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ナイトメアアフタークライシス

 食料が尽きて早数日である。
 配給の食料は始めから育ち盛り食べ盛りの青少年たちを十分に満たすことはできない。そうでなくてもクロウが面倒を見ている子どもたちに自分の分の食料を分け与えてしまうので足りないどころの騒ぎではなかった。
 とはいえ、鬼柳は正規でない手段での食料の入手方法を心得ている。無駄によく食う青少年四人と、常に餓えている子どもたちの腹を満たす程度の食料は十分に確保できるのだ。それがどういうわけだか、食料が尽きて早数日。次の配給日もまだまだ先だった。
 子どもたちはクロウたちが育った孤児院に預けられている。そこでならここにいるよりもっと確実に腹を満たせるだろう、とのことだった。鬼柳は孤児院がどんなものか知らないが、彼らがそう言うのであればそうなのだろう。これで残るは多少の我慢を覚えた青少年四人の腹だが、既にその我慢も限界を超えている。
 鬼柳は塒にしている廃ビルのソファにうつ伏せて、自分の腹が鳴る音を聞いていた。最早食料を探しに行く体力も気力もない。あまりの餓えに思わずソファの合成皮革を齧ってみたが、やはり食べれたものではなかった。口内にじゅわりと滲む土埃の味に、ぺっと唾を吐く。
 その後しばらく、鬼柳は埃の積もった皮の溝を見つめていたが、奥の部屋から聞こえるガタガタという音に眼球を動かした。遊星もジャックもクロウも鬼柳と同じような状態で、各々好きな場所で死体ごっこをしているはずだが、はて、何の音だろう。食料置きに使っていた小部屋から音がするというのも気になる。既に野菜の皮の一切れも、缶詰のプルタブも残っていないというのに、誰かが鬼柳と同じような幻想を抱いて棚の端でも齧っているのだろうか。それとも誰かが食料を隠していて、今まさに食べようとしているとか?
 少しの間考えて、鬼柳はずるりとソファから滑り落ちた。そのまま文字通り床を這って進む。シャツの腹部分が黒く汚れることも厭わず進んで、半端に開いたドアを頭で押して部屋の中を覗き込んだ。
 今はすっからかんで何の役にも立たない保管庫に、ジャックとクロウが座り込んでいた。狭い部屋の中、二人で肩を並べ入り口に背を向けている。食料保管に使うだけあって、部屋は薄暗くひんやりとしていて、少し湿気った臭いがする。ついでにちょっと生物っぽい、すえたような、鉄のような、そんな臭いもしていた。
 ジャックもクロウも芋虫のように這ってきた鬼柳に気づかず、頭を下に落として無心で何かをむしゃぶっていた。頭と肩と腕が必死で上下して、じゅるずる、ぶちりと、啜る音やら咀嚼する音やらが聞こえる。もう野菜の皮どころか缶詰のプルタブすらないと食料を管理しているクロウはいっていたのに。やはりまだ某か隠し持っていたのだ。
 俺には知らせず二人で食い尽くすつもりかと批難を込めて、鬼柳は二人の名前を呼ぶ。細い針金で引っ掻いたような声しか出ず、ジャックもクロウも鬼柳に気づかない。背中とくっついてしまっている腹に精一杯力を込めて再度呼べば、ピタリと二人とも動きを止めた。そのまま二人してゆっくりと振り向く。わざとやっているのかと笑いたくなるぐらいぴったり揃った動きだった。
 振り返った二人はトマトソースでもぶちまけたのか、口元を真っ赤に染め上げている。クロウが少しだけ口を開いた。にちゃりと音がして、やっぱり真っ赤な口内と舌に乗った柔らかそうな肉片が見えた。
「まだ、食いもん、あったのかよ。俺にもくれよ」
 餓鬼のように手を伸ばせば、クロウがうっすらと笑った。手に持っていた何かの肉の塊をよこしてくる。これも真っ赤でぶよぶよとしていて、ぬるい熱を持った肉だった。ほうと溜め息を吐いて、両手で大事に肉を抱えた。
「何の肉だ?」
「蟹だ」
 ジャックが間髪入れずに答えた。鬼柳には一瞥もくれず自分の手の中の肉に犬歯を立てている。じゅわりと赤い汁がこぼれても気にする様子はない。
「そっか、蟹かあ」
「ああ」
 今度はクロウが頷いた。口の中に残っていた肉を大事そうに、何度も何度も咀嚼して咀嚼して咀嚼して、ごくりと飲み込む。嚥下に隆起する喉には赤い汁がうすく流れている。拭い取るには到底叶わないが、クロウはべろりと口の周りを舌でなぞった。それから満足そうに頷いて、鬼柳を振り返った姿勢のまま壁際へいざる。
 そこには真っ赤になってところどころ抉れた、遊星みたいなものが転がっていた。ジャックが愛おしそうにその肉の塊の頬を撫で、きれいに揃えた爪を立てて浅く肉を削ぐ。削がれた肉は指ごとジャックの口の中へ消えた。クロウがまた大きく頷いた。
「俺たち、遊星を食うことにしたんだ」
 非常時にこそ食わなきゃならねえだろ、非常食は。クロウの言葉に鬼柳も頷いた。頭を落とすと、甘い肉の臭いが鼻先をくすぐった。


 鬼柳はがばりと跳ね起きた。ソファに転がっている内に眠ってしまっていたらしい。慌ててきょろきょろとそこらを見渡し、食料置き場から何の音もしないことにほっとする。けれど今度はダイニング、のように使っている部屋から微かに物音が聞こえて、鬼柳はぎょっとした。
 ソファから落ちるように飛び出して、裸足のまま転けつまろびつ部屋へと急ぐ。足裏にブロック片が刺さって痛かったが、眉をひそめる余裕もない。半端に開いたドアをほとんど体当たりの要領で開く。「遊星!」
「……鬼柳?」
 遊星はそこにいた。普段通りの涼しい顔を少しだけ顰ませ、駆け込んできた鬼柳を見つめている。浅黒い肌に赤い肉汁は流れていないし、足の一本も欠けていないし、頬の肉も削げていない。鬼柳はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「鬼柳、どうしたんだ?」
 慌てた様子で遊星が傍らに跪く。背中をあやすようにさすられて、なんだか涙が出てきた。見上げれば心配そうな顔で覗き込んでくる遊星と、その向こうに訝しげな顔をクロウがいる。ジャックは食事用の細いナイフを片手に、クロウの隣でやはり訝しげな顔をしていた。サビが浮いてあまり使い物にならないナイフを見つめながら鬼柳は遊星の肩を掴んだ。
「遊星、遊星、大丈夫だな」
「なんともないが……何がだ?」
「どっちかっていうとお前の頭が大丈夫かぁ?」
 小首を傾げる遊星に鼻水まで出てきた。ぐちゃぐちゃに汚れた顔を遊星の胸に埋めて抱きつく。子どもにするように頭を撫でられてもう涙が止まらない。クロウの悪態は無視した。
「あ、あんまり、腹が減ったからっ、って、遊星が、食べられてっ」
「……大丈夫だ、俺は食べられていないぞ」
「ううっ……お、お前らも、あんまり腹が減ったからって、遊星食ったりするんじゃねーぞ!」
 誰が食うか、という声が二重で聞こえた。
「どうしてものときはっ、リーダーの俺が、食わせてやるからっ! 遊星が蟹みたいだからって……」
「……お前が、食わせてくれるのか?」
 ひたりと、肩に手を置かれる。耳元で囁かれた声は、ただでさえ低いジャックの声を更に更に低くしたもので、一瞬誰が喋ったのかと思った。恐る恐る仰げばそこにいるのはやっぱりジャックで、いやに感情のない顔で鬼柳を見下ろしている。まだ握られたままのナイフが鈍く光った。
 ぞっとして、それでもジャックに向き直る。なぜだか震える声で答える。
「そりゃあ、俺がっ……リーダーだし、どんな汚れ仕事でもして、ヒッ……!?
 食料を調達してやると、胸を張って言いたかったのに。ジャックがナイフを持っていない方の手で鬼柳の手首を掴む。遊星が背後から鬼柳を羽交い絞めにする。クロウは出口を塞ぐ位置でしゃがみ込んだ。
「そうか……鬼柳、貴様が食わせてくれるのだなぁ……」
「ちょうどよかった、鬼柳。さっき三人で話していたんだ」
 嫌な予感がする。聞きたくないとぶんぶん首を振れば、クロウに前髪をつかまれた。ぶちぶちと髪が抜ける音がうるさい。それでも続くクロウの声は掻き消せなかった。
「俺たちで、鬼柳を、食おうってさ」
 遊星の拘束がきつくなる。いつも優しい遊星が、骨が軋むほどの強さで鬼柳を捕らえているのが信じられない。クロウは無表情に鬼柳を見下ろしていた。ジャンク置き場で使えるものと使えないものを見定めている時の目だ。ジャックはきれいな仕草で鬼柳にナイフを向けている。この中で一番きれいに食事用のナイフを使うのはジャックだった。
「嫌だ、やめっ……冗談だろ?」
「安心しろ、鬼柳。綺麗に開いてやる」
 開く、というのはどういうことだろうか。だいたいこんなに錆びたナイフできれいに切れるわけがない。鈍くなったナイフのギザギザで押して引いてされて、汚い傷口になるに決まっている。そう訴えたらジャックは大儀そうに頷いた。できるだけ綺麗になるように努めるといつも偉そうなジャックにしては殊勝に言い直すがだからどうしたという話だ。
 鬼柳は馬鹿みたいに首を振って拒否の意を示す。逃げようにもクロウが出口を塞いでいるし目の前にはジャックがいるし背中から遊星に押さえられている。
「嫌だ嫌だ、痛いのは、なあ、ジャック、やめてくれ」
「大丈夫だ、痛くなどしない。今まで俺に捌かれた食材が『痛い』と声を上げたことがあるか? ないだろう」
 そうだ、確かにジャックのナイフの切り口に文句をつけた魚や野菜や肉は今までいなかった。ならば痛くないのだろうか。いや、何かちがう気がする。
 鈍い刃先が鬼柳の首筋に、ぐずりと潜り込む。


「いてえ」
 鬼柳は声を上げた。間の抜けた自分の声で目を覚ます。
 視界には黒く汚れてひび割れた、剥き出しのアスファルト。いつもの塒のいつものソファの上に仰向けで寝そべって、鬼柳は天井を見上げている。どうやら五体は満足らしく、ソファから落っこちた手足が鈍く重い。
 クッション素材などとうに抜けきったソファでは、合成皮革越しに固いスプリングが背中をごりごり抉ってくる。痛い。おまけにだ。鬼柳は己の腹にじろりと視線をやる。薄い鬼柳の腹を枕に、クロウの箒頭が乗っかっている。
「おはよう、鬼柳」
 耳元で遊星の声がした。続いて首筋に痛みが走る。夢の中でジャックにナイフを当てられた位置だが、ナイフと違って湿っていてぬるりとしていて吸いついて噛みついてくる。がじがじと抉れるほどに齧られて、それから遊星の頭が離れた。満足そうな溜め息が唾液で濡れた肌の上を滑る。
 あまりよく見えないが、自分のつま先のあたりにジャックの金髪が見えた。そこでようやく鬼柳は思い出す。
 昨日は食料不足だったところにようやく食料が流れてきた。めったにお目にかかれない蟹の缶詰まであった。四人で腹一杯になるまで食べて、そのまま皆して床の上で眠りについた。缶詰はうまかったし、満たされた腹を抱えてたっぷり睡眠も取って、人間の三大欲求とやらの内ふたつまでは満たされたのである。
 となると健全な青少年たちゆえ、残りのひとつも満たしたいと思うわけである。思うところでとどめておけばいいものを、鬼柳の拾った三人はついにそれを実行に移した。つまり鬼柳は夢ではなく、本当に『食われた』のだ。
 妙につやつやとした顔でこちらを覗き込んでくる遊星に鬼柳は微笑みかける。自分は遊星を食べないでくれと泣いて庇ったのに、コイツは。少し溜めて、思い切り蟹頭に頭突きを食らわせた。続いて腹の上の箒頭に拳を一発。足元の金髪には踵落とす。
 今度食料の調達ルートと、女との遊び方をこいつらに教えてやらなければ。あちこちから聞こえる呻き声に鼻を鳴らして、鬼柳はようやくソファから起き上がった。首を伝う唾液の冷たさが不愉快だった。