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液晶画面の中で凛が笑う。背景はプールではなくスタジオ、画面端にイケメン競泳選手とかいう文字が踊っている。好みの女性は、とお決まりの質問が聞こえたあたりで、遙は画面に背を向けた。 女性なら妹ですね。茶化した声の裏側に気づいている人間はいるだろうか。
遙はキスマークを残したがる。水泳をやっている以上許せる場所は限られているわけで、凛は今日も着替えの最中、己の足の内股に視線を落とした。溜息を拾うように指先で唇を辿り、その指で痕に触れる。泳いでいる時も遙が傍にいるようで頼もしい、とは絶対に言わない。
ボタンを掛け違えたような感覚。
凛、りーんと呼ぶ声が遠くなって虫の音になる。金魚の泳ぐ桶の前にしゃがんでいた凛は立ち上がり、声を探して屋台の隙間を走り抜ける。走る。走る。港まで走って、黒く荒れる海に立ち竦む。水際に真琴が立っている。凛を振り返る。
魚は人肌でも火傷してしまうらしい。もし自分が、例えばあの金魚だったなら、これで死んでしまうのだ。
真琴は再び熱く煮えるコーヒーを啜った。都会の方で有名な店の豆らしい。淹れてくれた凛が、どうだ、という顔で待っている。うん。
「死んでもいいぐらい幸せ」
黒い革紐に牙みたいな銀細工が下がったネックレスは、真琴が選んでくれたものだった。凛は手中で紐を弄び、手を放す。足元でぬるくのたうつ水面に呑み込まれ、すうっと寄ってきた遙に拾われる。ショーのイルカのようだった。
「……なんだこれ」
「お前にやるよ」
プールサイドで泣いている子どもに、戸惑った表情の子どもが手を伸ばす。その手は何も掴むことなく、ふたりの子どもはすれ違う。場面がくるりと一回転。プールサイドで泣いている子どもを戸惑った表情の子どもが抱き留める。ふたりの表情がくしゃりと笑んで崩れる。
できるだけ避けていた。けれど長い風邪を引いていて、ずっと部活に出ていないと聞いたから、心配になって。
「風邪は」
問う声が渇いている。遙は淡として答える。
「そういうことにすれば、凛が来てくれると思った」
しゅっと布を絞る音がする。手足が動かない。
モデルみたいな身長。下がり気味の瞳に甘い顔立ち。それらがまとめて凛を振り向く。
「ええと、凛?」
鉄の棒で殴られたような衝撃。凛は呻いた。
「……合格」
この外見に気遣いのできる性格。俗に言う理想の彼氏。そして残念なことに、凛は真琴が好きだった。
「何が食いたい」
吐息だけの声が酷く辛そうに答えた。
「サイコロステーキ」
「……風邪なんだろ」
冷却シートの下、真っ赤に溶けた瞳が不機嫌に歪んだ。ささみ入りの粥を提案すれば渋々頷く。風邪引きの凛はやたらと甘えたがりだと、恐らく遙だけが知っている。
隙間なくぎゅうぎゅう詰めの鉄の箱に入り込み目的地まで人に揉まれ揺れる。息苦しさにネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ外した。ふと満員の中器用にペットボトルを傾ける姿を認め、真琴は何気なく、筋張った喉の隆起を追った。赤い襟足が滑っている。目を見開く。
つるりとすべらかな白にやわくぬるい肉が差し込まれる。雲の欠片はただの白濁になって取り込まれ、飲み下される。あの肉の隆起と温度を今すぐ貪りたいと思う。
ソーダの青がぼたりと落ちた。温い水気にはっとする遙を、ソフトクリームをすべて腹に収めた凛が笑った。
くたびれた駅員に切符を渡して改札を抜ける。鄙びた駅舎の前には妹がいて、こちらを認めて顔を上げた。駅も妹もまるで変わっていない。凛だけが老いた駅員のように疲れ果てている。妹の喜色を滲ませた声に、凛は今年も言葉を飲み込んだ。夢は重く臓腑に積もっていく。
赤い頬に苦しい呼吸で、錠剤はダメ、苦手なんだ、などとのたまう。粉薬はと問えば苦いと我儘を捏ねるし、シロップをちらつかせれば子供じゃないと偉そうに答える。終いに凛が耐えかねて座薬を取り出したところで真琴は錠剤を手に取った。座薬もありだと思ったのに。
眇めた若草色にちいさな真っ黒い子猫だけが映っている。凛は猫と、猫を見つめて微笑む男を視界の真ん中に据えている。懐こくじゃれついてきた猫をふたりであやしていたはずなのに、今はもうひとりきりだ。獣を愛でる男が面白くなくて、みゅう、と小さく拗ねてみる。
マナーモードに設定した携帯電話が鳴る筈もない。バックライトが落ちる度に電源キーを押して、待受画面の時計が一秒を刻む動きだけを見つめている。
薄暗がりで瞳に光を散らす凛に自分から連絡すればいいのにと思いながら、それでも知らないふりで似鳥は眠りにつく。
凛は金網の向こうの桜を見上げる。同時にピロン、という気の抜けた音が響いて振り向いた。遙が珍しく携帯電話を構えている。
「何してんだ」
「永久保存だ」
「……ンなことしなくても、来年も一緒に来てやるよ」
遙の頬が桜より濃く染まる。勝った、と思った。
手書きのエアメールを貰うよりもテレビの生中継を見るよりも、やっぱり実物のほうがいい。この前凛が帰国したのはいつだっただろう、テレビ局やら水着メーカーやらの名刺を整理していた背中を思い出す。プロの世界を捨てたのは遙自身なのに、この遠さが寂しいと思う。
お会いできて光栄です、松岡選手。差し出された小さな四角い紙には凛の幼馴染の名前が印刷されている。正しい作法は知らないので適当に受け取った。目の前のスーツの男は凛の所作を咎めることもせず、完璧な営業スマイルを貼り付け続けている。何の冗談だ、これは。
あの松岡選手に熱愛発覚!? チープな一文を打ち込んで記者は溜息を吐く。強化合宿に押しかけておいてこのゴシップ。しかも選手界隈では随分前から周知の事実らしい。デジタルカメラのすべての写真には、さも当然の顔で松岡選手の隣をキープする男が写り込んでいる。
曇り空に白い大きな旗が上がる。旗には難しい漢字が並んでいて読めないけれど、漁の成功を祈る祭だと祖母から聞いた。
「あれは怖くないのか」
「うん」
僕が怖いのは海だもの。真琴は白い旗よりずっと遠く、高波の海を見つめている。遙は赤い子供の影を見ている。
ハル、昨夜やったゲームさあ。ハル、この曲聴いてみてよ。
イヤホンの右と左を分け合う真琴と遙に凛は苛立ちを覚える。遙がどんなゲームをするとかどんな曲を聴くとか、凛は知らない。ひとつの生き物のように寄り添う二人に割り込むこともできない。凛は結局一人だ。
「今日の世界水泳、録画しといて」
トースト、目玉焼き、スープとサラダ。遙の用意した朝食を詰め込んで凛は早々に出勤の準備を始める。慌ただしさの中、あ、と落ちる声。
「ハル」
差し出されるリングの通ったチェーン。遙は密やかに笑って留め具を嵌めてやった。
鈍く列車が動き出す。固いシートに背中を預け、凛は膝の上の小さな箱を開ける。中には綺麗なタルトがひとつ。箱を差し出した母と妹の指は絆創膏だらけだった。掴んで頬張れば少し塩っぱい。甘いものは苦手だからちょうどいいけれど、止まらない涙だけは煩わしかった。
parallel
朝食の白飯は半分以上残ってしまった。凛はこん、と小さく咳をして、うっすらと汚れた窓硝子の向こうを見つめる。みずみずしい緑を背に白い鳥が下りてきたのはその時だった。今日も足に小さな巻紙を括りつけている。凛は白い頬をほんの少し紅潮させて窓を開ける。
砂の国には希少な水薬も、高価な香も、全て凛を昂らせるためだけに用意されたものだ。なのに頭の芯だけはどうしても馬鹿になり切れない。半端に煽られ理性だけが責められる。こんな時間、人生、早く終わってしまえと思うのに。手首を飾る蒼玉に、凛は叶わぬ夢を見る。
少しずつ世界が遠ざかる。
初めに匂いがしなくなった。次に味がなくなった。音と光は少しずつ鈍くなっている。指先の感覚も覚束なくて、歩くこともままならない。
「凛、見えるか」
耳に触れる遙の吐息と、やさしい声と、夏の太陽だけはまだ、凛の傍に残っている。
over
久しぶりにジョッキで飲んだビールは旨かった。焼いた肉は言うまでもない。凛がレジ横に置かれた飴を遠慮なく取り上げている内に会計はこの男が済ませてしまっていて、だから上機嫌で、公園で風にでも当たろっか、なんて言葉にも頷いてしまった。
「凛、覚えてる?」
こいつは酔っているのだろうと思った。酔い覚ましに立ち寄って、少し話でもするんだろうと思っていた。昔を懐かしむぐらい、今の凛ならば許容できる。機嫌だっていい。なのに、置き去られた縄跳びをこの男は取り上げて、通りからは見えにくい鉄棒まで凛を引っ張っていって、腕が、ぎちりと塩化ビニールが鳴って、
「真琴、おい」
「昔、クラブの帰りにふたりでさあ」
公園で。ふわふわとした声なのに、目元には剣呑な光が浮かんでいる。凛は今更自分が逃げられないことを悟った。お互いに忘れたふりを通していた記憶が這い登る。
男子校で全寮制ともなればそういう本だとかDVDだとか、年齢はどうしたという疑問を置き去りにあちこちで回覧されるわけで、さて、どうするべきかと御子柴は考える。液晶画面の向こうの女優はわりと好みだ。下半身も疼いたりする。生理現象なので仕方がない。
心を決めてベルトに手をかけたところで隣から頭を叩かれた。
「俺がいるのに何なんすかアンタ」
恋人はオカズにしない主義だと伝えるべきだろうか。普段のふてぶてしさとは打って変わって涙目で睨んでくる松岡があまりにも可愛いので黙っておきたい。
R
※R-18:高校生を含む18歳以下の閲覧はご遠慮ください
金星のちらつく藍の空を黒い群れが横切って、家に帰ろうと凛を誘う。帰りたい。早く。
鴉の声を遮って呻き声。蛙の潰れたような醜い声。夜目にも白い凛の内腿に、もっと汚らしく白いぬめりが放たれる。ところどころ赤い飛沫の散る下肢を、凛は光のない目で見ている。
誰にでも優しい、お兄ちゃん気質の、頼れる部長が。ベッドサイドの照明に不健全な汗を散らして獣の体で喘いでいる。暗闇では猫はみんな灰色。凛は真琴を見上げて笑う。三日月の唇からは性のしたたる声だけがこぼれる。汗、涙、涎、鼻水、お互いも混ざり合って汚れる。
カーテン越しの朝ぼらけに、荒く息を吐きながら遙は凛の肩に鼻先を埋める。カルキの匂いがする。くつくつと低い笑い声に凛の胸が震えて、触れ合う肌を汗が伝った。
「今日、家から出ねぇっつってたのに」
遙の頭を抱き寄せて凛が囁いた。
「プールの中みてーだな」