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はなぬすびとのつみとはば

「ジャック、一日空いている日はないか」
 鬼柳がさり気なくそう零したのは、夕食後のひととき、少し温めに淹れられた茶をジャックが楽しんでいた時分である。
 傾けていたカップを水平に戻せば、その向こうにこちらを窺う鬼柳が見える。零し方はさり気ないが、答えを待つ姿勢は神妙に見えた。洗い物を終えたばかりなのだろう、濡れた手も掛けたエプロンも、ひとつに結わえて背中に垂らされた髪もそのままの、まるきり日常の姿。ただし表情だけがどこかで見た切実さを湛えている。
 ジャックは壁にかけられた、白っぽいカレンダーを見やる。スケジュールは全て記憶しているし、そうでなくてもマネージャーの狭霧が完全に管理しているのであまり機能していないものだ。ただし鬼柳を住まわせるようになってからはゴミの日や鬼柳が把握しておきたいらしいジャックの用事が書き込まれるようになっていて、大雑把な日程の確認ぐらいになら使える代物となっている。日付と曜日だけが記されたそれには、しばらく目立った予定は書き込まれていない。ジャックの記憶にも、ありきたりな雑誌の取材や、取り立てる点もない企業重役との会食ぐらいしか思い至る予定はなかった。
「明日でも空いているが」
 仕事を通してくる狭霧や義父がどう思うかは別として、ジャックの体感では明日は一日空けても問題のない日である。
「じゃあ、明日、少し遠出をしないか」
 ジャックが鷹揚に頷いてみせると、鬼柳はわずかに顔を綻ばせた。恐らくジャック以外には分からないであろう微細な表情の変化である。
 そこに潜む鬼柳にしては珍しい期待感めいたものや、最早癖づいているのか何をするにも密やかで表立って動こうとはしないこの男が初めて口にした外出の誘い。あまりの物珍しさに、ジャックは行先を問いただすことも忘れて頷いていた。鬼柳の目元が少年時代を思わせる優しさで和んだ。


 翌朝今日の仕事は全てキャンセルすると狭霧に一報を入れたところ、納得できない旨を散々意見されたようである。ようである、というのもこちらから連絡を入れて返答も聞かずに携帯端末の電源を落としていたからだ。
 どれだけスクロールしても終わりの見えない着信履歴とメールの受信履歴をジャックは淡々と確認する。確認の最中、また着信を知らせる画面への暗転を見て取りジャックは再度端末の電源を落とした。再び沈黙した電子回路の塊をコートの内ポケットに押し込みながら、ふと気づいて視線を転じる。
「なんだ」
 はっとしたようにジャックと視線を合わせ、すぐに目を伏せる。歯切れ悪く己のD・ホイールに身を寄せる鬼柳に、ジャックは無言で続きを促す。少し濁った春空の下、柔い風に嬲られる髪を押さえる鬼柳はしばらく逡巡していた。
「いや……その」
 鬼柳がこうも言い淀む場合、大抵は下らない引け目が原因であると知っている。なので敢えてジャックは無言を貫き通した。明るく皆に公平で、思ったことを素直に口にしていた昔のように振舞え、とまではいわない。けれども当時を知っている分、大人しく思慮深い風を装っている今の鬼柳に憤ることは幾度もあった。
 案の定、消え入りそうな声で鬼柳が続ける。
「迷惑だったんじゃないか、と……」
 珍しく遠出をしようと自分の願望を口にしたと思ったら、今日にはもうこれである。
 ジャックは軽く息をついた。
「今日の予定は俺が決めたことだ。貴様が気を揉む必要はない」
「だがお前、マネージャーから連絡があったんじゃないのか」
「だからどうした」
 言い切ってしまえば鬼柳は押し黙る。本当に今日一日ジャックがフリーだったのか否かを確認しなかったことを悔いていたりするのだろうが、これ以上益のない会話を続けるつもりはない。鬼柳もジャックの牽制を悟ったのか、観念したように首を横に振った。
「それより、目的地はここでいいのか?」
 そもそも端末の通信履歴を確認したのは、鬼柳が走り通しだったD・ホイールの速度を緩め、適当な路肩で停めたがゆえのことである。
 朝、少しゆっくりしてから家を出、二人でD・ホイールを走らせ早昼時。水の色を刷いた空高く、白く太陽が霞んでいる。その下に広がるのは見慣れない街並みだった。シティのような活気もなければ、サテライトほどの雑感もない。それなりに整理された、けれども死んだ灰色の街。どこか既視感の残る光景。
「ああ、いや、もう少し先だ。ここからは道があまりよくないから、D・ホイールは降りて行こうと思って」
 鬼柳の視線は裏路地めいた細い道に注がれている。D・ホイールでも抜けられないことはないだろうが、剥き出しの鉄骨や崩れたコンクリートの塊が転がる様を見ればできれば避けて通りたい。
 D・ホイールにロックを掛ける鬼柳にジャックも倣う。
「置いて行っても大丈夫なのか」
「ここいらは立入禁止の制限地区だからな。荒らし尽くされて目ぼしいものも残っていない」
「余程の物好き以外は近寄らないということか」
 頷いて鬼柳は路地に足を踏み入れる。ジャックも黙って後に続いた。
 曰く、この街は近くの製鉄工場が肥大化するに伴い膨れ上がってできた街らしい。この時勢に巨大化する企業など碌なものではないのが常だが、その工場も御多分にもれず黒い経営で儲けていたようだ。縦横の繋がりから背後関係まで摘発された挙句、町の住民は夜逃げ同然となり、主を失った空き家も我先にと漁り尽くされて今の状態に落ち着いたとか。
 シティからも流通の経路からも遠いため買い手も移り住む者もなく、工場や街の取り壊しも後手後手となった結果このゴーストタウンができ上がったのだ。と、横倒しになったコンクリートの柱を乗り越えながら鬼柳は語った。
「初めてここに来たのは、研究所を出てしばらくの頃だったかな」
「……」
 ジャックが長官の息子として迎え入れられ、帝王学を施されていた時分の話だろう。
 心残りのあったという決闘で分かたれた二人の道を論じようとは思わない。同情なぞまっぴらだ。ただ、隔離された研究所から逃げ出して、何の宛も伝手もなかった当時の鬼柳の苦労は、計り知れないものだとは思う。
 ふと振り向いた鬼柳が苦笑を浮かべる。
「そんな顔するなよ」
「……どんな顔だ」
 返事はなく、鬼柳は肩を竦めるに留めた。
「食い物と寝床目当てで入り込んだんだ。その時からもうこの有様で……結局無駄足だったんだが」
 足元で瓦礫がかろりと崩れる。強く吹き込む風に目を細め、顔を上げる。一段高い瓦礫の上で、鬼柳がこちらを見下ろしていた。
 嬲られるままの銀の髪を透かして、濁った春の空が見える。薄汚れた灰色のビルとビルの隙間に見える空を、埋め尽くすように淡い白が染め上げていた。
「――ここを見つけたんだ」
 コンクリートで塗り固められた街によくも隙間を見つけたものだといわざるを得ない。罅割れた路面に、見事な枝振りの桜が一本、根付いていた。
 軽やかに瓦礫から飛び降り、鬼柳は桜のもとへ歩み寄る。ビルの合間を抜ける風は強く、満開の桜も寄り添う鬼柳も吹き飛んでしまいそうに思える。絶え間なく散る花弁の中で、鬼柳は屈託なく笑いながらジャックを振り仰いだ。
「すごいだろう」
「……ああ」
 ジャックが素直に頷いてみせれば、鬼柳の顔が綻んだ。瓦礫を超え、鬼柳の隣に並ぶ。
 間近で見上げれば淡紅よりも白の強い花だった。吹き付ける風に抗って開き、人工の路面を割りすっくと立つその姿。暗灰色の廃墟と白んだ空を背にする姿は率直に美しいと思える。
 その身を立たせるだけの土も光も足りないだろうに、人の手で管理されたシティの公園にもこれほどの木はないだろう。誰に媚びるでもなく独り伸びやかに咲き誇る姿も訴えるものがある。
「シティからはだいぶ遠いんだが、毎年見に来てる」
 花弁の交じる風に揺れる髪を押さえながら、鬼柳はもう片方の手でひたりと幹に触れる。
「ずっと一人だったが、今年はお前がいるから……ジャックと一緒に、見たかったんだ」
 いじらしい言葉と風に乗る微笑。ジャックは胸に湧く感傷をぐっと飲み込んだ。
 恐らくこのような様を、儚い、と呼ぶのだ。
 ジャックは先程の既視感の正体にふと思い至った。崩れ捨てられた街、この街は自分たちが育った、あの研究所に似ている。そして孤高と咲き誇るこの花は、いつか誰が知るともなく散ってしまう。
 春の隙間に消え入りそうな鬼柳に手を伸ばす。空よりも濃い青をした瞳はきょとんとしていて、抵抗することなくジャックの腕の中に収まった。
「ジャッ、ク?」
「美しいな、鬼柳」
「あ、ああ、そうだな、散ってしまうのがもったいない……」
 ようやくわずかに身じろきながらこの台詞である。
 鈍いと呆れる間も惜しく、ジャックは鬼柳の思い違いを制する。
「勘違いするな。俺は貴様の事を言った」
「は……」
 病的に白い頬が染まる。舞い散る花よりも強い紅色で、ジャックはずいと顔を寄せた。羞恥故か青い目端がわずかに濡れていて、舌先で拭ってやれば腕の中の体が微かに強張った。
 そのまま赤い頬へと舌を滑らせ、仄かな熱さを感じるままに薄い唇に齧り付く。
「く……んっ」
 一文字に結ばれた唇は少しひんやりとしているが、割り入った先は溶けそうなほどに熱い。
 存分に絡め、嬲り、熱も唾液もどちらのものか判じられないまでに分かち合う。一度視界の端で拳が上がるのが見えたが、ぞろりと口蓋を舐ってやればすぐに力なく落とされた。
 招き入れた舌を甘く噛んで終いにすれば、唇が離れた瞬間、鬼柳の体がカクリと崩れた。膝から落ちる前に支えてやれば、先程よりもずっと潤んだ青がジャックを睨めつけてくる。
「ジャッ……ク……!」
 染まった頬と潤んだ瞳と、わずかに上がった息では睨まれたところで何の痛痒も感じない。
 けれど今の鬼柳に儚さはない。ただジャックへの強い意思だけがある。
「鬼柳。貴様の居場所はこの俺の隣だ」
「あ……?」
 突然何を、と鬼柳は目を瞬かせる。構わず抱き寄せる腕に力を込める。
 灰色の街でひとり咲く花に、鬼柳を重ねてなどなるものか。頼みもなく孤独に抗う少年時代は終わったのだ。これからは王者の支配に抗いながら、それでも傍にいればいい。
 腕の中の重みがじんわりと増す。抵抗は諦めたのか鬼柳が身を預けてきていた。
「俺は、最初これを見たとき、」
 伏せがちな視線は風に揺れる花に、薄く開いた唇からは嘆息を零して続ける。
「お前が……いや、いい、やめておく」
「……なんだ」
「来年も一緒に来ようなって話だよ」
 相変わらず歯切れは悪いが引け目によるものではないのだろう。つっけんどんに返された言葉に昔の鬼柳が透けて見える。そうやって意地を張っているぐらいがちょうどいい。
 ふんわりと乗る白い花弁ごと、擦り寄る銀色の旋毛にそっと唇を落とす。開き直ったのかむずがるように揺れてこちらを振り仰いだ鬼柳は、明らかに待ちの姿勢で笑っていた。望むのならば与えてやるのが鬼柳に対するジャックのスタンスである。
 微かに紅の残る白皙へ、ジャックはゆっくりと顔を伏せた。来年は鬼柳のためにも始めから予定を空けておいてやろう、などと、殊勝にも考えながら。