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On the edge of insanity

 腹の傷がじくじくと痛む。深く息を吐いて遊星は目を開いた。瞼の上を脂汗がにじりと滑る。瞬いて払おうとすれば、目尻から眼球に触れた。刺のような痛みに反射的に瞬きを繰り返す。
 幾度か繰り返した末、ようやくまともな視界を取り戻した。といっても今は夜らしく、薄墨色にあらゆる輪郭がぼやけている。なので遊星は少しばかり気づくのが遅れた。いまだ熱を持った傷のせいで、判断力が鈍っていたこともあるのかもしれない。
 痛む腹の上に、誰かが馬乗りになっている。夜の闇に輪郭を溶かして、青白い肌だけを浮き上がらせて。闇よりもなお暗い闇い昏い眼球が、じっと遊星を見下ろしている――
「――ッ!?
「よォーやくお目覚めかァ? ゆーうせぇえ……」
 鬼柳だった。どうして、と問う声は、遊星の上でべたりと腹這いになった鬼柳の両手で潰される。昔から男にしては白くほっそりとしていた手が、丁寧にカードを繰っていた手が、やんわりと遊星の首を絞めていた。
 酸素の行き渡らない頭で遊星は必死に状況を探ろうとする。鬼柳とは、ついさっきまでライディングデュエルを、命を賭した戦いをしていて、地縛神が――D・ホイールがクラッシュして――どうして鬼柳が、ここにいる?
 霞む視界の中、目前で笑う鬼柳を捉える。視線に気づいたらしい鬼柳はにんまりと笑みを深めた。戯れを含んで、ほそい指が離れていく。
「……っ――か、はぁッ!!
 ひゅうと息を吸い込んで、勢い流れ込んだ空気に激しく噎せる。未だに鬼柳がのしかかる腹部が酷く痛むが、窒息しかけた体はすぐにはいうことを聞かない。苦痛に背を丸めることも叶わず、遊星にできることはといえば必死で呼吸を取り戻すことと、涙で曇る目で鬼柳を見つめることだけだった。
 遊星の姿勢を封じたまま、鬼柳はずっと微笑んでいた。咳と同時に唾液が飛ぶことも厭わず楽しそうに微笑み続けていたが、遊星の呼吸が治まってきた頃合いになってようやく、ほんの少し笑みを緩めた。人差し指の先でついと筋の浮いた遊星の首を撫で、耳元に唇を寄せる。この瞬間だけ見れば恋人同士の睦言にも見えるだろう、甘やかな仕草だった。耳をくすぐる声もどこまでも甘く、滴る毒を含んで震える。
「心配すんなよ……こんなことで殺しはしねえ、お前はちゃあんとデュエルで、地縛神で、殺してやるからよぉ……」
 絡みつく毒とは裏腹に、あっさりと鬼柳は身を起こした。ただしいまだに遊星の腹を跨いだまま。圧迫され熱く疼く腹がうるさい。振り切るように遊星は疑問を吐き出す。
「鬼柳っ……どうして、お前が」
「『どうしてここにいる?』『どうしてこんなことを?』 それとも――『どうして生きている?』」
 絞められた首に残る冷たさが、おかしなことに酷く熱かった。触れてきた鬼柳の指の形で焼け焦げて、そこからぼろり、落ちてしまうような錯覚に目が眩む。回る視界の中、鬼柳の笑みだけが揺るがずに遊星を見下ろしていた。その暗い瞳に、まだ首が繋がっていることを知る。
 ギシリとベッドが軋む。言葉を失った遊星に焦れたのか、鬼柳がやわらかく腰を揺らし始める。いやらしく誘う動きと闇に白く浮く鬼柳の腹の艶めかしさにまた目が眩む。しかしそれは性的なものではなく、薄い尻の下で抉り込まれる腹の痛みによるものだった。
「やめろ、鬼柳っ……お前は、こんなことをする奴じゃ、なかった……!」
 脂汗が滲む。煽られる欲と痛みに歯を食いしばる、そんな遊星を鬼柳は笑う。今までの貼り付いて取れなくなったような笑みではない。すうと息を吸い込んで、宙に向かって高らかに吐き出す笑い方だった。哄笑、嘲笑、冷笑。笑い声が傷に響く。
 ひとしきり笑い続けて満足したのか、鬼柳はほうと息を吐いた。夜目にも青白い頬がほんの少し紅潮している。あどけない仕草で小首を傾げて、狂気を孕んだ声が遊星を責める。
「こんなことする奴じゃなかったぁ? じゃあ俺はどんな奴だったんだよ、なァ?」
「鬼柳は、いつも俺たちを……導いて、くれて」
「それはお前らの見方だよ」
 遊星は目を見開く。青白い肌と黄金の瞳が闇に冴えて、ひんやりと遊星を見下していた。嘲笑と狂気を脱ぎ捨てた、遊星のよく知る――知っていたはずの鬼柳だった。
「お前らがそうやって“俺”を押し付けてくるから、俺はッ……」
「鬼柳」
「誰のことだよ、それ」
 冷たく跳ね除ける鬼柳の声に、自分が縋っていたと気づく。今この瞬間と、吹き溜まりの街を黒く塗り潰していた時と。
 ぱたぱたと頬に雫が落ちる。いつのまにか逸らしていた目線を鬼柳へとやれば、瞬きもしない黄色の瞳が涙を零していた。鬼柳自身は気づいていない様子で吐き出し続ける。ぼろぼろと唇から落ちゆく言葉は最早遊星に聞かせているものなのかも定かではない。
「お前らはそうだ、そうやってお前らの俺を押し付けるばっかりで本当は俺のことなんて見てなかったんだろう、俺のことなんてどうでもよかったんだろう? じゃなかったらあの時だって一緒に戦ってくれたはずだ、俺だけを責める前に止めてくれたってよかったはずだ、なあそうだろ!? なあ、遊星ぇぇええええ!!
 吼えてガクリと首を落とす。糸の切れた操り人形のようだと思った。かけるべき言葉は、どこにも見つけられなかった。
「なあ、遊星」
 虫の音も聞こえない夜の静寂に、最期と鬼柳の声が落ちる。
「俺を、ころしてくれよ、おれを……」
 時間が止まる。
 遊星の耳で残響が谺する。幾重にも鳴るそれの意味を理解するまでに酷く時間がかかった。理解したところで答えはない。
「――俺は、お前を……鬼柳、」
 喘ぐような声が何かを繋ぐ前に、鬼柳の伏せられた頭が大きく振れた。
 くつくつと喉奥で笑いながら鬼柳は肩を震わせる。腹に響く振動は痛みではなく、途方もない絶望を連れてきた。遊星の胸に突いていた鬼柳の腕がぼんやりと光っている。禍々しいいろのそれが巨人を形作るタイミングで、鬼柳の頤が仰け反った。
「なァんてなァ……く、ククっ、ヒャーハハハハハァ!!
 断てよ、殺せよ、滅せよ。赤く疼く右腕を無視して遊星はただ鬼柳を見つめる。嘆いてた金の瞳はまた黒に染まり、己以外の全てを睥睨していた。
「じゃーな遊星、次は殺してやるからよォ……楽しみにしてな」
 温度のない指が遊星の首筋をなぞる。指先の零度と腹の痛みだけを遊星に残して、鬼柳の輪郭はずるりと闇に消えた。
 静けさが耳に沁みるまで、身動きも取れずに鬼柳のいた場所を見つめていた。ようやくここが幼年を過ごしたマーサハウスだと気づくが、声を出して誰かを呼ぼうとも思わなかった。夢か現か判然としない鬼柳の来訪に、ぶつけられたいくつかの言葉と、憎悪と、それこそまぼろしのような哀切が遊星の喉を締め続けていた。
 鬼柳は殺してくれといった。右腕の痣も殺せと叫ぶ。鬼柳は殺してやるといった。遊星は何も答えることができない。鬼柳は誰を殺せといったのか、龍は誰を殺せというのか。次に鬼柳とまみえたとき、自分は、どうすれば。
 結局答えを見つけられないまま、遊星は夜闇に意識を落とした。
    2013.2.9 (狂気の淵で)