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暖色に照る屋台の中に鮮烈な赤を見つけた気がした。電球などではない、現象として存在する赤。纏う水を一瞬で白い蒸気へ変えてしまいそうな炎。瞳に照り返して、遠い名前を舌先に乗せる。まさかと立ち上がる。瞬間、テントの梁に頭をぶつけた。隣の真琴が目を剥いた。
新月の夜、猫に餌をやる遙の背中を眺める。と、月の代わりに丸いものが突き出された。
「お前の妹の忘れ物」
リップクリームらしい。遙は何故か丸いキャップを捻った。甘い匂いに目を眇める間に左手を取られ、薬指にぐるりと線が引かれる。見えない輪が嵌められた。
春霞の空から遅れてきた真琴へと視線をやる。朝のアニメ見てからじゃないと家出ないって聞かなくて、というのは幼い弟妹のことだろう。先に立って歩けば、背後で小さな声。
「どうしてるかなあ」
桜並木を見上げているのだろう。誰のことか、なんて聞くまでもない。
見えるところに残された痕を揶揄われ、咄嗟にお守りですと答えた。流行らしい、凛が見ているドラマの台詞を借りたのだが、惚気かよと散々叩かれた。惚気でも嘘でもない、この痕があるだけでいつもよりずっと水を感じられそうに思う。勝ってこい、凛の声が聞こえる。
明星を仰ぐ。余程の悪天候でなければ毎朝毎夕ランニングは欠かさないから、快晴の今日も紫色の空にあの星を透かした。青い水の星になり損ねた、燃える黄色い双子星。まるでどこかの誰かのようで、だからこそ願掛けのように勝利を誓う。そうして凛はそっと自嘲する。
夏休みの予定と題を振って、日付と内容を書き殴っていく。あんまりにもぐちゃぐちゃで、あっちこっちが線で繋がったそれ。覗き込んできた妹はすごろくみたいと半ば呆れ、笑っていた。そう、これは凛の今年の夏の模型だ。ゴールは水泳大会。あの速い奴はいるだろうか。
数人の子どもたちが傍を通り抜ける。ふわふわとシャボン玉が尾を引いて、真琴と凛の間を漂う。虹色のシャボンの向こうで凛が何事かを呟いた。恐らく英語だった。真琴には聞き取れない。ただ、二人の間でシャボン玉が割れたから、別れを告げられたことだけは分かった。
式は日曜日だとかこれで終わらせるつもりかとか。罵られたってこれが凛の精一杯だ。気持ちを言葉にするのは苦手だった。
見かねて遙が呟く。
「凛の好きに書けばいい」
凛は頷いて、
「どうせ泣いて言葉にならないから」
続く言葉に憤慨しかけ――押し黙った。
遙から不定期に手紙が届く。手紙なのに綴られているのは「元気か」の一言だけ。代わりにどことも知れない国の、海の写真が一枚添えられている。世界中を回る遙の青い写真には、常に優しく笑う赤い影が映り込んでいる。真琴はそれを何よりも嬉しく、少し寂しく眺める。
ギラギラとした瞳が、刃先が、見下ろしてくる。海から揚げられた時点で自分の将来は決まっていたのだ、ならば恐れることはない、食してもらえるだけ幸せだ。そう思い込むのだがやはり怖いものは怖い。刃先を握る手が過度に緊張して震えていることも相俟って、余計に。
「何だこの切り身。ぐずぐず」
「るっせーな、肉と違って骨があっから仕方ねえだろ!」
ぼろぼろと身を崩す鯖に、遙は哀れの視線を注いだ。一度手ずから捌き方を教えてやるべきだろう。とりあえずこの鯖はどうにかして、せめて船場汁あたりで食さねばなるまい。
「真琴も推薦で受ければよかったのに」
早々に希望大学への合格を手にした幼馴染の一人、現真琴専属家庭教師はぽろりと呟いた。真琴は英語は綴る手を止め、一瞬沈黙。そして眉尻を下げて呟く。
「俺は、凛やハルとは違うから」
不機嫌そうな顔に真琴はただ微笑む。
携帯電話の連絡先にメールを送れば、アドレス不明で返ってきた。ならばと手紙を書いてみれば住所不明でこれも返ってきた。首を傾げる真琴の前に、返事の代わりに遙が現れた。
「凛はもういないぞ」
菜の花のうつくしい春だった。凛は金木犀の頃いなくなったのだ。
小学六年の夏の大会。母さんは仕事で、俺は一人バスに乗り少し遠い会場まで行った。帰りにトロフィーを抱えてバスを待っていると、見知らぬ女が優しい顔で近づいてきた。一緒にケーキでも食べない、と執拗に誘われ、その後。凛はタルトを前にそんなことを思い出した。
箸を構え、凛は菜の花の辛子和えに曖昧に渋面を浮かべる。掃出窓の向こうは霞空。凛が帰国して一年経つのかとふと思い、来年もこうしてたいなと遙は呟いた。凛は首まで薔薇色に染める。それから二人共黙りこくってしまい、テレビから流れる流行歌だけが居間を埋める。
炬燵の中で押し合い圧し合いお互いに収まりの良い場所を探し、机の上ではひたすらミカンの皮を剥いで食す作業に没頭する。
「酸っぱい」
「そうか?」
「そっち一口寄越せ」
「ん」
凛が手ずから剥いた房を差し出してくる。遙のちいさな、甘酸っぱい幸せである。
縁側に腰掛けて、素足をぶらぶらと晒して、爪先には野良猫たちがじゃれついている。天には月も星もなく、夜空の下、まっくろい海だけがうねって潮騒を打つ。
人を遠ざけて沈む空気を遙は無遠慮に侵し、犯す。黙って後ろから腕に囲えば、凛はそっと頭を預けてきた。
感傷を刺す桜並木ならいくつも抜けた。凛は淡い花弁とは縁遠い、青く厚い葉を見つめる。道中ホームセンターで購入したスコップを手に、もう片方の手で懐中電灯を点ける。植木の根本には罅割れた土が横たわっていて、意図せず水を含んだときのように鼻の奥が痛んだ。
日曜午前、岩鳶での合同練習後。プールサイドに腰掛けた凛が、午後は休みなんだけど、と呟く。遙は水面にぷかりと浮かんだままそれを聞く。凛の爪先が水面を蹴る。水の粒が弾け、小さな虹が太陽を横切る。昼飯は目玉焼きでもいい、凛はまた鯖かといつもうるさいから。
ローテーブルに置かれたグラスに薄く灰の浮いた水が揺れ、朝日を七色に殺す。水中に短くなった煙草が飛び込めばノースプラッシュ。俺の部屋では吸うなっつってんのに。未だベッドに伏したままの凛には憤りをぶつける気力もない。文句を呑んで広い背中を睨みつける。
大きなガラス窓越しに、流線を描く機体が横切った。一瞬差した影に紛れて遙が横に並ぶ。
「凛、搭乗時間」
「おう」
羽織ったジャージは揃い、行き先は同じ、荷物検査後薬指に嵌め直したリングもペア。見たことのない景色だ、未来は見えないものだとつくづく思う。
Rin & Haruka & KAMISAMA
罰当たり、と、ちいさく罵る声。え、と見開いた目の高さがどんどん低くなっていく。鳥居の下で固まる凛に、石段を駆け上ってきた遙が追いつく。
「……凛?」
疑問に揺れる声だった。応えるように恐る恐るかざした手は椛のようで、服の袖口がずるりと大きく滑った。
椛の手を見つめる凛のあたまに声が響く。老翁とも老婆とも、少年とも少女ともとれる奇妙な声。
三日後、金星が浮かぶまでに反省を示してご覧。さもないと一生その姿だよ。
「凛、凛なのか」
遙には聞こえなかったらしい。突然の理不尽に凛は堪らずしゃがみ込んだ。
目の前でゆらゆら揺れている子どもは凛らしい。少し話せば中身が十六歳の凛のままだとは分かったが、考え疲れ果てた挙句眠気に誘われる姿は本物の子どもにしか見えなかった。
とにかく非現実であっても腹は空くもので、遙は凛のために珍しく肉を用意してやっている。
肉をメインにした夕飯でも凛の表情は晴れなかった。
「体が変な感じ」
遙が差し出した煎餅を齧りながら呟く。心なしか煎餅まで湿気ったような力ない音を立てていた。
「俺、もう泳げねぇのかな……」
幼い凛が泳げないと口にする。遙はこれまで以上に動揺した。