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うたうとか、うたえないとか。

 ここのところずっと森の中で、藍閃に立ち寄るのは久し振りだった。軒を連ねる屋台に、祭り時ほどではないが溢れる猫の姿。久々に嗅ぐ街の匂いをゆっくりと肺に溜め、ゆっくりと吐き出す。それでもなんとなく浮かれる心を収めきれず、コノエは僅かに尻尾を揺らした。
「何をやってる」
 しかし数歩先をゆく自分の闘牙にそんな感傷はないらしく、呆れたような眼差しと声を投げてくる。ライは賞金稼ぎとして度々藍閃を訪れているのだから当然の反応だろう。それでもなんとなくむっとしてコノエは足を止めた。ライの尊大な態度は相変わらずで、多少軟化したもののライに対するコノエの反抗心もやはり健在である。 コノエが足を止めたため、仕方なくといった様子でライも足を止めた。
「また迷うつもりか、お前は」
「ぅ……ま、またって言うなよ!」
 滲み出す羞恥心を誤魔化すように声を上げる。方向感覚が鈍いところも困ったことに健在で、何度藍閃を訪れても未だに迷子になることしばしば。おかげでコノエはひとりで出歩くことを禁止されており、ライがひとりで行動する際はバルドの宿に押し込められている。我がことながら情けないことこの上ない。
「悪かったな、猫のくせに方向音痴で」
 コノエは自虐的に呟き、ついとそっぽを向いた。半端な長さの三つ編みが肩で跳ねる。
「…………」
 何か言われるかと思ったのだが、コノエの予想に反してライは無言だった。何も言わず、冷えた色の左目でコノエを見つめる。頬にびしびしと視線を感じる。
 コノエが居心地の悪い沈黙に身じろきしそうになった頃、ようやくライは静かに息を吐いた。どこか諦念の混じる吐息に反駁しようとした瞬間、ライが急にコノエの手首をつかんだ。思わず尻尾の毛を逆立てたが、コノエの様子など気にせずライはそのまま歩き出した。
 半ば引き摺られるようなかたちになり、コノエは声を上げる。
「おいっ」
「お前は手間が掛かるくらいでちょうどいい」
「え……」
 見上げたライの横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。コノエの視線に気付いたのか、ライがこちらを見下ろす。穏やかな笑みの代わりに、いつもどおりの偉そうな――向けられると条件反射的に殴りたくなるような笑みを浮かべていた。
「それにお前の方向音痴は今に始まったことじゃないだろう。とやかく言ったところで無駄だ」
「なんだよそれ」
「言ったとおりの意味だが」
 言ってライは視線を前方へ戻す。コノエは尚も言い募ろうと口を開き、しかしそのまま閉じた。
 これ以上コノエが何か言ったところでライに言い返されて終わりだろうし、何より一瞬見たライの笑顔に毒気を抜かれてしまった。なので大人しく力を抜いて、ライに引っ張られることにする。
 淀みなく進むライの足は、バルドの宿へ続く道を通り過ぎて裏路地へと入った。先に酒場で情報を仕入れておくつもりだろう。
 『虚ろ』『失躯』が収まり、街や猫の様子が明るくなっても、裏路地は暗い空気に満たされている。もともとこういう場所だ。他の村よりも明るく華やかな分、影は暗く濃い。コノエやライと同じく暗い何かを持つ者と、物と、情報の吹き溜まり。
 ライが足を止めた。コノエも足を止める。コノエも既に見慣れた目的の――吹き溜まりの象徴たる酒場の扉をライが開く。途端視界が白く濁った。相変わらず煙たい。
 煙草の煙に内心辟易するコノエを置き去りにライが店内に足を踏み入れた。一歩遅れてコノエも店内に踏み込む。
 店内が俄かにざわついた。
 あからさまな好奇の視線が注がれ、コノエは耳をひくつかせた。煙草の煙と猫たちのこの反応にはどうしても慣れない。しかも煙草の煙はともかく、好奇の視線はコノエとライが賞金稼ぎとして功績を挙げるたびに度を増していくのだからたちが悪い。
「少し待っていろ」
 周りの視線など一切気にしないらしいライに言われ、コノエは頷いた。ちらりと見ると、いつもと同じ黒いフードをすっぽりかぶった情報屋が隅のテーブルで呑んでいる。
 ライがそちらへ向かうのと同時に、コノエは近くの席に腰を下ろした。
 相変わらずちらちらと注がれる視線を感じる。ぴくぴくと耳を動かせば、密かな声が飛び込んできた。
「銀色……隻眼の…………イ……」
「じゃあ鉤……茶色……猫が賛牙……」
 断片的な単語にコノエは眉根を寄せ、尾でぺしりと床を叩いた。
 注目されるのはいっそのこと構わない。むしろライと並んで噂されるのはコノエにとって誇らしいことですらある。しかし――鉤尻尾、などと言われるのはおもしろくない。ライはコノエの鉤尻尾を気に入ってくれているが、やはりコンプレックスであることに変わりはないのだ。ライ以外の猫に鉤尻尾だと評されるのなら、尚更。
 苛立たしく思いながら尾を振っていると、目の前の席に一匹の猫が腰を下ろした。
「あんただろ? 彼の有名な鉤尻尾の賛牙ってのは」
 突然の台詞に、コノエはぴくりと耳を揺らす。目の前の猫に視線をやれば、下卑た笑みを浮かべていた。顔が赤らんでいることから、相当呑んでいるらしいと見て取れる。
 相手をするつもりのないコノエは黙っていたが、相手の猫はテーブルに身を乗り出し尚も言い募る。
「俺ァ見ての通り闘牙でな。つがいを探してるんだが……あんた、俺の賛牙にならないか?」
 あまりにも不躾な発言にコノエは内心あきれ果てた。この猫は絶対に酔っている。……かつて酔っていなくてもこういう話を持ちかけてきた猫がいるにはいるが。
 コノエはじろりと相手を眺める。筋肉質な体つきで帯剣しており、ところどころに古傷のようなものが見えた。おまけにわけもなく自信ありげな顔をしている。そこそこに経験を積んでいるが故だろう。
 だからといってコノエの返事が変わるわけもない。コノエに向かって「彼の有名な鉤尻尾の賛牙」などと言ったのだ。ということはコノエが既にライという闘牙のつがいであることを知っているはず。つがいのいる賛牙にこんな話を持ちかけてくるなんて非常識だし、不躾な態度も気に入らない。ついでに鉤尻尾と言われたのも事実とはいえ不快だった。
 そもそも、ライ以外の誰かのためにうたうつもりなどさらさらない。
「……断る」
 低い声で、しかしはっきりとコノエは答えた。
 視線にさっさと消えろという思いを乗せて睨みつけるが、相手の猫は気付くことなく、下卑た笑みを更に深くして、
「あんたに銀色の闘牙がいるのは知ってる。どうせ寝台でもそいつのためにうたってやってんだろ? 俺のほうがずっとうまくあんたをうたわせてやれると思うぜ?」
「なッ……!」
 言葉の意味を理解し、コノエは頬に朱を上らせた。相手の下品な台詞に怒りを覚え目がくらむ。一気に反り返った尻尾の毛が逆立って膨らんだ。
 コイツは、なにを言ってる!
「なぁ、どう……」
 無神経にもまだ言い寄ってくる相手の猫の耳元で、風が高く啼いたのはその時だった。
 切り裂かれた空気が一瞬遅れて猫の髪を揺らす。揺れる髪の下、無防備な首筋に白銀の刃が当てられていた。刃は首の薄皮を裂き、細く血の跡を描いている。
 猫の背後から突き出された刃の先へと視線を辿っていけば、いつのまに戻ってきたのか、短剣を構えるライの姿があった。
「ライ……!」
「そいつは俺の賛牙だ。つがいが欲しいなら他をあたれ」
 ライは構えた刃のように、冷たく鋭い目で猫を見下ろしている。首筋に触れる刃にようやく気付いたのか、猫がひっと声を漏らした。一気に酔いも冷めたのか、小刻みに震え始める。そこでようやくライは刃を収めた。
「それに――」
 恐怖に引きつった顔で席を立ち、自分から身を引く猫にライは冷笑を向けた。ちらりとコノエを見、言葉を続ける。
「そいつは俺以外にうたわんしうたえん。戦闘中でも、寝台でもな。わかったらさっさと立ち去れ」
 静かな怒気を潜ませた声に圧され、猫はばたばたと店を出て行った。ライはフンと鼻を鳴らしつまらなさげにそれを見送り、コノエを見下ろす。
「用は済んだ。出るぞ」
「ラ、ライっ……!」
「なんだ」
 本気で訝しげに眉をひそめ、ライが答える。コノエは怒りだか羞恥だかよくわからないものに震えながらライを睨みつけた。
「なんだじゃない! い、今のっ……」
「事実だろう。それともお前は俺以外の猫にうたえるのか?」
「ぅ……」
 返されてコノエは言葉に詰まる。賛牙としての才能に気付いて以来ライ以外にうたったことはないし、おそらくうたえない。それはライにも数年前の時点で告げている。まして寝台で『うたう』なんて、ライ以外を相手にできるはずがない。
 沈黙したコノエに肯定を見て取ったのか、ライは声の腕をつかんで椅子から立たせた。そのまま店の出入り口へと向かう。用が済んだのなら酒場に長居する必要はない。バルドの宿で疲れを癒すのみだ。……癒すのみだが、コノエは嫌な予感に捕らわれる。
 ライが押した扉がギィと軋む。微かな音の影で、ライは楽しげに呟いた。
「ここのところ忙しかったからな。今夜は久々に『うたって』もらおうか」
 予想通りの台詞に、コノエの耳と尾は力なく垂れ下がった。
    (愛しいあなたのためのうた)
    2006.11.4