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そらに散らせ憂鬱

 自分は凛とした銀色の猫の背中を追っていたはずだ。
 見失わないように。離れないように。
 なのに。
「……どうして一瞬目を離しただけではぐれるんだよ」
 もしこの場にライがいれば間違いなく「それは俺の台詞だこの馬鹿猫が」と言って冷たい眼差しと共に小言のひとつやふたつやみっつやよっつぐらいくれただろう呟きを零し、コノエは近くの壁にもたれかかった。こういうときは動かないほうがいいといい加減学習している。…学習するほど迷子になっている。コノエにとって藍閃の街は迷いの森よりよっぽど手ごわい。
 ライが見つけてくれるのを待つほかにすることもなく、コノエは空を仰いだ。抜けるような蒼に陽の月が輝いている。瞳孔が窄まるのを奇妙に実感し、目を眇めた。
 そういえば依然――世界が『虚ろ』や『失躯』に侵され、コノエが火楼の村で贄にされることに怯えていたようなときは、曇りの日が多かった。空を見上げてもこんな風に目を眇めるなんてことはなくて、ただ暗い空と沈んだ日々に溜め息をつくばかりだった――
(……俺、って、あのときと比べて、成長してるのかな)
 ぼんやりと疑問が湧きあがる。
 迷子になるたびにじわりと湧きあがる疑問だった。ほんの些細な、至ってつまらないことのはずなのに、底なしの不安に螺旋を描いて落ちていくような疑問。
 いまだに方向感覚が鈍いのは変わらないが、じゃらしの花を見ても我を忘れることはなくなった。戦闘においては言わずもがなで、あの頃よりうたえる歌も増えたし、賛牙としての能力だけでなく剣の腕も上がっている。
 しかし――それで成長したと言えるのだろうか。眠りの底でリークスの記憶と自分の記憶を混同したあげく、悪夢に飛び起きるようなこともあるのに。
(本当に成長してるなら、そんな夢見なくなるんじゃ――…)
「……ちょっと」
 街に溢れる雑音ではなく、明らかに自分に向けられた声が耳に飛び込んだ。もしかして通行の邪魔になっていたのだろうかと思い、コノエは慌てて壁から背を離した。空に向けたままだった視線も目の前に戻す。
 真っ先に飛び込んだのは、綺麗な空色の瞳だった。ライの瞳の青より濃い、蒼。
 空色の目をした猫は頭からすっぽりとフードを被っている。目元だけが布の隙間から覗いていて、穴が開くほどコノエを凝視していた。
「な、なに……」
 居心地の悪さに思わず耳を下げながら、コノエはおずおずと口を開いた。
 相手の猫はコノエより幾分身長が低く、コートを着込んでいるため分かりづらいがほっそりした体つきをしている。恐らく知り合いではないはずだ。そもそも知り合いなら黙ってこちらを凝視したりしない。……と、思う。そう知り合いがいるわけではないので分からないが。
 コノエの声を聞いているのかいないのか、空色の目の猫は視線を落した。訝しみつつコノエは視線を追う。先が茶色がかった白い鉤尻尾――言うまでもなくコノエ自身の尻尾――がある。
「……やっぱりそうだわ。あんた、あの子でしょ。眼帯ヤローと一緒だった」
「え?」
 台詞よりも発せられた声に目を丸くする。高い声は雄のものではない。
 猫がフードを取った。金色の髪がぱさりと揺れる。白い肌にそばかすを散らした、空色の瞳の金の雌猫。コノエより二、三才年上に見える。
 どこかで見たことがあるような――
「やだ、あれだけ派手に仕事の邪魔しといて忘れたの? 実際邪魔したのは眼帯ヤローのほうだけど」
「……ライが? ……ひょっとして、娼館の――」
 雌猫、ライが仕事の邪魔をした、となれば他に心当たりはない。
「マナよ、マナ。ようやく思い出したわね」
 空色の目の猫――マナは低く呟いて再びフードを被った。恐らく周りの目を気にしてのことだろう。『失躯』が収まり雌猫の待遇も多少改善されたものの、街中をうろつく雌は未だに少ない。柄の悪い雄が多い裏路地であれば尚更だ。
 だからこそコノエは首を傾げる。
「アンタ、なんでこんなところにいるんだ?」
「買い物よ、買い物。商売道具の。この辺りはいい店が多いのよね」
 言ってマナは戦利品を詰め込んでいるらしい袋の口を開く。コノエが覗くと色とりどりのビンやこまごました陶器らしきものが見えた。恐らく香水や化粧品の類だろう。
「……まだ娼婦として働いてるのか?」
「まぁね。薄暗い店にずっといても息が詰まるし、たまにこうやって気晴らしに来るのよ。……ところであんたこそこんなところで何してるわけ? あんたが用がありそうな店なんてこの辺にないと思うけど」
「……ライと、はぐれて」
 僅かに目を逸らしながらコノエが答えると、マナは一瞬思案し、にんまり、としか表現の仕様がない笑みを浮かべた。コノエの顔を楽しそうに覗きこむ。
 嫌な雰囲気にコノエは身を引いたが、すぐに背中が壁に触れそれも不可能となった。
「ライってあの眼帯ヤローのことよね? あれからも発情期は一緒に過ごしてるわけ?」
「なッ……そんなことアンタには関係ないだろ!」
「ふぅん?」
 コノエは思わず声を荒げるが、マナは相変わらず楽しそうな表情のまま、じろじろとコノエの頭のてっぺんから足のつま先まで眺める。再びコノエの顔に視線を留めてから、うんうんと何度か頷いた。訳が分からずコノエは低い声を出す。
「……なんだよ」
「雰囲気変わったわね、あんた。前は『仔猫ちゃん』って感じだったけど」
「前って……あれから何年経ったと思ってるんだ」
 時間が経てば仔猫も立派な大人の猫になる。当然だ。
 呆れたように答えるコノエに、しかしマナは「そうじゃなくて」と呟いて尻尾を振った。綺麗に毛づくろいされた尻尾はそのままコートの下で揺れる。
「雰囲気が、って言ってるの。そのまま大人になって落ち着いたんじゃなくて、一山越えたみたいな……うまく言えないけど」
「……いや……なんとなく、わかる」
「そう? ……ま、単に眼帯ヤローに中てられただけかもしれないけど」
 どうしてもライのことを引っ張り出したいらしいマナに何か言おうと口を開き、ふとコノエは動きを止めた。辺りを見回し耳を微細に動かす。コノエの行動を怪訝に思ったのか、マナも眉を顰めて辺りに目をやった。道に溢れる猫の向こうにコノエが見つけたものをマナもまた見つけたらしく、露骨に嫌な顔をする。
 二匹の視線の先には、首をめぐらせ『何か』を探しているらしい白い猫。
「……あたし、行くわ。あいつとは顔合わせたくないの」
「え? あ、あぁ」
 マナはそそくさと立ち去ろうとし、何を思ったのか足を止めた。先程コノエに見せた袋を探って何かを取り出し、コノエに押し付ける。さっきの店でおまけにもらったのと前置いて、
「仕事関係以外で雄と話すことあんまりないから、あんたと話せて楽しかったわ。これはお礼」
「そんな礼なんて……」
「いいから、もらっといて」
 白い猫――ライが『探しもの』に気付いたらしくこちらに向かってくる。コノエがそちらに気を取られている間にマナは小走りに駆け出していた。建物の角を曲がろうというところで、一言付け足す。その顔には実に楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「それ、『そういう気分になる薬』らしいから、今晩辺り眼帯ヤローに使ってみたら?」
「はぁ!?
 最後の最後にとんでもないことを言われた、気がした。
 しかし言い募ろうにもマナの姿はなく、コノエの視界には影が差す。ぎょっとして振り向けば案の定、陽の月を遮るようにしてコノエの闘牙が立っている。
「ラ、ライ……」
「この……馬鹿猫がッ……何度はぐれたら気が済むんだ、この馬鹿猫!」
「ご……ごめん……」
 二回も馬鹿猫呼ばわりされて一瞬むっとしたが、ライの様子を見れば本気で心配してくれていたことが分かる。なのでコノエは素直に謝罪の言葉を口にした。
 コノエの耳と尾がしゅんと垂れ下がるのを目にしたのか、ライは深く溜め息をついた。次いでちらりとコノエの手元に目をやる。
「……なんだ、それは」
「さっきもらった……」
「…………」
「ち、違う! いくら俺でも知らないやつから物もらったりはしない!」
 無言の視線にライの心の内を読み取り、コノエは慌てて付け足す。
 それでもライの懐疑の視線は変わらず、マナに押し付けられたものに改めて視線を落す。藍閃でも余りお目にかからない、硝子でできた小瓶だった。振れば中で液体がちいさな音を立てる。それだけならまだいいが、小瓶は毒々しいピンク色をしている。ライが不審の目で見るのも無理はない。
「……で、なんなんだ、それは」
「そ……『そういう気分になる薬』……」
「ほー……」
 俯いてコノエは答えたが、ライの視線が突き刺さってくるのを感じた。
 しばらく居心地の悪すぎる沈黙が続いたが、不意にライが身を翻した。今度こそは見失わないようにコノエも小走りで後に続く。
「使ってみるか」
「は?」
「あの雌が言っていただろう。……今晩辺り使ってみるか」
 唐突な台詞にコノエは目を瞬かせたが、振り向いたライの表情で言わんとするところを理解した。苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
「……アンタ、聞いてたのか?」
「聞こえたんだ。あれだけでかい声で喋っていれば嫌でも耳に入る」
「……最ッ低だ」
 呻いてコノエは掌を開く。
 毒々しい色の小瓶はそのまま落下し、地面に当たって砕けた。
    (憂鬱でなんていられない!)
    2006.11.8