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月虹

 鬼柳が「あ、」と声を上げたのと、鬼柳の背中に指を這わせていた遊星が動きを止めたのはほとんど同時だった。
 遊星は顔を上げる。声の続きを問うためではない。指先の感触を問いただすためだった。シティとはちがう果てのまち、月の明かりだけがよすがの夜のことである。
 遊星と鬼柳は質素な、けれど粗末ではないベッドの上で向かい合っている。鬼柳は膝立ちで遊星の肩に両手を置き、遊星は胡座を掻いて片手を鬼柳の背に潜り込ませ、もう一方の手で腰を抱いている。見上げた先の表情は、夜に浮かんで戸惑っていた。
 遊星の指先は日々の機械いじりで酷く荒れている。あまりにも荒れていて、なんだか触れるとでこぼこしてる、といわれたこともあった。それ以来真面目に手入れをしていた時期もあったが、なにせ毎日のことなのであまり意味がなくすぐにやめてしまった。相手に触れるときは手袋をはめておけばいいし、自身は荒れたままでも困りはしない。
 そのでこぼこした指先が、鬼柳の背中にぴたりと重なった。重なるはずがないのに、失くしたピースがぱちりと噛み合うように。
 鬼柳、と、遊星は静かに名前を呼ぶ。きらきらと淡くひかる髪に、同じ色のまつ毛が落とす影が映える。月よりも強い色の瞳はしかし、ぼんやりと潤んで視線を落としている。
「……分かるか」
 息の止まるような空白を、鬼柳の声がようよう埋める。けれど、このまま消えてしまいそうな、色も起伏もない声だった。
 遊星は頷いて、鬼柳の腰に回す腕に、ゆるく、力を込める。
 いつかの、暗い炎に囲われた夜がよぎる。あの時も鬼柳は遊星の腕にいた。今よりももっとずっとしっかりと掻き抱いていたはずの鬼柳が、砂のように流れて消えてしまった夜。思い出すだけで頭のてっぺんからつま先まで血の引くような、遊星が鬼柳を救えなかった二度目の夜だった。
 夜に散ってしまいそうな鬼柳が怖い。今この瞬間の鬼柳は、あの夜の鬼柳のようだ。
「大丈夫だよ、消えやしねえから」
 遊星の恐怖に気付いたのか、頭上からふうと吐息が落ちる。
 鬼柳は包み込むような笑みを浮かべて、遊星の肩に置いていた手を滑らせる。しろい指で遊星の目元から走るマーカーを撫でる、あやすような仕草。
「……ああ」
「うん」
 鬼柳はもう一度、うん、と呟いて、指先でぺちりと遊星の頬を打った。痛みなどないそれと、また繰り返される「うん」という呟きに鬼柳の存在感を取り戻す。恐らく鬼柳自身もそうして自分を確かめている。
 背中から引き抜いた手を鬼柳の後頭部に回す。艶のある髪は遊星の指を滑り、頬を掠めた。被さってくる鬼柳の唇に吸い寄せられるようにキスをする。初めは触れ合うだけ、少しずつ深く、最後は舌先で確かめ合う。
 視界には鬼柳だけ。耳には互いの吐息だけ。
 やがてどちらからともなく離れる。見下ろしてくる鬼柳の瞳は、今度は熱に潤んでいた。
「背中、」
 濡れた唇が、先ほどの感触をふたたび遊星の指先へ呼ぶ。
「見て、くれないか」
 自分じゃ見えないんだと、続ける声は震えていた。
 遊星が頷けば、鬼柳はゆっくりと背を向ける。触れた遊星も怖いが、鬼柳自身はきっともっと怖いのだろう。だから揺れないようにしっかりと、自らシャツを脱ぎ捨てる鬼柳を、その背を見守る。
 はらりと落とされるシャツに、長く伸びた髪が揺れる。銀糸を透かす青白い肌と、引き攣れたいくつもの裂傷。
「鬼柳……」
 堪らず、名前を呼んだ。
 傷は古いものらしく、浅いものも深いものもある。生来色の白いらしい鬼柳の肌を、たて、よこ、ななめに、短く長く裂いていた。
 同じチームとして過ごしていた過去、鬼柳の裸は何度も見たことがある。当時はこんな傷などなかった。青白い肌は同じだが、劣悪な環境にあっても生を湛えた健やかな背中だった。遊星は初めて鬼柳と出会った日からずっと、その背に導かれていたのだ。
 ならば当然、この傷は遊星と鬼柳の別離の後に刻まれたものということになる。
「……どうなってる?」
 問うかたちではあるが、答えなど分かりきっているのだろう。どこか、何をか、嘲笑ういろを混ぜて鬼柳が呟く。
 その声に、飲み下せない感情が喉を塞ぐ。嗚咽に似たそれを遊星は胸の奥に押し込めた。苦しいのは、鬼柳の方だ。ざらついた指先で、古い傷に触れる。背を抉る溝が、ひたりと吸いつく。
「傷が」
「うん」
「古い傷が、たくさん」
「……うん」
 傷だらけの背中がふわりと倒れ込んでくる。両腕で抱きとめて、閉じ込める。剥き出しの鬼柳の背は遊星の胸と重なって、低い体温を伝えてくる。
 いつ、どうして刻まれた傷なのか。聞かずとも答えは予想できた。聞きたくないとも思った。
 けれど自ら背を晒したのは、鬼柳だ。
 鬼柳が語るというのなら、受け止める覚悟はある。
「それ、な。収監されたときのやつ」
 シティに住んで食うものにも寝るところにも困ってないのに、セキュリティの奴らは何に不満があったんだろう。それぐらい徹底的にマークされて昼も夜も痛めつけられた。人間は腹や頭を庇おうとするものらしく、必然的に背中にばかり傷が残ったらしい。もちろん、蹲っていたところ無理矢理顔を上げさせられて、顔や腹も殴られたりしたのだが。
 鬼柳は独白のように話す。その告白を聞きながら、遊星はずっと鬼柳の体を抱きしめていた。
「あんま傷だらけだと萎えるかもしんねえけどさ、前からだったら見えないから……」
「いや、このままがいい」
 身じろいて体勢を変えようとする鬼柳を押さえ込む。白くなよやかな首筋に唇を落とせば、鬼柳の身体は小さく跳ねた。音を立てて吸い付いて、強張っていた身体をゆるゆるとあやす。
 鬼柳の傷を癒すための口づけは、同時に自分を満たすための、あるいは騙すための、祈りでもあった。
 四人が二人になって、その後遊星も鬼柳から離れた。そして最後には裏切りと取られても仕方のないかたちで、鬼柳をひとりきりにしてしまった。暗く冷たい牢獄で、鬼柳はどれほどのものに耐えてきたのだろう。恨みと悲しみの中で死んでいく絶望はどれほどのものだったのだろう。自分一人が犠牲になれば鬼柳を救えると思い上がっていた当時の自分にも、五千年の因縁などではない、自分が鬼柳を救うのだと走り続けていた自分にも、今の自分にも分からない。この無残に背を裂く傷だけが知っている。
 鬼柳の身体を抱えたまま、ふたりしてベッドに倒れ込む。横向きに抱きしめた鬼柳は首をひねってこちらを見ようとする。白いシーツに銀の髪が散らばって、白い月明かりになだらかな肩が、傷だらけの背中が晒される。
「遊星」
「これは、俺とお前のものだから。だから、隠さないでくれ」
 もう一度、でこぼこした己の指先で傷跡をなぞる。ぴたりと重なるそれはまるでお互いしか存在していないようだと思った。
 鬼柳の傷と重なることができるのは、自分だけなのだ。
 一緒にいよう。呟いた遊星は一方の手で鬼柳の背を撫で、もう一方の手で振り向く鬼柳の顎を掴む。そのまま唇を合わせれば、無理な姿勢のためか鬼柳の喉が鳴った。嗚咽を堪えるようなそれが胸の奥を抉って、遊星は更に深く鬼柳に口付ける。