×

衝動

 たまにだが、ああ、D・ホイールに乗りたいなあ、などと思うことがある。
 今がまさにその心境だった。鬼柳は誰もいない家の中、ダイニングテーブルに頬杖を突いている。ニコは近所の老夫婦の元へ手伝いに、ウェストは友人たちと遊びに出かけている。町民たちの好意を受けて譲り受けただだっ広い家、そのこじんまりとしたダイニングに鬼柳は一人だった。復興作業の仕事は休み。やることも特になく、茫とした視線は黄色い町並みと抜けるような青空へ。
 遊星やジャックのようにD・ホイールに愛着があるわけでも、ライディング・デュエルを楽しみたいわけでもない。いっそエンジンがかからず、走れなくてもいい。ただ単純にD・ホイールに乗りたいと思うのだ。
 空を見上げたまま考える。別に走りたいわけでもないのにどうして自分はD・ホイールに思いを馳せるのだろうか。
 鬼柳にとってD・ホイールは馴染みあるものではない。実際まともに乗ったことがあるのは――あまり思い出したくはないが、ダークシグナーとして遊星と戦った時ぐらいだ。ラモンに雇われていた時分、バイクに乗ったこともあったが、鬼柳に与えられていたのはD・ホイールではなく正真正銘ただのバイクだった。ファミリーの連中は鉱山での監視にD・ホイールを使っていたようだが、鬼柳が必要とされていたのはスタンディングで行うデュエルタイムのみだったので当然である。
 この町がサティスファクションと名を改めてから、実際にD・ホイール乗りに頼んで乗せてもらったこともある。道らしい道もない荒野を風を切って走るのは心地よく、そのときは満足させてもらった記憶がある。けれど、なにかちがうとも思った。
 マシンが好みではなかったのだろうか。ボルガー社製のスタンダードなマシンで、乗り心地は悪くなかったのに。とはいえマシンの良し悪しなど、鬼柳にはあの青いマシンぐらいとしか比べられないのだが。
 そもそもあのマシン――ギガントLの乗り心地は果たしてどうだっただろう。相変わらず視線は窓の外、今度は意思を持って青い空を見上げる。ギガントLはもっと暗い、海の底のような青で塗装されていた。車高も他のD・ホイールよりは低く、地を縫うように走るのは嫌いではなかった、と思う。ダークシグナーだった頃に自分のしてきたことは覚えているのだが、自分が何を考えてどう思っていたのか、遊星への憎しみと心残り以外はうまく思い出せないでいる。
 低い姿勢で風を切って、身を明かすなと口うるさくいわれていたから大抵夜のサテライトを走っていた。たぶん夜しか走れないことに不満を持つぐらいには、あのマシンを気に入っていたのだと思う。本当にどうして、どこをそんなに気に入っていたのだろうか。
 ようやく鬼柳は視線を落とす。ニコがウェストに買い物を頼むときに使うメモ用紙とペンがあった。用紙を一枚破ってペンを手に取る。あの自分だけに与えられたマシンはどんなラインを描いていただろう、ぼんやりと記憶の輪郭を辿ってみるが、しばらくして鬼柳はペンを投げた。案外と思い出せないものだ。べたりと紙の上に頬をつける。
 自分は操作やライディングデュエルルールを覚えるのでいっぱいいっぱいだった。パーツの形はおろか、曖昧に全貌を描きとめられるほどにもマシンを見てはいなかったと思う。整備だってごくごく簡単なものは自分でやっていたけれど、ほとんどは。
「……――ルドガー」
 ぼろりと声になって落ちた名前は、いやに胸の奥を引っ掻いた。
 工学の知識も覚える気もさっぱりない鬼柳を前に、ルドガーは簡単な整備すらもさせたくないとよく零していた。あのギガントLはルドガーが設計して組み立てたものだったし、本人が乗らないにしても彼なりに愛着があったのだろう。それを精神も行動も不安定で、デュエル以外では手元のおぼつかないような当時の自分に触らせたくなかったのは当然といえる。
 とはいえ当時の鬼柳とて、ギガントLに対してそれなりの愛着を持っていたのだ。確かに扱いは粗雑だったかも知れないが、何せあのD・ホイールは鬼柳が生まれて初めて手にした『自分だけのもの』だったのだから。
「あー……そうか……」
 あのD・ホイールは、大事なもの、だったのだ。
 不意に襲ってくる、このD・ホイールに乗りたい、という衝動も、単純にD・ホイールに乗りたいのではなくて、あのマシンに触りたい、ということなのだ。きっと。
 ギガントLはどうなっただろう。自分が二度目に死んだあの遊星とのライディングデュエルで投げ出されて、それから。地縛神の力と一緒に消えてしまっただろうか。それともそのまま打ち捨てられて、サテライトの再開発計画で処理されてしまっただろうか。ルドガーが鬼柳のためだけに作ってくれた、大事なものだったのに。
 鬼柳はべたりと顔を伏せる。いずれにせよあのマシンにはもう二度と触れられないのだ。D・ホイールに乗りたいというこの衝動は一生満たされることなく、きっとずっとついて回るのだ。その事実にだけは満足できて、鬼柳は伏せた闇の中でひそかに笑った。