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ひびいるよる

 セトが王宮を辞し、自分の屋敷に戻った頃にはたっぷりと夜が更けていた。ちらちら瞬く星の下、重く息を吐いて僅かばかり爪先に視線を落とす。刃物で裂いたかのごとく細い月の下では影もできず、くろぐろと夜が淀んでいただけだった。
 王宮のみならず都全体、有体にいってしまえば国全体を揺るがした事件から三月と経っておらず、王座は未だに空である。生き残ったセトたちは政を執り仕切りつつ、ほとんど崩壊寸前の体制を立て直すことに心血を注いでおり、邪神と共に封印された若き王の跡目争いになど関わる暇もない。しかしセトは立場上欲と欲が貪り合う席に就かざるを得ず、共に王の意志を継いで生き残ったアイシスたち他の神官より王宮に拘束される時間が長く、また精神的な疲労も大きかった。
「お帰りなさいませ、セト様」
「お食事の用意はできております。それとも湯浴みを先になさいますか?」
 使用人たちも主の事情を弁えており、予定の時間を過ぎた帰還にもすぐに応じる。セトは勤勉な使用人たちの言葉に頷き、そこでつと気付いた。
「ジョーノはどうした」
 どれだけ遅い帰還であっても真っ先に駆け寄ってくる金色が見当たらない。少年がセトの屋敷に住まいを始めてまだ一月ほどであるが、既にすっかり馴染んでしまった姿がないことにえもいわれぬ違和感を覚える。
「昼頃から何やら足元が覚束ない様子でして、今は部屋で休ませております」
 セトの疑問に答えたのは、最も長くセトに仕えて屋敷内を取り仕切っている老人だった。セトを見上げる目は薄く濁っており、手足の自由が利かないこともままある程度に齢を重ねている。成り行きからセトの元で住まうようになったジョーノは何もせずに居座るのは悪いからとたびたび老人の手足の代わりを買って出ており、屋敷の内に外に走り回っている姿をセトは何度か目にしていた。唐突に屋敷に住まうことになったどこの馬の骨とも知れないジョーノを初めは疎んでいる節もあった老人だが、今は孫のように可愛がっているらしく、不在がちのセトに代わり誰よりも先んじてジョーノの面倒を見ていた。
 ともすればセトよりも日頃のジョーノを見知っている老人は、細い見た目に反するジョーノの頑丈さを知っている。その老人がジョーノを休ませているとなれば相当のことだと思われた。
「昼頃から?」
「はい。セト様のお迎えに行くと言って聞かなかったのですが……見ていられない程だったので」
「そうか」
 今朝登庁の見送りに来たジョーノを思い出す。いつものように不幸なことなど知らぬ気な笑顔で、がんばってこいよと無責任な励ましの言葉をくれた。無責任だと思いつつもその言葉で少し気分が上向いた自分をセトは自覚していたが、端的にああとだけ返した。セトの返事にジョーノはまた笑って、そして帰りはいつごろになるかと訊いてきた。いつも通り分からないと返せば笑顔を少し陰らせて無理はするなと付け足し、そしてまた陰りなどなかったかのように笑ってセトを送り出したのだ。
 今朝は不調な様子など欠片も見当たらなかった。しかし無駄に頑丈で見たままの闊達さをもつジョーノがセトの元へ納まることとなった経緯が経緯なだけに、いつ何が起こってもおかしくない。
 セトは冠と外套を老人に預けて告げる。
「ジョーノの様子を見てくる。戻ってからの食事の用意を頼む」
「かしこまりました」
「……ジョーノの食事は?」
 思い当って問えば老人は予想通り首を横に振った。今のジョーノでも食べられそうなものも添えておくように言い置いて、ジョーノの部屋のある棟へ足を向けた。
 セトの屋敷に住まいを始めて一月、ジョーノは先の老人の代わりに屋敷の雑務をこなすこともあるが決して使用人ではない。とはいえ客人と呼ぶには余りに気安く、敢えて言うなら“拾ってきた”と称するのが正しい。そんなジョーノに上等な客室を与えるわけにも、使用人たちの部屋に雑魚寝させるわけにもいかず、結局彼の住まいする部屋はセトの持て余している私室の中で最も質素な部屋となっている。
 質素といってもセトの感覚での話であり、初めて部屋に通した時のジョーノの驚きようと慌てふためきようは見物だった。小さな村のこじんまりとした家で父母と妹の四人で暮らしていたと話すジョーノからすれば、まず個人の部屋があることが信じられないらしい。
 もう帰れないけどな、と笑って付け足したジョーノを思いながら扉を叩く。暫く待ってみるが応えはなく、セトは扉を開いた。
「――ジョーノ?」
 今宵の月は細く、部屋に設えられた大きな窓は濃い闇の中で辛うじて口を開いている。寝台の傍の灯りだけが頼りだが、寝台に少年の姿はない。そこまで目視したところで視界の端の闇がもぞリと蠢く。
「セ……ト……」
 弱い声が予想外に、下方から聞こえた。灯りから離れた闇に目を凝らす。また微かに闇が蠢けば、床の上にちらちらと光が散った。それが常ならば太陽のようにまばゆく煌めくジョーノの髪だと気付いた瞬間、セトはジョーノに駆け寄った。
「ジョーノ、どうした!?
「ぁ……」
 己を掻き抱くように床の上で身を丸めるジョーノは小さく震えていた。ぎこちなく顔を動かしてセトを見上げてくるが視線は定まらず、闇の中で琥珀の瞳が大きく揺らいでいるのが見えた。
 浅い呼吸を繰り返すジョーノから答えはない。予想を上回るジョーノの容態に、とにかく抱き起そうとセトは手を伸ばし――ぱんと乾いた音が嫌に響いた。
 セトが目を瞠る。ジョーノもつい先ほどまで揺らしていた視線を辛うじてセトに合わせ、大きな目を零れんばかりに見開いていた。二人の間では叩かれたセトの手と打ったジョーノの手が行き場をなくして浮いていたが、先に退いたのはジョーノだった。セトの手を叩き落とした右手のみならず、震える体ごとセトから距離を取る。ジョーノの目には困惑と意思と、得体の知れない何かが波打っていた。
「あ……セ、ト……ごめっ……」
「構わん。……どうした」
 無理に距離を詰めることはせず、セトはジョーノを注視する。
 ジョーノの様子は明らかに異常だった。小刻みに震える身をきつく掻き抱き、何事かを話そうと口を開きかけてはバサバサと髪を振り乱して頭を振る。浅い呼吸を繰り返して時折びくりと大きく震える様子は病の類ではない。
 セトは腰に佩いた錫杖がじわりと存在感を増す感覚に目を細めた。魔物や呪いの類であるならば神官としての力を使うことも辞さないが、その前に見極める必要がある。
 セトはもう一つの存在の名を呼ぼうと口を開く。その瞬間、ふらりとジョーノが動いた。先ほど自ら開いた距離を埋め、荒い呼吸のままセトの名を呼ぶ。
「セト、おれっ……からだ……!」
「苦しいのか?」
「ちがっ……ん……!」
 ひゅうと空気を吸い込んで、せと、せと、と、たどたどしく繰り返す。何かを振り払うかのごとく金の髪を闇に散らせるジョーノの手が、縋るように己に伸ばされていることに気づき、セトは今度こそ少年の痩身に身を寄せた。
 まだ荒い呼吸ながら、ジョーノはほうと息を吐く。両腕をセトの体に巻きつけて僅かに身を摺り寄せてきた。ジョーノの髪に鼻先を埋める形となったセトは、仄かに甘いジョーノの匂いを肺まで吸い込むことになる。どこか酩酊にも似た感覚に引かれるが、弱々しく喘ぐジョーノを前に抱いていい感覚ではない。
 ぐらりと揺れるセトの理性に、名前を呼ぶジョーノの声が滲む。
「助けて……あつい……」
「ッ……熱は?」
 思わず小さく呑んだ息は治まらないジョーノの呼吸に紛れたと思いたい。ジョーノの声は僅かに明瞭さを取り戻したものの、セトの首筋を撫でる呼吸が途切れる様子はない。
「わかんね……な、セト……」
 ジョーノの声が耳を撫で、セトに巻きつく腕に力がこもる。ぐっと、ささやかに、しかし確かに引き寄せられセトは一層ジョーノの熱を感じた。発熱によるものなのかそれ以外の何かなのか。ジョーノの膝がセトの下肢に押しつけられ、熱と匂いが膨れ上がる。
 ちりちりと首筋が灼ける感覚にセトは目を細める。ジョーノの手が伸びセトも手を伸ばす。ジョーノが、振りかぶる。
 ぎんと耳障りな音。しかしセトは音を聞き咎めるより早く、背後に構えた錫杖を振り、受けた刃を弾き飛ばした。
 ジョーノが苦鳴を漏らし、セトから離れ刃を握っていた手を押さえる。よろめいたその隙を逃さずセトはジョーノの腕をまとめて掴み、引き倒した。呻いて暴れるジョーノに乗り上げ細い体を抑え込む。視界の端では弾き飛ばした短剣がまだカラカラと音を立てて回っていた。
「ジョーノ……!」
 短剣は間違いなく、ジョーノが一応護身用にと持ち歩いているものだ。抜いたところなど見たこともないし、本人も昔持たされただけだからと称する通り使ったことなどないに等しい様子だった。その短剣を今まさに抜き身で振りかぶり、抱きつく動作に紛れてセトの背に突き立てようとした。
 これはジョーノの意思ではない。恐らくもう一人の意思でもないだろう。抑え込んだジョーノはひどく混乱した様子でもがいている。
「ちが、なんでっ……嫌だ、止めろ!!
「くっ」
 口では否定の言葉を叫びながら、ジョーノの手はがむしゃらに振り回される。ジョーノの爪先が掠めた頬にじわりと熱が滲むがそれどころではない。首を絞めようと伸ばされた手をかわした反動でジョーノの体はセトの下からするりと抜け出した。再度押さえようと手を伸ばすが服の端を掴むにとどまり、それも布の裂ける無情な音に敗れる。
 抜け出したジョーノは即座に短剣を拾いセトへ向けて構え直す。セトも千年錫杖を握り込み身構えるが、ジョーノの動きはそこで止まった。
「セト、セト……おれ……何……」
「落ち着け、ジョーノ。それはお前の意思ではない」
「体っ、勝手に……セト……!」
 ジョーノの目からぼろぼろと涙がこぼれる。瘧のように震える体に、構えた短剣は行き場を躊躇い揺れる。時折大きく跳ねる様子から、セトを貫こうとする腕をジョーノの意思で押さえつけていると思われた。
 今は僅かにジョーノの意思が勝っているようだが、間違いなく先のように飲み込まれだろう。姿のある何かに操られているのであればすぐにも白き龍を呼び焼き払うが、使いの魔物の姿はない。焦るセトの鼓膜をジョーノの怒声が叩いた。
「やめろやめろやめろやめろッ!! 俺はっ、セトにそんなことしたくねぇんだよ!!
「ジョーノ!」
 振りかぶられた右手の短剣はジョーノの意思で動く左腕に押さえ込まれ、夜に鈍く輝く切っ先はセトではなくジョーノ自身の胸へと向けられる。
 セトの手中で錫杖が光を放つ。発露した魔力が形をなしてジョーノの元へ届くのが先か、少年の薄い胸に鋼が沈むのが先か。瞬き一つほどの時間があまりにも長く、セトの背筋が粟立つ。短剣の切っ先が軌跡を描き――不意に静止した。
 セトが弾かれたように顔を上げる。ジョーノの目が仄暗い赤を宿した一瞬、夜闇が身を翻したようにも見えたが確かめる間も名を呼ぶ隙もない。刃がジョーノの胸を貫くよりも先にセトの魔力が白い蛇の姿をなし、ジョーノの体に巻きついた。腕に脚に胸に白い蛇は絡みつき、平衡を失ったジョーノの体がふわりと傾いだ。石床に打ちつけられる寸でのところでセトはジョーノの体を受け止める。
 腕の中のジョーノは荒い呼吸を繰り返し、蛇がずるりと蠢くたびに身を跳ねさせている。セトはジョーノの体を抱き直し、背に己の膝を添えて仰向けの姿勢を取らせた。硬質な音を立ててジョーノの手から短剣が滑り落ちたが、最早行方を気にする必要はないだろう。
「ジョーノ、分かるか」
 首の裏に腕を回し、頭を起こさせる。ジョーノの体は先程よりさらに熱を上げているようだった。金の髪は汗を孕んで重い。もう一方の手で目元にかかる前髪を払ってやれば、茫とした様子でジョーノはセトを見上げる。目尻に溜まる涙に心が痛むが見上げてくる瞳が常のジョーノと同じ琥珀色であることにセトは何よりも安堵した。
「セト……ごめん、おれ……」
「謝るな。お前の意思ではないことは分かっている。それよりも体はどうだ?」
「頭の中の声、しなくなった、けど……あつ……んあっ……!」
 どこか甘やかな色を孕んだ声を上げ、ジョーノの体がびくんと大きく跳ねた。揉み合いの最中にセトが引き裂いてしまった布地からは汗に濡れる胸元が覗き、素肌の上ではセトが呼び寄せた蛇がずるずると白い体をくねらせていた。
 十中八九、ジョーノはセトを暗殺するための術の媒介にされている。時期を鑑みるに王位に目が眩んだ連中の誰かによるものだと容易に予測できた。自分の都合にジョーノを巻き込んでしまったことにセトは歯噛みする。
「なあ、何……ぁ……」
 呼び出した白い蛇は触れたものの邪を祓うはずだが、ジョーノは未だ熱に浮かされた表情で身悶えている。触れただけでは祓い切れないとなると予想以上に強い魔術師か、セトへの殺意がそれほどまでに深いのか。
 目を瞬かせ体を這う感覚に戸惑うジョーノをセトは強く胸に抱く。いずれにしろこのままではジョーノの体力が持たない。老人の話を聞く限り、少なくとも昼頃からジョーノはこの根深い術に抗い続けているのだ。魔力の使い方も知らない少年にはあまりにも負荷が大きい。
 セトは意を決し、錫杖を握りしめる。ジョーノが自らを傷つけてセトへの凶刃を止めようとした刹那色を変えた真紅の瞳も焦燥を募らせる要因だった。これ以上ジョーノの体力も精神も摩耗させることはできない。
「ジョーノ、少し耐えてくれ」
「ん……せ、と……っあ、あああああ……!」
 セトの手中で錫杖が淡く光るのに呼応して、ジョーノに纏わりつく蛇は白く光を放つ。セトの腕の中のジョーノはびくびくと体を跳ねさせ、耐えきれないといった体でセトの腕を強く掴む。きちりと肌を裂く爪先にセトは顔を顰めるが、ジョーノの痛みはこの比ではないはずだ。
 光に目を眇める。視線の先ではジョーノから薄く立ち上る煙とも蒸気ともつかない黒い霧が揺らめいては霧散していく。聖なる光に灼かれる魔術の末期の姿にひとまず安堵するが、ジョーノは苦悶の声を上げ続けていた。
「――――ッ!!
 声にならない悲鳴と同時にジョーノの痩身が仰け反る。魔術の解ける白い霧と蛇の白い光が混じり合い一瞬真白に染まる視界。熱した石に水をかけた時に似た音が鼓膜を叩き、セトの腕の中で一瞬強張ったジョーノの体はくたりと弛緩した。視界が元の夜闇を取り戻せば、白い蛇も魔術の縛りも完全に姿を消している。
 ジョーノはセトの腕の中で意識を失っていた。闇にも白い顔色に一瞬、もう二度とまみえることはない青い目の女の姿が重なり背筋が粟立つ感覚に惑わされたが、口元に耳を寄せれば静かな呼吸音が聞こえる。ほっと息を吐いて改めてジョーノの顔を覗き込めば、びっしょりと汗に濡れた額と髪、何よりも涙の跡の残る目元が酷く痛々しい。セトは唇を噛み、つと扉の向こうに人の気配を感じて振り返った。
「セト様、ジョーノの様子はいかがでしょうか?」
 年老いた使用人の声だった。セトの戻りが遅いので様子を窺いに来たのだろうが、それにしても見計らったかのような時機に訪れたものである。いや、あれだけ大声を上げても誰も来なかったのことからして何らかの魔術で外界から閉ざされていたのか。
 六神官の一人である自分相手に、何よりもジョーノによくもこれだけのことをしてくれたものだ。セトは緩く長く息を吐き、部屋の外の老人に声をかけた。
「今行く。食事より先に湯浴みの支度を頼めるか」
 疑問を投げかけるでなく、老人は肯定の返事を残して去っていく。つくづくよくできた使用人だ。心中で感謝しつつセトはジョーノを抱き上げ、ようとしたところで、己の腕に視線を落とす。意識を失ってもなお、ジョーノの指先はセトの腕に縋りつくように引っかかっている。
 ジョーノの手が離れないよう、セトはゆっくりと立ち上がる。汗を吸って重いジョーノの金色の前髪はぱらりと緩慢に散った。
 明日は今日以上に忙しくなるだろう。王座を求めるつもりはないが王宮の膿を洗い流す必要がある。何よりもジョーノに手を出した報いを受けてもらわなければならない。だが今はせめて、閉ざされたジョーノの瞳が開かれるまではと祈りながら、セトはジョーノを抱く腕に力を込めた。





神官と赤眼

 寝台で眠るジョーノをセトは息をも潜めて見下ろす。
 せめてお食事をと勧めてくる使用人たちには悪いと思ったが、セトはずっとジョーノに明け渡した寝台の端に腰かけ目覚めを待っていた。湯で身を清めた後もジョーノは目を覚まさず、昏々と眠り続けている。どんな術を行使されたかは分からないが、初めからジョーノを術の媒介に定めていた可能性を考え、一応湯浴みの後はジョーノの部屋ではなくセトの部屋に寝かせている。常から結界を張っているこの部屋ならば魔力的な介入を許すことはない。
 窓の外の月は相変わらず刃物で裂いたように細く、ただその位置を大きく動かしている。ジョーノが気を失ってどれほど経ったのか。常ならばどんなに遅い帰還でも笑顔で出迎え、食事の際は向かいの席に座り今日の出来事を楽しそうに語るジョーノがこうして自分の寝台で眠り続けていることに動揺や焦燥に似たものを覚える。
 今日はまだ帰ってジョーノとまともに話をしていない。それが落ち着かず、同時に流れで受け入れただけであったはずのジョーノの存在がここまで深く自分の中に根付いていることにまた落ち着かない。
 ジョーノの声が聴きたい。声が聴けさえすればきっといつもの凪いだ心を取り戻せるだろう。セトは手を伸ばしジョーノの目にかかる金の髪をそっと払ってやった。そして顕わになった瞼が、不意に開かれる。
 目を覚ましたジョーノが闇を恐れないようにと、明かりは互いの表情が見て取れる程度には灯している。そして開かれたジョーノの眼は、ちらちらと紅く光を散らしていた。セトの表情は自然険しくなる。
「……赤眼」
「悪かったな、ジョーノじゃなくて」
 言葉にこそ常のごとく棘が含まれているが声に力がない。ジョーノがこれほどの窮地に陥っても刹那しか姿を現さなかったことからして、赤眼もジョーノと同様かそれ以上に疲弊していると知れた。
 セトの顔を見返し、赤眼は薄く笑う。
「ジョーノならもうすぐ目を覚ます。だがその前に言っておきたいことがあってな」
「何だ」
 赤眼の薄い笑いはするりと姿を消す。代わりに部屋の中の闇が威圧するように色を深め、赤眼の瞳にちりりと火の粉が散る。
「お前の事情にジョーノを巻き込むな。初めに言った通りジョーノの生はお前が片手間に背負えるようなものじゃない」
「……わかっている」
「わかってねぇよ」
 即座に赤眼が返しセトは唇を噛む。赤眼の視線は炎の色に反して冷たく、闇は怒りを映したようにうねる。
 赤眼の怒りは尤もで、セトには返す言葉もない。
「ジョーノは生きるだけで精一杯なんだ。悔しいがオレもジョーノを生かすだけで精一杯で精霊獣としてジョーノを守ることもままならない。今回も術的な負荷からジョーノの肉体を守ることしかできなかった」
 淡々と告げる赤眼の言葉をセトは十分に咀嚼する。
 赤眼の言うとおり、本来動けるはずもないものが動いている、それがジョーノの体だ。赤眼の力で常人程度に動いてはいるもののただでさえ極限状態に術的な負荷がかかり、赤眼の力をもってしても生命活動を維持するだけで限界だったのだろう。
 それでもジョーノが己を害しようとした一刹那、ジョーノと入れ替わり最悪の事態を回避せしめた。赤眼の行動がなければセトが術を灼き尽くすこともできなかったのだ。
「セト。オレは生死に関わること以外ならジョーノの意思を尊重したいと思ってる」
「……ああ」
「だが――いや、だからこそ、もしまたお前の事情でジョーノの身が危うくなるなら、オレは初めに言った通りアンタからジョーノを引き離すからな」
 尤もな判断だ。最初からジョーノがセトの預かりになることを良しとしていなかった赤眼からすれば当然だろう。
 しかしセトとてジョーノをまた危険にさらすような真似をおいそれと許す気はない。
「ならばジョーノは一生俺の傍にいることになるな」
「……言うじゃねぇか」
 闇が凪ぎ、紅は熱を下げた。赤眼はうっすらと口元に笑みを乗せてセトをまじまじと見つめた。
 赤眼はジョーノのしもべでありジョーノのために文字通り全霊を尽くして当然なのだろうが、いつまでも赤眼だけがジョーノの理解者であり支えであるわけではない。無論赤眼やジョーノの育ての親ともいえる男、持てる全てでジョーノの力になろうとした親友には及ばないかもしれないが、セトとてジョーノのことをセトなりに理解していると確信できる。
 何より、セトはセトしか知らないジョーノを知っているはずだ。
「ジョーノの意思に反してもオレがアンタから引き離すってのはつまり、なんて言わなくてもよさそうだな」
「無論だ。その程度が分からないとでも?」
「フン」
 おもしろくなさそうに赤眼が鼻を鳴らす。尚も何か言い募ろうと口を開きかけるが、ふうと息を吐くだけにとどまった。
「……ジョーノが目を覚ます。アンタからちゃんと言ってやってくれよ」
「ああ」
「悔しいけどオレの声はジョーノに届かないからな――……」
 呟きながら瞼が下り、真紅が閉ざされる。
 一呼吸の間を置いて金色の睫毛が震え、たった今降りたばかりの瞼がゆっくりと持ち上がる。現れた琥珀色はぱしりと瞬いて天井を映し、もう一度瞬いて部屋の中を見回し、三度目の瞬きでセトを映し込んだ。
 セトはぱちぱちと瞬いて状況を把握するジョーノに笑いかけ、金の髪の下の額に手を当てた。高すぎず低すぎない熱がセトの掌にじんわりと伝わる。
「……セト?」
「気分はどうだ?」
「ええと、うん。とりあえず、」
 ひょいと、寝起きの割に軽い仕草でジョーノの両手が伸び、己の額に触れるセトの手首を掴む。どうも視界の邪魔だったらしいが、一瞬迷った末にジョーノは持ち上げたセトの手を己の頬へと運んだ。セトの掌に今度は頬の熱が伝わる。額よりほんの少し温かい。
 セトの手首を掴んだジョーノはふわりと笑んで、告げる。
「おかえり、セト」
「――ああ、ただいま」
 ようやく聴くことができたジョーノの声に、セトの口元が綻んだ。じわりと凪ぎを取り戻した心の理由に行き着くまで、あとほんの僅かだとはまだ知らない。