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ウィークインクローゼット

 海馬の私室にはかたかたとキーを叩く音だけが響いている。その中にふと別の音が紛れ込み、海馬はモニタから顔を上げた。視線の先では城之内がクローゼットからひょこんと金色の頭を覗かせている。
「起きたか、城之内。何か食べるか?」
「んー……」
 白く草臥れたTシャツから覗く腹を掻きながら城之内は頷く。のろのろとバスルームのほうへ消えていく城之内を横目に海馬はデスクの受話器を手に取った。軽食を、とだけ告げてすぐに切る。
 頼んだものは城之内が湯から上がるのを見計らったかのようなタイミングで部屋に運ばれてきた。城之内はバスローブ姿でローテーブルに置かれたホットサンドを摘まんでいる。今にも崩れ落ちそうな姿勢でソファに腰掛けホットサンドを齧る城之内。海馬は背を向け、ひたすら机上の仕事を進めていく。しばらくしてちゅぱちゅぱと城之内が指先に付いたパンくずを舐め取る音が過剰に海馬の鼓膜を叩く。モニタの端に表示された時刻は真昼を告げていて、海馬は打ち込んでいたデータを保存し、パソコンをスリープモードに切り替えた。光の落ちたモニタに城之内の青白い顔が映り込むのと、背中に予期していた重みと熱が訪れるのは同時である。
 するりと金糸が頬を滑る。熱を感じて止まない背中にぞくりと走る感覚は大きな窓から燦々とした陽光を取り込む部屋には不似合いで、だからこそ余計に煽られる。海馬はその事実に気づいていた。城之内自身も気づいていてやっているのかもしれない。そんな思考力が今の城之内にあるのならの話だが。
「なあ、かいば」
 耳元に吹き込まれる声は誰だ貴様と怒号を上げたくなる甘さだったが、海馬の胸に去来するのは途轍もないやるせなさだけだった。城之内の唇が水気を含んだ音を繋ぐ。ここ三日ほどで聞き慣れた、常の城之内ならば決して口にしないような誘いのことば。
「セックスしよう」
 海馬は瞬き一つに嘆きを押し込んで振り向く。後は合わせた唇に押し込んだ。城之内がそれを飲み下したかどうかは分からない。合わせた唇からは濡れた音と鼻にかかった甘ったるい吐息だけが漏れている。
 城之内を屋敷に、己の部屋に連れ込んだのは海馬だった。
 一日目の城之内は茫とした顔でずっと宙を見つめていた。アルコール類のビンや缶がそこらあたりに転がり家具も何もかもが薙ぎ倒された部屋の真ん中で座り込んでいるところを無理矢理引きずり出しても、屋敷に連れ帰った後バスルームに投げ込んで着衣のまま頭からシャワーを浴びせても、耳元で声を張り上げても名前を呼んでも腕の中に抱き込んでも、ピクリとも動かなかった。
 それでも呼吸をしていた。ベッドに横たえた城之内はいつの間にかクローゼットへと入り込んでいて、そこでようやく目を瞑っていた。
 二日目の城之内はひたすらに暴れた。喉が裂けるほどに叫び、手に触れるもの全てを海馬に投げつけた。投げるものがなくなると今度は海馬を引っ掻き、噛みつき、押さえ込めば鼓膜が破れんばかりの声量で言葉にならない何かを叫んだ。
 それでも自分を傷つけることはしなかった。やがて城之内はクローゼットに入り込み静かになった。
 三日目の城之内はクローゼットの中から出てこなかった。耳をそばだてても死んだように沈黙して何も聞こえなかった。
 それでも生きていた。四日目にそれは証明された。
 四日目の城之内は昼前になってクローゼットから出てきた。気だるげにあくびを噛み殺して、シャワーが浴びたい、と言った。海馬がバスルームを示すと大人しく従い、部屋に戻って腹が減ったと訴えた。軽食を用意させるともそもそとそれを平らげ、今度はセックスがしたいと海馬の首に腕を回した。海馬は城之内を抱いてやって、城之内はまたシャワーを浴びに行った。湯から上がるとそのままクローゼットに入り込んだ。
 それでもよかった。城之内の意思のこもった声を海馬は久しぶりに聞いた。
 五日目の城之内は四日目の行動を繰り返した。
 それでも六日目はやってきた。海馬は既に予感していた。
 六日目の城之内は五日目の行動を繰り返したが、海馬は先んじて全てを用意した。
 それでも城之内は何も言わなかった。用意された湯の温度にもホットサンドの味にも海馬とのセックスにも何も言わなかった。
 七日目の城之内は海馬の目の前にいた。汗と唾液と精液で濡れた顔を昼の日差しに光らせて意味をなさない声を上げていた。海馬も何も言わずひたすら城之内の身体を揺さぶる。
 それでも、二人分の吐息と城之内の嬌声と身体のぶつかる音、そして粘着質な水音だけがなにかの意味を持っている。
「うあ、あ、あ、で、る、あああっ……」
 濡れた肢体が硬直し、ゆるりと弛緩する。陽に透かしても青白い腹に散る白濁は腹筋の起伏を辿って陰影を深めた。呼吸に合わせてぬるりと滑る様は淫猥だが、今の海馬を煽るものではない。空虚感を埋めるように腰を進め、城之内の中を貪る。しかしいくら奥へ突き込もうと届かないのだ、本当に触れたいところには。
 一度達した城之内は惰性で声を漏らし続け、海馬も惰性で上り詰める。引き抜いて青白い腹の上に散らした精液はただのやるせなさで何も埋まらない。呼吸を整える城之内を見下ろす。城之内も海馬を見上げる。そこには何も映っていない。
 城之内にゆるく胸を押され海馬はその場を退いた。ぺたぺたと裸足のままバスルームへ向かう城之内を黙ったまま見送り、湿ったシーツで申し訳程度に身体を拭う。
 城之内が戻ってくる前にベッドメイクをと一言告げるために取った受話器をしかし海馬は固く握り締めることになる。
 七日目の城之内だった。海馬はもたらされた一報をも握り潰そうかと瞬間考え、七日間の城之内を思い返す。海馬の部屋のクローゼットで小さく縮こまる姿も、欲求を満たすことで辛うじて人間を保つ姿も、欲の捌け口を海馬に求める姿も、『城之内克也』とあまりにも乖離している。
 その姿もその原因も、城之内の家に乗りこんだときの有様も全て余すところなく反芻して海馬は頭を振る。
 結果、ふらりとバスルームから出てきた城之内に、海馬は七日間の城之内を終わらせる言葉を告げる。
「貴様の父親が、意識を取り戻したそうだ」
 応えはない。ただ城之内の目にじわじわと光が揺れる。
「貴様も父親も生きている。死んではいない」
「おれ、は」
「貴様は、」
 ただでさえ荒れた部屋に争った跡。元はビール瓶だったガラスの破片と飛び散った血が差し込む夕日に煌めく中、城之内は呆然と座り込んでいる。虚ろな視線の先で転がる彼の父親も頭をあかい夕日に染めていた。
「父親を殺さなかった」
 城之内の顔にも血が滲むシャツの下の身体にも、殴られた跡があった。飛び散っていた血は父親のものだけではない。暴力に走った父親に、彼を止めようとした城之内が誤って怪我を負わせてしまったと容易に予想できた。正当防衛だったはずだ。ただ当たりどころの悪かった父親が一週間も生死の境を彷徨うことになっただけで。
「海馬」
 陽光にちらちらと瞬く金の糸。前髪に透ける瞳が確かな輪郭をもち、じわりと滲んでもいく。
「最後に、するから」
 城之内の背中がクローゼットへと消えてゆく。そこにはこの一週間のすべてを置いていくのだろう。
 静かに閉められた扉の向こうから聞こえる声に海馬は目を閉じる。城之内の父親も城之内も生きていて、明日にはいつもの城之内がいるのだろう。別段何も変わらない、次の一週間がまた始まる。