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ホットモットスプリング

 薄紅の頬、吐き出す息は熱く甘く夜霧に溶ける。未だ湿りを帯びて晒された肌は薄く上下を繰り返して艶かしい。平生はぎらぎらと睨みを効かせて憚らない瞳も重く濡れる睫毛の下に閉ざされている。存外に長い睫毛は微動だにせず、まるで目覚めの口づけを待っているかのようだ。
 ――と、眠るカグラを見、そこまで考えたところでジンは頭を振った。
『ジン』
 火照るカグラの頬に白い手が滑る。細い指先に載る爪は薄闇を刷いて菫色。恐らくは女のなよやかさを持つその指の持ち主はといえば、半ば呆然とするジンを振り返りにこりと笑んだ。花で飾られた腰掛けを今は昏々と眠るカグラに譲り、傍らに座してミカゲは続ける。
『可愛いでしょう? 私のカグラは』
 どこが。いつもなら考えるよりも先に口を突いて出るはずの言葉だが、しかし今日は舌先でわだかまる。行き場を失ったそれを奥歯で噛み締めながらジンは数十分前の出来事を反芻する。知らず眉間に寄った皺が妙に痛むことにすら気付かないまま、内心でぼそりと呟いた。どうしてこうなった。


 勝手気ままにヴェーガへ飛び出た挙句、ミスラ・グニスの首を吹っ飛ばして帰還したカグラを真っ先に出迎えたのはジンだった。ただし役職と軍内部の配置上のことであって、好んで出迎えたわけではない。不機嫌な負け犬の遠吠えにわざわざ耳を傾けてやる暇はないのだ。
「あの男……俺のクソ女に……」
 とはいえ大事な機体をここまで壊された以上、事の仔細を聴取しなければならないのも事実。ジンはあからさまに溜息をついて、コンソールに腰掛けながらブツブツと呟くカグラを振り返る。この部署の機器の管理はすべてジンが担っている。当然腰掛けるなど以ての外だ。しかし言っても分からない犬に言い聞かせるだけ時間の無駄だと既に腹を括っている。
 機器に対する粗暴な振る舞いへの文句はひとまず押しやり、ジンはカグラの名前を呼んだ。あん、と不機嫌な鳴き声と共に駄犬が顔を上げる。
「これだけ派手にグニスを壊しておいて……何の弁解もないわけ?」
 無断出撃を咎める棘も混ぜ込んで責める。本能のまにまに突っ走り、その自覚すらないカグラは仕込んだ棘にも気付かないだろう。案の定カグラはフンと鼻を鳴らして視線を逸らした。
「俺はまだ戦えた。お前が勝手に止めたんだろうが」
「論点のすり替えは止めてくれない? どうしてここまで派手に負けたのかを聞いてるんだけど」
 ぐうと犬の喉が鳴る音。ジンは密かに優越感を覚える。負ける、というあからさまな単語にようやく後ろめたさを覚えたらしい。
 被った損害をカグラが理解できないことは分かりきっている。だから今は敗北に対する反省を理解させる程度で構わない。どちらにせよ本格的な仕置きは別口から下るだろう。
 軍の規律とは別次元に君臨する男。目覚めたばかりの駄犬の飼い主を思い浮かべるジンの目前で、当の本人はといえば苦虫を噛み潰したような顔で唸っている。
「カグラ」
 強く名前を呼んで促す。カグラはガジガジと頭を掻いた後、コンソールを飛び降りてジンに背を向けた。
「どうせ戦闘データの解析かなんかすんだろ」
「戦闘に至るまでの経緯を話せって言ってるんだけど。カグラ、まだ話、は……」
 呼び咎める言葉の間にびちゃりと湿った音。割って入った不快な音源を辿れば、うるさそうに振り向くカグラの足元が目についた。光量を落とした部屋の中、やけに黒々とした軌跡を引いている。
 とどめとばかりにカグラの下衣から滴る何かを認め、ジンは大股にカグラに詰め寄った。有無を言わせず腕を引けば手袋越しにぐじゅりと嫌な音が鳴る。鼻先には慣れない臭いが掠めて、ジンは眉間に深く皺を刻んだ。
「……濡れてるんだけど」
「あァ? あー……」
 間近で見れば赤い前髪は額に張り付いている。邪魔くさそうにそれを摘み上げ、視線を宙に浮かせるカグラはらしくなく考えているようだった。数拍の間を置いて後、
「……海?」
「は……」
 質問に疑問形で返すなと呆れる心境も霧散する。海で濡れたという発想はなかった。
 アルテアにも海はあるが、滅びゆくこの星では赤く汚れて触れることすら適わない。ヴェーガのまだ清い海ならば泳ごうが潜ろうが人体には無害なのだろう。人体には無害だろうが、海、海ときた。そこに含まれる塩化ナトリウムが金属機器に与える影響をこの馬鹿は知っているのだろうか。
 先ほどまでカグラの腰掛けていたコンソールを振り返る。ミスラ・グニスはともかくここの機材に防腐処理はしていない、どころか耐水性の考慮もされていないはずだ。果たして嫌な予感の通り、コンソールには薄く水の膜が張っている。
「カグラ」
「っんだよ、さっきからうるせー……おわっ!?
「来て」
 掴んだままの腕を引き部屋を出る。カグラの機器に対する粗野な振る舞いには目を瞑ってきたが今回ばかりは耐えられない。カグラから漂う慣れない臭いも不快だ。
 背後でぎゃんぎゃん吠える声を聞き流し、暴れる犬に負けてたまるかと一歩一歩を踏みしめながら通路を進む。途中で何人かの部下と擦れ違ったが、どいつもこいつも道を譲るばかりで役には立たなかった。この程度で尻込みしていては到底軍上層部で仕事などできないだろうに。
 内心で部下の無能を罵りつつ、遂に目的地に辿り着く。背後からげっという声が聞こえたが、抵抗が激しくなる前にジンはカグラを堅牢なドアの向こうへ押しやった。たたらを踏むカグラを蹴り飛ばしつつ、後ろ手でドアにロックを掛ける。
「ジンっ、てめぇ!」
「もう逃げられないよ。いい加減観念して……」
 フロアに膝をついたカグラが身を起こした瞬間を狙い、剥き出しの腹にのしかかる。カグラの腹の上で手袋を脱ぎ捨て、ジンはゆっくりと袖を捲った。むわりと湿気た空気が頬を撫でる中、目を細めて躾のなっていない犬を見定める。
「脱いで」
 指先で衣服の下の肋骨を辿り、行き着いた先の金具を爪先で弾く。告げればカグラはぐうと押し黙った。ジンの溜まりに溜まった怒りを少しは汲みとったらしい。
「その潮臭いベッタベタな身体、洗ってもらうからね」
 カポーン……と。
 屈辱に顔を歪めるカグラの背後、曇りガラスの向こうから、間の抜けた音が響く。
そのまま落っこちた奇妙な沈黙に、這うようにカグラの唸り声が混じった。
 しばしの後、カグラの手がのろのろと動いて衣服の金具にかかる。そのままジンの身体を押して服を脱ぎ始める様を認め、ジンは微かに口元を歪めた。ぎらぎら睨みつけてくる瞳はともかく、態度は殊勝で結構。
 かくしてアルテア軍本部大浴場、脱衣場での幹部同士の初戦はジンの勝利で幕を下ろしたのである。


 ここまでは問題なかったはずだ。聞き分けない犬を相手にしてよくやった方だと自賛できる。それがどうしてこうなったのか。
 額を覆う指の隙間からちらりと視線を向ける。ミカゲはもうジンのことなど見てはおらず、カグラの赤毛を指先で弄んでいた。薄紫の瞳に渦巻く感情は到底ジンには理解できそうもない。ただしどこまでもドロドロとして、二人の間を繋いでいることだけは嫌でも分かった。
 滑るミカゲの指先で雫を乗せた睫毛が弱く震える。んう、と幼い声を零してうっすらと開かれる。
『おはよう、カグラ』
「ミカゲ……?」
 砂糖をまぶしたようなミカゲの声には怖気が走るが、答えるカグラの声は掠れていて妙に背筋がざわめいた。またその事実に頭を抱えたくなる。
 内心で葛藤するジンにも気付かず、カグラは覚醒しきっていないのかぼんやりとミカゲを眺めていた。
『気分は?』
「別に……」
 ぺとりと頬に触れるミカゲの手をうるさそうに振り払い、カグラは緩慢に周囲を見回す。ミカゲは深く笑みを刻み、振り払われた手を再び伸ばした。しろい女のような手が含む仕草で剥き出しのカグラの胸を撫でる。殊更にゆっくりとした所作に、カグラの身体が微かに跳ねた。
「っに、し、て……?」
 不自然にカグラの声が途切れる。ようやく己の姿に気づいたらしい、カグラは呆然として自分の身体を見下ろしていた。せめてもの情けとでも言うべきか下衣は身につけているものの、やたらと怪しい動きでミカゲに乗り上げられていては意味もない。
 一瞬、ミカゲがこちらを見やる。既に蚊帳の外かと思っていたがそうでもなかったらしい。半月に歪んだままのミカゲの瞳に底冷えするものを見つけ、ジンは背筋を伸ばした。しかし何を言うでもなく、ついとジンから視線を逸らしたミカゲは淡く笑う。流れる仕草でカグラの耳に唇を寄せる。
『私以外にいやらしい姿を見せたでしょう?』
「……はァ?」
 お前馬鹿か?
 と、口には出さなかったがカグラの台詞が聞こえるようだった。白々としたカグラの視線を物ともせずミカゲの指先がすうと下がり、生々しく腹の隆起を辿っていく。
『ジンに触らせて……』
 いや馬鹿だ。ぐらりと倒れそうになるところを踏みとどまり、ジンは再び額を押さえる。ミカゲの偏った婉曲な表現では確かにそうなるだろう。しかしどこにそんな卑猥な要素があったのか。激戦の第二回戦を反芻する。


 ぼやける視界に雨あられと散る白い飛沫。銃撃戦の只中にも似てジンは舌を打つ。
「ちょっと……ッここまで来、て……いい加減に、してくんない……!?
「るせぇッ、湯だけ浴びりゃ、それで、いいだろうがっ!」
 浴場を満たす湿度と温度だけでくらりと傾ぐ頭。立て直し両手に力を込める。手の中でぐじゅりと鳴り噴き出すのは白だった。ぼたぼたと滴るそれをカグラの頭に叩きつけるものの、間髪を入れず水を払う犬の仕草で散らされる。ヒクリと口元を戦慄くのも仕方がない。
 この不毛なやり取りを何度繰り返しただろうか。撒き散らされた白を腕で拭うが、拭う腕も濡れそぼって意味はなく、捲っていたはずの袖も重くぶら下がるばかりで不快だった。
「俺の部屋に入るんなら全部洗って落とせって言ってるの!」
 湯で流した程度で塩が落ちきるはずがない。辛うじて湯船に沈めたカグラを見下ろせば、また喉奥で唸りながらジンを睨みつけていた。隙あらば逃げようと視線を巡らせていることには既に気づいている。
 どうしてここまで世話を焼いてやらなければならないのだろう。苛立ちに任せ、石鹸を塗りたくったスポンジでカグラの頭を押さえこんだ。
 わぶっとよく分からない声が聞こえたが当然無視を決め込む。強硬手段のつもりだが、力比べでは完全にカグラのほうがジンを上回っている。湯に沈めるまで持ち込めた時点でジンとしては及第点なのだが、塩を落とさなければ目的を達したとはいえない。
 案の定、ジンの押し込めに抗うべく、カグラの首がぐぐっともたげられる。
「こんだけ、浸かってん……だからっ……!」
「ほんっとに……お前は分からない、ねっ……!」
 ここまで強情に洗われるのを厭う理由が分からない。本当に犬だ、馬鹿犬極まりない。ギリギリと鳴る拮抗の幻聴、ジンはそこに勝機を見つける。
 ぐいと押し込めば負けじと強まる抵抗。瞬間、ジンは手を放す。勢いに従って後ろへ倒れゆくカグラの動揺と非難の目は当然受け流した。
 握り締めたスポンジを無防備に晒された胸元へ押し当てる。要はもう擦ればいいのだ。問答無用で丸洗いにしてやればいい。後のことなど知ったことか。ぐっとスポンジを滑らせるが、しかしジンの強固な意志は一瞬の後に砕け散ることとなる。
「ひぁっ!?
「………………………………は?」
 やたらと高い、耳に障る声だった。一番近い言葉を探すなら、甘ったるい、というのだろうか。
 今の声はどこから聞こえたのか、初めから浴場には二人きりで、そして当然自分の声ではない。とすれば答えは一つだ、こいつしかいない。呆然として見下ろす。
 もわもわと湯気に霞む中、中途半端に泡を乗せた身体が微かに震えているように見えるが錯覚だと思いたい。やたら赤く染められた頬ものぼせたせいだろうきっとそうだろう。聞き間違いだと結論づけ心を無にし、再びスポンジを滑らせる。
「あ、んっ……」
 幻聴、幻聴だ。
「もっ……やめ……」
 幻聴、空耳。
「ひ、ゃ……ジンっ……んっ!」
「……っああああああああもう!」
 持っていたスポンジごと悶えるように跳ねるカグラの頭を殴りつける。ゴッと軽く音が聞こえたがさしたるダメージはないだろう。
 赤毛が嬌声もろとも湯に沈む様を見届けた後、ぐるぐると胸に溜まった何かを息を吐いて逃がす。呼吸を繰り返し、動悸を鎮めたところで俄に我に返った。動悸とはどういうことか、自問は馬鹿が水を跳ね上げる音に遮られた。
「あ、こら!」
「るせぇ!」
 湯船を飛び出し、たゆまぬ流れでカグラはジンの横を擦り抜ける。脱兎の如く、とは犬相手に使う言葉ではないだろうがまさにその勢いでタイルの上を駆け、曇りガラスのドアを開け放して大浴場から脱走。そこまで見送ったところでジンは舌を打ち、素っ裸の背中を追いかけた。
 ジンだけが知るコードでロックを掛けているのでどうせ脱衣場から外へは出られない。どちらにせよ服を着ようとしているところで押さえられるだろう。という考えは甘かった。相手はジンの予測を以てしても計り知れない馬鹿だったのである。
「ンだよ、なんで開かねーんだ! クソッ!」
 まさか全裸のままロックされたドアに挑んでいるなど誰が考えただろうか。
「は……」
 がんがんと響くのは攻撃されている扉の悲鳴か、ジンの頭痛か。
 ぐらり目眩に踏みとどまり、馬鹿の背中を見据える。塩だらけの身体で機器に触れるな云々、などという考えは既にない。あるのは意地でも取り押さえなければという妙な使命感だけだ。
 鋼鉄の扉に足やら拳やら頭やらを打ち付けて吠えるカグラが背後に回るジンに気付くわけもない。全裸でドアに殴りかかる背中からは先程の色気は露とも感じなかった。ジンは密かに安堵しつつ、安堵しているという事実にまた疑問を抱くが解消はまず犬を取り押さえてからだろう。
 そろそろと距離を詰め、一息に飛びかかる。重なるロックの解除音と、浮遊感。
「おわっ!?
「なっ……」
 勝手に開いた扉に驚く間もなく、吸い込まれるようにカグラごと落ちていく。既視感に目を眇めれば、転送装置の文字が脳裏をよぎるも時既に遅し。視界はアルテア軍本部大浴場の脱衣場から夜の神殿へと切り替わっている。逆さまに急降下する視界で一際目を引く白の微笑。
「ミカ――」
 趣味の悪い花の玉座に座して笑む、転送の犯人。その名を口にしかけたところでジンの意識は途切れた。


 卑猥な要素などなかった。なかったと言い切らなければ自分の中の大事な何かが音を立てて崩れてしまう気がする。
 中断となった二回戦を反芻し、ジンは目前で繰り広げられる耽美の世界から視線を逸らした。
 ミカゲの神殿には、アルテアでは希少な清い水と息吹く花々が満ちている。どういう仕組みか軍内部のシステムに干渉できるミカゲによってその泉に転送されたわけだが、目を覚ましたジンが真っ先に見たのは椅子に転がされミカゲに下衣を着せられるカグラの姿だった。この扱いの差は何だと思うが、カグラと同じ扱いを受けたところで全く以て羨ましくもないので問題はない。ついでにカグラのズボンをどこから持ちだしたのかという疑問は割愛する。
『白を切っても無駄だよ、カグラ。ジンに鳴かされるお前を私はちゃんと見ていたのだから』
「いや、お前その目玉一回取り出して洗ってこいよ! おいっ、触んな……ひっ!」
 視線を逸らしたところで耳に届くものは遮れない。諦めてぐるりとそちらを向けばミカゲに覆い被さられ、バタバタと哀れに藻掻くカグラが見えた。カグラとミカゲの関係が厳密にどんなものかは知らないが、このままここにいると酷い目に合う気がする、自分が。
「ミカゲ、俺に用はないんでしょ?」
 帰りたいんだけどと付け足せば、ミカゲはゆっくりとジンを振り返った。
『用がなければ呼んだりはしないよ』
「……カグラのついでに連れてこられたのかと思ったけど」
 正直ミカゲには、言及するならばカグラの絡んだミカゲには関わりたくない。しかしミカゲの神殿から軍本部へ戻るとなるとあまりにも遠すぎる。癪ではあるがこの男に帰してもらう他ないのだ。
 露骨に警戒するジンなどどこ吹く風、ミカゲは笑みを深めて小首を傾げた。アリシアに始まる女性であれば可愛げのある仕草だが、あいにくとミカゲが小首を傾げたところで胡散臭さが増すだけだった。恐らくはそれすらも分かっていてやっているのだろうが。
『随分と苦戦していたようだから、教えてあげようと思って』
 嫌な予感しかしない。
「……何を?」
『カグラの扱い方を』
 ミカゲの翅に隠されたカグラの身体が跳ねる。台詞に反応してのものか、それとも既に何かされたのか。分からないが知りたくもない。
「別にいらない」
『おや』
「ミカゲが全部面倒見ればいいだろ」
 これに尽きる。どうせジンにカグラを御し切ることはできないのだ。最高司令官のイズモですらこの馬鹿には手を焼いている。結局カグラを扱えるのはミカゲしかいないのだから、戦時以外はすべてミカゲがカグラの世話をすればいい。カグラにとってどうであるかは別として。
 ジンの言葉にきゃんきゃんとカグラが抗議めいて声を上げるが総じて無視する。怪しく蠢き始めるミカゲの手に気づいたがこれも無視。
『そうしたいのは山々だけれど、イズモがうるさいからね。けれど……』
「ひっ……ん、ミカゲぇっ……!」
 再びぞわぞわと耳に触れるカグラの声。ジンはぐっと唾を飲んで耐える。カグラの声も翅の隙間からチラチラ覗くやたら蕩けた表情もすべて無視だ。
 元凶のミカゲはといえばカグラを振り返りもせず、淀みない動きで手を滑らせている。ジンを見返す瞳は悪戯げに瞬いているが既に悪戯の域を超えて悪行でしかない。
『今日ぐらいはそうさせてもらいましょうか』
「はっ……オイ、ふざけんなっ! ジン、俺も連れて帰っ、あぅ……!」
 文字通りのカグラの悪あがきもミカゲの一瞬の手付きで沈められる。先までと違い、ミカゲから妙に黒いものを感じジンはカグラをそっと睨んだ。ここでミカゲの元からカグラを連れ帰ることができる人間がいるだろうか、いやいない。
 ここまでくればジンだけを帰し後は二人で野となれ山となれ、というのがお互いにベストな選択肢だ。悪いがカグラの意思は最後まで存在しないので巻き込むのは止めて欲しい。ジンは迷いなく同僚を捨てた。
『それじゃあジン、折角ここまで足を運んでもらったのだからひとつだけ』
 カグラの身体を辿っていた手をジンに伸ばし、囁くようにミカゲが付け足す。伸ばされた指先、ジンの足元に淡い燐光がぼうと円を描いていく。
『カグラはね、どこを触られても可愛く鳴くから』
 紫を引いた唇が深く弧を描く。どこまでもドロドロとした何かを纏い、ぞっとする響きでジンに釘を打った。
『下手に触らないように、ね?』
 足元から上る光に、視界が塗り替えられていく。
 青い神殿を背景に最後に見えたのは絶望に打ちひしがれるカグラの顔。そしてゆっくりとカグラに唇を寄せ、したたかにジンを牽制するミカゲの歪んだ笑顔だった。
 青く光る夜から赤く仄暗い機器の群れへ。明暗差にジンはぱちぱちと瞬く。
 転送された先はカグラを出迎え、危うく塩まみれにされそうになった例の部屋だった。転送直後特有の僅かな浮遊感にジンは数歩たたらを踏む。直後踵で鳴る密やかな水音。見下ろせば未だに乾き切っていない水溜まりがそこにある。
 哀れなカグラの名残を見つけ、ジンはゆるく頭を振った。ついでに耳の奥に残るカグラの甘い声も振り払おうとするが、深いところにこびりついて忘れられそうにない。
 とりあえずカグラはミカゲの元を離れられないのだろう。ミスラ・グニスとその操縦者がしばらく使いものにならないことを上官に伝えるべく、ジンは情報端末に手を伸ばした。
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