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ほだされストマックエイク

 ドアを軽くノックしてみても何の物音もしない。イズルはもう一度ノックを繰り返し、再度無音が返ってくることに頷いてから静かにドアを開けた。
 バカンス、などと送り出されたところでたった一泊の休暇である。ロクに解かれてもいない荷物はこじんまりとソファに座っていた。そこからするすると視線を滑らせれば、ベッドの上にこんもりと丸く山を描くシーツが目に入る。
 なるべく足音をさせないようにそちらに近づき、イズルはベッドの端に腰掛けた。
「起きてる?」
 シーツの山はぴくりとも動かない。
 相変わらず無音の相手をイズルは小首を傾げて見下ろした。
「起きてる? お腹すいてない?」
「…………」
「ケイのケーキが残ってるから、もらってこようか」
「あんなもん食べたら本気で胃に穴が空くだろ!」
 怒声とともにシーツが跳ね上がる。ぶわりと舞う薄手の生地の下に、剣呑と冷や汗を含んだアサギの顔があった。イズルが笑いかけると一瞬「しまった」という顔をして、そのままバツ悪そうに眉を下げる。下がる眉につられるように、アサギの頭はずるずると布団の中に沈んでいった。
「おはよう、アサギ」
 追いかけて声をかければシーツの下からくぐもった声が返ってくる。
「……俺は寝てる。声かけるな」
「なんか食べた?」
 アサギの拒絶はそのままに問いかける。一拍置いて、シーツの山がもぞもぞと動いた。左右に首を振ったらしい、とイズルは判断する。
「また……えっと、まだ? 胃が痛いの?」
「……当たり前だろ」
 無視も拒絶も華麗にすり抜け問いを重ねてくるイズルに、観念したのかアサギはほんの少し目元を覗かせた。ただし視線はじとりと据わっていて、さっさと帰れと言わんばかりにイズルを射抜いている。
「明日のこの時間にはもう作戦中なんだぞ」
「うん、そうだね」
「そうだねってお前……通信衛星設置するだけの任務だって失敗したのに」
 どこか恨めしげなその視線とどんよりと暗い声に、イズルはアサギの言わんとするところを察した。
 どちらかといえばパフォーマンスを重視したような任務だったはずなのに、まさかの強襲に任務失敗。おまけに無責任に囃し立てていたテレビ局もこれ幸いと失敗の瞬間をニュースで繰り返し流す始末だ。しかもよりにってストレスに極端に弱いアサギのリンケージ失敗の場面、スルガ曰く『アサギスペシャル』ばかり。日頃から胃薬と仲良くしているアサギの胃はどうなっていることやら。胃痛とは縁遠い生活と性格のイズルには計り知れない。
 イズルは大きく頷いてみせた。
「僕、さっき特訓してきたんだ。ヒーローは敗北の後に特訓して、必殺技とか覚えるものだし」
「はあ?」
「だからアサギは余計なこと心配せずにさ、どーんと僕に任せといてよ」
 おまけに腰に手を当てて大きく胸を反らしてみせる。
 シーツの影のアサギはぽかんと口を開いて、それからなぜか苦虫を噛み潰したような顔へと変化させる。いつもどおり鋭いツッコミが飛んでくると思っていたイズルは予想外の反応にまた首を傾げた。折角出てきたアサギの頭が、シーツに波を作りながらずるずると引っ込んでいく。
「それって俺が役に立たないってことだろ……」
「え? あ、アサギ?」
 アサギの顔は完全にシーツに伏せられていて、答える声は一層低くくぐもっている。思わずイズルはシーツを捲るが、青灰色の後ろ頭は抵抗することなく伏せられたままになっていた。
 繰り返されるニュースに参っているとは思っていたが、これはあまりにアサギらしくない。アサギはチームの中では一番総合成績がよく、本人も周りもそれをよく分かっている。ずばり言ってしまえば少しプライドが高くて、だからこそ模擬戦で自分を過信して独断専行に走ってみたりチームを変えてくれるよう教官に進言したりするのだ。
 そのアサギが。怒ることもツッコミを入れることも放棄するまでに憔悴している!
 イズルは慌ててアサギの頭を掴み、上へ向くように転がした。恐ろしいことにここでも抵抗がない。ひっくり返ったアサギの顔は、告白して玉砕したタマキにも近い表情を浮かべている。
「アサギ、あの、違うよ? 僕はほら、仮にもリーダーだからさ、」
「もういい、やめてくれ、お前にフォロー入れられると自分がすごく惨めになる」
 薄く開いた唇からそう零すアサギは、どこか遠くの虚ろを見ていた。
 そんなことを言われてしまうと、イズルにはもう何もできなくなってしまう。けれどこんなに落ち込んだままでは、明日の作戦でアサギが撃墜されかねない。搭乗者のメンタルに直結するジュリアシステムを搭載したアッシュでは文字通りの死活問題だ。
 だからリーダーとしての自分がどうにかしなくては、などと大層なことをイズルは考えていたわけではない。ただこんなに落ち込んだアサギを見ているのが辛くて、言葉も拒否され目線すら合わせてもらえないのがとても悲しかった。
「アサギってば!」
「っ!?
 叩く手前の力を込めた両手で、ばちんとアサギの頬を挟む。手ではなく声の方に強く力を込めれば、どこかの銀河に旅立ちかけていたアサギの目が丸く見開かれた。赤みがかったアサギの瞳は、今度はイズルを捉えている。
「アサギはニュースとか気にし過ぎなんだよ。さっきも話してたけどさ、知らない人に知らないところで知らない話されたって自分の耳には入ってこないんだからいいじゃない」
「……さっき入った」
「さっきは特別だってば。僕達、大体学校にいるんだし、学校のみんなにザンネンって言われるのはいつものことだし」
 また逸らされそうになる視線を、アサギの顔を引っ張ることで引き戻す。指先に触れるアサギの頬は少しひんやりとしている、イズルは頭の端でそんなことを考える。
「それにニュースを見る人達はさ、アサギが模擬戦で先走って失敗しちゃったり、ストレス感じたらすぐ胃が痛んだり、そのせいで胃薬が手放せないでいたり、そんなことも知らないんだよ」
「ケンカ売ってるのか」
「じゃなくて、だから、アサギのこと何にも知らない人達に何言われてもそんな筋合いないっていうか、説得力ないっていうか……とにかく、本当のアサギのことは僕達が分かってるんだからそれでいいよねってこと!」
 上手くまとまらない言葉の最後に、イズルはひんやりした頬をぴしゃりと打った。
 理詰めで考える傾向のあるアサギがこんな言葉で納得するかというと、たぶん納得はしないだろうとイズル自身思う。けれどイズルがアサギに関してどう思っているか、ほんの少しでもアサギ本人に伝わればいいと思った。
 案の定、アサギはじっとりとした目でイズルを見上げている。しばらくそうして見つめ合って、最後に溜め息をついたのはアサギだった。
「……それでもやっぱり、気になるんだよ」
 イズルの言葉ひとつで、自分の評価に関する機微だとか胃痛持ちが改善される訳もない。
 それでも今のアサギはイズルの取り留めのない言葉に呆れた様子で、とりあえずどん底よりちょっと上、ぐらいに気持ちも浮上したらしい。イズルはそのちょっと上を嬉しいと思う。だから顔を綻ばせて、
「だったら、余計なものを聞いたり見たりしないように僕がこーやって、」
「――ッ!!
「耳も目も塞いであげるからさ」
 アサギの頬に触れていた手を滑らせて耳を塞ぐ。両手は塞がってしまったので、アサギの目を覗き込む要領でお互いの額と額をくっつける。目の方は正しくは塞がっていないのだが、これだけ近づけばアサギにはイズルしか見えないし同じようなことだろう。
 触れ合う額で頷けないので、イズルはひとり「うんうん」と声に出してみた。妙案である。いい仕事をした。アサギもちょっとは気持ちも上向いたようだし特訓もしたし、明日の作戦への憂いはない。
 イズルの晴れやかな心に暗雲が差したのは、重なるアサギの身体が小刻みに震えていると気付いたときだった。
「どうしたのアサギ、胃じゃなくて風邪でも引い」
「この馬鹿ッ!!」
「たっ……あああああ!?
 ゴッという硬い音とともに、額に衝撃が走る。何度か自作の漫画でも描写してきたが、イズルは生まれて初めて自分の眼の奥で散る星を見た。
 衝撃に思わず仰け反って、じんじんと痛みの響く額を押さえる。イズルの手が離れた瞬間、あんなに力ない様子だったアサギが勢い良く跳ね起きた。この時イズルが散る星の余韻に目を眩ませていなければ、珍しく朱に染まるアサギの頬を見ることができただろう。ついでにイズルに頭突きを食らわせた額も赤く染まっていたのだが、アサギの方にはダメージはないらしい。慌ただしく捲し立ててくる。
「おまえっ……お前なあ!!
「え? え、何?」
「男が男にっ、そういう……ああああもう全部お前が悪い!!
「ええええ? な、なにそれ、分かんないんだけど」
「分かるな、分からなくていい! とにかくお前が悪いんだよ!」
 瞬きを繰り返して星を振り払うことに成功したイズルは、ようやく両手を下ろしてアサギの顔を見る――より先に、勢い良くアサギが俯いた。身を案じてとりあえずイズルはアサギに手を伸ばそうとするが、俯いたままのアサギは器用にイズルの上腕を掴み、ぐいと引いてイズルの身体を反転させる。
 なすがままにされながら、イズルはとりあえず肩越しにアサギを見下ろす。残念ながら丸いラインを描くアサギの頭と、きれいに流れを作る旋毛しか見えない。
「あ、アサギ?」
「うるさい! 腹減った! コンビニでレトルトの白粥買ってこい!」
「こ、こんなリゾート地にあるの?」
「いいから買ってこい! お前が買ってくるまで寝てる!」
 これ以上は聞きたくないとばかりに背中を押されて、イズルは数歩たたらを踏んだ。もう一度振り返ってもシーツを勢い良く被るアサギしか見えず、やっぱり表情は窺えない。
 イズルは部屋の真ん中でまた小首を傾げて、結局、まあいいか、という結論に落ち着いた。アサギが何に怒っていたのかは分からないが、少なくとも怒る元気や空腹の胃に何かを入れようという食欲は湧いたわけだ。結果オーライということでいいだろう。
 大きくひとつ頷いて、イズルはシーツの下のアサギに声をかける。気持ちと同じように浮ついた声になってしまうのは仕方がない。
「じゃあ、買ってくるね。買ってきてあっためたらまた起こすから!」
「早く行け!」
「うん、行ってくる!」
 スキップでもしそうな心地でイズルはアサギの部屋を後にする。跳ねて飛んでいきそうな口調とは裏腹に、アサギを気遣ってかドアは静かに閉じられた。
 軽やかな足音が遠ざかってしばらく、アサギの部屋を無音が支配する。まんじりとしたままのアサギが零した感謝の言葉は向けられた本人に届くことなく、糊の利いたシーツが柔らかく包んでそっとアサギの隣に横たえた。
    2013.5.1 x 2013.5.5 up