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Home, sweet home.

 日付も超えた海馬邸に主の靴音が高く響く。海馬瀬人にしては珍しく焦りを滲ませた歩き方だが、屋敷の使用人たちは何事かと目を丸くするでもなく海馬と同じようにどこか差し迫った表情で主の背を見送っていた。長期不在の出迎えとしてはあまりに無礼だが、使用人たちも主自身もそれどころではない状況にして心境である。
 進めば進むほど使用人たちの姿が見えなくなる。嵐の前の引き潮のような静けさの中、遂に海馬は自室へと至った。まず一つ目の扉を開いて一歩を踏み入れ、次に寝室の扉へ視線を転じる。主の憩いの場である筈の寝室、その扉は、今は主人を威圧する重々しい空気を封じ込めているようにも見えた。実際今の部屋の主は自分ではなく、間違いなく数時間前からこの部屋で一人海馬の帰りを待ち続けている男だろう。
 進む足が重く感じられるのはここ連日の疲れのせいか、漂う不穏な空気のせいか。最後に彼を見たという執事の言を思い出す。何かお夜食でもいかがですかと声をおかけしたのですが、じっと窓の外をご覧になるばかりで。海馬は疲れた表情でドアノブと睨み合う。基本的に自分以外の屋敷の者には気さくなあの男が夜食の話に一瞥もくれないとなると相当だ。
 意を決してドアノブを掴み、往生際悪く躊躇ったのち、捻る。厚く外界を隔てる扉は音も立てずに開き、主人を迎え入れた。
 部屋の照明は落とされており、唯一ベッドサイドのランプだけが灯されている。海馬は暗がりに目を細めた。ベッドの真ん中で膝を抱え、窓の外を見つめる背中が橙色に照らされている。暖色に淡く浮かび上がる金髪に反し、肌に触れる非難の空気はちりちりとして鋭い。
「……待たせてすまなかった」
 今夜ばかりは素直に謝罪の言葉を口にする。
 ベッドに座す影は黙ったまま。真夜中の寝室で静けさがゆらりゆらりと波打つ。再び海馬は謝罪を重ねようと口を開きかけ、見計らったように転がり落ちた声に阻まれる。
「今、」
 久々に耳にする声は尋ねるにしては平坦で、感情が読み取れない。
「何時」
 それでもこの三週間、恋しくて堪らなかった声だった。向こうを発つ直前にも電話越しに話をしたが、距離を隔て機械を通した声ではない。今すぐにでも胸に抱き込んで身体の全てでその存在を感じたいと強く思う。しかし向けられた背中はまだ、海馬に予断を許さない。
 長く息を吐く音が流れ、かくんと肩が落ちる。もったいぶるように振り向く仕草に怒りではないものを見つけ海馬は自分の肩も落ちるような感覚を覚えた。
「オレさぁ、おまえが帰ってくるっていうから、バイト終わってからずっと待ってたんだけど」
「……ああ」
 橙色の明かりにやわらかく頬の輪郭が浮かび上がる。心もち膨れたそれと緩く眉間に寄る皺にらしくなく頬が緩みそうになった。刺すような非難の気配は消え失せて、むっつりと不機嫌を抱えた声が訴える。
「そんで、帰ってきて初っ端に言うことがそれか?」
 ん? と首を傾げて軽く両腕を開かれる。抱えられていた膝は自然解かれ、ぺたりとベッドの上へ。迎える体勢に求められているものと許されたことを確信し、海馬はようやく手を伸ばす。
「――ただいま、城之内」
「おう、おかえり」
 腕の中に金色の頭を抱え込めば、耳元を笑いを含んだ声がくすぐる。
 背中に回された腕の重みと温もりが心地よく、知らず詰めていた息を長く吐き出していた。城之内はよいしょと呟きながら海馬を引き寄せ、自身もいざって腰の位置をずらす。城之内の背中からぽふんと羽の詰まった枕が重みを受け止める音が聞こえた。
 背中を預けて安定したらしい城之内に、海馬は遠慮なく凭れかかった。澱のように溜まった疲労に薄く目を閉じて、先ほど吐いた息を取り戻すべくゆっくりと吸う。薄くなったシャンプーの匂いは城之内の髪から漂っているのだろう。
「疲れてるか? ずっと仕事してたんだろ?」
「……ああ」
 城之内の問いに短く答える。
 電話越しに帰宅予定の時間を伝えた後、終えたばかりのプロジェクトにトラブルが見つかったと報告を受けた。機内で可能な限りの指示を各所に飛ばし、着陸後は城之内に一言連絡を入れる暇もなく本社へと向かいトラブルの対応に当たっていた。
 秘書から屋敷へ、屋敷の使用人から城之内へと連絡は届いたのだろう。だが、こちらから待たせておきながら約束を違えたのだ。城之内は海馬を詰ってもいいはずだが、結局怒るでもなく疲れた海馬を出迎えてくれた。
 不意に耳元を含んだ笑い声が掠める。
「……なんだ」
「別に? ただお前が素直に返事するなんて珍しいなって」
 フンと鼻を鳴らして応えれば城之内の身体が揺れる。身を預けている海馬には振動と化した城之内の笑いがダイレクトに伝わってきた。思うところはいくつかあるが、とりあえず気に入らないという衝動に任せ上体を僅か起こす。城之内の笑みを描いた目元がぱちりと瞬く瞬間に唇を合わせる。近すぎる距離では城之内の表情が見えないのだからとそのまま目を閉じた。
 触れた唇は一瞬だけ緊張してすぐにゆるりと開かれた。何をするでもなくそのまま触れる温度を楽しんでいたら城之内のほうからそろりと舌を忍び込ませてくる。戯れに応えてやれば焦らされたとでも思ったのか更に強く絡まり、気がつけば水音とちいさな喘ぎ声が二人きりの部屋を満たしていた。どちらともなく唇を離し、どちらのものかはぁと吐息が落ちる。しばし呼吸を整えたのち、先に口を開いたのは城之内だった。
「もっとエロいことしたいとか思わねぇ?」
「ふぅん、駄犬が。主人に飢えているのか?」
「……もー絶対訊かねー」
 海馬の肩に額を乗せるかたちで城之内が俯く。
 城之内なりの誘いだったことは分かるが何しろ時間が時間だった。1時間もすれば城之内はいつも通り朝刊配達のアルバイトに行くのだろう。自分のせいで待たせたこともあり、これ以上城之内に負担をかけるような真似はしたくない。城之内も自分で分かっているはずだ。海馬の肩口で長く長く息を吐いた城之内は抵抗のように呟く。
「お前はオレが欲しくねーのかよ」
「欲しいな。今すぐにでも押し倒したい衝動を抑えているところだ」
「ふーん」
 ならいいやと付け足して、城之内は身を起こした。橙の光の中でしばし見つめ合うかたちになる。
 やがて満足したのか城之内は笑って海馬の頭を撫でる。海馬が反駁に口を開く前にぱっと手を離し、やわく海馬の身体を押しのけてベッドから下りた。
「オレ、今日の夜はバイト休みだから」
「奇遇だな。俺も今日は休みということになっている」
「おう。オレが帰るまでいい子で待ってろよ?」
 にっと笑って振り返る城之内に海馬は口角を吊り上げた。主人に飢えた犬の分際で優位に立ったつもりでいるとは片腹痛い。ついでにいえば主人のほうも数週間仕事尽くしで愛犬に構えなかったのだ。ストレスも他の諸々も溜まって渦巻いている。
「『いい子』とやらにしておいてやろう。貴様も無駄に時間を過ごさず早く帰ってこい」
 ひとつアニマルセラピーといこうではないか。考えるだけでここしばらくの疲れが癒されるような気分になる。
 海馬の笑みに何を悟ったのかは知らないが、城之内の頬がひくりと震えた。今更気付いたところで遅い。学校が終われば一直線で海馬邸を訪れると城之内は宣言してしまっている。
 何よりも、海馬は城之内が当たり前のように屋敷に帰ると宣言したことに安堵を覚えた。自分の言葉の意味も、海馬の心情も知りもしないだろう城之内は青い顔をして頷くばかりだが、とりあえず今はそれでいい。予感が現実になるのも警戒しながらこの部屋に戻ってくる城之内を海馬が迎えるのも十数時間先の話である。