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愛してね、

 約束の時間である。遊戯はマフラーを巻きながら家を出た。空は綺麗な青色で遊戯を見降ろしているが、頬に感じる空気は冷たい。
 もう一人の遊戯がいなくなって季節が巡って、遊戯たちは三年生になった。城之内と本田には進級できるかできないか瀬戸際の戦いがありはしたものの、ギリギリでその戦いを逃れた遊戯としては苦笑するしかない。無事に進級を勝ち取った城之内と本田、そして元より進級の憂いなどない杏子と獏良。皆と共に過ごした最後の体育祭も文化祭も既に遠い。季節は冬真っ只中、高校生活の終わりを予感させながら既に年を越して一月も末である。学校は卒業式まで自由登校期間となっており、秋頃に近場の大学への合格を決めていた遊戯は登校せず祖父の家業を手伝って過ごしている。
 赤信号で立ち止まる。平日の童実野町を一人で歩くくすぐったい違和感に、遊戯は巻いたマフラーを訳もなく引っ張った。
 そういえば友人と会うのは久しぶりだ。最後の登校日から杏子は兼ねてからの夢だった留学の準備に忙しいし、本田は大学入試のために声をかけるのも憚られるような鬼気迫る様子で最後の追い込みに余念がない。獏良は本田ほどの切迫感はないもののやはり入試のための最後の調整をしているらしい。御伽は遊戯と同じく受験ムードが本格化するより先に大学を決めていたが、こちらも自由登校期間をいいことに本業ともいえるゲーム開発に勤しんでいる。そして城之内は。
 信号が青に変わり、遊戯は一歩踏み出す。
 この信号を渡れば約束の――会えないかと昨晩電話をかけてきた城之内の待つ喫茶店まですぐだ。
 城之内は最初から進学するつもりはないらしく、朝から晩までアルバイトに走り回っている。今のアルバイト先のいくつかからこのまま就職する気はないかと誘われていると言っていた。もしかしてその話だろうか。
 電話口の城之内はどこか泣きそうな、縋るような声をしていた。何か深刻に悩んでいる様子で、遊戯は昨日の城之内の誕生日を祝う言葉を思わず飲み込んでしまった。
 今日は言えるだろうか。こうなると言い出すタイミングが難しいのだけれど。祝いの言葉を胸にしまったまま、店の扉をくぐれば、城之内は入り口からすぐに見てとれる奥まった席に座っていた。にこやかに声をかけてくる店員を会釈で受け流し、遊戯は足早に席へ向かう。
「城之内くん、遅くなってごめん」
「…………あ、おう、遊戯」
 二呼吸ほどの間を置いて、城之内は顔を上げた。やはり昨日の電話で感じたとおり、様子がおかしい。対面の席に座ると城之内は眉尻を下げ、少しだけ口の端を持ち上げた。
「わりーな、来てもらって」
「ううん、気にしないで」
 先程受け流した店員が水とおしぼりを持ってくる。遊戯がドリンクを頼んで店員が去る間も、城之内は浮かない顔で視線を彷徨わせ、やがてカップに沈み込む。冷めきったコーヒーは大して量を減らさないまま黒々とした水面で城之内を見返していた。
 どう切り出すべきか。城之内自身も話そうとしているのか口をぱくぱく開けたり閉じたり、視線をちらちら上げたり下げたり横にずらしたりしているのだがなかなか言い出せないらしい。悩んでいるのは確かなようだが落ち込んでいる、というより、落ち着かない。
 この雰囲気なら言ってしまってもいいだろうか。できるだけ城之内が落ち着けるように、遊戯は普段通り笑ってしまい込んでいた言葉を取り出す。
「そういえば城之内くん、昨日言いそびれちゃったけど誕生日おめでとう」
 しかし遊戯の願いも虚しく、この言葉は地雷だったらしい。城之内はガタリと音を立てて椅子から腰を浮かし、目を見開く。
「うええ!? お、おう、ありがと……な……」
 露骨に動揺する城之内の反応に遊戯も目を丸くした。周囲の客も何事かとこちらに視線を向けている。店員のどこかわざとらしい咳払いが聞こえたところで現実に立ち返ったのか、城之内はバツが悪そうな表情で椅子に腰を下ろす。
 先程の咳払いの張本人かは不明だが、女性店員がにこやかに遊戯の注文したカフェモカを運んでくる。お待たせしました、という声に棘が、カップの乗ったソーサーを置く動作に荒さがあったのは気のせいだと思いたい。遊戯はゆらんゆらんと波打つ水面から城之内へと視線を戻す。
 城之内は何故か――本当に解せないのだが、頬を真っ赤に染めて目に涙を浮かべていた。さっきの自分の行動を恥じているにしては過剰な反応で、遊戯は狼狽する。こんな城之内は見たことがない。
「じょ、城之内くん? ごめんね、ボク変なこと言っちゃった?」
 途端、城之内は弾かれたように顔を上げてぶんぶんと顔を横に振るのだからまた堪らない。
「や、ちっげーよ! お前に祝ってもらえてスゲー嬉しいぜ!」
「でも……城之内くん、昨日の電話の時からちょっとヘンだよ? 何があったの?」
 遂に遊戯は切り込む。また頬を鮮やかに赤く染め上げて、城之内はぱくぱくと口を開いたり閉じたりするが今度こそ逃がさない。遊戯がじいっと見つめ続けてようやく腹を括ったか、それでも歯切れ悪く城之内は切り出した。
「う、あ……あのな……」
「うん」
「昨日、」
 このあたりで城之内の目が伏せがちになり、
「うん」
「かい、ば、に、」
 完全にコーヒーカップの黒い水面に落ちて、
「……うん」
「ぷ、ぷ……プロ、ポーズ? された……」
 ぽちゃんと沈み込んだ。
「……………………うん?」
 かくんと遊戯は首を傾けた。城之内くんは昨日海馬くんにプロポーズされたらしい。城之内くんは昨日、ここまではいい。海馬くんに、ここもまあ、分かる。プロポーズされた、プロポーズされた?
 把握できずにいる遊戯に気づいたのか、城之内は慌てて顔を上げた。相変わらずの赤い顔で、先程の周囲の視線に学習したのか声量は抑え目に。
「や、プロポーズ? っていうか、別に結婚してくれとかいわれたんじゃねーし、指輪持ってこられたとか婚姻届持ってこられたとかじゃねーんだけどっ」
 無論男同士でそんなことをするはずがないと思うべきか、あの海馬瀬人が相手であることを鑑みて、へー、海馬くんにしては随分大人しいね、とでも返すべきか判断に迷うところである。
 城之内克也と海馬瀬人が付き合っていることは遊戯たち友人内では暗黙の了解となっている。城之内本人や、まして海馬が自ら語ったわけではないが二人の様子を見ているうちに次第に浸透してしまったというか、会話の端でからかう程度には公然とした事実であった。世間一般で見ればアブノーマルに分類される二人の関係をおかしいと思ったことはない。ああ、そうなんだと、少なくとも遊戯はすとんと落ちるように納得した記憶がある。他の友人たちも概ね同じ気持ちらしく、誰も問い質したことはないし、関係のきっかけや経緯を訊ねたこともない。
 いや、一人だけいた。ついともうこの時代にはいないもう一人のことを思い出す。
「昨日、オレ誕生日だっただろ……夜、アイツんち呼ばれてさ、いいっつったのにご馳走してもらってさ……」
 黙っている遊戯をどう思ったのか、城之内はぽつぽつと仔細を語り始めた。
「そんで、そのあと、もうすぐ卒業式だとか、卒業したらどうするとか、話してて、」
 海馬は卒業後、渡米すると噂で聞いている。アメリカの大学に入学するのだとか、何とか。既に学業など形式だけで海馬コーポレーションの経営に全力を傾けているように見えるが、世界を股にかける大企業の社長である以上、そのくらいの学歴は必要なのかもしれない。
 しかし渡米といっても、海馬は去年のバトルシティが終わった頃からアメリカでの事業拡大のため日本と向こうを行ったり来たりしているようだった。ここ数ヵ月は安定して日本にいるのか秋ごろからちょこちょこ学校にも顔を出している。城之内も度々海馬の話題を口に出したりどことなく嬉しそうにしていたり、逆に何日も不機嫌な様子でいることが多くなった。
「そしたら……アイツが……」
 城之内は言葉を濁し、肝心の部分をもごもごと語る。
 指輪や婚姻届を持ってきたわけではないが、一生傍にいてくれと言われた。一緒に暮らそうとかそういうことではなくて、気持ちだけは一生傍にいてくれと。昨日城之内が誕生日を迎えて18歳になったから伝えるのだと海馬は言っていた、と。
 遊戯の大意では、こういうことである。
 あの常識破りな海馬瀬人ならば、高笑いとともに指輪と婚姻届を突き付けてやれ式はどうするだのいつ引っ越すだのと言い始めてもおかしくはないと思うのだが、実に謙虚というか、消極的である。もちろん城之内と海馬の間にどんな思いがあるのか、遊戯には計り知れないのだが。
 遊戯は少し冷めてしまったカップに口をつけた。城之内はまた潤んだ目で自分の前のカップを見下ろしている。
「ごめんな、急にこんな話して……遊戯の迷惑だって分かってるんだけどさ……」
「ううん、そんなことないよ。逆に話してくれて嬉しいぐらいだもの」
 心の底からそう思う。城之内にとっては誰彼構わず打ち明けられる悩みではないだろう。それを自分に話してくれたということは信頼されているということだ。もしずっと一人で悩んでいたとしたら、遊戯は城之内を咎めてしまっただろう。それならまだしも城之内が一人で悩んでいて、自分がその悩みに気づかなかったとしたら。自由登校期間でお互いに会わない日が続いていた分、後者の可能性が高いだろう。
 遊戯は手を伸ばし、城之内の手をぎゅっと掴む。俯いていた城之内はようやく顔を上げて目を瞬かせた。
「城之内くんはどう思ったの?」
「オレ……」
 視線をさ迷わせる城之内がつまらない言葉を並べる前に、遊戯は掴んだ手に力を込めて重ねる。
「どう思う、とか、どうしたい、とかじゃなくてさ、海馬くんから話を聞いたときに真っ先にどう思った?」
「…………」
「城之内くんが困る理由がいっぱいあることはボクでも分かるよ。けど、ボクは城之内くんが真っ先にどう思ったかって、それを信じて欲しいと思う」
 城之内は黙ったまま遊戯を真っ直ぐに見返している。先ほどまでのネガティブな沈黙ではない。返ってくる視線も迷いこそ残しているものの、いつもの城之内らしい意思を宿していた。
「そしたらきっと、どうしたらいいかも見えてくると思うんだ。そのあとどうなるかは分からないけど、きっといろんなこと考えちゃうよりいいと思う」
「遊戯……」
「あっ、でもこれはボクの意見だからさ! 城之内くんがどうするかは――」
「ありがとな」
 こつんと。遊戯の手の甲に温もりが落ちる。
 城之内は己の手を掴む遊戯の手に額を預けていた。
 晒された首筋の細さと、ふわふわした金色の旋毛に、遊戯は知らず微笑んだ。城之内がこんな風に弱さとも呼べる部分を晒してくれる嬉しさを感じると同時に、結局は思うままの助言しかできない自分を悲しくも思う。いつか見たもう一人の自分の背中をぼんやりと思い出しながら、遊戯はそっと言葉を紡いだ。
「城之内くん」
「ん……」
「城之内くんがどんな選択をしても、ボクは絶対、城之内くんの味方だよ」
 夕焼けに赤く染まる屋上で、城之内と、並んで語るもう一人の自分の背中を見た。あの時二人がどんな会話をしていたのか、遊戯は意図して聞かなかった。たぶん城之内と海馬の関係を問うていたのだと思う。誰も訊かずにそのままを受け止めた自分たちと違い、敢えて城之内の口から聞きたがったもう一人の自分。彼もあまり聞かれたくはなかったのだろう。
 ただ不意に城之内を見上げたもう一人の自分の横顔は、とてもとても穏やかに笑っていた。どこか海馬との関係を怒っていた節のある彼は、それでも包み込むように笑っていたのだ。
 あの時彼がどんな気持ちでいたのかは分からない。ひょっとしたら今の自分と同じ気持ちだったのかもしれない。今はもう、確かめる術はない。けれど、城之内が後悔しない道を選ぶことを、限りなく幸せになることを望んでいたのは間違いない。
 遊戯は手の甲に感じる温もりを感じながら、静かに耳に届く嗚咽に目を閉じた。
    2011.8.30 (世界線:起点0)