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あまあい
雨の日はどことなく憂鬱になる。
なので神無は沈んだ気分に抗うことなく、生温いシーツの中でまどろんでいた。
左目で窓の外を窺えば雨の中灰色に煙る石の町。人通りは少ない。その少ない人通りの中に、見慣れた人影を認め神無は瞼を伏せた。彼の人影は今にこの家の扉を開き、傘を畳んで室内に入った後、昼も近いというのに未だ眠りこけている同居人――むろん神無自身のことだ――を叱咤し、ベッドから引き摺り下ろすのだろう。
考えて神無は寝返りを打った。それまではベッドでの篭城を決め込むことにする。素肌に触れるシーツが、正確にはシーツに残る二人分の温もりが心地よい。
もうすぐ帰ってくる同居人、次いで昨夜、いや今日の未明だろうか、とにかく夜に掻き抱いた熱と行為それ自体を反芻し、雨の音に耳を傾ける。
雨の日はどことなく憂鬱になる。
ぼんやりと、とうの昔に光を失った右目に映るものがある。雨の音に連れられて蘇る灰色の記憶であり、この右目が映した最後の光景だった。
それでも以前は雨だからといって憂うこともなかった。以前、というのは、日の本にいたころの話である。当時はもう過去など、雨の日の記憶など断ち切ったからだと思っていた。ただ日々の務めに薄れていただけかもしれない。
がちゃり。玄関のドアが同居人の帰りを告げる。開いた扉の向こう、一瞬近くなる雨の音。すぐに遠ざかるのは彼がドアを閉めたから。次いで畳んだ傘を片付ける音。
部屋の中に踏み込んでくる気配、足音。それでも神無は瞳を閉じたまま。即座に小言を零されシーツを剥ぎ取られるかと思ったが、同居人はまっすぐキッチンに向かった。小言の代わりに響くのは雑多な物音。しばらく続いたそれはケトルを火にかける音で終わりを告げる。
「神無」
キッチンから控えめに声をかけられる。寝たふりに気付かれているなと思いながらも神無はシーツの中で微動だにしなかった。
しばしの間を置いて聞こえる呆れたような溜め息。そして近付いてくる足音。温もり。シーツを剥ぎ取ろうと伸びてくる手。を、捕まえる。引く。咄嗟に自由なほうの腕で上体を支えたのはさすが元『永遠の刺客』というべきか。いや、毎日のようにこんな動作を繰り返していればいい加減学習もするだろう。神無は相手の唇を掠め取った。
「Good morning, Akizuki.」
これもまた毎日の習慣と化しつつある。最初こそ抵抗していた同居人こと秋月だったが、最近は慣れたのか、あるいは何を言っても無駄と諦めたのか。不機嫌な面持ちで、
「……もう昼だ」
そう低く呟くのみだった。
ゆっくりと離れていく秋月を追うように神無もようやく身を起こす。窓の外に目をやれば相も変わらず、雨。もつれた前髪を掻き揚げれば、見咎めたのか声が掛かる。
「コーヒーを淹れてやる。その間に顔を洗ってこい」
見れば秋月の背中はキッチンにあった。テーブルに置かれた紙袋を漁っている。茶色い紙袋は雨に濡れてところどころ黒くなっていた。秋月が抱えて戻ってきたのだろう。
「この天気で買い物に行ったのか」
「お前がバターがないとうるさかったからな」
言われてみればそんなことを喚いた気もする。秋月の声に非難の棘が含まれているような気がして、神無は話題を逸らした。ついでに視線も窓の外へ戻す。
「雨は止みそうか」
「どうだろうな。朝からずっとこの調子だ」
それにこの国の天気は分からない。秋月がそう付け足すと同時に漂う芳香。紅茶もいいが起きてすぐはコーヒーのほうが目が覚める。日本にいたときはこの苦味が恋しかったものだ。
ベッドに腰掛けたままの神無に秋月は白いマグを差し出す。飲んだら顔を洗ってこいということらしい。神無はマグを受け取って、また視線を窓の外に戻した。
静けさが落ちる。聞こえるのは火にかけられたままのケトルがしゅんしゅんと蒸気を吐き出す音と、窓の向こうで雨粒が石畳を濡らす音だけ。神無も秋月も黙ったままだった。二人とも口数が多いほうではないことは互いに心得ている。沈黙が居心地悪いものではないということも。
それでも窓の外を眺め続ける神無に思うところがあったのか、珍しく秋月から口を開いた。
「……――雨が嫌いか?」
窓ガラスに映る自分の顔。眼帯は外している。柔らかく右目を手のひらで覆えば、秋月がガラスの中で僅かに表情を動かした。神無はそっと左目を閉じることで秋月を視界から締め出す。
「好きではないな」
特に石畳と石壁の町に降る雨は。
無意識にそう付け足して、ああ、神無はすとんと胸に落ちるものを感じた。なるほど日本は土と木の町だった。だから雨の日の記憶も遠かったのだろう。
ぎしりとベッドが鳴き、背中に僅かな重みを感じた。
「あき、づき」
「この町の雨は、冷たいな」
振り返ろうとした神無は秋月の声に動きを止める。視界の端に映るのは子供の頃焦がれて止まなかった綺麗な黒髪。触れ合う背からじわりと秋月の温度が伝わる。冷たい、などと言いながら、雨の中歩いてきたはずの秋月は温かい。
「高麗の里では、ずっと縁に座っていた」
乾いた土に水が沁み込む様がどこか不思議で、雨粒が瓦を叩く音が心地よくて、雨に煙る山々が何故か寂しくて。
「それに雨が上がったら、」
まだ青い稲が一層青く輝いて、山間に綺麗な虹がかかることもあった。何より庭にいくつもできた水溜りが空の色を映して、
「空が庭に下りてきたみたいだと、子供の頃は思った」
「……それは、見てみたいな」
背中が僅かに揺れる。秋月が頷いたらしい。
「次に日本に戻るときは、梅雨の時期にしようか」
ゆるゆると温もりが離れ、神無はようやく振り向く。秋月の控えめな笑みがあった。
お前にも高麗の里を見せてやりたい。
ちいさな声でそう零した唇を神無は柔らかく塞いだ。どう言葉にすればいいのか分からない、このふわふわと胸にわだかまる想いが伝わればいいと思いながら。
僅かばかりの驚きを含んでいた秋月の双眸がゆっくりと閉じられる。
雨の日はどことなく憂鬱になる。
その分、雨の日は秋月の温もりが近かくて心地よかった。
なので神無は沈んだ気分に抗うことなく、生温いシーツの中でまどろんでいた。
左目で窓の外を窺えば雨の中灰色に煙る石の町。人通りは少ない。その少ない人通りの中に、見慣れた人影を認め神無は瞼を伏せた。彼の人影は今にこの家の扉を開き、傘を畳んで室内に入った後、昼も近いというのに未だ眠りこけている同居人――むろん神無自身のことだ――を叱咤し、ベッドから引き摺り下ろすのだろう。
考えて神無は寝返りを打った。それまではベッドでの篭城を決め込むことにする。素肌に触れるシーツが、正確にはシーツに残る二人分の温もりが心地よい。
もうすぐ帰ってくる同居人、次いで昨夜、いや今日の未明だろうか、とにかく夜に掻き抱いた熱と行為それ自体を反芻し、雨の音に耳を傾ける。
雨の日はどことなく憂鬱になる。
ぼんやりと、とうの昔に光を失った右目に映るものがある。雨の音に連れられて蘇る灰色の記憶であり、この右目が映した最後の光景だった。
それでも以前は雨だからといって憂うこともなかった。以前、というのは、日の本にいたころの話である。当時はもう過去など、雨の日の記憶など断ち切ったからだと思っていた。ただ日々の務めに薄れていただけかもしれない。
がちゃり。玄関のドアが同居人の帰りを告げる。開いた扉の向こう、一瞬近くなる雨の音。すぐに遠ざかるのは彼がドアを閉めたから。次いで畳んだ傘を片付ける音。
部屋の中に踏み込んでくる気配、足音。それでも神無は瞳を閉じたまま。即座に小言を零されシーツを剥ぎ取られるかと思ったが、同居人はまっすぐキッチンに向かった。小言の代わりに響くのは雑多な物音。しばらく続いたそれはケトルを火にかける音で終わりを告げる。
「神無」
キッチンから控えめに声をかけられる。寝たふりに気付かれているなと思いながらも神無はシーツの中で微動だにしなかった。
しばしの間を置いて聞こえる呆れたような溜め息。そして近付いてくる足音。温もり。シーツを剥ぎ取ろうと伸びてくる手。を、捕まえる。引く。咄嗟に自由なほうの腕で上体を支えたのはさすが元『永遠の刺客』というべきか。いや、毎日のようにこんな動作を繰り返していればいい加減学習もするだろう。神無は相手の唇を掠め取った。
「Good morning, Akizuki.」
これもまた毎日の習慣と化しつつある。最初こそ抵抗していた同居人こと秋月だったが、最近は慣れたのか、あるいは何を言っても無駄と諦めたのか。不機嫌な面持ちで、
「……もう昼だ」
そう低く呟くのみだった。
ゆっくりと離れていく秋月を追うように神無もようやく身を起こす。窓の外に目をやれば相も変わらず、雨。もつれた前髪を掻き揚げれば、見咎めたのか声が掛かる。
「コーヒーを淹れてやる。その間に顔を洗ってこい」
見れば秋月の背中はキッチンにあった。テーブルに置かれた紙袋を漁っている。茶色い紙袋は雨に濡れてところどころ黒くなっていた。秋月が抱えて戻ってきたのだろう。
「この天気で買い物に行ったのか」
「お前がバターがないとうるさかったからな」
言われてみればそんなことを喚いた気もする。秋月の声に非難の棘が含まれているような気がして、神無は話題を逸らした。ついでに視線も窓の外へ戻す。
「雨は止みそうか」
「どうだろうな。朝からずっとこの調子だ」
それにこの国の天気は分からない。秋月がそう付け足すと同時に漂う芳香。紅茶もいいが起きてすぐはコーヒーのほうが目が覚める。日本にいたときはこの苦味が恋しかったものだ。
ベッドに腰掛けたままの神無に秋月は白いマグを差し出す。飲んだら顔を洗ってこいということらしい。神無はマグを受け取って、また視線を窓の外に戻した。
静けさが落ちる。聞こえるのは火にかけられたままのケトルがしゅんしゅんと蒸気を吐き出す音と、窓の向こうで雨粒が石畳を濡らす音だけ。神無も秋月も黙ったままだった。二人とも口数が多いほうではないことは互いに心得ている。沈黙が居心地悪いものではないということも。
それでも窓の外を眺め続ける神無に思うところがあったのか、珍しく秋月から口を開いた。
「……――雨が嫌いか?」
窓ガラスに映る自分の顔。眼帯は外している。柔らかく右目を手のひらで覆えば、秋月がガラスの中で僅かに表情を動かした。神無はそっと左目を閉じることで秋月を視界から締め出す。
「好きではないな」
特に石畳と石壁の町に降る雨は。
無意識にそう付け足して、ああ、神無はすとんと胸に落ちるものを感じた。なるほど日本は土と木の町だった。だから雨の日の記憶も遠かったのだろう。
ぎしりとベッドが鳴き、背中に僅かな重みを感じた。
「あき、づき」
「この町の雨は、冷たいな」
振り返ろうとした神無は秋月の声に動きを止める。視界の端に映るのは子供の頃焦がれて止まなかった綺麗な黒髪。触れ合う背からじわりと秋月の温度が伝わる。冷たい、などと言いながら、雨の中歩いてきたはずの秋月は温かい。
「高麗の里では、ずっと縁に座っていた」
乾いた土に水が沁み込む様がどこか不思議で、雨粒が瓦を叩く音が心地よくて、雨に煙る山々が何故か寂しくて。
「それに雨が上がったら、」
まだ青い稲が一層青く輝いて、山間に綺麗な虹がかかることもあった。何より庭にいくつもできた水溜りが空の色を映して、
「空が庭に下りてきたみたいだと、子供の頃は思った」
「……それは、見てみたいな」
背中が僅かに揺れる。秋月が頷いたらしい。
「次に日本に戻るときは、梅雨の時期にしようか」
ゆるゆると温もりが離れ、神無はようやく振り向く。秋月の控えめな笑みがあった。
お前にも高麗の里を見せてやりたい。
ちいさな声でそう零した唇を神無は柔らかく塞いだ。どう言葉にすればいいのか分からない、このふわふわと胸にわだかまる想いが伝わればいいと思いながら。
僅かばかりの驚きを含んでいた秋月の双眸がゆっくりと閉じられる。
雨の日はどことなく憂鬱になる。
その分、雨の日は秋月の温もりが近かくて心地よかった。
- 雨間、甘く哀しく愛しく。
2008.04.04
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