×

午前2時のチェリーパイ

「やっぱりここにいたのね、京介」
 声をかけられたのはガレージ代わりに使われている部屋で鬼柳が一人、D・ホイールを乗り回しに行くか行くまいかと考えているときだった。
 割れた窓から入る月明かりだけがよすがの中、振り返れば女の影がある。白皙には綺麗に微笑みを、すらりとした身体には瀟洒なドレスを纏っている。鬼柳がダークシグナーとなってずっと後にルドガーが連れてきた、今のところダークシグナーで唯一の女であるミスティだ。
 ミスティは鬼柳の視線を受けて、両手に抱えた箱を少し持ち上げて見せた。
「仕事でケーキを頂いたの。どうかしら」
「食う」
 迷うことなくこくりと頷く。鬼柳の答えが分かっていたかのようにミスティも頷いてみせた。
「先に行ってお茶の用意をしておくわ。後から私の部屋にいらっしゃい」
「うん」
 再度頷けば、ミスティはいっそう綺麗に微笑んで踵を返した。扉の向こうへ消えゆくドレスの裾を端まで見送ってから、鬼柳は自分のD・ホイールに向き直った。ああいう動きをきっと計算された、とかいうんだろうなあと思いながら青い車体にシートを掛ける。乗り回すのはまた今度にしよう。
 計算はされているかもしれないが、ミスティは美しい女だ。アーモンド型をした目もなめらかな頬の輪郭もすうっと通った鼻筋もさらさらとした髪も、ああいうのは計算ではなく天然物だろう。更に毎日手入れされて磨かれていて、サテライトにはいなかった、仮にいたとしてもすぐに蹂躙されて犯されて汚されただろう存在だ。こんなに綺麗でいられるというだけで、鬼柳とミスティでは生きてきた世界が、価値観がまったくちがうとつくづく思う。
 だからシティの人間は嫌いだ。鬼柳たちサテライトの人間が送る汚れきった生活を、当然といった顔をして踏みにじる。連中にとってサテライトなどゴミ溜めか、まったくの縁のない世界だと思って疑っていない。シティの人間は嫌いだ。
「ミスティのことは嫌いじゃねぇけど」
 タルトの端にさくりとフォークを突き立てながら鬼柳はそうこぼした。
「あら、光栄ね」
「ケーキ持ってきてくれるし」
 このケーキという食べ物は美味い。ミスティに与えられて初めて食べたが、いろんな種類があるし、甘かったりほんのり苦かったり程よく酸っぱかったり、ふわふわだったりさくさくだったりする。サテライトではまずお目にかかれない上等な食べ物だ。このケーキに出会えただけ、死んでよかったかもしれないと鬼柳はちょっとだけ思う。
 私の価値はケーキだけなのかしら、とミスティは続けるが、タルトを咀嚼し続ける鬼柳に答えを諦めたのか控えめに苦笑した。蝋燭の火に映える美貌は、この暗闇と埃っぽい空気にはあまり似合わない。けれど鬼柳はその不似合いがわりと好きだ。
 ミスティはまたカップを傾ける。ミスティを見て鬼柳は初めて優雅という言葉の意味を知った。
「ケーキ屋さんでも別に構わないけれどね。こんなに頂いても私一人じゃ食べきれないし、京介に食べてもらえて助かってるわ」
 この旧モーメントの根城とミスティは本当に似合わない。ミスティはダークシグナーだが鬼柳たちのようにこそこそと日陰で動き回っているわけではなく、生前と同じくモデルとしてシティで生活している。鬼柳の価値観だと笑顔を向けたりポーズを取るだけで金が貰えるモデルという職業は理解できないが、とにかくそういう理由でミスティがこの似合わない場所に来ることも、ケーキを持ってくることも稀だった。
「ディマクやルドガーに持っていっても断られてしまうし」
 ダークシグナーは所詮死体なので、何も食べなくても問題ないとあの二人は言う。鬼柳は空腹を感じるし、うまいものがあるなら食べたいと思うので遠慮なくミスティのケーキを頂くが、ルドガーたちは無駄だと切り捨てて受け取らないのだろう。
 そうでなくてもあのいかついおっさんたちがデザートフォークを手に手にケーキを口にしているところなど。想像するだに恐ろしい。
 タルトを包んでいた銀紙を丸めて、鬼柳は次のケーキに手を伸ばす。空になった鬼柳のカップに、ミスティが黙って紅茶を注いだ。勝手に食べ尽くしても怒らないところもミスティの好きなところだ。怒らないどころか、
「おいしい?」
 微笑みながら鬼柳の顔を覗き込んでそう問いかけてくる。こういう甘ったるいところはあんまり好きではない、けれど面白いと思う。
 次のケーキはシロップ漬けのブラックチェリーがみっしり詰まったパイだ。一口、もぐもぐと噛んで舌で転がす。
「うまい」
「そう、よかったわ」
「ミスティも食う?」
 一口分にフォークを突き立てて、無造作に前へ。ミスティは悪戯めいた笑みを浮かべてから、ほんの少し身を乗り出す。目を伏せて潤んだ唇をゆっくり開いて、薄闇にも鮮やかな舌が覗く。これがサテライトの女なら大抵男を下品な色気で惑わせて悪巧みを隠しているところだ。
 ただし相手はミスティなので悪巧みの心配はない。ミスティはもっとかわいそうだ。フォークをおもむろに差し出して、鬼柳はパイの欠片をミスティの口に放り込む。ミスティももぐもぐ口を動かす。
「うん、おいしい」
「うん」
 適当に頷いて鬼柳はまたパイにフォークを突き刺す。
 ミスティは本当にかわいそうだ。綺麗な装いで死ぬ前と同じ生活をしているけれど、それでもやっぱりミスティは死体だ。だというのにこんなに甘ったるいままごとに興じて、それすらとうの昔に死んだ弟のためだというのだからまたかわいそうで笑える。いや、とうの昔かどうかは知らないのだが。
 ミスティとその弟は、どうもベタベタに仲睦まじい姉弟だったらしい。こうしてダークシグナーをやっているのも弟のためだというから泣ける話だ。
 そして一人寂しいミスティが、年下の鬼柳を弟のように思っていることも知っている。ルドガーは代償行為がどうのこうの言っていたが、そんな難しい言葉にしなくても鬼柳にだって分かるのだ。
 甘ったるいのはあんまり好きではない。反吐が出そうだと思う。
 でもかわいそうなミスティが鬼柳は嫌いではなかった。
 なので今日も姉弟ごっこのままごとに付き合っている。ケーキも美味いし、適当に相手をしていればミスティは綺麗な顔で笑ってくれる。するといっそうかわいそうさが増すので、なかなか悪くないのだ。
 奥歯で噛み潰したブラックチェリーはじんわり甘酸っぱく、鬼柳は丸ごと呑み込んだ。