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さらさ らいや

 日付を超えても蠢く人、人、人、軽薄なネオンは夜にぼんやりと浮かぶ。終電まであと少し、タクシーはまばらに構え、右往左往する人影は帰路へ着くのかそれとも今が稼ぎ時なのか、じっとりと湿った夏の夜を波打たせていた。
 城之内克也はそのどちらでもなく、ぼんやりと重い夜の中を歩いていた。父親の借金やら自分の学費やらそもそもの生活費やら、働いても働いても金は足りない。校則を破ってまで稼いでいる城之内であったが、仮にも高校生である。いくら夏休みとはいえ深夜のアルバイトを入れることは自重していた。そうでなくても朝から夜までみっちりと労働に精を出しているのだから夜中だけでも眠らないと体力が持たない。
 これからいかがわしいさ溢れる夜の店に繰り出すわけではない。ではいつものバイトの帰りなのかといえばそうでもない。長年履き続けて草臥れたジーンズにじんわり汗を吸ったTシャツ、あとはジーンズのポケットに突っ込んだ財布だけ。いつも肩に引っ掛けているバイト用の鞄は家に置いてきた。
 身一つで夜を歩く城之内は水を分ける金魚のようにふわふわと行き先も定めず、しかし目的は確固として足取りは軽い。下品な色のライトに照らされた横顔はうっすらと笑んでいた。
「――ここで何をしている」
 背後から声をかけられたのは駅前のホテルにほど近い路地裏をぶらついているときだった。
 城之内は振り向かず、ネオンにぼやける空を見上げる。ビルとビルの隙間に覗く夜空は星を散らしているのかいないのか、くすんでいて暗い。
「えーと、釣り?」
「ほう。大物は釣れたのか」
 言葉こそ疑問の形をとっているが、口調は他の答えなど許さないとでも言いたげに低く這う。先程から綻びっぱなしの城之内の口元だったが、声を上げて笑い出すのを堪えるのに必死だ。なのでまだ振り向きはしない。振り向いてやらない。
 代わりに城之内は首をことりと傾けた。夏の熱気を孕んだ空気に、夜にも鮮やかな金髪が散る。僅かばかりすうと首筋を撫ぜるのは気まぐれな風か、はたまた背後の男の怒気か何かか。
「釣れたぜ」
 首筋に刺さる。男の視線が刺さる。上がりそうになる笑い声は丸呑みにして、城之内はついに振り向いた。
 立っているのは無論、見知った男だった。深夜にして蒸すような空気の中、ボタンひとつ緩めずかちりとネクタイを締め、ご丁寧にジャケットまできっちりと着込んだ社会人の鑑のようなスーツ姿の、同級生。
 相対する青みがかった瞳がきつく細められている事実に、ますます城之内は高揚を覚える。大股の一歩で距離を詰めて、お高くとまった、実際にお高いであろうネクタイを捕まえて引っ張る。城之内からすれば無駄にでかい図体は僅かに傾くだけだったがそれで十分だ。
「どこぞの大企業の社長さんが、」
 たった今。吐息で付け足して視線を上へ。不機嫌を滲ませた視線を見返してやりながら、とりあえず男の顎あたりをぺろりと舐めてやる。餌を投げてやったつもりではないのだが、予想以上に飢えていたらしい男は逆に城之内の頤を掴み、荒い仕草で唇に噛みついてくる。
 ここ外なんだけど。こんな余裕ないなんて珍しい。相変わらず体温低いし。など、思うところはありつつも、まあいいや気持ちいいしと城之内は目を閉じて海馬の背中に腕を回した。


「は……海馬ぁ……」
「なんだ」
 噛みつくような、むしろお互いを食い合うようなキスのまま公道からお馴染みのでかくて黒くて偉そうな車に連れ込まれ、瞬き一つの間離れるのも惜しいとばかりに貪り合い続ける。革張りのシートはこんなに広いのにどうして自分は海馬の膝を跨いで座っているのかという疑問は頭の隅のほうに押し込め、城之内は呼吸の合間に声を上げた。
 離れるわけではない、という意思を含めて、弱い力で海馬の胸を押す。少しだけ開いた距離にふうと息を吐いてから城之内は再び海馬の首に腕を巻き付け直した。すりすりと海馬に体全体を擦りつけ、唇は海馬の形のいい耳へ。ついでに軟骨を齧っておいて、本題。
「――天国、連れてってくれよ?」
「……貴様」
 顔を寄せているので海馬の表情は見えない。ただ声は普段よりずっと近くから響いてきて、城之内は思わず、緩む口元を隠し切れなかった。
「お?」
 不意に首根っこを掴まれて引き剥がされる。片手でアタッシュケースを振り回す理不尽な腕にそのまま猫の子のようにぶら下げられ、城之内と海馬の目の高さがぴったり揃った。城之内は目を瞬かせる。海馬はじとりと城之内を見つめる。
「エアコン目当てだな」
「おわっ」
 ぱしりと真実を言い当てた海馬に放られ、城之内の体はシートの上でぼすんと跳ねた。
 確かにそれも真実である。この上なく真実である。家でクーラーを使うには電気代の文字が頭を巡って止まず、ならば扇風機はといえば父親が乱暴に扱ったのか壊れたまま久しい。団扇で扇ぎながら寝るには辛く窓を開けてもむわりとした熱気を部屋に招き入れるばかりだ。認めよう、天国と称する程度に海馬邸のエアコンを恋しく思っていることは。
 だがそれだけではないし決してそれが目的ではないのだ。断じて。一応。
 不条理な海馬の不機嫌に城之内は身を起こし、海馬の肩に顎を乗せる。じろりと眼球だけ動かして青が見下ろしてくるが、海馬の台詞に不機嫌になる権利が城之内にもある。
「拗ねんなよ、分かってるくせに」
 海馬との関係を何と呼ぶかと問われれば、同級生やら犬猿の仲やら同じ決闘者やら多々あるだろうが、その中の一つに恋人なる呼び方が存在することを城之内は認めている。且つ顔を合わせるのは夏休みに入って初めて、どころか終業式のしばらく前から学校に顔を見せなかったことを考えると一体何日の空白があったのか。数えるのも虚しく面倒臭いので城之内は適当なところで考えることを放棄した。
 まるで海馬だけが一方的に城之内を求めていると勘違いしているようだが、そもそも城之内が海馬の部屋に転がり込んで涼を得るだけで終わるはずがないのだ。もちろん城之内自身がよく分かっている。学習したともいう。
 であるから単に涼み来たという選択肢は消えるというのに。俺はそこまで馬鹿じゃねぇぞと内心で怒りつつも、久々の夜に不機嫌をぶつけ合いたくはないので黙っておく。なにより、自分も早く海馬が欲しいのだから。
 肩に顎を乗っけたまま、海馬の頬に舌先を伸ばす。ぺろんと小さく舐め上げる。
「……犬め」
「犬言うな」
 と、口先だけで憤って見せるも、たったこれだけで満更でもなさそうに笑うのだから海馬瀬人という男は案外扱いやすい。城之内は海馬の肩からもぞもぞと顎を動かし、正面から青い目を覗き込んだ。冷静ぶっているが今更だ、お互いに。にいと口の端を持ち上げて仏頂面に笑いかける。
「イッシュクイッパンノオンギってやつは返すぜ?」
「犬にしては殊勝な言葉を知っているようだが意味が分かって言っているのか?」
「んー?」
 自分から引っ掴んで放り投げておいて、と思いつつも、城之内は回される海馬の腕の中に納まる。海馬邸に着くまであとどれぐらいなのかは知らないがそれまでは居心地のいいところに納まっておこうともぞもぞ体を動かせば、ぐいと片手で頬を挟まれ上を向かされた。機嫌が悪かろうがよかろうが基本的に扱いがぞんざいなのはもう諦めた。
 おとなしく海馬の言い分を聞いてやろうと見返せば、頬に押されてとんがった唇がお気に召さなかったのか解放された。
「貴様、この時間に人様の家に転がり込んでおいて食事までせびるつもりか」
 まだむっつりとした空気を崩さない海馬に内心で苦笑する。またまた、嬉しいくせに。ここで口に出せばまたいがみ合いになるので黙っておく。代わりに、
「ああ、食わせてもらうぜ」
 海馬の唇に噛みついて、分かりやすく煽ってやることにする。城之内は己の唇の端をちろりと舐めて、海馬の腕に抱き込まれたままの体をぎゅうと押し付けた。
「せっかく釣り上げた大物だからな」
 ここにきてようやく、海馬がニヤリとよろしくない笑みを浮かべた。本当に扱いやすい男である。
 海馬の手がするりと下がり、城之内のジーンズに指先を引っ掛ける。真夏の夜の熱など知らぬ気な車内の空気が隙間からするりと入り込み、城之内は僅かに背筋を伸ばした。
「……馬鹿犬が。『食事』と『恩義』とやらが一緒だろうが」
「いらねーの?」
 腰を這う手を捕まえて、自分の手と一緒に海馬の股間へと運ぶ。やわく力を込めれば微かに寄る眉間の皺に城之内はひっそりと笑った、ところでびくりと跳ねる。
「ぅあ!?
「ふぅん、上等だ」
 もう一方の海馬の手がジーンズの中、更にその内側の内側に潜り込む。痛みはないが乾いたままの底を爪先で引っ掻かれる感触に城之内は身を捩るも、そんな抵抗すら許さないとばかりに海馬の指先が力を込めた。
 挑発しすぎたかと城之内は海馬を見上げる。欲しがっているのはお互いで、会えなかった時間に焦がされた分余裕は摩耗しているはずだったのだ。青い瞳は静かに、しかし違えようもないほどにぎらぎらとした欲を抱いて城之内を見返している。
 そこに映る引き攣った自分の顔は見なかったことにしておきたい。
「腹が破れるまで食わせてやる」


 心地よく身を包むはずの冷えた空気が汗の引いた体に煩わしい。城之内はべたべたと触りの悪いシーツを引っ張り、適当に巻きつけた。
「釣った魚に食われているようでは釣りとは言えんな」
「うるせ、黙れ絶倫」
 一人シャワーを浴びてさっぱりとした体でベッドの縁に腰かける海馬を睨みつけ、そのまま視線を窓へとスライドさせた。馬鹿でかい窓を覆うこれまた馬鹿でかいカーテンはぼんやりと光を透かしている。ほとんど夜明けだ。今日のバイトは昼からだが果たして体力の回復が間に合うかどうか、危ういところである。
 車の中で散々焦らされた揚句、屋敷に着くなり早々にベッドに連れ込まれ縺れ合って求め合ってドロドロになって抜かずがどうのこうの上に乗せられただの何のかんの、ここでぼろぼろと零れる記憶の断片を投げ捨てた。いくら会えない期間が長く溜まるものが溜まっていたとはいえ流石は海馬瀬人である。人外である。
「風呂は」
「動けるか馬鹿。起きてから入る」
 これでセックスに関しては常識的なため、海馬はゴムを使っていた。中に出されたわけでなし、べとべとする体は非常に気持ち悪いが動けないのだから仕方がない。少しでも多く眠っておこうと城之内は目を閉じ、そこで引き上げたばかりのシーツごとふわりと体が浮く。
「お、い」
「入れてやる」
「……お前さっき入ってきたばっかじゃねぇか」
「犬の手入れも飼い主の務めだからな」
 噛みつく気力もない。極めて上機嫌な海馬がこちらの言うことなど端から聞きはしないことは学習済みである。
 城之内はゆるく長く息を吐いた。同い年の男に軽々と抱き上げられている悲しい事実もだったら最初から一緒に入ればよかっただろうにという頭の沸いた考えも吐息と一緒に追いやって目を閉じる。ぴったりと触れる湯上りの海馬の肌が心地良いことに免じて許してやろう。朝方まで貪り合うほどお互いが足りなかったのは城之内も認めるところだ。
 巻きつけたシーツの裾は金魚のように尾を引いて、やがてひらりと床に落ちた。
    2011.8.4 (さらさ らいや 甘い甘い)