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ぎんいろエリュシオン

 随分と前から空気の匂いで気付いていた。
 それはコノエも同じだったらしく、ちらりと背後を歩く猫を振り向けば耳をピンと立て常より瞳を輝かせていた。ライの視線で自分が浮かれていることに気付いたようで、「なんだよ」と噛み付いてきたが。
 コノエの照れ隠しに微笑を浮かべつつ、ライは前方に顔を戻す。漂ってくる匂いが濃くなってきていた。しばらく進むと鬱蒼とした木々が途切れ、視界が開ける。
 ライは足を止めた。コノエもライの隣に並び、同じく足を止める。
 一面の花畑だった。色とりどりの花々が咲き誇り地平まで埋め尽くしている。その先には抜けるような青天が漠々と続き、時折吹く緩やかな風に舞う花弁を散らしていた。
 吹き抜ける風は静かに立ち尽くす二匹の猫も例外なく包み、髪やコートを靡かせていた。
「前は――」
 コノエがぽつりと声を零し、ライはそちらを見やった。コノエは目の前の景色を眺めながら穏やかに言葉を紡ぐ。
「祇沙って、灰色なんだと思ってた」
「灰色?」
 紡がれた言葉は風に乗って流れていく。まるで歌のようだとぼんやり思いながらライが問い返せば、コノエは頷いて空を見上げた。ふわりと髪が波打つ。
「『虚ろ』とか『失躯』とか……曇りの日も多かったし、明日世界が終わっても不思議じゃない、みたいな」
「……そうかも知れんな」
 当時は森も街も猫も、どこかどんよりとしていた。誰が見ても明らかなほどはっきりと世界が破滅へ向かっていれば当然だろう。日蝕で祇沙が闇に包まれたときなどはあのまま世界が終わっても不思議ではなかった。
 無論、そうなるように謀った猫がいて――その猫がいなくなって以来、世界は再び元の姿を取り戻しつつあるが。
「でも、やっぱり違ったな」
 空へと向けていた視線を下ろし、コノエはライに微笑みかける。穏やかに吹き抜ける風がコノエの三つ編みを揺らした。
 ライも口の端に笑みを浮かべた。地平を眺めれば通り抜ける風が銀の髪を靡かせ、隠れていた右目の眼帯を露わにする。
「いくら冬が長かろうがそのうち春が来る。枯れ草の中から新芽が生える。時期が来れば花が咲いて色が溢れる。そういうことだろう」
「…………」
「なんだ」
 無言で返すコノエをじろりと見れば、小柄な猫は驚いたような表情でこちらを見ていた。ライが眉間に皺を寄せ始めてようやくはっとし、まじまじとこちらを見つめ、やがて小さく吹き出す。
 小刻みに肩を震わせて笑うコノエに、ライはますます眉間の皺を深くする。
「何がおかしい」
「おかしいんじゃない、なんていうか――……俺は一色だけあればいいと思って」
「……一色?」
 コノエが顔を上げる。真っ直ぐにライを見つめ、笑みを浮かべたまま一言。
「銀色」
「…………安上がりだな」
「そんなことない。どれだけ祇沙に色があっても、俺には銀色がないと生きていけない」
 つまらないといった風情で返せば、コノエはきっぱりと答えた。柔らかな笑みを浮かべて、視線には期待を込めている。
 しばしコノエを見下ろしたライは、やがて花畑へと足を踏み出した。数歩進んでから、いまだ立ち尽くすコノエを振り返る。
「行くぞ、馬鹿猫。夜になる前には目的地に着きたい」
「……わかってる。馬鹿猫って言うな」
 苦笑めいた微笑みに背を向け、ライは再び歩みを進めた。

 二匹の猫の足跡を、色とりどりの花が静かに飾っている。
    (かがやく灰色 ぎんいろエリュシオン)
    2006.11.23x2007.10.18 up