り、神のために一層励みなさい、とかいう思し召しなのかもしれない。けれどいくら考えたところで“かもしれない”の域を出ず、問うても地縛神からの返答もない。それに殺してしまってそれが間違いだった場合には致命的に取り返しがつかないのだ。裏切られ死んだ鬼柳は、以前の自分よりも少しだけ思慮するということを覚えている。
 そうでない方の自分はといえば未だ弱く咳を繰り返していて、けれど視線だけは力強く鬼柳を睨め付けていた。あっさりと組み伏せられ、涎で汚れた口元と潤んだ瞳を晒しながらも、視線だけは抵抗を示している。
 鬼柳はかつて自分に暴力の限りを尽くしたセキュリティたちを思い出す。放っておけば死に至る程度の衰弱にまで鬼柳を至らしめた彼らも、この目に煽られたのだろうと容易に知れる。死んでも屈するものかという青臭い抗いと、もしかしたら自分は裏切られてなどいなかったのではという甘い妄想で固められていた過去の自分。格好の玩具だ。それに気付かない自分は愚かで滑稽で、今となってみれば苛立ちを、通り越して殺意すら覚える。もちろん鬼柳が殺すまでもなくその男は死んだのだが。
 己の無力と仲間など幻だという現実を刻みつけるには、殺さない程度にこの苛立ちをぶつけて愚かな青さを蹂躙し且つ神の意志を全うするには、どうすればいいか。
 ここまで考えれば後の答えは限られる。鬼柳はうっそりと笑った。
「――決めたぜぇ」
 殺してはいけない。暴力もスマートではないし、セキュリティの連中と同レベルなんてまっぴらごめんだ。もちろん切々と説いたところで過去の自分が聞き入れるまでもない。ならば答えはひとつしかないだろう。
 何より自分は、淫乱と罵られる程度には気持ちいいことが好きだ。
 多少無理に犯したところで最後はお互いウィン・ウィンに終わることができる。妙案に頷いて、鬼柳は組み敷いた男のシャツを引き裂いた。


 暴れられると邪魔臭い。なので引っぺがしたバンダナで両手首ともまとめてソファの足に縛りつけてやった。そうすると今度は貧困な語彙で罵ってくる。それでも鬼柳にとって都合のいいようにできているらしく、いくら喚いても仲間の誰かが駆けつける気配はないとはいえやかましいことには変わりなく、引き裂いたシャツを丸めて口に突っ込んでやる。後は押さえ込むようにして覆い被さってやれば、何の抵抗もできない貧相な男が転がっているのみとなった。
 鬼柳はじっと過去の自分を見下ろす。これだけ押さえこまれても呻き声も止めず眼光も衰えない。躊躇いの必要のない、実に愚かな姿だ。
 組み敷いた鬼柳のズボンを下着ごと剥く。引っかかったベルトは無理矢理引き千切る。力任せな所業に腰骨あたりを強く圧迫されたらしい、鬼柳が表情を歪めるが、本番はこれからだ。曝け出された足を掴んで持ち上げ、胸のあたりまで折り曲げる。後孔を差し出すような姿勢だが、一応自分の身体なのでじっくり眺めるような真似はさすがにしなかった。代わりにさっさと自分の下衣を寛げ、取り出したものを扱いて勃たせる。
 慣らすどころか触れもしていない孔に先端を押し当てる。ぎくりと震える身体を視線で辿れば、恐怖に目を見開く過去の自分。
 鬼柳はごくごく自然に微笑んだ。
 当然、犯す相手に安寧をもたらすためではない。罅の入った抵抗を虚勢と嗤っただけである。少しずつ昂揚する嗜虐心のまま力任せに腰を進める。
「――――ッ!!
 悲鳴めいた声は、唾液まみれのシャツに吸い込まれて汚く濁った。
 ぎちぎちと食い締めてくる中を抉るように犯す。ぐうっと押し込んで、引き抜いて、今度はがつがつと小刻みに突く。暴れる身体を押さえ込んで無理に抜き差しを繰り返せば、しまいにはぶちりと音が鳴った。それからぬるりとした何かが内股を伝う感触、ほんの少し緩む抵抗。
 切れたな、と思いながら顔を覗き込めば、見開かれた黄色い目から濁った涙が零れていた。瘧のように小刻みに震えていて、その振動で水の珠が滑り落ちる。
「痛ぇか? あ?」
「フ……ぅう……!」
 煽ってやればほんの僅か、瞳が光を取り戻す。笑って揺すれば即座に潤みに散って、下肢からは血臭と水音が甘く糸を引いた。
 反抗心だとか誰かが助けに来てくれるはずだとか、そういう馬鹿みたいなものは挿入の度にぐちゃぐちゃになって潰れているだろう。
 けれどどこまで犯せば地縛神の、あるいは自分の望みを満たすに至るのか。きつく締まるばかりの直腸を無感動に抉りながら、妙に冷静な部分で考える。考えついでにふと目について、眼下の男の目尻に溜まった塩水を舌先で掬う。まだ顔を背ける程度の余力はあるのか、子どものような挙動で振り払われた。むっとして、晒された白い頬に齧り付く。
 同時に血塗れの孔がひくりと震えた。誘われるままに腰を進めながら、鬼柳はうっそりと嘲笑う。
「こんなんで感じてんのか、変態」
「んっ……ふ、ぐうぅ……」
 鬼柳はじわじわと正体を失くしている。血臭にか、自分ではない自分と性を交えるという倒錯にか。
 肉壁を拓くだけだった動きを今度は追い詰めるものに変える。わずかに粘つく血を引きずって、腹側へぐいと突き上げる。少しずつ角度を変えながら繰り返せば、ある一点で一際強く身体が震えた。律動に合わせて溢れる喘ぎ声はやたらと濡れてシャツに吸い込まれていく。
 鬼柳は口角を上げて、抜け落ちるほどに腰を引いた。ずりずりと抜けていくほどに肉が絡みついてくる感触に背筋を震わせ、意図せずそうしているだろう男の目を窺う。鋭く尖っていた黄色い瞳は、まだ白い目玉にたっぷりと乗った水に溶けきっていた。
 視線を定めたまま、引いた分の距離を埋め尽くす。手で唾液を吸い過ぎて黒ずんだシャツを引っこ抜きながら、先端では先程鬼柳が震えて啼いた場所を押し潰した。
「ぅあ、ああああ――!」
 解放された空気に乗って、ひどく欲にまみれた声が響いた。同時に絞るように肉襞が包み込んできて、鬼柳は背を逸らして放埒を堪える。
 鬼柳も鬼柳も、しばし細かく震えていた。波が去ったところで鬼柳はガクリと力を抜いて、まだぶるぶると震えている鬼柳の顔を覗き込む。額が触れるほどに近づいても覗き込んだ先の瞳は虚ろで、中途半端に開いた口から「あ、あ」と意味を成さない声を垂れ流していた。
「はっ……きもちーんだろオラ」
「あ、あぁ、やめっ」
「ケツ裂けてんのに感じてよぉ……ゴーカンだぜコレ? 分かってんのか?」
「う、ふぅっ……くあ、あ」
 頭を振って否定するような素振りは見えるものの、腹に擦れる性器と腰に絡んでくる両足は嘘をつけないでいる。鬼柳自身が一番感じる場所を狙って突いてやっているので当然だろう。
 何をどれだけ口にして否定しようが所詮は自分だ。ちょっと気持ちよくなれば簡単に股を開くし、大層な言葉を吐き出していた口からは喘ぎ声を垂れ流すばかり。しかもどこをどうされるのが一番気持ちいいのかは自分で分かっているのだから落とすのは容易い。
 聞き覚えのある喘ぎ声を聞き流しながら、鬼柳は追い詰める動きでひたすら腰を揺すった。
 ソファの揺れるガタガタという音や、血と腸液と先走りでぬめる水音が流れ落ちて渦を巻く。倦んでいく。腰から頭のてっぺんまで這い上る感覚は気持ちよさを連れているのに不愉快で、鬼柳は奥歯を噛み締めた。何をか殺す勢いで過去の自分の中へ肉棒を押し込む。幻聴の破裂音と同時に、淀んでいた思考が栓を抜かれて流れ出た。
「あ、ぁ、あ――……」
 犯されて尻だけでイケたらしい。鬼柳が肉の奥に射精したのと同時に、剥き出しの腹に生温い精液が散らされた。お互いが自分であれば同時に射精できるものなのか、それは都合がいいなどと考える頭はどうかしているのだろうか。
 どうかしている。鬼柳は喉奥で笑いを殺して、結局耐え切れず天を仰いで哄笑した。
 まだ繋がったまま、伝わる振動にすら感じるのか、笑声の度にびくびく震える自分もまた頭がおかしいのだろう。ぼやけた目でどこか宙を見上げて、半開きの口からは涎を垂らしている。鬼柳は間抜けた自分の前髪を優しく掻き上げて掴み、それから思い切り引き上げた。ぶちぶちと髪の抜ける音がする。
「なあ、もう満足しただろ」
 呟く言葉は過去の自分に向けてのものであり、この状況へと導いた神へのものでもあり、自分自身に落としこむものでもあり、その実適当に放り投げただけのものであった。
「所詮俺なんだよ、気持ちいいことがあればすぐそっちに腰振ってよぉ」
 だから結局何も信じていないのだとか、こんな自分が誰かの何かでいられるはずがないとか、鬼柳は決してそんなことを思っていたわけではない。
 しかし独り言であるはずのそれを、鬼柳が拾った。でろでろに溶けた金の目をかろうじて固めて丸めて、ぐるりと鬼柳を見上げる。涎まみれの唇が髪の毛一筋分ほどしなった。
「お前は、俺が、遊星たちが、信じられないんだな」
「…………」
「かわいそうに」
 鬼柳の頭が弾けて跳ねた。
 床と頬骨の激突する音を無感動に聞きながら、馬鹿で哀れな時代の自分を睥睨する。殴りつけた拳は温度のない死体のわりにじんじんと熱い。痛みに声を上げることもなく、微動だにしない鬼柳に吐き捨てた。
「それでも結局、俺はお前なんだよ」
 どこまでいっても惨めなだけの独り言だ。ひとりきりの部屋にびちゃりと落ちて滲んで広がって、じわじわと脳みそを掻き回す耳鳴りに溶けていく。雨音のようなそれに鬼柳は目を閉じた。
 これで神様はよいと判じたのだろうか、だとすれば鬼柳京介とは、自分とは、結局。
 不快な酩酊に思い至った可能性を忘れてしまったのは幸いである。もし覚えていたとして、これ以上狂える自信が鬼柳にはない。