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深海の月と優しい謡唄い

 軽く地を踏む音すら吸い込まれる静寂。踵から伝わる感覚だけが確かにここにいることを思わせる。
 忌々しさを奥歯で噛んでカグラは眼前の氷柱を見上げた。靴音も、舌打ちすらも飲み込まれる。どれだけ鼻を鳴らしても音はない、臭いもない。唯一手を伸ばせば指先に、掌に、ひやりとした石の感触。指先から徐々に視線を上げれば、薄氷を透かして端正な顔が眠りについている。
 カグラは僅かに口元を動かして、結局何も紡がずに止めた。呼んだ名前すら吸い込まれて消える場所だ、結局触れる温度と目に見えるものだけがすべてだった。
 ――ミカゲ。
 胸の内で名前を呼ぶ。瞳を覆う長い睫毛は震える気配など微塵も感じさせず、頬は蝋のように真白い。腐臭がしないだけで死体と変わらないのではないだろうか。そんなものの許に足繁く通う自分は随分とイカレている。そもそもどうして自分はこんなにもこの神官に執心しているのだったか。コイツとはどんな話をしていた、最後に交わした言葉は、名前を呼んだのは、呼ばれたのは。
 恐らくそう遠い記憶ではない。けれども何かと語り継がれ引き合いに出される一万と二千年に等しく感じられて仕方がなかった。カグラは遠い星の光に目を細める。あの光が瞬いて届くまでの時間と一万二千年とコイツを待つ自分の時間、どれが一番長く遠いのか。
 星明かりを反射して、ちらりと鏡面が瞬いた。目覚めの兆しに似ていて、そんな期待めいた見方をしてしまう自分が腹立たしい。
 早く、早く。早く目を覚ませばいい。閉ざされた瞳がどんな色だったか、そこに映る自分がどんなかたちをしていたかを忘れてしまう前に。
 乾いた唇を舌先でなぞる。苛立ちも餓えも全て、とうに消えてしまった臭いの元に齧り付いてぶつけてやる。咬み千切る肉の感触、奥歯の隙間から滴る血の味と溢れる臭い、離れれば糸を引く血の絡んだ唾液の温い熱。思い出してカグラは膝をつく。腰から脳髄へ走り抜ける感覚に息を吐いて、改めてミカゲを見上げた。
 ――ミカゲ、早く。
 氷に触れる指先がどんなに熱を宿してもその瞼が開くことはない。次元の扉とリンクした覚醒はカグラの存在も浅ましい欲も知らぬ気に時を待つ。
 ――起きろ、早く、早く!!
 いつまでも微動だにしない姿を見上げるのは飽きたのだ。体の中にわだかまる熱と欲望もそろそろ持て余して久しい。鬱憤を晴らすのに丁度良さそうなオモチャがそろそろ手に入る頃合いではあるけれど。
 渇きに喘ぐ呼吸も永遠の夜に吸い込まれる。カグラは犬歯を剥いて嗤う。何もかも死に絶えたような場所で一人熱を抱える自分はやはり、相当にイカレている。それもこれもお前のせいだと責める声は結局飲み込んで、カグラはイカレた自分のまま冷たい氷に唇を寄せた。舌先で融けて一滴の水になって渇きを癒すような、とりとめもない錯覚に目を閉じて。

茨箱庭

 とぐろを巻いて眠る大蛇に抱かれる幻惑。現実は更に悪質だった。足元にわだかまるそれは今は力も意思も失ったか弱い茨の蔓に過ぎない。くたりと崩れる刺に苛まれた体を丸め、カグラは浅く呼吸を繰り返す。青臭いに微か交じる鉄臭、何よりも濃く鼻腔を満たすのは胸糞が悪いとしか形容のできない臭いだった。
 服も肌も浅く裂かれたカグラに反し、悪臭の元凶は清らな裾を滑らせる。見上げれば得体の知れない燐光に煽られて笑みが、艶然と佇んでいる。
『カグラ』
 薄く紫を引いた唇は微動だにせず、代わりに白い翅がぶわりと揺れて“声”を紡ぐ。響きは絶対にして支配者のいろ。呼ばれるカグラはどこまでも隷属を強いられていた。
『痛かった?』
 問いは甘美に、見下ろす菫の瞳は蔑みをやさしく湛えてどこまでも深い。応えの代わりにカグラは唾を吐き捨てる。
 瞬間、ただの蔓に成り下がっていたはずの茨が茫として生を吹き込まれる。察したカグラが身を捩るよりも早く這い上がり、剥き出しの腹を抉り腕を縛り上げ首を絞める。
「ぐあッ――ミ……カゲぇっ……!!
『あまり下品な真似をするものじゃないよ、カグラ』
 呆れを含んだ言葉は子どもの悪戯を咎めるものにも似ていたが、現実は倒錯している。じくじくと身を苛む刺の痛みに呼応してちかちかと明滅する視界。カグラは奥歯を噛んでミカゲを見上げる。反らした首に茨が赤く線を引く。
 見下ろす白皙は咎めなどという優しさには程遠い。美を愛で汚れを厭うミカゲが今のカグラに触れるはずもなく、薄く血で汚れるカグラを見つめる目は蔑みに満ち満ちている。自ら汚れへ突き落としておいてこれだ。
 ふと笑う。あるいは嗤う。
 歪んでいる。何もかもが歪みきっている。しかし歪みを正すものなどこの場に、この星に存在するべくもない。何より恐らく、カグラとミカゲはどこまでも同じ生き物で、言い換えるならそれは運命だった。
「それでもテメェには、俺しかいないんだろう?」
 渇いた唇を吊り上げたカグラを、果たしてミカゲは目を眇めて見返す。
 剣呑な空気は瞬き一つの間だけで、すぐににこりと綺麗な笑みに解けた。同時にぎちりと茨が鳴いて、カグラは身を震わせる。肉を食い破る刺のささやかな痛みが苛む。じんわりと脳髄を這い上がる感覚。喉を突いて転ぶのは割れた悲鳴だった。
『そう。だから』
 茨の軋みは言祝ぐようにざわめいて天に伸びる。ずるりと無造作に引き上げられた身体は、無理から目の高さを合わされる。迎えるミカゲの微笑は、きっと今までで一番綺麗に歪んでいた。
「もっといい声で啼きなさい、カグラ」
 白く目眩、裂かれて悲鳴。倒錯する思考か現実か、悪質に彩られて幻想の時間は続く。お前にも私しかいないのだからと純白の翅が囁いて、カグラは痛みを吐き出すだけと化した唇を歪めた。支配者の哀れを蔑んで、恐らく笑えていたはずである。
    2012.03.08(pixiv)

あなたとわたしのあいのうた

 調子はずれな鼻歌が流れていることにイズモが気付いたのは随分と経ってからのことである。
 最高機密を押し込めた、軍内部でも極一握りの人間しか立ち入ることを許されない司令室。初めからその男は場違いで、しかし間違いなくこの場所に立ち入る資格を持った数少ない人間だった。とはいえイズモのように端末を操作し次の侵攻作戦を練るでもなく、ジンのように戦闘の解析データを上げてくるでもない。ある意味古風で愚直な、どこまでいってもただの戦士だった。
 つまり戦時以外は何の役にも立たないということだが、まずその男が何をするでもなく司令室に入り込んでいることには気付いていた。グニスの整備をしろだのシミュレーションでもしたらどうだだの、通り一遍の説教を垂れたところで聞きやしないことは知っている。なので放置していたのだが、
「――……」
 歌い出しに気付かないほど、この男の存在が溶け込んでいたとでもいうのだろうか。
 微かに去来する感情を背後を仰ぐことで払い落とす。それは決して座るために設えられたわけではない機材に腰掛け、ぼそぼそと歌を紡いでいた。手には気に入りらしい熟した紫の果実を持って、歌の合間にかぶりついている。その度に剥き出しの果肉から、骨ばった手から、潤む唇から、ぼたりぼたり、果汁が滴る。ふと渇きを覚え、イズモはゆるく唾液を飲み込んだ。
「――……あ?」
 喉音に気付いたのか、ぶつりと歌を止めて剣呑な赤毛が揺れた。イズモを振り返り金の目をすうと細める。
「ンだよ、オッサン」
 残る果実ごと掠れた歌は飲み下される。ぐずぐずに崩れた果肉を口の中に放り込み、手を汚す果汁を舐め上げる舌先。生々しい動き、赤さ。イズモは眉間に縦皺を刻む。
 粘る水音で仕上げとばかりに辿られた唇が、ちらと舌先を仕舞い込んでつと歪む。撓る曲線は月の背を描いていた。カグラは歪な腰掛けから飛び降り、大股にイズモへと近づく。元より奔放に振る舞うカグラが渋面を浮かべたままのイズモに臆するわけもない。薄い笑いを貼りつけたまま指揮官席に座すイズモの膝に乗り上げる。甘く臭う両腕はゆるく、しかし逃しはすまいと巻きつけられる。
「……やめろ」
 溜息のように吐き出した声が諦念を含んでいることにイズモ自身気付いていた。吐く息が鼻先を擽る距離まで迫るカグラも間違いなく気付いている。増々歪む半月に尖った犬歯がちらりと覗く。
「ヤリてぇんだろ?」
「どうしてそうなる」
 即答するもカグラは取り合わない。目を引く白い牙が迫り、イズモの服の合わせを噛んで開いて鼻先で潜り込む。そのまま愛撫の体で首筋を舐め上げられるがイズモは微動だにしなかった。押し退けも受け入れもせず眼下に揺れる赤毛を見下ろす。
 ふんふんとカグラの鼻が鳴る度、僅かに背筋が疼く。普段は粗野の塊にしか見えないカグラが先ほどまで見せていた、密やかな、いってしまえば純真さのようなもの。今は形もなく、調子はずれに刻まれていた歌はドロドロに溶け切って、毒々しい色へと姿を変えている。
「なあ、イズモ」
 金の瞳がイズモを見上げる。アルテアではもう堕ちてしまった太陽に似たそれが鈍く眩しい。他に何も持たなかったカグラをここまで落としてしまったのは誰か。ちろちろと唇を舐めるカグラの舌先は誘いをかけるが、そこに触れることは一人を除いて叶わない。未だに漂う甘い匂いに果肉を握り潰す幻想を重ねて、イズモはカグラの頭を片手で掻き抱いた。
    2012.03.20(memo)

Dig You No Grave

 ざくざくと小気味の良い音が鳴る。指先で掻き分けて爪先に入り込む。
「ジン」
 臭い。何といえばいいのか、腐った臭い。甘く深い腐臭。食い物が腐った饐えた臭いとは違う。
 その臭いが土の臭いだと気付くには至らない。カグラはヴェーガに馴染みがなさすぎた。
 ざくざくと鳴る。まだ何も見えないけれどここにいる。ざくざくと掻き分ける。水に落としてぼやけたような臭いが鼻先を掠める。これはジンの臭いだ。意識して嗅いだことはないが確実にジンの臭いだった。
 ざくざくと、ざくざくと、指先が辿り着く。静かな夜にただ音だけが落ちる。アルテアとは違う星の瞬く空の下、無造作に膝をついて土を分けるカグラだけがいきものだった。
「ジン、ジン」
 カグラは無心に指を進める。振り返らない。己の背後にもっとずっと静かな肢体が転がっていても一瞥もくれない。例え振り返ったところで、赤に濡れた地面は掘り難そうだと思うだけだろう。
 ざくざく、ざくざく、こつり。
 混じる柔らかく固い音。土とは異なるそれを無心に掘る。まだ真新しい木目を見つけ、カグラは縁に指先をかける。土の挟まった爪先でこじ開けて、力任せに引き剥いだ。ばきり。土に湿ったそれはまだ小気味良く悲鳴を上げる。
「……ジン」
 何度も呼んだ名前は薄気味悪い恋慕に濡れていた。割れた板の向こう、重く瞼を閉ざすジンをカグラはうっとりと見つめている。当のジンが目を開いたならば気味悪がるか一笑に付すか、とにかく好意的には決して捉えないだろう表情だった。
「なあ」
 どれだけ声を上げようとジンの瞼が開かれることはない。カグラは穴の中に降り立ち、まだ土に埋もれたままの棺の上にべたりと腹這いになる。割れた木目に顎を乗せ、生を失って久しい白皙を覗き込んだ。白い犬歯を夜に剥いて笑う。どこまでも無邪気に歪む。
「帰ろう」
 呟いて、閉ざされたまま固まったジンの唇にカグラは己の唇を落とした。童話のようだと笑う者も、気が狂っていると叫ぶ者もいない。墓標の林で生きているのはカグラだけ、思えばこの場のすべての生を断ったのもカグラなのだが瑣末なことである。ただ今求めてやまない彼を殺めたことに気付いていないのは滑稽の極みだが、やはりその事実を哂う者もいない。土を掘る音も名を呼ぶ声も絶え、瞬く星に静かな腐臭が横たわっている。
    2012.04.02

Key

 白と黒が音に沈む世界、その中に飛び込んだ赤は鮮烈で、流れる血よりも焼けた土に近い。つまり踏み躙りたい。シュレードの嗜虐を満たす男は荒く息を吐きながらも瞳から光を消さずにいる。
「君は本当に、不思議な音を奏でるね」
 指を滑らせれば浮き沈む鍵盤、押して爆ぜたような悲鳴が跳ねた。
    2012.04.02(twitter)

Sign

 傾いだ首に裾の長い赤毛が流れる。少し日に焼けた伸びやかなその輪郭にジンは目を眇めた。奔放と粗野ばかりが目に付くカグラが覗かせた、隠された色のあと。
 正しくはカグラが、ではなくて。僅かな苛立ちを舌先で散らして、晒されたカグラの首筋にかぶりつく。翅の男が残した痕を上書きするように。
    2012.04.02(twitter)

忠犬注意

    ※R-18:高校生を含む18歳以下の閲覧はご遠慮ください

 しつこい、ねちっこい、これだからおっさんは。揺さぶられるこの時間カグラはいつもそう思う。
 いつも後ろから突っ込んできて上から目線で偉そうに喋ってくるあたりも不愉快だ。きっと自分では優位に立って嬲っているつもりなのだろう。
 つまらない矜持を保つために使われるのも癪なので、偉そうな声を掻き消すようカグラはわざと声を上げる。
「あっ、ひ、ああぁ……! イズモ、もっと……そこ、しろっ……!」
 ずるずると出し入れされるイズモを食い締めてやれば、背後から舌を打つような音が聞こえ、カグラはひそりと笑った。
 次の瞬間、後頭部に降ってくる衝撃。イズモの手に押さえつけられ鈍く顎の骨が鳴る。
 口の中の鉄臭い唾を飲み込んで無理矢理首を捻れば、冷静ぶった瞳が見下ろしていた。
「お前は――」
「くっ、んん……くく……! ブザマだな、イズモぉ……はっ、うあ、ああああ!」
「黙れ、犬」
 先端だけを残して引き抜いて、奥の奥まで一気に突き込まれる。ぞくぞくと腰を抜ける感覚に腰を震わせ、触れられないままの前を床に擦りつける。
 笑いが止まらない。いかにも屈服させようとするその動きが図星だったことを示唆している。
「はっ……出せよ、イズモ、んっ……あ……」
「お前が出されたいだけだろう、飢えた牝犬が」
「ふっ……そーだよ……ん、テメーのでもいいぐらい、はっ……」
 足りねぇんだよ。その言葉は声にならず喉の奥へと落ち込んだ。
 急に肩を引かれ、上体を持ち上げられる。背中からイズモに抱かれる形になり肌が粟立つ。後孔を貫く肉塊の角度が変わりぎゅうと食い締める。
「そんなにあの男が欲しいか」
 不意に耳に吹きこまれた声に、カグラはひゅっと息を吸った。
 言葉を返すよりも先に終わりを思わせる強靭な腰使いが始まって、後は獣の体で濡れた声を上げるだけ。
 擦りつける先がなくなり、ぶらぶらと律動に合わせて揺れるだけとなったカグラ自身が雫を結ぶ。ぐんと深く突きこまれ、尻にイズモの下生えが擦れる感触。次の瞬間、熱のない迸りが腹の中に吐き出される。
「うあ……出て、……んっ」
 顎を掴まされ振り向かされる。この偉そうな態度が気にくわないのだ。射ぬいてくる薄氷の瞳には苛立つ内心に反してだらしなく溶けた自分の顔が映っている。
 その虚像が徐々に近づいていることにはっとしてカグラは顔を逸らした。晒されたカグラの耳朶を嘲笑う声が嬲る。
「唇はあの男だけのものか?」
「うるせぇ。尻ならともかくキスは要らねーだろ、テメェにはよ」
「無論だ」
 がじりと噛み付かれ、ただお前の嫌がる顔が見たいと思ってな、続いたその台詞にカグラは唾を吐いた。
    2012.02.15(pixiv)
    2013.01.20 up