×

流星火

 ランカはそのときまですっかり忘れていた。
 きっと会場にいる誰しもがそうだろう。もちろんランカと同じことを、ではなくて(ランカがつい先ほど思い出したのはランカともう一人だけの出来事だから当然だ)
 この会場にいる人は皆このコンサート以外の全て、例えばチケットを取るために多大な苦労と決して安くはない額を払ったとか、会場の前には人が溢れていて入場まで延々立ちっ放しだったとか、そういう今現在に至るまでの現実とか苦労を一切忘却の彼方に追いやっているのだ。この瞬間はただ『銀河の妖精』の歌声に聴き入り、力強く歌う姿に見とれ、そして薄っぺらいスクリーン越しではなく『本当』のシェリル・ノームと時間空間を共にできる喜びに頭の天辺から足の爪先まで浸っている。
 どっぷりと幻想に浸っていたランカが現実という水面に引っ張り上げられたのは、とりどりの光で会場内に放物線を描いていたアクロバットの一人がステージに迫り、煽られたシェリルがステージから落ちたときだった。
 ランカも周りの観客も思わず悲鳴を上げ、あるいは息を呑んだ。
 けれども当のアクロバットがすぐに落ちていくシェリルを追いかけて、抱き留めて。そしてシェリルはアクロバットの腕に抱かれたまま再び歌い始めたから、観客は皆悲鳴を感嘆の声と歓声に変えてまた幻想の中へと舞い戻っていった。今のはなかなかスリルのある演出だったな、なんて口にしながら。
 ランカもほうと安堵の息を吐いてシェリルへと視線を注いだ。アクロバットたちはシェリルの歌に乗せて会場内を所狭しと飛び回り、虹のように光の軌跡を残す。興奮は笑顔となってランカの心を躍らせた。
 こんな迫力やドキドキはスクリーンなんかじゃ到底味わえない。チケットを手に入れてくれた兄に改めてお礼の電話をかけなくちゃと顔を綻ばせ、ランカはまた幻想の世界へ戻ろうと光の帯に魅入った。
 思い出したのはこのとき、ランカともう一人の出来事だ。
 ランカは現実と幻想の水際で足を止めた。ランカ自身もこつこつ稼いだバイト代でチケットを購入しようとしたのだけれど、さすがにフロンティアのみならず銀河に名を馳せるトップスター、シェリル・ノームのコンサートチケット。販売開始からほんの数時間で完売してしまった。どうやってかは分からないけれど、兄がチケットを手に入れてくれたから自分は生でシェリルの歌声を聴くことができる。
 そしてそう、入場のときも。ランカはシェリルではなく、彼女と共に幻想の光を作り出すアクロバットをじっと見つめる。
 ステージ周辺でくるくると映像を変えるスクリーンはどれもシェリルしか映さないし、いくら同じ会場内といっても遠すぎて顔なんて分からない。けれどあの格好は、入場前に道で迷っていたところを助けてくれた男の子が着替えたものと同じだ。
 アクロバットは五人ほど。そのうちのどれがあの男の子かは分からないけれど、なんとなく、シェリルを抱いている人が彼に近いような気がする。ランカはますます顔を綻ばせた。シェリルの歌と周りの歓声に負けないくらい心臓がどきどきと音を立てる。
 すごく綺麗な男の子だった。濡れてしまった服を乾かしてくれて、会場への道まで教えてくれた。ぶっきらぼうな喋り方だったけど、親切だった彼。あの男の子がシェリルと一緒にコンサートを盛り上げているんだと思うと、頬が熱くなる。
 シェリルと兄と、あの男の子。シェリル本人にはランカのちっぽけな声なんて届かないけれど、この時間を楽しむことで最高の応援とお礼にしよう。そしてコンサートが終わったらすぐに兄に電話をして、どんなコンサートだったか事細かに教えてあげて、何回だって「愛してる」を言ってあげよう。
 そして、あの男の子には。
(……来てくれるかなあ)
 別れ際に娘々でバイトをしていることを告げた。CMだって流しているお店なのに、見たことがないのか彼はいまいちピンときていない感じだったけれど、もし来てくれたら。
 服を乾かしてくれて道を教えてくれたお礼をして、アクロバット飛行がすっごくかっこよかったって言って、シェリルと一緒にコンサートを盛り上げてくれたお礼をして。
(きっとお礼を言ったって、なんでもないことみたいに返すんだろうなあ)
 それから酢豚を奢ってあげよう。まぐろ饅もぜんとら丼も美味しいけど、ランカとしては天然ポークの酢豚が一番のお勧めだ。あの様子だと娘々の料理を食べたことがないみたいだし、だったらランカ自身が一番美味しいと思うものを食べてもらいたい。
 ランカはステージを見つめる。いつかあのステージに立つことが夢だけど、それよりもまず。
 シェリルとアクロバットたちが残す光のひとすじに顔を綻ばせたランカは、彼が娘々に訪れる日を夢見ながら幻想へと浸っていった。
    その光のひとすじがすべてのはじまりを告げるとも知らずに!
    2008.04.09