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拝啓、愛する君へ

 ほんのわずか、触れるか触れないか。
 指先に灯る熱とか、沁みこんだ絵の具の匂いとか、そういった優しくて儚いものが、例え触れずとも凛の意識をそっと眠りから掬い上げてくれる。
 ゆるゆると持ち上げた瞼の向こう、ぼんやりとした光の中に、すこし筋張った手のひらが見えた。うすくコバルトブルーを落とした光は夜明けの直前を告げていて、手のひらはためらいがちに凛の額の上をうろうろしている。
 おかしくなって自分から額を押しつけてやれば、手のひらは驚いたのだろう、ぴくんと小さく跳ね上がった。なお頭を寄せればゆるゆると脱力して、観念したみたいに、けれどそっと凛の髪を梳いて撫でてくれる。
 泣きたくなるぐらい心地がよくて、凛はうすく開いていた瞼をそっと下ろした。
 これはずっと、凛を救い、守り、慈しみ、育ててくれた手だ。
 変わらない絵の具の匂いと、昔は冷たいと思っていた肌の温もりと、だんだんと浮かび上がってきた骨と血管に、わずかずつ刻まれ始めた皺と。
 そういう、愛おしくてたまらない手だ。
 一度、酷いかたちで振り払ってしまった――けれど何もかも捨てて繋ぎ直した、これからの未来、ずっと先、最後のさいごまでそばにいる人だ。
 ずっと、一生、凛だけを描き続けて、愛してくれる男だ。
 離れてゆく手のひらに、もう、不安はない。閉ざしていた瞼をすうっと開いて、そして青を溶かした水みたいな世界には間違いなく彼がいる。
 凛の人生のすべてである男が、夜と朝のあいだの海で微笑んでいた。
「おはよう、凛」
「……はよ、ハル」
 答えた声が思った以上に掠れていて、ちょっとだけ目を見開いた。
 寝起きすぐだから、というだけではない。困惑はほんの一瞬のことで、すぐに理由に思い至った。昨夜は、いつもより激しく声が出ていた、かもしれない。
 白い月光が照らす藍深い時間のことを思い出すと、今触れている指が一気に、色を孕んだもののように感じられて背筋が粟立った。
 今は、海の底のような世界から浮上する時間だ。昨夜の火照りを振り払うように顔を上げ、ゆっくりと身体を起こす。シーツの水面をさらさらと素肌に引きずって、それから、下半身に鈍い痛みと倦怠感がある。
 この感覚すら、幸せなもののひとつなのだ。
 白いシーツを肩から羽織って、ベッドの上に座り込む。遙はしばらく前から起きだしていたらしく、前を開いたままの白いリネンのシャツにくたびれたブルーのジーンズを身につけて、ベッド横に置いたスツールに腰かけていた。それからスツールの脇には、ベッドに直角になるようにしてイーゼルが立てられている。
 部屋の中はすべて、淡いバイオレットに染まり始めている。凛の纏うシーツも、遙のシャツも、まだ何も描かれていないキャンバスも。カーテンのない背後の窓を振り返れば、少しずつ熱に目覚め始める世界が広がっていた。
 水平線の向こうに赤がにじんでいる。ゆったりと寄せて返す波の音が、凛を手招いて呼んでいる。
「おれ、ちょっと歩いてくる」
「わかった」
 遙がほほえんで木炭を取り上げた。しばらく絵の世界を泳いでくるのだろう。
 まだ白い海に描かれる自分を夢想して、凛もちいさく笑った。そこらあたりに放り投げられていたシャツを適当に引っかけて、カーゴパンツに足を通す。どんなに適当な格好をしていたって、見咎める者はいない。この世界には、凛と遙のふたりだけだ。
 裸足のままベッドルームを出、キッチンの小さなドアを開ける。
 そこには白い砂浜と、青い海と、赤の滲む菫色の空だけが広がっている。
 一歩踏み出す。じんわりと温かい砂が足裏をくすぐる。こそばゆさから逃げるように右足を持ち上げて、左足を下ろして、また右足を下ろして、その繰り返し。振り返れば、踊るみたいに凛の足跡が続いている。
 白い壁に、青い屋根の小さな家。ベッドルームとキッチンと、あとは小さなシャワールームだけの、小屋と呼んでも差し支えなさそうな棲家だ。
 たぶん季節ひとつ分を過ごした、ふたりの場所。
 ちいさいから、すごく近い。一緒にいる時間はほとんどずうっと隣で、くっつきあうみたいにして、夜は抱きしめ合って眠るから、たぶん大きくなくてもいい。こじんまりとした小屋はまるで自分たちのために建てられたようで、凛はとても気に入っている。古ぼけた感じも、昔ふたりで暮らしていた家を思い出させてくれて、好きだ。
 後ろ向きにしばらく歩いて、それからくるりと海に向き直る。足の裏で掻き混ぜられた砂が一回転した軌跡を描いて、凛はそこから一足飛びに、海に向かって駆け出した。
 足裏が体重を受けて砂に沈むたびに、どくん、どくんと、下肢が鈍く痛む。痛みも、跳ね返る飛沫も厭わず、凛は水際に飛び込んだ。
 ふっと、笑う。身体が軽い。
 ちかちかと、薄い陽射しを受けて宙を舞うしずくが光っている。眩しい。
 海の向こうの赤が広がって、真ん中から光が生まれている。振り返れば、砂浜に凛の不規則な足跡が見える。初めは少しずつ、途中でねじれて、最後には飛び上がるみたいに水に向かうそれ。光の中を進んでいる。
 ひとしきりばちゃばちゃと水を跳ね上げる。泳ぐ、には、まだ少し、身体が目覚めていない。沖の方へ向き直れば、じわじわと、あの圧倒的な熱を抱いた天体があまねく世界を照らしている。海の底の色が、空から引き下がっていく。
 この国でも、太陽は東から昇る。夜の空は全然ちがって、南に十字が見えるのだけれど。
 かつて凛を呼んでいた海の赤は、西に沈む光だ。今、凛を包む光は少しずつ白へ色を変えて、やがて空も淡い水の色に変わっていく。
 少しだけ、泣きたくなった。
 幸せだけれど、置いてきた過去を思うと少しだけ胸が苦しい。
 りん、と呼ぶ声が聞こえた。青い屋根の家の前に、遙が立っている。両手に何かを持つ格好で、それが何かを知っている凛はまた、水を跳ね上げて遙の元へ、陸へと上がる。軽く、走るようにして、足跡を遡って上書きしてゆく。
 遙は右の脇にスケッチブックを挟んで、両手に白いマグを持っていた。ふわふわと、これもまた白い湯気が上っている。
 遙の淹れたコーヒーが美味しいことを知ったのは、今のような暮らしを始めてからだ。昔は凛がインスタントを差し入れるぐらいだったし、この苦味も渋み悪くないと思えるぐらいの時間を生きてきたから。
 両手でカップを受け取って、砂の上にそのまま座り込んだ。遙も隣に胡座をかいて座り込む。スケッチブックはそのまま砂の上に置かれた。
 遙の淹れてくれたコーヒーに、凛はふーっと長く息を吹きかける。もわりと視界が白くなる。遙は凛のしぐさに目を細めながら、そのままカップに口をつけていた。やっぱりまだ、遙の方が大人だ。大人と子どもという距離はとっくに通りすぎてしまっているけれど。
 カップの中の黒い水面に、ちょっとだけ口をへの字に曲げた自分が映っていた。
「……笑うなよ」
「なんでだ」
「だって、」
 言い募る前に、遙に遮られた。カップを砂の上に置いた遙は、凛の頭を片手でかかえて抱き寄せてきた。
 絵の具の匂いがする。コーヒーの匂いも。それから、そういうものも全部引っくるめて、遙の匂い。
 もう随分と嗅ぎ慣れた匂いに、凛の身体の真ん中が騒ぎ出す。どくどくと跳ね始めた心臓は飛び出す前に塞がれた――唇に、唇を。
 ふ、と鼻から息が漏れる。震える唇を割って、にゅるりと、遙の舌が入り込んでくる。口蓋をなぞって、歯列をくすぐって、とんとんと、舌の先っぽの方をノックされる。ゆるゆると応える。
 苦くて渋い味がした。コーヒーの味。むかし、怖くて仕方のなかった、大人、みたいな味。
 それももう、ふたり分の唾液で混ざって薄くなってゆく。たらりと口の端からこぼれて、首筋にまで伝っていくのも不快ではなかった。
 息が苦しくなって、ふう、ふう、と荒い息が鼻から漏れだす頃に、遙が凛の手の中からマグカップを取り上げた。自由になった手で遙のシャツに縋りつけば、後頭部を支える手はそのままに反対の腕で胸の中に囲われる。
 身体の大きさはもう、ほとんど大差ないと思うのだけれど、いつまで経っても遙は凛を包み込んでくれる。心地がよくて力を抜けば、背中を抱いた手が凛の背骨を数えるように下に向かって辿り始める。それから腰を撫でて、カーゴパンツの隙間から指の先が潜り込んでくる。
 電流が走ったみたいに、腰が跳ねた。甘い痺れが凛の身体をくたくたにしようとするけれど、ぎゅっと遙のシャツを握って耐えた。
 絡みついて追いかけてくる舌を振りほどいて、ぷは、と息を吸う。右手をシャツから離して、いやらしい悪戯をしかける腕をぱしりと叩いた。
「はぁる、コーラ」
「ダメか……?」
「んっ……朝からは、だぁめ、おれ、仕事あるし」
 いい歳をして、子犬みたいな声で、色っぽい吐息で凛の耳をくすぐったって、だめなものはだめなのだ。
 ほんの、ほんの少し、凛にだけわかるぐらいに遙が唇を尖らせる。おかしくて、けれど笑うとますます拗ねるから笑いは噛み殺して、とんがった唇のてっぺんにちゅっと口づけた。
「続きは夜に、な?」
「…………」
 返事はなかった。代わりにぐるりと身体を回されて、子どもっぽいしぐさで、まるでぬいぐるみみたいに腕の中に囲われる。遙の両足の間に座り込むかたちになって、今度こそ耐えられずに笑い声を漏らせばぎゅうぎゅうに抱き締められた。ぐりぐり肩口に額を押しつけられる。
 腹に回された腕を軽く叩いて、ゆるくほどかせる。右腕だけは頑固に譲らなかったので、素直にだらりと垂れ下がった腕を左手で取って、凛は遙の手の甲の上から自分の左手を重ねて、にぎにぎと握った。かつかつと、微かな音がする。
 お互いの薬指に、シルバーのリングが嵌まっている。ちょっとは年季が入ったけれど、まだまだふたりを繋いで日の浅い銀色は白んだ朝陽の中、控えめに輝いている。
「次、」
 肩口で、遙が囁いた。
「ん?」
 波の音で消えてしまいそうなそれを、拾い上げる。ゆっくりと持ち上がっていく遙の頭の代わりに、凛は自分の背中を遙の胸に預けてゆく。
「次は、どこの国に行く」
「……そうだなあ」
 凛への質問だけれど、それはもう、決まっていることだ。
 凛はこの、青い屋根の家と、それから今の仕事――ここから車で一時間ほどのところにあるちいさな町の、町営プールのインストラクターだ――が気に入っているから、ちょっとだけ寂しいけれど。
 そういうものはとうに、夕暮れの赤が誘うちいさな港町に、置いてきた。
「ハルと一緒なら、どこでも」
 だから、こう答える。
 どこでも、変わらない。ふたりでいて、こうやって身体を寄せ合って、抱き合って。遙は凛の絵を描く。ずっとずうっと変わらない。最後のさいごまで。死がふたりを分かつまで。そういう生き方。
 凛が、自分で選んだ。
 ふたりだけで生きることを。
 燦々と光を放ち熱を上げ始める太陽と、ゆったりと揺蕩う海を見つめる。重なったリングがじんわりと、お互いの体温を分けあって、朝陽の中に溶けてゆく。