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Jump from the ground

 よお、俺は鬼柳京介。チーム・サティスファクションのリーダーだ。俺と一緒にこのサテライトで、満足しようぜ!
 と、脳内で誰にともなく自己紹介をしてみる。
 そうだ、自分は鬼柳京介だ。それは間違いない。
 靴裏で寄せては打ち返す波を感じながら、鬼柳はすうっと空を見上げた。シティからの貨物船が寄せるこの波止場は厳重に警備が敷かれ、サテライト住民が近づくことは許されなかった――鬼柳の記憶では。それが今はどうだろう。高く分厚い塀も有刺鉄線の絡まるフェンスも綺麗に取っ払われて、誰でも自由に出入りできる。近々立ち並ぶ倉庫を撤去して、海浜公園にしようという計画も出ているとかいないとか。
 何よりも鬼柳の視線の先には、まさに威風堂々、きれいで真新しい、大きな橋があった。シティとサテライトを結ぶハイウェイ。鬼柳の知っているダイダロスブリッジは廃材で組み上げられていて、いかにもサテライトといった趣きのあるものだった。良くも悪くも象徴だったそれは、今はぴかぴかの橋の傍らで影を落としている。
「俺みたいだなあ」
 周りに聞こえるよう、大きな声で呟く。打ち返す波の音にも空を舞う鳥の鳴き声にもかき消されなかった声は、しかし誰にも届くことなく落っこちた。この場には鬼柳以外誰もいないのだから当たり前だ。
 確実にそばにいたのに、古臭いまま置き去りにされて、周りはどんどん変わっていく。何かの思い入れで残されているらしい伝説の残る橋に鬼柳は自分を重ねる。
 知らないあいだに、シティとサテライトが繋がっていた。知らないあいだに、ずっとそばにいたはずの仲間たちは大人びた顔をしていた、知らないあいだに知らない友人や知らない知人をたくさん作っていた。鬼柳の知らないあいだに、知らないものが、知らない姿で蔓延っていた。
 とても怖かった。長い間のことが曖昧な記憶になっていて、鬼柳は気がついたら見たこともない上等な病院にいたのだ。まず間違いなくサテライトには存在しないだろう真っ白で清潔な病室に、同じく真っ白で清潔なシーツとベッド。ぱりぱりとした真っ白で清潔な病衣に包まれた体を抱いて、鬼柳は錯乱した。すぐに遊星が部屋に飛び込んできてくれなければ、叫んで暴れただろう自信が鬼柳にはある。感極まったように歪む遊星の顔に黄色いマーカーを見つけて、またぞわりとした。狂乱するより先に遊星に抱き締められて、ああ、なんだか分からないけれど自分は知らないところにいるのだと、鬼柳は悟った。自分の腕に繋がっているらしい点滴の、ぽたりぽたりと刻むリズムをまだ覚えている。
 後は病院らしく検査だの、まるで取り調べのような質問だの――実際頬に傷の走ったいかついセキュリティまでやってきたので何かの取り調べだったのだろうが――を散々受けさせられ、長いこと入院させられていた。クズ呼ばわりされるサテライトの人間がこんなところで、しかも知らないうちとはいえ結構な大きさのマーカーを刻まれた自分が、と思うと鬼柳は警戒心と反抗心と逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。が、頼むから検査を受けてくれと遊星に懇願され、結局最後まで病院とセキュリティに付き合った次第である。
 入院中、遊星は毎日鬼柳の病室を訪れ、曖昧に飛んでしまっているあいだの鬼柳の記憶について、少しずつ話してくれた。チーム・サティスファクションはサテライトを制覇したこと、けれど鬼柳はセキュリティに逮捕されマーカーを入れられたこと。鬼柳がいなくなってからの遊星、ジャック、クロウの生活。
 遊星は隙間なくすべてを話してくれたらしいが、鬼柳はそれだけではないと薄々感じていた。一人になって話を整理すると綻びやぼんやりしたところがあったし、何より――語ってくれた遊星本人が、折々で酷く辛そうな顔をしていたからだ。
 ジャックやクロウもそうだった。鬼柳が目を覚ましてしばらくは、仲良くD・ホイールで事故を起こしたらしいジャックとクロウも同じ病院に入院していた。まず二人がD・ホイールに乗っているとはどういうことか、という話だが、遊星も自分のD・ホイールを持っているというのでわけが分からない。ともかく遊星に誘われて二人の病室に行けば、二人とも笑顔を浮かべて久しぶりらしい再会を喜んでくれた。喜んではくれたが、昔のことや最近のことを語る二人もときどき鬼柳に気づかれないよう、痛むような、憐れむような表情をしていた。鬼柳は何かとてつもなく分厚い壁と、どうしようもないほどの絶望を三人との間に見つけた。
 決定的だったのはデッキだ。セキュリティに捕まれば没収されると聞いていたが、鬼柳のもとにはデッキがあった。けれど中身は見知らぬカードばかりで、鬼柳がサテライトの裏路地で集めて組み上げたものとはまったく違う。しかもメインデッキとエクストラデッキに数枚、白紙のカードが入っていた。
 メインデッキに紛れていたその一枚を試しに摘み上げたときの、ゾクリと背筋を走る悪寒、底の見えない暗い穴の中を覗き込むような感覚。
 鬼柳はぶらつかせていた足を抱え込んで、膝に顔を埋める。
 あの感覚に鬼柳は三人が何かを隠していること、そして自分は決定的に埋められない何かを持っていることを知った。
 同じ孤児院で育ったという遊星たちとのあいだに溝や寂しさを感じるなど、今に始まったことではない。けれどこれはきっと、そんな生ぬるく甘酸っぱいものではないのだ。鬼柳は目覚めた時に抱いた絶望感が、どうしようもなく真実だと気づいてしまった。
 長い入院生活から解放されて、鬼柳は遊星たちの元に招かれた。サテライトもシティも変わってしまったから昔のように、とはいかないけれど、また楽しく暮らそう。遊星は微笑んでそう言ってくれて、鬼柳も笑顔を浮かべた。今度は鬼柳が気づかれないように辛い顔をする番だった。
 遊星たちは育て親のツテを頼りにシティに移り住むらしい。かつて存在していた強制労働もなくなったし、遊星は特技を生かして修理工を、クロウはD・ホイールを使っての運送屋を始めるといっていた。ジャックからは何も聞いていないが、鬼柳の知らないうちにキングになっていたらしいので蓄えもあるのだろう。
 鬼柳はといえば何もない。特技もない、D・ホイールもない、金もない。記憶もないし、未来への展望もなかった。過去に背中を押されて先へ先へと進む彼らとはあまりにも違う。居心地の悪さにいたたまれなくなって波止場で一人黄昏れているあたり、腐りっぷりが際立っている。
 結局どれだけの時間を無為に過ごしていたのか。海風が少し冷たくなって、真新しいハイウェイがオレンジ色に染まる頃、ようやく鬼柳はアスファルトから腰を上げた。どれだけ疎外感を覚えようと、日が暮れれば遊星たちの待つ棲家へ戻るのだから女々しいものだ。
 まだ辛うじて機能している倉庫街を抜けて、馴染んでしまった曲がり角を曲がる。そこで衝撃があった。
「っと、悪い」
 誰かとぶつかってしまったらしい。反射的に謝ってから相手を見る。そのまま鬼柳は、あ、と目を丸くした。相手も同じような顔をしている。
「お前は……」
 まさに筋骨隆々といった風体の、浅黒い肌をした男。明らかに異国の空気を纏う彼を鬼柳は見知っていた。鬼柳と同じように入院していて、検査だか取り調べだかで会ったことがある。
「ええと、ボマー、だっけ?」
「ああ。お前は……鬼柳、だったか」
 頷いて返せば、ボマーの目元が微かに和んだ。初見の際にも思ったが、他を威圧する風体とは裏腹に穏やかで冷静な人物だ。セキュリティからの質問にも淡々と理論立てて返していた印象が強い。
 同じ検査に引っ張りだされたとはいえ、見ず知らずの他人だ。退院の際もそれ以降も、挨拶どころか一言も交わさずそれきりになっていた。
「こんなところで会うなんて、奇遇だな」
「ああ。不動遊星に会いに来た」
「遊星に?」
 こんなに異彩を放つ男と遊星が知り合いだったとは。首を傾げて見せれば、ボマーはフォーチュンカップなる鬼柳の知らない大会で遊星と知り合ったことを教えてくれた。続けて気安く遊星の名を出す鬼柳に、知り合いなのかと疑問を呈してくる。居心地悪く遊星のところで世話になっている旨と、今から家に戻るところだと告げれば同行を請われた。断る理由もなく承諾する。
 以降は特に会話もなく、遊星たちの塒まで肩を並べて歩く。後曲がり角ふたつで辿り着く、というところで、不意にボマーが口を開いた。
「何か、都合が悪かったんじゃないのか?」
「なんで?」
「……遊星の名前を出した時の、お前の反応がな。勘違いなら謝るが」
 ボマーを、鬼柳は足を止めて仰ぐ。
 自分はそんなに露骨に態度に表していたのだろうか。だとすればこのまま遊星たちのもとに戻っても、隠し切れないかもしれない。鬼柳の内心を透かしたのか、ボマーはわずかに肩をすくめて苦笑した。この男が他人の機微に聡いだけ、だと思いたい。
 ボマーと二人で見つめ合ってしばし。鬼柳は何も発せずにいて、ボマーも自分から言葉を重ねるつもりはないようだった。長い沈黙は、鬼柳が遊星に対して思うところがあることをとうに証明してしまっている。
 二人の足元に落ちる影が少し角度を変えた頃、鬼柳は静かに口を開いた。
「あんたは、数週間ぐらいの記憶があやふやなんだろ?」
 セキュリティとの会話、聞いちまったんだ。鬼柳が続ければ、ボマーは構わないと頷く。その視線は静かに続きを促していて、鬼柳はそっと視線を落とした。黙って受け止めるボマーの姿が遊星に重なって、見ていられない。
「俺はさ、三年ぐらいの記憶が曖昧なんだ。遊星たちとは仲間だったんだけど、あいつらと過ごした記憶もなんかぼんやりしてて……」
 敢えて言葉にすると、本当に理解できない話だった。サテライト制覇を目指していたはずなのに、知らないうちに制覇していて、挙句捕まっていて、しかもサテライトもなくなろうとしているなんて。
「あいつらが俺に気を遣ってくれてるのは分かるし、感謝してるんだ。けどたぶん、俺の記憶にない何か……大事なことを知ってて、隠されてる気もする」
 こんなことを打ち明けられたって、ボマーも困るだろう。けれど話してみろという態度と受け入れてくれる姿勢に、誰にも話せなかった気持ちがぼろぼろと零れていく。
「あいつらは昔みたいに、一緒にいようっていってくれてる。けど俺は……俺は……」
 俺は、どうしたいのか、どうすべきなのか。
 あんまりにも不透明で、これ以上は言葉になりそうにない。得体のしれない空虚感に項垂れ――すっかり俯いた鬼柳の頭に、暖かくてずっしりしたものが乗せられた。
 慌てて顔を上げようとするとやんわりと押しとどめられる。
「私は近い内に自分の故郷へ戻ろうと思っている。各地を見て回って、ゆっくりな。今日はそれを伝えに来た」
 脈絡なく発せられたボマーの台詞に声を上げようとして、しかし鬼柳は押し黙った。
 頭の重みと温みが、どこか、何か引っかかる。誰かがこんな落ち着いた声と言動で、こうして頭に手を乗せてきたような、ないような。
「お前も少し、この街以外のものを見てみるのもいいかもしれんな」
 視点を変えてみろということなのだろう。サテライトから一歩でも踏み出せば裁かれていた時代には考えられなかったことだ。けれど今は違う、大きな真新しい橋もかかったし、仕事も住むところも制限はなくなった。ボマーのいうとおり、ネオドミノ以外の場所を見て回ることもできるだろう。
 頭にぽすんと軽く衝撃があり、重みが離れた。足元の影がゆらりと離れていく。顔を上げれば浅黒い腕が離れ、ボマーの背中が鬼柳から遠ざかっていくところだった。
「あ」
 浅黒い肌の大きな手を持った誰かが、背中を向けて離れていく。ちりちりとした何かが胸を焦らす錯覚。
「私は先に行っている。道案内助かった」
 落ち着いたら来いという、ボマーなりの気遣いなのだろう。鬼柳は曲がり角の先に消えるボマーの背中を立ち尽くして見送った。
 何かが引っかかって仕方がない。誰かに頭を撫でられたと錯覚したが、鬼柳は生粋のサテライト育ちで大人に優しくされた記憶などなかった。鬼柳に向けられた手は、もれなく何かを奪おうとしたり、鬼柳に殴りかかろうとした手ばかりだ。例外はといえば遊星たち三人だけのはずだが、彼らの手よりもっとずっしりした手で、たぶんサテライトではあまり見ない浅黒い肌をしている。
 それはもしかしなくても、曖昧な三年の記憶に関わる誰か、なのではないだろうか。
 鬼柳は誰かに呼ばれたように、背後を振り返る。居並ぶくすんだ倉庫たちの向こうに、夕陽に輝く海と、まっさらなハイウェイと、古ぼけたダイダロス・ブリッジが見えた。
 俺は鬼柳京介、チーム・サティスファクションのリーダーだ。
 でも、それだけではない。これだけではいけない。自分は何か、途方もないものを、とても大切な誰かを、どこかに忘れ去っている。絶望を抱いたまま遊星たちと過ごすのと、奈落の底のように見えない記憶を探すのと、果たしてどちらが酷なのだろう。
 鬼柳はかぶりを振って、強く一歩を踏み出した。
    2013.3.3 (大地を蹴って)