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愛にすべてを
「オレは、ジャック以外何もいらない」
それは客観的に見れば不幸でしかない少年の人生において、最も幸いで、だからこそ生きていける、いうなれば水分や空気のような想いだった。
どれだけ酷い仕打ちを受けようと人としての尊厳を奪われようと、彼の中には常にこの想いがあった。ただの幻想ではあったが、ゆえにどんな状況であっても孤独ではなく、きっと少年のいのちと絡み合って解けなくなってしまっていたのだろう。つまりなくしてしまえば彼は彼ではなくもっと別の、例えば生きた肉塊に成り下がってしまうような、とにかく大事なものだったのだ。
研究所を逃げ出した孤独な少年は、一生懸命水をやり土を肥やしあたたかな陽射しを注いでその気持ちを育ててきた。だんだんと歪になっていくさまをうっすらと自覚しながら、育んだ。
少年が大切に大切に育てたものは、溢れる色彩と豊かな芳香をまとって花開いた。
「オレのためにか」
今や青年になった少年は、真っ白いシーツに包まったまま瞳を開く。ぽったりと落ちてくる瞼をなんとか持ち上げて、よく通る低い声の主を見やる。視界に捉えるより先にすこし硬い指先が伸びてきて青年の顎をくすぐった。こそばゆさに身を捩れば、質の良いシーツが裸身に滑る。
「泥を啜り土を噛もうと、オレのために気高くあろうとしたというのか、鬼柳」
遊ぶ指先から逃げ出して、今度こそしっかりと男を見つめた。長いことかけて育てた想いを傲慢にも全て吸い上げ、暴くように開かせた張本人。寝台の上でもジャックは王者と謳われる威圧で以って鬼柳を下し、そう高低差などないはずなのに見下ろしている。生まれたままの姿にシーツ一枚の鬼柳に対し、ジャックはデニムのパンツを履いていた。貧民と王様のようだ、とまでは思わないが、肉付きの薄い鬼柳の体に比べ、ジャックの体にはきれいに筋肉の陰影が流れている。明確に鬼柳とジャックを分かつ証のようで気に入らない。不愉快を曝け出すベッドサイドの灯りを密かに睨んで、それから鬼柳は首を傾けた。
ジャックの話はどこかに繋がっているようで繋がっていない。こんな話をしていただろうか、そもそも自分は今の今まで眠っていたような気がする。独白のようなジャックの台詞は、けれど疑問のかたちを取っていて、不明ながら鬼柳には答える他ない。
「……難しいことは考えていない。オレは、ジャック以外はいらない。ジャックがいればそれでいい」
向けられたことばを噛み砕くこともせず、口を突いて転がるに任せる。実際、あれやこれやと考えてはいたはずだが、最終的にはすべてジャックに繋がるのでその答えでいい気がした。
知らず落ちていた瞼を鬼柳はまた無理矢理持ち上げる。橙の光を透かして、睫毛がぱさりと眠気を訴えた。同時に落ちる影に目線を上げる。酷く近いところにジャックの顔が迫っていた。
「……幼いな、鬼柳」
呟くジャックの表情は、鬼柳にはよく見えない、よく分からない。ひたりと頬に触れるものにだけはなんとか気づいて、けれどそれがジャックの手のひらだと理解するには時間を要した。
くつ、と耳元でジャックの喉が鳴る。触れてくる手のひらが穏やかに震えて、揺れ落ちた金の一筋が耳を掠めた。こそばゆい。手で払う気は起きなかったし、身を捩るにはジャックが近すぎる。鬼柳はほうと息を吐いて堪える。
「貴様の全てをオレに捧げる点は好ましい。だが貴様はそんな男ではあるまい」
恐らくジャックは笑っているのだろう。顔を見て、ではなく、仕草で鬼柳は読み取った。頬から耳から顎から首筋から、ジャックは硬い指先をやわらかく踊らせている。これは機嫌がいい、ということだ。だから多分、笑っている。
全てを捧げる、と嘯くジャックはやはり傲慢だった。歪みながらも大切に育ててきたものを開いたのはジャック本人だった。始まりはもっと清廉だったはずのものを、多分に色を孕んだ何かに昇華させ搾取したのは。シーツの水際で鬼柳は内腿を擦り合わせる。夜気を揺らす匂いにもちろんジャックは気づいているだろう。
「オレだけで満足できる男ではないだろう、鬼柳?」
まんぞく。ちいさく反復する。ああ、と肯定する声は実際に放たれたものか、空耳か。
ジャックがいれば何もいらない。ずっと、ずっと鬼柳と共に育ってきたそれは開いて、摘み取られた。手のひらで弄ぶのはジャックだ。鬼柳はジャックのものになった、ということでいいのだろう。ジャックがいれば何も、それは満たされた。これから先もきっとずっと枯れることなくジャックに抱かれ続けるのだと思う。ジャックは手にしたものを絶対に離さない。だから満足。その先は、
「ジャック、オレは、ほんとうに」
ジャック以外いらない。鬼柳はずっとジャックのものでいる。鬼柳からすると、ジャックはずっと鬼柳のものでいる。満たされている。満たされているが何か足りないような気がする。
「分かっている。もう少し眠れ、鬼柳」
なんだかちぐはぐのまま、ジャックに頭を撫でられた。少年をあやすように撫でられて、また瞼が重みを増す。とろとろと沈んでいきながら、鬼柳はとけゆくことばで抗った。ジャックになにが分かるというのか、ひとりで大切に育てたものを当然の顔をして愛でるだけの男に。幼い、で封じ込めようとしているらしいが、これも立派な本音のひとつだ。オレは、ジャック以外何もいらない。けれどジャックがジャック以外のものを鬼柳に求めるのなら、諭されるまでもない、まだ満足できない。
頭はジャックに預けたまま白いシーツに沈み込んで、手足を縮める。
また水をやって土を肥やして、あたたかな陽を注ぐ。目を覚ます時にはこの会話のすべてを忘れているだろうけれど、その時はきっと新しい蕾となっているから大丈夫だ。なにより交わした言葉と情と、ゆっくり巡った思考はどこからどう見てもすべて真実だった。
眠りに落ちる鬼柳を、果たして彼の全てであるところのジャックはただ見送った。
それは客観的に見れば不幸でしかない少年の人生において、最も幸いで、だからこそ生きていける、いうなれば水分や空気のような想いだった。
どれだけ酷い仕打ちを受けようと人としての尊厳を奪われようと、彼の中には常にこの想いがあった。ただの幻想ではあったが、ゆえにどんな状況であっても孤独ではなく、きっと少年のいのちと絡み合って解けなくなってしまっていたのだろう。つまりなくしてしまえば彼は彼ではなくもっと別の、例えば生きた肉塊に成り下がってしまうような、とにかく大事なものだったのだ。
研究所を逃げ出した孤独な少年は、一生懸命水をやり土を肥やしあたたかな陽射しを注いでその気持ちを育ててきた。だんだんと歪になっていくさまをうっすらと自覚しながら、育んだ。
少年が大切に大切に育てたものは、溢れる色彩と豊かな芳香をまとって花開いた。
「オレのためにか」
今や青年になった少年は、真っ白いシーツに包まったまま瞳を開く。ぽったりと落ちてくる瞼をなんとか持ち上げて、よく通る低い声の主を見やる。視界に捉えるより先にすこし硬い指先が伸びてきて青年の顎をくすぐった。こそばゆさに身を捩れば、質の良いシーツが裸身に滑る。
「泥を啜り土を噛もうと、オレのために気高くあろうとしたというのか、鬼柳」
遊ぶ指先から逃げ出して、今度こそしっかりと男を見つめた。長いことかけて育てた想いを傲慢にも全て吸い上げ、暴くように開かせた張本人。寝台の上でもジャックは王者と謳われる威圧で以って鬼柳を下し、そう高低差などないはずなのに見下ろしている。生まれたままの姿にシーツ一枚の鬼柳に対し、ジャックはデニムのパンツを履いていた。貧民と王様のようだ、とまでは思わないが、肉付きの薄い鬼柳の体に比べ、ジャックの体にはきれいに筋肉の陰影が流れている。明確に鬼柳とジャックを分かつ証のようで気に入らない。不愉快を曝け出すベッドサイドの灯りを密かに睨んで、それから鬼柳は首を傾けた。
ジャックの話はどこかに繋がっているようで繋がっていない。こんな話をしていただろうか、そもそも自分は今の今まで眠っていたような気がする。独白のようなジャックの台詞は、けれど疑問のかたちを取っていて、不明ながら鬼柳には答える他ない。
「……難しいことは考えていない。オレは、ジャック以外はいらない。ジャックがいればそれでいい」
向けられたことばを噛み砕くこともせず、口を突いて転がるに任せる。実際、あれやこれやと考えてはいたはずだが、最終的にはすべてジャックに繋がるのでその答えでいい気がした。
知らず落ちていた瞼を鬼柳はまた無理矢理持ち上げる。橙の光を透かして、睫毛がぱさりと眠気を訴えた。同時に落ちる影に目線を上げる。酷く近いところにジャックの顔が迫っていた。
「……幼いな、鬼柳」
呟くジャックの表情は、鬼柳にはよく見えない、よく分からない。ひたりと頬に触れるものにだけはなんとか気づいて、けれどそれがジャックの手のひらだと理解するには時間を要した。
くつ、と耳元でジャックの喉が鳴る。触れてくる手のひらが穏やかに震えて、揺れ落ちた金の一筋が耳を掠めた。こそばゆい。手で払う気は起きなかったし、身を捩るにはジャックが近すぎる。鬼柳はほうと息を吐いて堪える。
「貴様の全てをオレに捧げる点は好ましい。だが貴様はそんな男ではあるまい」
恐らくジャックは笑っているのだろう。顔を見て、ではなく、仕草で鬼柳は読み取った。頬から耳から顎から首筋から、ジャックは硬い指先をやわらかく踊らせている。これは機嫌がいい、ということだ。だから多分、笑っている。
全てを捧げる、と嘯くジャックはやはり傲慢だった。歪みながらも大切に育ててきたものを開いたのはジャック本人だった。始まりはもっと清廉だったはずのものを、多分に色を孕んだ何かに昇華させ搾取したのは。シーツの水際で鬼柳は内腿を擦り合わせる。夜気を揺らす匂いにもちろんジャックは気づいているだろう。
「オレだけで満足できる男ではないだろう、鬼柳?」
まんぞく。ちいさく反復する。ああ、と肯定する声は実際に放たれたものか、空耳か。
ジャックがいれば何もいらない。ずっと、ずっと鬼柳と共に育ってきたそれは開いて、摘み取られた。手のひらで弄ぶのはジャックだ。鬼柳はジャックのものになった、ということでいいのだろう。ジャックがいれば何も、それは満たされた。これから先もきっとずっと枯れることなくジャックに抱かれ続けるのだと思う。ジャックは手にしたものを絶対に離さない。だから満足。その先は、
「ジャック、オレは、ほんとうに」
ジャック以外いらない。鬼柳はずっとジャックのものでいる。鬼柳からすると、ジャックはずっと鬼柳のものでいる。満たされている。満たされているが何か足りないような気がする。
「分かっている。もう少し眠れ、鬼柳」
なんだかちぐはぐのまま、ジャックに頭を撫でられた。少年をあやすように撫でられて、また瞼が重みを増す。とろとろと沈んでいきながら、鬼柳はとけゆくことばで抗った。ジャックになにが分かるというのか、ひとりで大切に育てたものを当然の顔をして愛でるだけの男に。幼い、で封じ込めようとしているらしいが、これも立派な本音のひとつだ。オレは、ジャック以外何もいらない。けれどジャックがジャック以外のものを鬼柳に求めるのなら、諭されるまでもない、まだ満足できない。
頭はジャックに預けたまま白いシーツに沈み込んで、手足を縮める。
また水をやって土を肥やして、あたたかな陽を注ぐ。目を覚ます時にはこの会話のすべてを忘れているだろうけれど、その時はきっと新しい蕾となっているから大丈夫だ。なにより交わした言葉と情と、ゆっくり巡った思考はどこからどう見てもすべて真実だった。
眠りに落ちる鬼柳を、果たして彼の全てであるところのジャックはただ見送った。
- 2013.2.27
(http://shindanmaker.com/321047)
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